序章 生まれた理由を探して
「天使の丘」とは
百年程前にこの世界を襲った「崩壊の戦い」のすべてを記した伝記。
だが、そのあまりの壮絶さに、実際に起こった話とは思われていない。
白い羽毛の翼を持ち、知恵と魔力に優れた種族、有翼人。
かつて一種族として国家を築いていた彼らだが、今では絶滅したと思われる。
最後の有翼人と呼ばれ、数奇な運命を辿った「フィルフェ・エルクゥオール」は今年で二十八歳になる。遠き昔に滅びた種族の生き残りとして、常に冒険者や時の権力者に追われ続ける人生を歩んできた。
【有翼人の羽】は超万能治療薬の重要な材料の一つとして有名で、また有翼人そのものが愛玩種としての価値があった。美しき翼を持ち、細く、男性も女性も美しく育ち、争いを好まず、従順に生きる彼らは、まるで籠の中の鳥がごとく富豪や権力者に囲われる事例が多数報告されている。本来ならば他種を圧倒する優れた素質を持つ筈だが、何故か種差別の被害者となる事が多かった。
フィルフェもまた、同じ数奇な人生を歩んだ一人。拉致され、蹂躙され、売買され…そんな人生を余儀なくされた。
彼女は赤子の時、風の神【フィルフェ】の名前が刺繍された毛布に包まれた状態で発見された。
【冬の女王が座す山】と称される旧デミアムール国の東部、霊峰チュクナ山で、子供が出来ない富豪夫婦の礼拝登山の途中、登山道から少し離れた場所で泣き声をあげているところを拾われた。
富豪夫婦によって何不自由無く育てられたが、背中の翼の噂が立つと多くの悲劇が襲った。当時近隣諸国での紛争が相次ぎ負傷者が多く、治療薬の材料として有名な「有翼人の羽」は国家的に狙われる事となった。特に戦闘で負傷した皇太子を抱えるマラデア国がフィルフェを執拗に狙い続けた。富豪夫婦はついに守り切れなくなり、母国からも見放され殺されてしまった。フィルフェはそれから拉致された先のマラデア国でどのような生活を送ったのかは、本人も硬く口を閉ざしたままだ。
彼女が呪ったもの。それは、他でもない背中にある羽であった。この背中の羽さえ無ければ、自分は普通の少女として生きていけたのだ。育ててくれた両親も、国家を巻き込む不幸になど遭わずに済んだ。死なずに済んだ。
何故自分には羽があるのか
なぜ自分は生まれたのか
自分の本当の親は誰なのか
有翼人が滅びて久しい現代に、何故自分が存在するのか。
その問いに答えてくれる者は誰もいないのだ。
フィルフェはマラデア国から脱出した。超万能治療薬を恐れたデミアムール国が攻め入ったのだ。混乱に乗じて逃げた。それ以降行方不明とされてきた。背中の羽を隠す方法を独自に編み出し、幼く美しい容姿を武器に、愛妾として生きた。自らを美しき性奴隷として辱め、醜悪な主を転々と替え、それでも歯を食いしばって生きた。こんな人生を強いた両親に復讐することだけを考えて。
「リターツウェル」
太古に滅んだ超万能治療薬の製造法を復活させ、さらに治癒薬【ポーション】の大量生産に成功し、世界の人々の命を支える、ジャストゥール皇国営の製薬工房の名である。
創始者である【ミサ・アーヴェルチェスト】は、吸血種の血を引き、長寿で有名だ。そのミサが、老いた自分に変わり息子のリイダに命じたこと。
「世界中を旅し、有翼人を探し出し、保護すること」
リイダは実に二十年近い長い旅の末フィルフェと出会った。そして今日、母ミサの元に連れてきたのだ。
「母さん、この子だよ。この子が、世界で最後の有翼人だ」
既にかなり前に工房長の座を娘のダリアに譲り、隠居の生活をしてたリターツウェルの創始者ミサは、三百歳を越える高齢だった。
長寿の吸血種の血を帯び、嘗て世界を救った英雄の一人として【マスターオブガーネット】の名で有名な彼女。だが、高齢故に病に倒れ、今はベッドの上で過ごす日々であった。
高齢にも関わらずその姿は美しい。人間でいう二十歳前後程度の見た目を保っている。長い紅髪がその美しさを一層引き立てた。
フィルフェは自分が有翼人だとはできるだけ明かしたくない。信頼するリイダやその仲間たちにこそ自分の正体は明かしたものの、普段は翼を隠し、ただの人間の少女として過ごしている。それ故に、母とはいえあっさりとリイダが自分の正体を告げたことには驚いた。
「…おおおお…おおおお…待っていた、待っていたぞ…」
ベッドから這い上がるように立ち上がったミサは、フィルフェを見た瞬間から涙が溢れた。そして、思わず近寄り、抱きしめた。ミサの豊満な胸に顔がすっぽりと埋まる。
「許せ、許せよフィルフェ…。さぞ、さぞ苦労したことだろう。私が病などに冒されなければ…。もっと早くお前を救い出せていたものを…。よく、よく生きていてくれた…」
フィルフェはミサと会うのはこの時が初めてであった。この世に絶望することが多かったフィルフェは「よく生きていてくれた」と誰かに言われた事は無い。自分の存在が無ければ、愛する育ての親は死なずに済んだ。その罪の意識で何度押し潰されそうになったか数え切れるものではなかった。だがこのミサの涙の抱擁には何の含みも無い、自分に対する実直な愛を感じた。
懐かしい。母の温もりに近い、と。
フィルフェは一見すると、十二歳程度の少女に見える。彼女は、自らの成長と共に大きくなる背中の翼を目立たなくする為に、自ら研究し翼を小さくする方法を編み出したのだ。それと引き換えに、身長も体重も、生殖の機能ですらも犠牲にしたのだ。有翼人はほぼ「ヒト」と同じ成長過程を持つが、二十八歳という年齢でも子供のままなのはそういった過酷な経歴を持つからである。その事はミサも話には聞いていた。それだけに、ミサは居た堪れなかった。
ミサは四半世紀前に病にかかった。親友と伴侶を相次いで失い、哀しみのあまり我を失いかけた。長寿ゆえに記憶を制御することが難しいのだ。
通常ならば催眠によって記憶を切り離し自己を保つ【記憶隔離の儀式】を行うのだが、英雄の一人であるミサには【決して忘れてはならない記憶】が沢山あり過ぎた。その記憶の中でも最も重大な記憶が【フィルフェ】の存在だった。だが残念ながら身体が先に限界が来てしまった。息子のリイダに全てを託し旅立たせたのである。
それから二十年近く待った今日。ミサは嬉しかった。
「リイダ、よく探し出してくれた。母として、そして【世界の守護者】として礼を言う…生き延びていた介があった」
「え?」
フィルフェは胸に深く埋まった顔をあげてミサを見た。大粒の涙が額に落ちる。
「私を探す?」
「母さんはオレに、有翼人を探し出すことを頼んでいたんだ。君を探し出すことは、オレの使命でもあったのさ」
「…使命…」
リイダは普段通りにニコニコとしていた。
ミサは涙が止まらなかった。
「しかし、なんと似ている事か…まるで生き写しよ…。その髪の色、母親譲りだな…。それに、母のみならず、父親の面影も見える…」
ミサはとても嬉しそうにフィルフェを見つめていた。まるで我が子の成長を喜ぶような、そんな目だった。フィルフェはそんなミサに暖かさを感じながらも、自分の両親を知っている事に驚きは隠せない。
「親を、私の両親を知っているのですか?」
ミサはさらに優しい顔を見せた。
「あぁ、知っているも何も、私とリタ…お前の母とは親友であり、お前の父とも共に戦った仲間だ」
「…戦った?」
ミサはゆっくりと歩き、窓の外を眺めた。今の季節は紅葉が美しく、つむじ風に黄金の葉が舞った。遠くを見るような目をし、見ている方がドキリとするほど、俯いた顔が壮絶な美を称えていた。
「お前も聞いたことはあろう。百年程前の大崩壊の戦いを」
「百年前?」
リタ…
お前の娘が、今私の目の前にいる
この時を…、お前の事をフィルフェに伝える日を
どれほど待ち望んだことか
この役目が終わったら、すぐにお前達の元に行こう
永かった…
お前達が私を置いて行ってから、もう四十年だ…
「母を…、親を憎んでいるか?」
ミサのこの問いに、少女は一瞬ぴくりと体が動いた。
「…はい」
「であろうな。それを…、お前の母も予言していた」
ミサが本棚を指差し、リイダが分厚い本を手にとった。ずしりと重く、小柄なフィルフェには持つのが辛いほどの重さだった。少々カビ臭く、古い本であることが分かる。
『天使の丘』
有名な伝記だった。昔話としてよく耳にする話ではあったが、その壮絶さはやがて美化され、童話のように曖昧に【物語】となっていた。
しかし、ミサの元には原本の【天使の丘】があった。それもその筈である。あまり知られていないが、【天使の丘】の原作著者は他でもないミサ本人なのだから。
それを、フィルフェに読むように言った。
「本を読むのは好きか?」
「はい。辛い時とか、悲しい時とか…。よく本を読んでいましたから…」
ミサが目に見えて申し訳無さそうな顔をすると軽く咳込んだ。
「…かあさん」
リイダが側にあったレースのブラウスをミサの肩にそっとかけた。
本来吸血種は強靭な肉体を持つという。しかしフィルフェの目からみても明らかに、ミサに死期が近づいていることがわかる。
そんなミサが、必死に自分に何かを伝えようとしている。
曲がりなりにも人の心を大切に生きてきたフィルフェには、会ったばかりであるこのミサが、自分にとって大切な【自分の証明】のように思えた。
ベッド戻ったミサが、本を懐かしむような顔をした。
「その本はあの時の全てが書いてある。それを読めば、お前の両親の事がわかる」
「え……?」
辞書のように分厚い本。古くカビ臭さいその本は、この世界なら誰でも知っている物語が書かれているはずだった。勿論、フィルフェも幼い頃、育ててくれた年老いた母に聞かされている。
近年演劇の定番となる程にまでなった、有名な物語だ。
「お前の母の名は【リターツ・エルクウォール】。この世界に永遠の光を齎した有翼人だ」
「!」
衝撃の告白だ。フィルフェが驚くのは無理もない。
その物語の主人公の双子、ルヴィとリターツといえば、通常の教育を受けている者であるならば誰もが知っている、この世界の英雄の名である。富豪の育ての親の元で教育を受けたフィルフェもこの二人の名前と、何をした人なのか程度は知っている。
天使の翼を持ち、世界を襲った戦乱と困難に対し、神から授かった武器を携えて戦った十二英雄の一人の名が、リターツ。もはや実在の人物であることすら驚きであるのに、その英雄が自分の母であるというのだ。
驚きで言葉を発することが出来ないフィルフェに、ミサはさらに続けた。
「お前が何故、ここに生れ落ちたのか
お前はどうして、ここにいるのか
お前の知りたかった謎は、全てそこにある。
私はこの体ゆえ、語ることはできぬ。
時間はかかってもかまわぬ。
読んでくれぬか?
それが、遺された私の使命なのだ…」
フィルフェは、静かな離れの一室を与えられた。そこには、食事時以外は誰も訪れない。静かな場所だ。「天使の丘」は、六つの章に分かれている超大作である。全て読破するには時間がかかるのだ。
フィルフェはその日から、食い入るように本を読んだ。まさかあの有名な物語の英雄が、自分の母であることなど想像もしなかったのだ。
その物語「天使の丘」は一言で言えば「悲劇」だった。
壮大で、かつ悲愴な、世界を襲った「悲劇」。
記憶に久しい、百年前の悲劇。
その悲劇の果てに生まれた命が……
「自分」だったのだ。