思い出売ります
(一)
その店は意外な場所にあった。
以前から気にはなっていたが、今日こそは訪ねてみよう、と瑠璃子が慣れない地図アプリを操作しながら自転車でうろうろしていたときのことだった。
突然、本当に突然という感じで、その店が彼女の目の前に出現したのだ。
(こんなところに……)
瑠璃子は大きくため息をつき、自転車を降りると、しばらく店の前を行きつ戻りつした。彼女はいつも買い物に電動アシスト付き自転車を利用しており、今日も隣の市まで自転車で20分かけて来ていたのだ。
昨年、一人娘の夏海が結婚して家を離れて以来、瑠璃子は元気をなくしていた。
何をしても虚しい。
何を食べても美味しくない。
体調も今ひとつ。
これが世間でよく言う「空の巣症候群」というものか、と思うのだが、瑠璃子の気持ちを暗くさせているのは案外、夫の存在かもしれなかった。
夫の勝彦は瑠璃子と同い年。ふたりは今年52歳になった。「新人類」と言われた世代だが、この世代は社会に出てすぐにバブルが弾け、さらにリーマンショックや何やかやと、日本が不況にあえいでいた時代を生きてきた。
勝彦はそんな中、リストラの対象とはならず、なんとか持ちこたえて踏ん張ってきた。彼にはそういう自負があるのだろう、結婚と同時に会社を辞めて、傍目にはのほほんと主婦業に専念しているように見える妻を軽んじている傾向は以前からあった。しかし、(そう思われても仕方ないわ、私って本当にのんびりしてるんだもの)と、瑠璃子の方も、夫に舐められる生活にいつしか慣れて、自分を低く見積もっているように思う。
夫の転勤に付き従って、おもに西日本の、さまざまな街で暮らし、それなりに人づきあいに苦労もしたし、パートに出たりもしたが、どこか不安で所在なげな佇まいを周囲に見せてきたと思う。それが周囲から軽んじられる原因だとわかっていたが、生まれ持った性質ゆえか、そうした振る舞いを正すことは出来なかった。
娘の夏海は夫似のせいか、そんな瑠璃子にいらいらしていた時期もあったようだが、長じるにつれて母の強い味方となり、話し相手となってくれていた。
その夏海は、就職して二年目の秋、かねてから交際していた学生時代の先輩と結婚して家を離れた。半年前のことだ。
(二)
瑠璃子たちの家と、夏海夫婦が住んでいるマンションは、同じ私鉄で十分とかからない場所にあり、会社帰りにふらりと立ち寄ってくれたりするのだが、『部署が繁忙期に入るからしばらく来れない』と、夏海から先週言われたばかりである。
その時は、『ママの方が遊びに行かせてもらうわ』と、瑠璃子は明るく言ったものの、いざ夏海のマンションを訪ねようと思うと、気ぶっせいな心持になる。
「それはそうだろう。娘といっても、もう違う家の主婦なんだから、あまり押しかけるのは良くないよ」
勝彦に言われるが、今の時代、働く娘に代わって家事育児をするのはその母親の務めであり、いずれ孫の世話も買って出るつもりでいる。
それなのに、今なぜ新婚夫婦のマンションを訪ねる気になれないのだろう。
長年の人生の疲労が蓄積しているのか、常に疲れているような気もするし、ようやく子どもが自分の手を離れ、自由時間が増えたので、それをしばらく味わいたいという気もするし。
そんな折に、あのリサイクルショップを訪ねてみよう、と思い立ったのである。
その店を知ったのは約ひと月前。古いテレビドラマの再放送を見たことがきっかけだった。
自分が子供の頃、実家で使われていた食器やテーブルクロス、更には珠のれん、箪笥。どれも見覚えがあり、懐かしく、気がつくと瑠璃子はドラマにのめり込んでいた。
帰宅した勝彦に、熱心にその話をしたが、聞いているのかいないのか、適当にふんふん相槌をうつだけで、手応えのないこと甚だしい。
しかし、夫以外にそんな話が出来る存在がいない瑠璃子なのだ。学生時代の友人とは、転勤族生活を送るうち疎遠になり、故郷にはもう実親はいない。実家には、瑠璃子と血の繋がらない継母が元気で暮らしているのだが、月一回くらい電話でご機嫌伺いする程度である。
瑠璃子は子供の頃に実母を亡くし、父が再婚して新しい母を迎えた。継母は気のいい、優しい人であったが、あくまで父の奥さんであって自分の母親ではない、という気持ちが根底にあったし、互いに遠慮もあったのか、心の底から打ち解けることはないままであった。
そんな『寂しい身の上』だが、現代ではスマホやパソコンなどの時間潰しのツールがある。
瑠璃子は、ある日試しに、パソコンに『昭和レトロ雑貨 リサイクルショップ』と打ち込んで、色々検索してみた。とりあえず、一番最初に出てきたリサイクルショップのサイトを開いて見てみる。
『想ひ出賣ります』
ホームページの一番最初に、その旧字体が淡いピンク色の文字で出てきた時、なんとも言えないときめきで、瑠璃子の胸はいっぱいになった。
『あなたのお家でご不要になった品物、お引き取りいたします。また、そのお品を必要とされるあなたにお譲りいたします』
イギリス風の、緑一色の庭の写真に浮かぶその文章を読んで、画像をクリックしてみる。
日本の骨董の壺などの写真が現れてギャップに戸惑うが、更に画面をクリックした瑠璃子は「ああ!」と、思わず叫んでしまった。
そこには、まさに彼女が求めていた、昭和40年代から50年代のレトロな調度品の画像が多数あったからだ。
瑠璃子はパソコン画面の右上にあるメニューをクリックして、地図とアクセスを調べてみる。興奮で手が震える。
地図が読めない彼女でも、店はさほど遠くない、自転車で片道15〜20分くらいだろうと見当はついた。
(行ってみようか。でも私って本当に方向オンチだものね、無事たどり着けるかしら。でも、このお店行ってみたい)
その夜の夕食の間じゅう、ずっと物思いに耽る瑠璃子だったが、勝彦は妻の屈託に気づかず、さっさと夕食を済ませると、読書するために寝室に引っ込んでしまった。
(お互いのことに、全く興味も関心もない夫婦……)
瑠璃子は何年か前に、夫婦で言い争いになったことを思い出した。
今まで瑠璃子は子育ての合間に、お菓子作りを習いに行ったり、一時期流行ったビーズ教室やフラワーアレンジメント教室に通ったりしてみたが、どれもあまり面白くなく、それでは身に付くはずもなく、お金と労力の無駄遣いだと、さんざん勝彦に馬鹿にされた。
「仕方ないわ。私って不器用だし、頭も悪いんだもの」
とうとう自虐的に瑠璃子が言った時、勝彦が一瞬勝ち誇ったような顔をしたのを、彼女は見逃さなかった。
(なんで、この人は妻を見下したいのだろう。まるで仇のように屈服させたいみたいに見える)
それ以来、瑠璃子は夫が不思議な存在に見えてきて、心の距離ができた。しかし、実はそれ以前から夫婦の距離は、お互いの想像をはるかに超えた遠いものになっていたのかもしれなかった。
(三)
つらつらとそんなことを思い出しながら、自転車を店舗の前に止めた瑠璃子は、ぐるりを見渡した。
ここにたどり着けるまで、道を間違え行き止まりで引き返したり、ぐるぐる同じ場所を行ったりと、住宅街の細い道を迷いながら走った。もうどこをどう走ったのか……。
お目当ての店が出現したのは、その時であった。
(ここはどこかしら……)
地図アプリで見ると、間違いなく目的地に到着している。周囲は隣市の住宅街のようだが、近くに電信柱が見当たらないので、町名や番地がわからない。
瑠璃子は几帳面な反面、ある種ずぼらさのようなものがあるので、(まあいいか。ここがリサイクルショップなのは間違いないのだから)と、店内に足を踏み入れてみた。
足を踏み入れるといっても、扉が全開で気楽に入ることはできた。
しかし、店の奥の方は骨董品が置かれているらしく、重そうなガラス戸で途中から仕切られており、伊万里の大皿のようなものがちらりとガラス戸ごしに見えるだけで、はっきりと奥の様子は窺えない。
(それにしても、想像以上にすごいわ……)
リサイクルショップというものを訪れたことがなかった瑠璃子は、『混沌』という表現がぴったりくる店内に圧倒されていた。
四方の壁に嵌め込まれた棚には、雑多な品が天井までうず高く積まれており、店の中央はいくつもワゴンが置かれ、懐かしいゲームソフトやCD、レコード、カセットテープ、本、食器が並べられている。その奥には、まだ新品の洗濯機や冷蔵庫といった家電もあり、通路は人ひとりがようやく通れるスペースしかない。
(そういえば、このお店、名前はなんて言ったかしら? ア、アーカイブ? アーケイディア? アンビシャス……)
「アンビバレンサ。 ambivalenza」
「あ、そうそう、それ。あっ」
いつのまにか、瑠璃子の横に若い男が立っていた。音もなく、ごく自然にあらわれたので気づかなかったのだ。びっくりして自分よりずっと背の高い男を見上げるようにして、瑠璃子はお辞儀した。
「いらっしゃいませ」
若い男は微笑みながら、うなずいた。
(四)
おそらく独り言をぶつぶつ言ってしまっていたのだろうが、自分の心を読まれたのか、と一瞬不安になるほど、店主とおぼしき青年は神秘的な雰囲気をまとっている。
「そうでした、アンビバレンサ。どういう意味なんですか?」
瑠璃子は、気まずさを振り払うように明るい態度で尋ねた。
「イタリア語で両面価値という意味なんです」
「両面価値。聞いたことないなあ」
「心理学用語の二律背反と同じ意味です。例えば、同じ物に対して愛と憎しみを同時に抱くという。僕はそこまで深い意味は込めてなくて、『物』って、ある人には不要だけど、ある人には必要ってことはありますよね、それで」
「なるほど、それで両面価値なんですね」
なんとなくだが、彼の意図が分かった気もした。
そんな会話を交わしながら、実のところ、瑠璃子は青年の顔に見とれていた。彼は今風に言うと、小顔のイケメンだ。顔の造作が彫刻刀で彫ったようにくっきりして、睫毛が長い。白のカジュアルシャツとジーンズという素っ気ない服装が、かえって彼の美しさを際立たせていた。
「ごめんなさい、勝手に入ってきて。色々見せてもらっていいかしら?」
瑠璃子はどぎまぎしていたが、若い男に対して別によこしまな気持ちを抱いているわけではないのだから、と意識しすぎたせいか、ややきつい口調になってしまった。
「どうぞ、どうぞ。僕はちょっと店内を掃除していますので。お気になさらず、ごゆっくり」
青年は、その近寄りがたいような美しさとは反比例するように気安く答える。
瑠璃子は彼から離れ、店の入り口に一番近い棚から見ていくことにした。
驚いたことに、瑠璃子の実家で使われていたものばかり並んでいる。
花模様の琺瑯の鍋、紺地に白の水玉模様の湯呑み、ピエール・カルダンのグラス。極め付けは、瑠璃子のお気に入りだったキャラクター茶碗。
(どうして? どうしてこんなに、私の思い出の品ばかり並んでいるの)
次第に冷や汗が出てきた。
この朱色のポップアップトースターも、翡翠色のポットも見覚えがある。うちで使っていたものだ。いや、当時どこの家でも使われていた大量生産の品よ、驚くことじゃない。
でも、このビニールのテーブルクロスといい、調味料入れといい、何もかも、私が小学生の頃に実家で使われていたのと同じものにしか見えない……!
目を上げて近くの棚を見た時、瑠璃子は思わず息を飲んだ。
そこには、亡くなった母が大事にしていた幾何学模様のデザインのショールが無造作に置かれていた。
それは、色とりどりの毛糸で正方形のパーツを編んで、パッチワークのように繋ぎ合わせる、という手の込んだもので、母のお気に入りの品物だった。母は冬に着物を着た時、必ず肩に掛けていた。洋服の時も、寒い日はマフラー代わりに巻いていたものだ。
瑠璃子は呆然とそのショールを見ていたが、しばらくののち、母が使っていた物のはずがない、と我に返って、棚に手を伸ばしショールを掴んでみた。古い物らしく、毛糸が引き締まって硬い手触りだった。
「素敵でしょう? 可愛くてモダンですよね。僕はこれ以外で見たことないです。手作りの品物か外国製かな?」
青年がハンディモップで棚を拭きながら、瑠璃子に言う。
「母が愛用していた物にそっくり」
瑠璃子は喉がからからだったが、掠れ声でようやくそれだけ言った。
「そうですね。貴女のお母様の物ですから、それ」
彼がにこやかに答えた瞬間、瑠璃子は激しいめまいがして目の前が真っ暗になり、その場にしゃがみこんでしまった。
(五)
「大丈夫ですか?」
瑠璃子が目を開けると、青年がペットボトルを持って立っていた。瑠璃子は店内の黒いビニールのソファーにもたれていた。どうやら、しばらく気を失っていたらしい。
「私ったら、どうしたのかしら」
おそらく彼が瑠璃子を抱えて、この店内の奥にあるソファーまで連れてきてくれたのだろうと思うと、顔から火の出る思いがした。慌てて立ち上がろうとする彼女を押しとどめ、彼が「どうぞ」と言ってペットボトルの水を渡してくれた。喉が渇いていた瑠璃子は「ありがとうございます」と呟いて、それを受け取り一気に飲んだ。
「大丈夫ですか? 貧血ですね」
青年は穏やかに言うが、瑠璃子は恥ずかしさに消え入りたい気持ちだった。しかし、彼女が倒れる直前に、彼が言ったことが気になり、恐る恐る尋ねてみた。
「あのショール、母の物っておっしゃいましたね?」
「ああ。もちろん冗談ですよ。でも、びっくりしました、突然倒れられたから。すみませんでした」
彼は頭を下げて屈託無く答える。瑠璃子は、ほっとしてため息をついた。
「こちらこそ、すみません。ご迷惑をおかけしました。……お詫びというわけではないですけど、あのショール頂いていいかしら? おいくらですか?」
「あれは珍しい良い物のようなので、少し高い値段つけてるんです。ですから無理に買っていただかなくても。それより、お体の具合はどうですか?」
彼に尋ねられ、瑠璃子は、ここ最近ずっと元気がないことや、今の自分の寂しさまでも話してしまった。
「元気がないとか、食欲がないっていうのは心の不調が原因のこともあるんでしょうけど……。僕ならまず、病気を疑って病院行きますね。それも心療内科とかではなく、内科に」
彼が真剣な表情で言う。そう言われてみると、確かにもう長いこと不調は続いているし、今日は倒れてしまった。
(この人の言う通り、どこか悪いのかもしれないわ)
瑠璃子はそう思うと、いても立ってもいられない気がして、青年に礼を言って帰ることにした。幸い、めまいはおさまり、これなら自転車で帰れそうだ。
「あのショール、もう一度見せてくださる?」
彼はうなずくと、棚からショールを持ってきてくれた。ショールには一万円という値札が付いていた。思った以上に高値だったが、その価値は充分ある。
「これ、下さい。私には少し派手かもしれないけど素敵だわ」
よく見ると、記憶にある母の物より少し派手なような気がした。
「お買い上げありがとうございます。包装しますので、少しお待ちください」
青年が言ったが、瑠璃子は包装はいらないと答えて支払いをすませると、いつも持っているショッピングバッグにそのまま入れた。
「また伺います。こちらのお店、見ているだけで楽しいんですもの」
「いつでもどうぞ。あ、でも明日は必ず病院へ行ってください。約束して下さい」
青年は微笑んで言った。
瑠璃子も微笑んでうなずき、店を出ると元気に自転車を漕いで家路についた。
(六)
瑠璃子は翌日すぐ、かかりつけの近所の内科に行った。
瑠璃子は病院嫌いの上、健康に自信があるので、前回ここに来たのがいつだったかはっきり思い出せないくらいだった。
彼女より少し若い医師は、精密検査が必要なので、紹介状を書くからすぐ大きな病院に行くように、と告げ、近くの大学病院に電話をする。仕方なく瑠璃子はその足で病院を訪れたところ、そこでも外来の医師から、『ちょっと色々検査させてもらいますので、後日の予約を入れて下さい』と、言われてしまう。
1週間後に受けた検査の結果、彼女は初期ではあったが、乳癌に罹患していたことがわかった。
(乳癌、お母さんと同じだわ!)
瑠璃子は衝撃を受けた。
40年前、最愛の母が突然亡くなった病気と同じものを自分が患っているなんて。
医師から入院と手術を勧められた瑠璃子は、「家に帰って家族と相談します」そう答えると、その日は病院を辞した。
母が亡くなったのは彼女が小学生の時だったが、今の瑠璃子より20歳近く若かった。
医師は家族性のものではなく、ごく初期だから、と言ったが、彼女にはそんなことはどうでもよかった。なぜなら、母が今までずっと彼女のそばにいてくれたような気がしたからだ。
瑠璃子に今、忍び寄っている病魔を、母が『思い出』を使って伝えてくれたように思えたのだ。
自分の人生は決して順風満帆ではなかったし、何より、母のない子の前半生は、様々な人世の中で最も寂しいものではないか? と、母を恨んだりもした。しかし今、人生の折り返し地点を過ぎて、一人娘にも恵まれて特に何事もない日常は、考えようによっては幸せな人生と言えるのではないか、とも思う。
瑠璃子は、すでに死期を迎えた人のような感想を抱いていることがおかしくて、そんな自分のふてぶてしさや、余裕ある『ものの見方』に安心もする。
(私はまだまだ大丈夫よね、お母さん)
彼女は、そう心の中でつぶやいた。
その夜、勝彦と相談し、違う病院で診てもらう必要もないだろうということで、すぐに大学病院で入院手続きすることに決めた。
瑠璃子から病名を告げられた際、夫は驚くほどうろたえていたが、今後を相談するうちに落ち着いてきた。そして、「明日は会社を休むから一緒に病院へ行こう」と言ってくれた。夏海には、夫のほうから後日連絡するということで、ふたりはその日は早めに寝むことにした。
「おやすみなさい」
「おやすみ」
自然に言った後、瑠璃子は夫と就寝前の挨拶など久しく交わしていなかったことに気づいた。
(七)
瑠璃子が無事手術を終えたのは、翌月だった。
あのあと、意外に入院の段取りは難航した。手術の予約が一杯で、少し待たされそうだったが、一件キャンセルが出て、瑠璃子はすぐ手術を受けることが出来たのだ。
麻酔が覚めて、まだぼんやりしている瑠璃子のベッドの傍らで、勝彦が医師に深々と頭を下げているのを見た時に、ようやく手術が無事終わった実感があった。
「ママ」と言って、病室の扉から夏海が顔をのぞかせた。
夏海は先週から実家に帰って来ている。今日も手術の間ずっと待ってくれていた。
「なんかあっという間に手術終わっちゃったわね。でももうしばらく実家にいるから、なんでも言いつけて」
「いいのよ、全部パパにやってもらうから。なっちゃんはいてもすることないわよ」
「パパに? へえ、こんな気の利かない仕事人間のパパにできるの」
「おい、気の利かないは余計だろ」
勝彦は苦笑いしている。もしかしたら死んでいたかもしれない病気なのに、今こうして家族の団欒を病院で味わえるとは不思議なものだ、と瑠璃子はしみじみ思った。
その後、退院した瑠璃子は、想像以上に早いスピードで自分の身体が元気を取り戻していくのを実感していた。そこで思い切って、あのリサイクルショップを訪ねてみることにした。大げさに言えば、『自分の命の恩人』といえる青年に、早く礼を言いたいと思ったのである。
さすがに自転車で行くのはダメだと勝彦に言われ、勝彦の車で日曜日の午後出かけることになった。
瑠璃子は地図アプリで場所を伝え、助手席でゆったり寛いで窓外を見る。勝彦の車は安全運転で目的地を目指し出発した。
もうそろそろ目的地に着くころかと思って、外の景色に目を凝らすと、見覚えのある街並みだった。
「この辺りよ」
「そうだな、地図だとそうなんだけど……。あー、さっき通り過ぎた所から入らないとだめだったな」
勝彦が残念そうに言って、しばらく車を進ませ脇道に逸れてから、もと来た方に戻る。
そして住宅街に入るが、一方通行が多く、中々目的地に行けない。次第に勝彦は不機嫌になって来た。
「君が開いているの、自動車用のルートだったよね」
いらだった様子で言う夫に瑠璃子は、
「何故行けないのかしら? やっぱり自転車で来た方がよかったわね、ごめんなさい」
と、いつものように詫びる。
一瞬黙った勝彦は、
「いや、謝るのは僕のほうだ。僕が悪い。君のことを笑えないね、ひどい方向オンチだ」
と、優しく言った。
車が狭い住宅街を抜けたあと、
「もう一度、広い道に出てからやり直しだ。地図を見せてくれる?」
観念したように勝彦が言う。
そのとき瑠璃子の頭に奇妙な考えが浮かんだ。なぜか『あの店はもう存在しない』という考えが。
瑠璃子は勝彦に、
「今日はもうやめときましょう。いつだって行けるから、また一人で自転車で行くわ。このまま国道に出て、夕飯のお買い物に連れてって」
と、早口で言った。
勝彦は前方を見たまま、ゆっくり車を走らせながら、
「ごめん、また次回ちゃんと下調べして。そうだな、次はふたりで自転車で来よう」
と答える。
国道に出て、車が信号待ちをしている間、瑠璃子は視線を前方から助手席の窓に移し、外を見た。
「あっ」
アンビバレンサの店主の青年が、あの日と同じ白いシャツ、ただし暑いのか袖を捲り上げ、両手に何か大きな荷物を抱えて歩道を歩いている姿が見えた。
瑠璃子が窓を開けて顔を少し出すと、青年は彼女に気づいて立ち止まり、軽く会釈してほほ笑んだ。
信号が青に変わり、勝彦が車をスタートさせると、青年は瑠璃子たちの車をしばらく見送ってくれていた。そして、荷物を持ち直して再び歩き始め、車と反対方向に去って行く。
「またいつか」
「え?」
「ううん、なんでもない」
無理して来られなくてもいつでもいい、ゆっくりお越しください、と彼の背中が言っているように、瑠璃子には思えたのだった。
大尊敬する平岩弓枝先生ふうを狙ってみました、いかがでしょうか。
もしご好評いただいたら、続編も書きたいです(^^)