12.その夕暮れを曇らせないために
「夕暮こなみ、一年生で野球部のマネージャーをやっています」
そう名乗った彼女には最早ただ可愛いだけの少女の面影は無かった。
彼女の相談というのは要はストーカーである。
野球部のマネージャーとして日々働く彼女は、いつからか自分に付き纏う存在に気付き、どうやらその犯人が野球部内にいるという事だそうだ。
しかし彼女が抱える問題の根本はそこでは無かった。
「そのストーカーさん、なんか人間じゃ無いっぽいんですよね……」
「……人間じゃない?」
「はい、3日くらい前なんですけど、変な化け物に襲われたんです。人影が急に大きな蜘蛛みたいな形になって襲い掛かってきて……その時は知らない女の子っぽい自称男の人に助けて貰ったんですけど、もしかしてあれ、先輩じゃないですか?」
「……いや、知らないな。そもそも私の貧弱な身体ではどうやったって君を助けられないだろう?」
どこかで見たことがある子だとは思ったが、それは彼女があの時助けた子だったからだと考えれば、漸く合点がいった。あの時は暗闇でよく見えていなかったり、パニックになっていたりと色々あった故に互いに顔を覚えていなかっただけなのだろう。
……しかし、よくよく考えれば隠す必要は無かったかもしれない。
もちろん静かな学生生活をする為には隠す必要があるだろうが、彼女をその異常なストーカーから護るには教えておいた方がスムーズに話が進み、安全性も大きく上がるからだ。
目の前の依頼主の命を取るか、今後の私の生活を取るか。後者は別にどうにでもなる、ならば前者を選ぶべきだろう。そもそも奇襲と潜伏を得意とする蜘蛛型を相手にするには彼女の存在は不可欠であるのだから。
(……やはり、教えておくべきか)
考えれば考えるほど隠す必要は無かった様な気もする。そんな事を考えて彼女にもう一度真実を伝えようとしたところで……
「先輩。実は私、猫かぶってるんです」
何の脈絡もなくぶっちゃけられる。
脈絡なくコロコロ話題を変える様は実に女性らしく、着いていくのが大変だ。
というか本当に、言いそびれてしまったのだが。
「ああ、え?えっと、突然何の話だ?」
「だからですね、私、普段猫かぶってるんですよ。男の人が好きそうな、大人しめで、控えめで、可愛いだけが取り柄の様な女の子」
「あ、ああ、そうみたいだな。それがどうかしたのか?」
そんな事は分かっていたとも、なぜなら杏という男転がしの天才が身近にいるのだから。
というかこれだけ先程と雰囲気が変われば嫌でも気付くというもの。
「どうかしたって……それは私に興味が無いのか、本当に些細な事としか思ってないのか。分かりませんね、先輩は」
「いや、些細な事だろう。人間なんて誰でも多かれ少なかれキャラを作っているものだ。君は偶々それが多かれなだけだろう?」
「懐が広過ぎますよ先輩。私はですね、そのキャラで自分のテリトリーを作ってるんです。つまり野球部っていうのは、私の唯一の居場所なんですよ」
「……唯一の?」
「あんな男に好かれやすい女の子に、同性の友達ができると思います?」
「無いだろうな」
これもまた杏から聞いた話だが、男性に極端に好かれやすい女性は、反面女性に極端に嫌われやすい傾向にあるらしい。
そういった人間の作ったグループは容易な事でヒビが入る。内部闘争や外部からの刺激、中心人物のブレなどで。
「ああ、なるほど。つまり野球部というテリトリーに混乱が生じれば、君の居場所はこの学校から完全に失われる。だからこの野球部内の人間による可能性のあるストーカーの件は、身近な人物では無く他所の人間に解決を依頼したいという事か」
「そういうことです。そこまできたら、もう私が後は何を言いたいのかも分かりますよね?」
「他言無用、規模を小さく迅速に対処、あとは……野球部員への聴取も難しいか。警察とかも最終手段だろうな」
「それに相手は人間ではありません、化け物みたいな姿に変わった途端に凄い動きをしていました。もしかしたら命に関わるかもしれません」
「もしかしたらじゃないな、間違えれば確実に殺される」
「……分かってます。ごめんなさい先輩、誤魔化しました」
そうだ、そこをはぐらかしてはいけない。
私にはぐらかす事ではなく、そういう危険性が伴っていると彼女自身に自覚させる為にも。
「でも、それでも……それでも私は今の居場所を失いたくはないんです!自分で蒔いた種だとも分かってます、ずっと逃げてきたツケだとも自覚しています!でも、でも……なんとか、なりませんか……先輩」
無茶な事を言っているのは分かっている、無理だと言われても当然だ。
それでももしかしたら、この人なら、自分を助けてくれる何かを持っているかもしれない。
そんな微かな希望を彼女は私に求めていた。
周囲の女子生徒からいくら嫌悪の目線を向けられても耐えてきた先程までの強い眼をした彼女からは想像も出来ない程の不安げな表情が見受けられる。
キャラを作っていた時の表情とは明らかに違う。瞳から心底まで、何一つ隠される事なく見通せる今の彼女の心情は暗闇に満ちていた。
引いても地獄、押しても地獄。
身動き一つ取れないこの状況で、縋るものが一つもない彼女は今日会ったばかりの私に必死に手を伸ばしている。
(………似ている、な)
一つの光景を思い出す。
かつてのあの時、
彼女と同じ様に、
絶望の淵で、
死の目の前で、
無謀だと、
不可能だとも分かっているのに、
爪先一つも無い希望を求めて、
無いに等しい可能性を求めて、
自分よりもよっぽどボロボロな私に助けを求めた、
あの少女の姿を……
彼女の姿を。
「…………」
考える必要は無かったのかもしれない。
どうせ私の答えなど最初から決まっている。
きっと言われなくても私は彼女を守るだろうし、そのストーカーとやらを殺しに行くのだろう。
しかし今、彼女の顔を見て、彼女の心を見て変わったのは私の目的だ。
殺人鬼を殺す事ではない、
ましてや正義の為でもない、
私の目的は、そう……
「分かった。絶対に私が何とかしてやる。君のことも、君の居場所も、私がちゃんと守ってやる」
彼女を救う。
ああ、そうだ、私はこれが見たかったんだ。
絶望に沈んだ表情に一筋の光が灯る、この瞬間を。