第二十七幕『宿命の対峙』
さて、お話の続きと致しましょう。
「……死んでやる、だと?」
ジャックは、死んでやると言った。対するハイドは、言いようのない悲しみから怒りを滲ませていた。
「強がるな。死んでしまうと仲間には会えなくなるぞ、二度と。二度とだ」
ハイドはジャックの心の闇から生まれた。ジャックの孤独や寂しさなど、一つ残らず知らないはずがない。
『強がりなんかじゃ……ない。僕に会いたいヤツなんかいるもんか』
「……だがジーキル、ジャックよ。ここでは死すら与えられない。いくらお前が望んでも、死んでやることも死なせてやる事も出来ない」
生きることはもちろん、死ぬことも出来ないと言うことは、一体どういう事なのだろう。ハイドが必死になって説得する程の事なのだから。
ジャックの態度はただの意地にすぎないと、ハイドはそう思っていた。説得する方も意地だが。
「今は俺を信じてくれ……頼む」
ジャックがこの男の事を恥ずかしいと思うほどに、ハイドという男は必死だった。
信じられるはずはないが、自分の片割れだと言うこともあるのかもしれない。――認めたくないのだ。泣きそうな程に必死なこの声を。
「死ぬことも出来ない、生きている実感もない。……それがどれほど辛いことなのか。言葉では伝えられる訳もない。だが、わかって欲しい」
真っ暗で見えないが、今、この男は涙を流しているのだろう。だとすれば、当の本人さえ驚き、それを認めたくはないはずだ。
「俺が救いたいのはそんな少女と――……お前だ。似てるんだよ」
声が震えている。本当に心底、本気でそう思っているのだろう。
(なぜだか……こいつの存在が懐かしい気がする。一体何者なんだ。このハイドというヤツは、どうしてこんなにも必死になれるのだろうか)
信じたくはない、信じられない――それでもジャックは胸が熱くなるような感じがしたのだ。ハイドの思いは、わずかにでもジャックに届いているのだろう。
「母親からもらった、お前の体を、心臓を、命を信じろ。生きようとする意思を捨てるな。お前が本当は愛されたかったのを俺は知っている。少女を助けるのを助けて欲しい。……頼む」
男の声は“悪魔”のものかというと、今はそうは言えないのではないだろうか。それほどまでこの男から、とてつもなく純粋で、やさしい“愛”があったように思えるのだ。
「俺の、全てをやる。記憶と……力だ。両親からのお前への愛も。ここにあるのはお前の欠片だ。」
――本当のお前になるのだと、声とも音とも言えないような言葉が、ジャックは頭の中で響いたような気がした。
それは、幼い頃に聞いた、声の記憶とともに。
『……父……さん?』
――
『ここはどこだ‥‥‥?』
相変わらず体は動かないままだったが、先ほどまでのように嫌な感じはもうない。
ジャックが気が付いた場所は、色合いを抑えたグレー色の世界。目の前に広がるのは、映写機で映し出された古い映画のような光景だった。
馬車が石畳の通りを駆け抜け、子供たちや、談笑する貴婦人らを通り過ぎてゆく。
人通りの多い通りから外れ、閑静な住宅街も乗り過ごし、さらに深閑といった屋敷の前に馬車は止まった。
そこから降りてくる、一人の紳士の姿に、ジャックは目が釘付けになる。
『あれは……』
黒のシルクハットに黒服、金の髪に丸眼鏡。そして手には黒の手袋。
まるで大人になった自分の未来の姿を見ているような気持ちになった。
『僕……?』
どこか潔癖らしそうな雰囲気はあるが、本当に未来の自分なのだろうか。
背も高くなって、あんな立派な大人になれるなら、とジャックは内心期待してしまう。
育ちも良さそうで品もあり、地位もそこそこ、教養もあるように見える、世間一般的にいう“立派な大人”である。
もしも、あれが未来のジャックだとするならば、生きる希望となるだろう。
ただ、どうやらジャックではないらしい。
「ヘンリー」
その声には聞き覚えがあり、ジャックには二人が何者か理解した。
『! これは、母さんの声……』
そして、母が呼んだ名前の主の事。
『ヘンリー・ジーキル……。あれは……あれが、父さんか』
今の気持ちを言葉で表すとすれば、落胆、だろうか。いや、おそらくそれでは色々と足りないだろう。
絶望、幻滅、失望、暗澹、怒りや悲しみ、憎しみ。それらのどれもを含むような、複雑な心境なのだろう。
先ほどの光ある未来が、一瞬で暗闇に変わったのだから。
この人物は、後に殺人者として有名になる男だ。
(僕がそれを父だと知ったのは、いつのことだっただろう。
何かの本で知ったのか、新聞の類のものだろうか。
いつか誰かから、正式な自分の名を隠すように言われた事があった気がする)
ジャックはそれから団員の事を思い浮かべる。
(団長は、もしかしたら知っているかもしれない。あの人が何かを知らなかったことが無い。僕はあの人が何歳かもしらないけど)
――そう思うと少しゾッとした。人生にはきっと、知らなくてもいい事のほうが多い。
(ミカエラはきっと、親がどうかなんて関係ないっていうだろうな。
シドには、言うのはイヤだけど、きっとバカにしたみたいに笑うだろう)
今のジャックの思考は、先程までの落胆が嘘のように、明るい。
なぜだか力が湧いてくるようで、ジャックは自然と笑っていた。
――くだらない意地なんてもう張らずに、仲間の元へ帰ることができたなら。
今までの自分の態度を謝ろう。
そんなことを考えているうちに、自分の両親がどういう会話をしていたのかなんて露ほども耳に入って来なかった。
でも、見ていればわかる。二人がいかにお互いを愛しているのか。それは少し照れる気持ちもあり、逃げ出したいくらいだ。
それから、母の腕の中には赤ん坊がおり、二人はその子へ愛おしそうに微笑みかけていた。
あの子は紛れもなく、ジャックなのだろう。
自分が親から愛されていた、この光景が見られただけで、ジャックには十分だった。もちろんジャックらしい事に、若干の否定的な思いは心に持ちつつ。
(この光景を見せてくれてありがとう。でももう、いいんだ。これが嘘でも夢でも)
見えていた景色が、だんだんと霞んでくる。
ジャックの瞳の中が涙で溢れているからなのか、映像が終わったからなのか。
そうしているうちに、映像は室内へ移動し、時も数年進んだようだ。
赤子だったジャックは、積み木で一人遊びができるほど成長していた。おそらくは3歳か4歳ぐらいだろう。
あまり活発そうではないが、父の家柄から、厳しく躾けられたのだろう。裕福な家の子供、といった風だろうか。
積み木に夢中になるジャックのそばで、母は不安げな顔をしていた。
「ヘンリー……もう1週間も帰って来ない。どこで何をしているの?」
新聞に目をやると、街の権力者が何者かに殴り殺されただとかなんとか書いてあり、不安はさらに煽られる。
「物騒ね……あの人の身に何かあったら……」
犯人は逃亡中と言う事もあり、事件に巻き込まれた可能性を考えてしまう。
「ジャック……お父さんに早く帰ってきて欲しいね」
母は子を抱きしめる。小さなジャックは積み木をもったまま、うんと答えた。
その日の夜、母と子が眠りに落ちたあと、父は帰ってきた。
玄関は施錠してあるが、裏口から入ったのだろう。
豪邸と言えはしないが、部屋の数はそれなりにあり、裏口の近くにはヘンリー・ジーキルの自室らしきものと、書斎とがある。
夫婦の寝室もあるが、自室にもベッドがあり、夜が遅い日などはこちらで眠る事もあるようだ。
ただ、眠れず落ち着かない様子で、部屋を真っ暗にしたままベッドに腰掛けている。
そして、独り呟いた。
「もう、ここにいられないかもしれない」
翌日の早朝、夫は妻に目覚めのキスをする。隣で眠っている子を起こさぬように、そっと。
「……ヘンリー、おかえりなさい」
妻は驚きと喜びの混じった表情で、夫を抱きしめる。
「マーガレット、心配させてしまっただろうか。もうこんなに家を開けることはしないと約束するよ」
夫ヘンリーは、妻のマーガレットへ謝罪する。
その言葉の真偽は置いておくとして。
ヘンリーが家に帰らない日は、時々あった。
そして大体、こうして妻に詫びるか、詫びはしないが朝食を作る。
帰らない理由は、妻には仕事や付き合いと言っているが、マーガレットはその言葉の裏側も悟っていた。
「私は、貴方がこうして帰ってきた事を嬉しく思うわ。
貴方と一緒になるために、あの時覚悟しましたもの」
実は二人の結婚は法的に認められているものではなく、一緒に過ごす事も簡単ではなかった。世間的ではいわゆる愛人と呼ばれる関係である。
つまり、ヘンリーは家柄を捨てることなく、色々なものを犠牲にしつつ、マーガレットを側に置く事になったのだ。
本妻の家にはほぼ行くことがなく、お互い冷めきった関係のようで、それはヘンリーにも都合が良かった。
家の決めた花嫁候補が何人かいたが、その中でお互い家のためだけに婚姻を交わしたのだから。
ヘンリーは駆け落ちも考えたが、マーガレットはそれを拒んだ。
こんな自分にヘンリーは勿体ない相手だと思っていた。
しかし、ヘンリーは色々な手を使い、マーガレットを手に入れたのだ。
妻は従う形であったが、夫を受け入れた。
二人の家柄は違いすぎる。
マーガレットの両親は、年頃になった娘を売ってしまう程貧しかった。
しかし、下働きになったマーガレットとヘンリーは出逢い、恋に落ちてしまった。
長く投稿が止まっておりましたが、お読み下さってありがとうございます。




