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一方その頃、ES社東京支部にサーバを置くES社のデータベースでは、30機近くの〈クラック〉が整然と列を為して立ち、PT社への強襲の準備を進めていた。
列の正面に立つ白いカラーリングの〈クラック〉、ジェイソン・ミラーの専用機である〈プラグイン・クラック〉は部下達に突入後の細かい指示を与えている。
するとそこに一条の光の柱が現れ、一人の少女のアバターがログインしてくる。レン達と袂を分かち、ES社に帰投したアリシアだった。
「遅いじゃないか上等兵。もう作戦開始まで間もない。まさか、貧困層どもと別れを惜しんでいたわけでもあるまいな」
上司の心ない物言いに、アリシアはげんなりする。まさにそのレン達との決別を気に病んでいたところだっただけに、神経を逆撫でされた気分だ。
ここには、自分の居場所には、信頼とか好意とかいったものはないんだな、と改めて実感する。あるのは事務的な上下関係と、雇用と労働、すなわち経済の法則だけだ。そんなことは、とうの昔に気づいて、諦めていたはずだった。なのに、今はどういうわけか胸に穴が開いたかのようなむなしさがつきまとって離れない。
理由は明白だ。その対極にある関係性を目の当たりにしてしまったからだ。なんの疑いも打算もなく互いのために身を粉にして奔走できる、純粋であたたかなレン達の絆にアリシアはひととき触れてしまった。そして自分の住む世界との温度差に価値観が崩壊するほどの衝撃を受けたのだ。それだけではない。あろうことか自分は――
アリシアは今となっては手遅れな思考を振り切り、事務的な質問をミラーに投げかける。
「PT社のデータベースに侵入するという話でしたが、どうやって他社のサーバにアクセスするのですか?」
「PT社には数ヵ月前から我が社のスパイが潜り込んでいるのだ。内部からハッキングを仕掛けこちらとの間にワームホールをつくり、我々を迎え入れる手筈になっている」
用意周到なことだ。常に他社より先んじることに余念がない。しかし、
「PT社のセキュリティは厳重です。侵入前にワームホールの存在を看破され、ハッキングを仕掛けたスパイが拘束されてしまう可能性が高いのでは? それに、侵入できたとしても警備用無人機の妨害に遭っているうちに目標を別のエリアに移動されてしまう可能性が高いと思われますが」
アリシアはなんとかイヴの首狩り作戦を中止させたい一心で計画の不備を指摘するが、返ってきたのは予想だにしない言葉だった。
「当然、平時であれば実現性の低い任務だ。しかし現在PT社は緊急事態を迎えている」
「緊急事態?」
「スパイからの情報によると、数分前にPT社のデータベースが不正アクセスを受けたそうだ。なんでもたった4機のヴァーチャロイドが内部に侵入し暴れまわっているとか」
レン達だ、とアリシアは瞬時に理解し、背筋を凍らせる。まさか本当にたった四人でPT社に攻め入るなんて。
「無謀な侵入者の対処に追われPT社のセキュリティには綻びができている。渡りに船とはまさにこのこと、警備の目が侵入者に向いているうちに目的を果たそうというわけだ」
あまりに恣意的なミラーの口調を受け、アリシアの中に一つの疑惑が沸く。
「まさか、そのためにレンさん達の前で自分と通信を繋いだのですかっ? 突入の情報をあえて耳に入れさせて焚きつけるために」
そう、この状況自体ミラーが仕組んだものだったのだ。ES社がイヴを消しに行くということを知れば、レン達は必ず彼女を助けるために行動を起こす。その機に乗じることでES社の進攻が容易になる、それがミラーの描いたシナリオだ。
「それだけではない。奴らを利用することでES社とPT社の関係を維持することもできる。貧困層風情にも利用価値はあるということだ。使える駒は使わなくてはな」
「な……!」アリシアは上司の計算高さと冷酷さに戦慄する。「ES社の、自分達の侵入の分までレンさん達に罪をなすりつけるつもりですか?」
「そうすることでES社の名誉が守られるのであれば、是非もない」
なんということだ。このままではレン達は隠れ蓑として利用された挙句に肝心のイヴを殺され、おまけにその罪さえも背負わされて大罪人となってしまう。優しさと正義感故に起こした行動の結末がそんなやるせないものでは、あまりに報われなさすぎる。
彼らをどうにかして救いたい、そんな気持ちがアリシアに芽生えた。自分以外の誰かのために心を痛め、命を賭けられるレン達の正しさがアリシアに伝播したのかもしれない。
しかし、そう思ったのも束の間だった。アリシア達の目の前の空間に裂け目が入り、徐々に広がっていく。裂け目の向こうはデジタルデブリが飛び交う黒一面の小宇宙となっていた。ワームホールが開いたのだ。
「ふむ、スパイが上手くやったようだな。これより作戦を開始する。上等兵も早くヴァーチャロイドに換装したまえ」
ミラーに命令され、アリシアは条件反射的に「換装」と口にしてしまう。
彼女の体に装甲板が装着されていき、青い〈クラック〉の姿を形づくる。〈クラック・カスタム〉。外観こそ量産機とさほど変わりはないが、ミラーのそれと同様アリシアの特性に合わせてチューンナップされた実質上の専用機である。
ミラーの〈プラグイン・クラック〉を先頭に〈クラック〉達が次々とワームホールへと侵入していく。アリシアもまた流れに身を任せるようにしてワームホールへと突入する。
ワームホールを抜けた先は全面白い壁に覆われた非電脳の空間で、PT社のデータベースに辿り着いたのだと一目でわかった。
「パンドラの所在地はスパイからの情報ですでに割れている。各自のマップに光点で表示されているのがそれだ。このまま隊列を組んで目的地へと向かう!」
ミラーの号令の下、〈クラック〉達の進軍が始まる。アリシアはその場に立ち尽くし、連なった味方の背を眺めながら葛藤する。
自分は一体、どうしたらいのだろう。ミラー達と共にイヴを抹殺するのが、スパイとして自分がとるべき行動であるのは理解している。けれど、所属や使命を度外視したアリシア自身の生理は、心は、それを全力で拒絶していた。
使命と感情の間で板挟みになることなんてはじめてだった。この歳で汚い仕事に手を染めたこともあるが、そのときも迷いなんてなかった。会社の命令は全て正しいのだと自分に言い聞かせてきた。たぶん、そうすることで考えることを避けていたのだと思う。今までの自分は機械と同じで、心なんてなかったのだ。
だとしたら、自分に心を与えてくれたのはレン達だ。彼らの互いを思いやる気持ちが、アリシアに変革を促した。
選択肢は二つだ。
組織の命に従い仁義に背き、信頼と引き換えに名誉と報酬を得るか。
仁義を全うし組織を裏切り、職場を失う代わりに満足感に浸るか。
「……そんなの、決まってます」アリシアは呟いた。「なんたってここは、日本は、義理と人情の国ですから」
バーニアを全開にし、慎重に歩を進める〈クラック〉の隊列と、先陣を切るミラーの〈プラグイン・クラック〉をも風のように追い抜いていく。
「上等兵? どうした、止まりたまえ。自重しろっ、アリシアッ」
制止するミラーの声にも耳を貸さず、アリシアの〈クラック・カスタム〉はみるみる隊列を離れ、自身の過去をも遠く置き去りにしていく。
決意は固まった。自分は、この心のままに動く。そうと決めた瞬間から、胸が今まで感じたことのない熱い高揚感で満たされていく。
きっとこの任務が終わったら、自分は全てを失うだろう。重役の娘として約束されていた出世の道も、市井の人間の何倍にも上る報酬も泡沫の幻となって消えるだろう。だが、それがどうしたというのか。名誉も報酬も、自らの意志を貫いたこの胸に宿る多幸感に比べればなにほどのものでもない。そんなものはデブリとまとめて電脳の掃き溜めにでも捨ててしまえばいい。
レン達を、イヴを助けたい。彼らの正しさが、気高さが、資本主義の汚い濁流に呑み込まれていいはずがない。
「自分は、スパイ失格ですね」
独り言ちながらアリシアは機体をさらに加速させ、目的の場所へと向かう。自らの心が、魂が求める場所へと。




