61話 常に鍛える
「フィーリア、今日もか?」
「すみません、今日もです……。というか、三日後に戦うまではずっとです。勝つために特訓するんですから」
アシュリーと決闘してから四日後。
フィーリアはいつものように俺とは別行動だ。
あの日の夜。
何がどうなったのかはわからないが、ともかく俺とフィーリアが戦うことになったらしく、それまでフィーリアは個人特訓をすると告げてきた。
まあ俺としてもフィーリアと戦えるのは嬉しいのだが、一人ではなかなか依頼を受ける気にならない。
というのも、Aランクの依頼ともなると日帰りで帰ってこれないものも多いのだ。
唯一近場の魔の森を使おうかとも思ったが、そこはフィーリアとアシュリーが修行に使うらしいしな。
鉢合わせるのは気まずいから避けたいところだ。
なら遠出をするか、と普段ならなるのだが、あまりフィーリアと離れていると万が一フィーリアが攫われたりしたときに助けに行くのが遅れてしまう。
あり得ない事ではないだけに、それで後悔するのは御免だった。
「? どうかしましたか?」
見つめすぎたのか、フィーリアが首をひねる。
長い銀髪が重力に従って流れるように揺れた。
「いや……行って来い」
「はい、行ってきまーす」
からかわれるのは目に見えているので、心配していることは言いはしない。
俺はフィーリアが出かけるのを黙って見送る。
「さて、修業を始めるか」
依頼が受けられなくてもやるべきことはたくさんあるのだ。
俺はポキポキと拳を鳴らして一人不敵に微笑んだ。
数時間後。
日光が差し込む静まり返った部屋の中で、俺は一人鍛錬に勤しんでいた。
もしかしたら他人からは何もしていないように見えるかもしれない。しかし、俺は滝のような汗を流していた。
この訓練はとてもきついのだ。
何をしているかと言えば、空気イス。
しかしただの空気イスではない。座った状態のままで空中に浮いているのだ。
残像が見えないほどの高速で足を動かすことによって、俺の身体は宙に浮いていた。
そのままでは回転してしまうので、手も動かして回転しないようにバランスをとる。
両手両足を絶えず使い続けるこの訓練は、いかに俺と言えども数分が限界のベリーハードなものだった。
「だあ……っ!」
俺は空気イス(空中)を止め、床へと降り立つ。
汗を吸って重くなったシャツで顔の汗を拭きとる。
動かし続けた両手両足がジンジンと疲れを声高に主張してくるが、無視。
休ませるべき時は休ませるが、今はその時ではない。
ああ、育ってる。筋肉が育ってる感じがしやがる。
俺は一人ニヤニヤと口の端を上げた。
この感覚のために筋トレしているといっても過言ではない。
自分が強くなっている感覚というのは何物にも代えがたい快感だ。
「さて、次は何をするかな……っと?」
俺は天井を見上げる。
ぽつ、ぽつと音を鳴らす天井。
雨が降り出していた。
「雨か、丁度いいな」
雨の日に室内でできるうってつけの訓練がある。
『屋根に当たった雨粒の数を数える』という訓練だ。
まさに今この時のためにあるような訓練である。
きっと、筋肉神が俺の弛まぬ努力に雨という贈り物をしてくれたのだろう。
「感謝するぜ、筋肉神!」
俺は筋肉に感謝し、次の修業を始めた。
十五万九千八百七、十五万九千八百八、十五万九千八百九……。
あれからさらに数時間が経っただろうか。
俺はひたすらに雨粒の数を数え続けていた。
勢いが強くなるにつれまるで滝のように音を立てる宿の屋根。
その全てを把握しきるのは容易い技ではない。
この訓練によって鍛えられるものは二つ。
どんな小さな音も聞き漏らさぬ耳、そして数を数えながら耳からの情報も処理する並列思考。
この二つを同時に鍛えることができるのだ。
俺は目を閉じ、耳から得られる情報だけに全神経を集中させる。
一つの器官に頼り切ることによってその器官は飛躍的に鋭くなるのだ。
とその時、俺の耳が雨音とは違う物音をキャッチする。
誰かが部屋のドアに近づいてきているようだ、と俺の脳は雨粒を数えながらも思考する。
「ただいま帰りましたー」
鈴の音を鳴らすような心地よい声。
どうやらフィーリアが帰って来たらしい。
足音は迷わず一直線に俺の近くへとやって来る。
「あれ、ユーリさん寝てます?」
目を閉じているがゆえに、寝ていると勘違いしたらしい。
今の俺は部屋の中心に仁王立ちしているのだが、俺は立ったまま寝ることも多いからな。
十五万九千九百五十、十五万九千九百五十一、十五万九千九百五十二……。
俺はフィーリアに構わず修行に集中する。
フィーリアも帰ってきたことだし、十六万までいったら終わりにするか。
「ユーリさぁーん? ……あれ、もしかして本当に寝てるんですか?」
フィーリアが仁王立ちの俺の周りをくるくると回る。
柔らかな花の匂いが俺の鼻を刺激した。
近づくのはやめてくれ、集中が途切れる。
……いや、これもまた修行か。
フィーリア、俺はお前の挑戦を受けて立つ!
十五万九千九百九十七、十五万九千九百九十八、十五万九千九百九十九……十六万!
「そうだ、今のうちにいたずらを……にしし」
「起きてるぞ」
「うぴゃみっ!?」
誘惑を耐えきり十六万まで数え終えた俺は清々しい気持ちと共に目を開ける。
目の前には黒いマジックを持ち、謎の声をあげるフィーリアの姿があった。
というか、どうすればそんな意味の分からない言葉が咄嗟に口から飛び出すんだ? 何か鍛えてるのか?
「な、なんだ起きてたんですか……。びっくりさせないでくださいよぅ」
「それは悪かった。ところでその手に持ってるマジックは何だ?」
「こ、これですか? これは……な、なんでしょうね? ちょっと記憶がありません」
嘘つけ、絶対俺の顔に落書きしようとしてただろ。
しらばっくれるフィーリアはせわしなく視線を動かしながら、たえず手で自分の顔を触っている。
「まあいいや。今日も鍛えてきたんだろ?」
「もちろんですよ。だから、私に負けても落ち込む必要はありませんからね?」
そう言ってフィーリアは挑発するようにふふんと鼻を鳴らす。
「ほぅ……面白い。なら俺が負けたらお前の言うこと何でも一つ聞いてやるよ」
「本当ですか!? うわ、私すっごいやる気出てきました! どんな無茶ぶりをやってもらいましょうか……!」
「無茶ぶりなのは決定事項なのか……」
フィーリアは生き生きとした表情で何やら色々と考えているようだ。
……失言だったかもしれない。
一瞬浮かんだ弱気な考えを、俺は首を振って頭から打ち消す。
勝てば問題はないのだ。俺は相手が誰であろうとも絶対に負けないからな!
そんなことを考えている間に、フィーリアは真剣な表情で腕を組んでいた。
何を考えているのだろうか、そう思った矢先に桃色の唇が開かれる。
「でもユーリさんだけ罰があるんじゃ不公平ですよね……。うん、決めました。ユーリさんが勝ったら、今度買い物に行った時私の荷物を持つ権利をあげます!」
「いらねえぇ……」
荷物持ちって普通に罰ゲームじゃねえか。
俺の返答を聞いたフィーリアは心底意外そうに目を見開く。
「えー、変わってますねぇ。私の私物に触れるんですよ? ご褒美じゃありません?」
「そんな言葉がスラスラ出てくるのが信じられん」
「私を信じてください。紛れもない本心です」
胸に手を当て清らかな表情で告げるフィーリア。
視覚から得られる情報は女神そのものなのだが、聴覚から得られた情報を合わせると……コイツ、ただの性根の腐ったやつだ!
「本心ってなおさらヤバいじゃねえか!」
「え、何かおかしいところありました?」
「……とりあえずそのご褒美とやらはいらねえわ。……だけど、俺が勝つからな!」
「私だって負けませんから。辛くてキツイ訓練をしてるのはユーリさんをめっためたのぎったぎたにする為なんですからね!」
俺とフィーリアは互いに勝利宣言を行った。
にしても、フィーリアと戦えるってだけでわくわくしてくるぜ。
『風神』を自在に扱えるようになったフィーリアの本気がいかほどかはまだ未知数だからな。
……あー、早く三日後にならねえかな!




