2.プロローグ
朝7時15分。
誰も居ない、電気も付いていない教室。
聞こえてくるのは30年使われた校舎があげる僅かな家鳴りの音だけ。
私はこの時間が大好きだ。
始業時間は8時30分、教室に誰かが入ってくるのは基本的に8時00分〜8時15分の間。
つまりこれから45分間、私はこの教室を実質的に私だけの物として自由に扱う事ができるのだ。
窓を開け、黒板を消し、机を揃える。
日直を書き換え、ゴミを拾い、自分の机に落ち着いて小テストの勉強を開始した。
今日の小テストは朝の英文に1限の化学、3限の古文に5限の数学。1日で4つ。
一週間のうちでもなかなかに多い方ではあるが、古文と数学の小テストに関してはそう難しくはない。
問題は理科と英文か。
英文の小テストはいくつもの英文を暗記して1言1句違わず書ききるというもので、私が一番苦手としているものだ。8割合格で落ちると昼休みに再試を受けに行かなければならない。
忘れっぽい私はついつい複数形のsを付け忘れてしまったり、aとtheを間違えて書いてしまったりとミスが多い為、毎週2回あるこの小テストに関しては朝1時間勉強してもやらかしてしまうことが良くある。
一方で化学の小テストは単純に担当教諭の問題だった。期末テスト並みに難しい問題を、教えた次の週に出してくる。
これまた8割合格で、落ちると次の週の水曜までに職員室の担当教諭の机まで再テストを受けに行かなければならない。
ミスした所を説明させられ、クイズを出され、再試で満点を取って……そんな無駄に無駄を重ねた工程のせいで化学の小テストの度に昼休みと放課後、職員室前ではさながら某ランド並みの行列ができのだが、まるまる昼休みを消費しても一度も受けられない事もあるので私は嫌いだ。
……特に、私は身体的な理由で長期間休む事が多いのだから、学校に行っている時にまで追試を貯めたくはない。特にこんな性格の悪い小テストの再試なんて。
「おーっす、今日も早いな」
そうして5分ほど集中して教科書を読んでいると、珍しくこの時間に声を掛けられた。
この朝の心地よい静寂に水を差す様な大きな声は、まず間違いなく担任の南 京子先生だろう。私はため息を吐きながらまた教科書に目を戻す。
「あれ?聞こえてる?聞こえてない?いや聞こえているだろう?」
満喫していた静かな空間に耳をつんざくような声を突き刺されてしまいムッとしてしまったので少しだけ無視をしてみたが、彼女は余計に喧しくなった。
溜息をつきながら振り返れば、目の前いっぱいに広がる満面の笑み。
私の嫌々な顔は更に引きつった。
「よし、おはよう。今日も可愛いな」
「ぅゎ……」
こんな感じで、南先生は無駄によく私に構ってくる。
以前は特にこれと言った関係が無いために話した事もなかった。しかしどういうことか2年になり、彼女が私の担任になってからはよく話しかけてくる様になった。
かなりの美人でスタイルも一般人とは思えないくらいだが、酒癖が酷く、未だ独身でそろそろ30に近いことを私は知っている。そしてそれが若干コンプレックスになってきているのも私は知っている。
生徒会の担当の先生が『ここだけの話な』とネタにしていたからだ。
見た目だけならカッコイイ女教師なのに所々が酷いという残念教師の鑑、正直そんな残念なところはまあ嫌いという訳ではない。
故に私も朝の微妙に不機嫌な心持ちであっても無理に笑顔を作って対応する。仮にも彼女は先生であるのだし。
「おはようございます先生、今日も朝から元気そうですね」
「そういう君はいつも通り朝は不機嫌だな、なんだその目つきの悪い作り笑いは。朝に弱いならもっと遅く来ればいいのに」
「朝が弱いから早く来ているんです。こんな顔でクラスメイトと接する訳にはいきませんから」
「はっはっはー、そんなだから友人の1人もできないんだぞ〜?ま、それは過保護な保護者のせいもあるだろうけどな!」
「余計なお世話です」
バシバシと肩を叩きながら背から顔を覗き込んでくる残念教師。
私の貧弱な身体にその勢いで手を叩きつけられると普通に呼吸が苦しくなるし、それよりなにより近過ぎる。
距離感が絶対におかしい。
長く伸ばした髪が私の鼻をくすぐって鬱陶しいし、スーツに閉じ込められていても自己主張の激しいモノがグイグイと背中に押し付けられる。普通に圧力で背骨がミシミシと言っているからやめて欲しい、こちとら貧弱の極みの様な人間なのだから。
……そもそも、こんな風に自然に女を意識させる様な仕草ができるのに、どうしてこの人はモテないのか。
それはもちろん一年前の体育祭当日に二日酔いで医務室に運ばれるとかバカな事をやっているからだ。
今日は酒臭くないのでセーフだろう。
むしろシャンプーの仄かな香りとリンゴの良い香りがして、多少近くても不快には……
……いや、この人は間違いなく昨晩酒を飲んでいる。それも、かなりの量を。
「先生、寝る時はしっかり布団で寝てますか?」
「え……な、なぜそれを……」
「朝シャンとリンゴは酒臭対策の鉄板と聞いたことがあります。身だしなみと臭いに気を付けるのは良いことですが、そもそもの飲み過ぎを治すべきです。体調崩しますよ」
「そ、そうは言っても仕事終わりのビールは実に美味しくてなぁ……君も大人になったらあの美味しさが分かるよ」
「私は微炭酸すら飲めないので……何度かチャレンジはしていますが、一向に飲めそうにありませんし。ビールは将来的にも確実に無理ですね」
「それは……まあ、残念だな。うん、実に残念だ」
それはどういう意味での残念なのか、もしかしたらこの人は将来私を酒友にでもしようとしていたのだろうか。
『……弱めのとか薄めたりとか、そういうのならいけると思いますよ』なんて言ったら凄く喜びそうだ、絶対に言わないけれど。
「そんなことより先生、今日も何か御用ですか?先生が以前に仰った様に朝来たら教室を綺麗にする様にはしていますが……」
「あれ?そんなこと言ったっけ」
「あん?」
顔が引きつり、思わず本性が出た。
以前に『せっかく早く来てるんだから学級委員でもあるのだし、掃除くらいしたらどうだ』と言って来たのは間違いなくこの人だ。
しかしそんなことは彼女の中では割とどうでもよかったらしく、詫びることすら無くこう続ける。
「そう、そうだ、今日は少し君に頼みたい事があってな。今から時間を貰えるかな?」
「時間ですか?今日は小テストが多いのであまり長いと困るのですが……」
「これから1限終わりまで時間を貰いたい」
「英文と化学の小テストを諦めろと?両方とも再試が面倒な部類のテストなのでできれば遠慮したいのですが……」
「あーあー大丈夫だ、英文は私が合格した事にしておいてやるし、化学も私から先生に伝えておいてやる。これでどうだ?」
「お付き合いしましょう」
苦手な英文と化学の小テストが免除されるというならば、これに乗らない手はない。
来週の化学のテストに関しては後でクラスメイトから教えて貰うとして、今楽ができるのなら私はそれでいいのだ。
とても嬉しい、やった、先生大好き。
「まあ、とりあえずは生徒指導室まで来てくれないか?話はそれからだ。」
「生徒指導室ですか?別に構いませんが、私怒られる様なことはしてませんよね?確かに欠席は多いですが……」
「違う違う、そうじゃない。君には少し手伝って貰いたいだけなんだ、別に連れ込んでセクハラしようだなんてこれっぽっちしか思っていない」
「……え、しませんよね?」
「ダイジョーブ、ダイジョーブ。完璧な育成が出来ている時に出現したダイジョーブ博士くらいダイジョーブ」
「確定死じゃないですか……」
冗談はさておき、この学校の生徒指導室と言えば2つある。
1つは体育館の隣に設置されている部屋で、主にその横の体育教官室に居る怖〜い先生方から説教をされる為の部屋だ。
もう1つの生徒指導室は旧校舎の一角にある部屋で、ここに関しては今は全く使われていない。
掃除すらされて居るのか怪しいくらいで、いつも鍵がかかっているので「開かずの部屋」と言っている者もいる。
そして今先生が向かっているのは方向からして間違いなく後者の方だ。冗談だとは分かっているが、本当に監禁されないか恐ろしくなってきた。
……まあその場合、先生は私の"保護者"に殺されることになるのだろうが、そこは素直に死んで貰おう。肉体的にも、社会的にも、経済的にも。
「あの、先生。前から思っていたんですけど、この部屋はそもそも一体何の為の部屋なんですか?」
「んー?本当に昔の生徒指導室だが?まあ最近は全く使われていなかったから鍵がかかっていたが、この前掃除しておいたんだよ。ほれ、鍵だ。それは君にあげよう」
「はぁ……?」
一本の古臭い鍵を手渡される。
1教師が勝手に学校の鍵を生徒にあげるというのはどうなのだろう。というかこの学校の鍵は割と管理がキツめなので、その日に返却されないと普通は次の朝に大変な事になるのだが、これはいいのだろうか……
私の心配まみれの顔を見てか、南先生はやはり軽薄な笑みで私の肩を叩く。ある意味胡散臭いとも取れる雰囲気で。
「ま、その鍵は特別だ。君に全面的に任せると昨日職員会議で決まったのでな、これは校長先生も納得済みだ」
「あの、何の話かは検討もつかないんですけど、職員会議で私が選ばれたのってそれ間違いなく先生が指名して……」
「さ、入るぞ、お邪魔〜」
「聞けや」
確実に面倒な案件を押し付けられたと思った。
南先生がギギギと元の機能が劣化している様な古臭い扉を開けると、中は扉のボロさに反して確かにそれなりに綺麗に整頓されていた。
その部屋は奥に広い構造をしていて、長机が6つほど並べられている。生徒指導室と言うよりかはウチの生徒会室に近い作りをしているのか、パイプイスも10個ほど存在していた。
それでも教室の作りよりよっぽど目を惹いたのは、そんな部屋の隅にいた1人の女子生徒の姿。
「おーっす、待たせたな舞。ちょっと話してたら時間かかっちった」
「………」
なんの返答も無かった。
透き通る様な青みがかった黒色の綺麗な長髪。茶色のキャスケット帽のせいもあって、それはより引き立って見える。しかし彼女の表情は前髪が長過ぎてほぼ見えず、スカートの丈も校則での膝下を遥かに超越した長さになっており、これほどのロングスカートは今時の女子としてはとても珍しいことだ。
特に目を引くのはその背丈の大きさ、スタイルの良い私の親友よりもあるのは間違いない。
同じ年齢でも"ちんちくりん"な私とは雲泥の差だ。
教室の隅の方で椅子に座り、元から見えない顔を更に隠す様にして私達を警戒するそんな彼女を見て、私は何となくこれから押し付けられるであろう仕事がどれほど面倒なことなのか想像することができた。
「さて、まずは互いの紹介からだな。
こっちの割と身長低めの見た目完全儚い系美少女な彼が、さっき話した光海 優君だ。彼はこう見えてもこの勉強ばかりの学校で生徒会に入っている万能強者だぞ」
「成績は中の下ですけどね。スポーツなんて目も当てられないくらいにボロボロですし、生徒会も色々と融通して貰って普通の委員会より仕事が少ないくらいですから、万能とはいったい?という感じなのですが」
「いいんだよ、頑張ってるんだから」
「そんな雑な……」
「さて、次はこっちの少女の紹介だ」
先生が改めて彼女の方に向き直り私もそちらに視線を向けると、彼女は本だけでは足りないのか手元にあったタオルまで使って自分の存在を隠そうとした。
もはや恥ずかしがり屋とかいうレベルではない、完全に怯えられているのが嫌でもわかる。
「あーこちらの恥ずかしがり屋さんが氷雨 舞ちゃん。昨日転校してきたばかりの2年生だ、仲良くしてあげてくれ」
広げたタオルの下で彼女が文字通りビクビク動いているのが確認でき、私が「あの……」と一言発しただけでその動きは一際大きくなった。
天敵を警戒するウサギよりも臆病なのではないだろうかと思う、明らかに異常だ。
「あの……先生?そろそろ事情を話していただかないと何ともならないのですが」
私は助けを求める様に先生に声をかける。
しかし先生は、
「ほら、彼女見た目通り臆病な性格だろう?だから君には彼女の生活をサポートして欲しいんだ、頼んだ」
とあっさり言ったのだった。
つまりただの丸投げだ。
「……こういうものは基本先生方の仕事ではないのですか?100歩譲っても私の様な男ではなく女子生徒の方が良いと思うのですが」
「いやぁ実は先生方全員、既に彼女に警戒されてしまっていてだな……早速昨日職員室で泣かせてしまった。そこで君の言う通り最初は女子生徒に頼もうかと思ったのだが、前の学校で彼女を虐めていたのが主に女子グループらしくてな、トラウマになっているらしい」
「……想像してた3倍くらい酷い状態じゃないですか」
「だから男か女か微妙な君に頼むことにした」
「失礼にも程があるでしょう!喧嘩売ってるんですか!?」
まあ、私もこれまで生きてきてイジメというものを見た事が無い訳ではない。
むしろ一時期私自身も標的にされていた事もある。
まあ、イジメというよりは迫害に近かったし、今思えば当然の反応だったとは思うけれど……
とまあ確かに思い返せばあの時、本当に異常だったのは主導していた男ではなく、陰湿なやり方で私を貶めていた女子グループの方だった気もする。
男子グループのするイジメと言えば暴力や私物を奪うなどの目に見える物だったが、女子グループのするそれは集団での悪評の拡散や陰口、私物隠しなどの目に見えないやり方。
それでも、きっとそれは曲がりなりにも自分が男として生きているからで、彼女の様な見た目臆病な女の子相手なら目に見えるやり方も容赦なくするのだろう。
彼女が女生徒を苦手になるのも無理はないのかもしれない。
「まあそんなことで、適役な生徒を探していた時に君ならきっとやってくれるだろうと思って推薦しておいた。君は先生方からの評価が高いからな、満場一致だったよ」
「やっぱり……まあ先生方直々のお願いとなればもちろん引き受けますが、具体的にはどうすれば?」
「うん、取り敢えず君には朝、昼、放課後、それと行事の時間になったらここに来て彼女の面倒を見て貰いたい。後は臨時の時だな。まあ君は生徒会をしているから行事の時は彼女が君に付いて行く形になるだろうけれど、彼女をしっかりとサポートしてあげてくれ。何かあったら私に相談してくれればいい」
「えっと、生徒会や学級委員に関しては何とかなる……いえ、何とかしますが、放課後もとなると流石に困るのですが?」
「諦めてもらうしかないな」
「酷過ぎる、なんだこの教師」
問答無用である。
いや、正直別に構わないけれど、1人の生徒のために1人の生徒を犠牲にする様なこの扱いはなかなかに問題なのでは?とも思ってしまう。
はたまたこの子にそれだけの価値があるということなのか……
「まあもし勉強に支障が出るようなら休日に私が手取り足取り腰取り教えてあげてもいい」
「腰は引いて下さい」
「その言い方もなんかいやらしい……」
「先生?」
「……ん、とにかく。可能な限り彼女に時間を割いてあげて欲しいんだ。どこまで回復するかは分からないが、今は声すら出してくれないからな。もちろん報酬も用意している」
「報酬ですか、それは少し気になりますね。なんなんですか?」
「全小テスト再試免除だ」
「引き受けました」
こうしてチョロくもわたしと彼女の山谷だらけのギリギリの生活が始まったのだった。
それでも、この時の私はまだ彼女の抱える問題がどれだけ根が深く、彼女を私に任せた南先生の本当の真意にも気付けてはいなかったのだが。