第6話【リアルファイト】
朝になって目を覚まし、今日も1日が始まる。
だが、いつもの一日と何かが違う。
まるで全てがスローな動きに見える気がした。
まさかだと思うが、これもH.E.A.V.E.N.の影響だろうか?
いや、ステータスが現実に持ち越されるなどと言う噂は聞いた事がない。
仮にそれが事実なら筋力にステータスを割り振りしているプレイヤーがなんらかのの事件や騒動なんかを起こしている筈だ。
ーーとなると、これは錯覚だろうか?
そんな事を考えながら、俺は普段通りに仕事をこなす。
感覚が鋭くなったからか、仕事もいつもよりもペースが上がっている気がする。
「坂田君。仕事が早くなったね?
何か良い事でもあったのかい?」
課長の大和北さんにそう言われ、俺は作業していたパソコンの手を止めると座ったまま課長を見上げた。
「そんな大層な事ではありません、課長。少し運動を始めた位です」
「へえ。運動かい。良いねえ。何を始めたんだい?」
「え、えっと、ボクシング?……になると思います」
「ああ。ひょっとしてボクシングエクササイズとかの事かい?
あれは試した事がないんだけど、少しは効果あるかな?
最近、また横に太くなっちゃってね?」
「あるとは思いますよ。結構、身体に来ますから」
H.E.A.V.E.N.での運動になるけどーーとは口が裂けても言えないな。
そんな事を思いながら、俺は哲の方をチラリと見る。
哲も表面上は平静を装っているのか、それとも俺に思いをぶつけたからか、少し落ち着きを取り戻している。
俺はもう一度、課長に視線を向け直し、他愛もない話をしてから再びパソコンと睨み合う。
昼休みに入ると俺は屋上で焼きそばパンと緑茶のペットボトルで軽めのランチを取る。
食後は昨日、H.E.A.V.E.N.でスズキさんから教わった事を反復してステップを踏んでシャドーボクシングを開始する。
「先輩」
そんな風に練習していると女性社員から声を掛けられた。
俺はその言葉で我に返ると注目を集めている事に気付く。
「あっと、ごめん。迷惑だったかな?」
「いえ。そう言う訳じゃないですけど、先輩の姿が様になっていると思って……」
「様になっている?」
俺がおうむ返しにその女性社員に尋ねると彼女は面白い物でも見付けた様に頷く。
「先輩の姿、まるでプロボクサーみたいです」
「大袈裟だよ。俺は昨日から始めたばかりなんだから」
「なら、才能があるんですよ、きっと!」
俺は困り顔で頭を掻くと後ろから同僚の男性社員達に引っ張られる。
「ちょっーーみんな!?く、苦しーーぐえっ!?」
「せ、先輩!?」
「ああ。大丈夫。ちょっと男同士の話だから」
同僚の一人がそう言って手を振ると俺の首に手を回してボソボソと小声で囁く。
「お前、彩菜ちゃんとどんな関係だ?」
「え?ああ。あの子?初対面だけどーーぐえっ!?」
そう返事をしたら、脇腹を肘でつつかれる。
「初対面な訳あるか!彩菜ちゃんは俺らの会社のアイドルじゃないか!」
「い、いや、知らないけど?」
「マジか、お前?お茶汲み係の彩菜ちゃんだぞ?」
そう言われれば、なんか、去年だったか、一昨年だったかでアイドルみたいに可愛い女性社員が入ったとか聞いた様な気がするな。
俺には関係ない事だと思って、聞き流していたけど……。
「彩菜ちゃんと関係ないなら、今すぐ手を引け。お前には相応しくない」
「はあ」
「いいな。彩菜ちゃんはみんなのアイドルだ。お前が独り占めしていいモノじゃない」
俺は頭を掻きながら呪詛の様に呟く同僚達から解放されると彩菜と呼ばれる女性社員に再度、歩み寄る。
確かに言われてみれば、目元がパッチリして人形みたいに可愛くも思う。
そんな彩菜ちゃんは全てを察したかの様にそっぽを向いて口笛を吹く同僚達を睨む。
「皆さん、よって集って酷い事しちゃ駄目ですよ」
「な、何の事かなー?」
「嘘つく人は私、嫌いです」
「ガーン!」
彩菜ちゃんがバッサリと斬ると自称・彩菜ちゃんファンクラブーーと銘打って置こうーーの面子は膝をついて倒れ込む。
そんな面子をよそに彩菜ちゃんが俺の腕にしがみつく。
「先輩。良かったら、帰りに一緒に来ませんか?」
「え?どこに?」
「勿論、いいところですよ」
そう言われて、俺は顔を真っ赤にする。
流石に鈍い俺でも、そのくらいは解る。
だが、ヘタレな俺には無理だ。
「ご、ごめん!知り合ったばかりで、そう言うのはちょっと!」
「ふふっ。先輩ったら可愛い♪
でも、これを見せたら、先輩なら来てくれると思うんですけどね~♪」
そう言って彩菜ちゃんがおもむろに胸ポケットからある物を取り出し、俺は驚いた顔をした。
ーーー
ーー
ー
仕事が終わると彩菜ちゃんが俺を待っていた。
「待たせて、ごめんね?」
「私が勝手に待っていただけです。
それよりも早く行きましょう♪」
俺は彩菜ちゃんと一緒に目的の場所へと向かう。
勿論、ラブホテルとか、そう言う類いの物ではない。
彩菜ちゃんが俺に紹介したかった場所ーーそれはボクシングジムだった。
「ただいま、パパ!」
「お帰り、彩菜」
彩菜ちゃんのお父さんは某元ボクサーを天然パーマからベリーショートにした様な気立ての良さそうなお父さんだった。
「あのね、実は紹介したい人がいるの」
「おおっ。そうかそうかーーって、はあっ!?」
明らかに動揺する彩菜ちゃんのお父さんは俺に気付いて、此方を睨む。
「紹介するね、坂田先輩」
「坂田糀です。宜しくお願いします」
俺が頭を下げると彩菜ちゃんのお父さんがユラリと此方に近付く。
そしてーー
「あ、勘違いしないでね?
先輩はボクシングを習いに来ただけだよ?」
俺に飛び掛からんとして寸前で踏みとどまり、俺と握手を交わす。
「ハッハッハー。ワカッテイタサー」
彩菜ちゃんのお父さんは片言でそう言うと俺の肩や足を触る。
そして、その表情は徐々に真剣なモノへと変わっていった。
「坂田君だったね?」
「はい」
「少し私と一緒にスパーをしよう」
こうして、H.E.A.V.E.N.の為の基礎作りが本格的に始動する。
まさか、あの時、シャドーボクシングをはじめて、彩菜ちゃんのボクシングのライセンスカードを見せ付けられるとは思わなかった。
しかも、実家がボクシングジムだとは……。
目的がH.E.A.V.E.N.で人助けだった筈がこんな縁で本当にボクシングを教わる事になろうとは思いもしなかった。
しかも僅か、一日、二日でその様な運命になるとは誰が予想してたろうか?
これもスズキさんの教えの賜物だろうか?
本当に事実は小説よりも奇なり、だ。