第一章 情景一
頭痛。それと、あの泣き声。私の耳はそんな音を捉えてなどいないのに、頭の奥には、あの赤子の、耳を刺すような悲鳴が鳴り響いている。その音によってかよらずか、私は目覚めた。寝床の横に置いたホログラム時計の針は、午前三時二八分を示している。起床予定時刻は五時頃。酷い寝覚めだが、この酷い頭痛と幻聴の中で、もう一度睡眠を迎える気にはならなかった。重い身体を奮い立たせて寝床から立ち上がる。シャワーが浴びたい。軍支給の室内着と下着はすっかり汗ばんでしまっている。私はそれらを脱衣し、首にかけたドッグタグ――マリア・シン・サカキバラの刻印がなされてある――、洗濯乾燥機へと投げ入れる。高級士官の部屋にしか用意されていない、人一人分の狭さのシャワールームに入る。温度を四〇度に設定し、熱い湯の雨を浴びる。あの赤子の泣き声は、流される汗と湯の五月雨に入り混じり同化して、そして流されるらしい。滴る湯が床を叩く音にまぎれて、それはだんだんと霧消していく。そして耳朶を刺激する音が湯の滴る音だけとなった時、私はようやく、自分の体が酷く強張っていたことに気がつく。肩が酷く筋張っている。睡眠不足も相まって、まだ起きたばかりだというのに、疲労が身体の奥底に、それから脳の深部に沈んでいるように感じる。これから戦闘が行われる。私は極めて冷静に、十分に頭を働かせる必要があるというのに、これではいけない。シャワーを冷水に切り替えて、身体に鞭を打つ。冷水は頭部に降りかかり、皮膚を滑って、身体に心地の良い痺れをもたらす。これは、あの夢を見るようになって以来、ひいては反乱軍の拠点であの赤子と出会い、そしてその命を奪って以来、もはや日々の習慣と化している。その日以来、良く眠れていない。夜闇――宇宙船の中では太陽が存在しないので、その代わりとなる照明を消すことによって人工的に作り出した闇だが――が微睡みを誘っても、その微睡みは安らぎではなく、あの赤子の夢を連れてくる。夢であることに気付くのは、いつも赤子を殺すその瞬間だ。それまで私は、あの忌まわしい感情、名前をつけることの出来ない、あの苦しくて昏い感情と、格闘する羽目になる。そして起きた後も、その残り香は私の心を締め付ける。
尤も、あの夢も事実とは異なっているのだ。赤子が殺されたのは、正確には私によってではなく、私の部下によってである。その反乱分子の萌芽を見つけたのは私だが、夢でそうであるように、私はその芽を摘み取ることが出来ないでいた。そして一瞬躊躇っている内に、部下がその役割を担った。だのに、何故いつもの夢の中では、私がそれを行ったことになっているのだろうか。私には判らない。果たして、それは私が罪を感じているからなのだろうか。子供の頃から戦争――殺人行為に慣れ、反乱軍の子供兵にさえ何ら感情の湧いてこないこの私は、あの赤子には、ただの偶然によって見つけた無抵抗ながらしかし小さな反乱軍に、まさか、特別に感情を抱いているのだろうか。
シャワールームを出る。いささか、長く冷水を浴びすぎたようだ。身体の芯まで冷えてしまっている。皮膚を舐める水を、柔らかいとは決して言えない軍支給のタオルで拭い、まさらの下着と、そして帝国軍高級士官用の、生地の良い軍服を着用する。ドライヤーで、短く切った髪を乾かす。そして士官用の部屋のみに備えられた小さなキッチンへ向かって、湯を沸かす。白いマグにインスタント珈琲の粉を入れ、熱湯を注ぐ。インスタントながら悪くない、豊かで落ち着く珈琲の薫りが鼻腔をくすぐる。ふと、時計に目をやると、午前四時になっている。思いの外シャワールームにこもっていたようだが、まだ指揮官会議には時間がある。熱い珈琲を舌奥で転がしながら、机に向かう。机の上には、今回の作戦に関するホログラムシートが乗っている。シートに触れると、ホログラムが起動。作戦第一目標、第二目標、我が軍勢の情報、敵軍勢の明らかになっている情報及び予測情報、位置情報、作戦上での会敵予想時刻、エトセトラ、エトセトラ。それらの情報が全て三次元マップに、視覚的に映し出される。文字情報は可視性を考慮して、白い背景に黒地で乗っているが、それ以外の情報は三次元の地図上に、まるでチェスのような表象によって表示される。作戦は、反乱軍の拠点の破壊を目的にしたものだ。そして拠点の破壊のために惑星の成層圏に突入するが、その前に宇宙艦隊戦闘が予想されている。敵軍勢は、武装した宇宙基地が一、戦艦が二、巡航艦一、駆逐艦八、それに付随する戦闘機や爆撃機が多数。今や劣勢を極めた反乱軍ながらよくかき集めたもので、如何にこの拠点が重要なものかというのが分かる。何しろ、反乱軍の軍中枢に潜伏するスパイによれば、その惑星は彼らの本拠地であるらしいから、当然のことだろう。対する我が帝国軍勢は、戦艦四、巡航艦四、駆逐艦一〇、航宙機多数。対費用効果を考えると、十分に過ぎる戦力であるが、被害を最小限に抑えるためである。戦闘は宇宙基地への奇襲から始まる。最新鋭の戦艦によってアウトレンジ攻撃を行い、敵軍勢が反撃を行う為にこちらに向かって逆進し、こちら方の射程に入り次第、殲滅する。大まかにはこのようなものになる。と言っても、数の優位を取るこちら方に、細かな戦術を立てる必要はない。むしろ大勢であるが故に、アウトレンジ攻撃を除いて、こちらから仕掛けると前線の混乱を招くだけだろう。また、万が一数の優位が覆された際には、敵射程を意識しつつ後退し、アウトレンジ攻撃を継続することになるだろう。反乱軍の用いる戦闘艦は帝国軍の旧式を鹵獲したもので、故に艦性能もこちらのそれを上回ることがない。戦術家としては、何と大味な考えだろうが、戦略的優位に立っている以上、特殊なことを行う必要がない。
ホログラムシートをシャットダウンして丸め、机の隅に縦置きする。それから気晴らしに、音楽をかける。太古の昔に作曲されたオルガン音楽である。音の雨を浴びながら、少しぬるくなってしまった珈琲を喉に流し込む。まだしばらく、会議まで時間を潰さねばならない。私は二杯目の珈琲を飲むために、再び湯を沸かした。