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吹き抜ける風  作者: hisa
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第五章 胸底

    5、胸底


 真夏の猛暑はこれでもかと言うほど続いている。蝉の鳴声が一段と夏と暑さを感じさせるていた。去年よりも明らかに今年の夏は暑い。碧は若干夏ばて気味の身体で寝返りをうとうと反転させた。

 あれから、二週間が過ぎた。

 何もかもが面倒で、碧はだらけた生活を送っていた。片付いていた部屋はあっと言う間に散らかっていったがそれを片付ける気力も起きなかった。

 裕子に会うのが億劫で大学にもここ最近行っていないし、豊からの着信も出ていなかった。バイトだけかろうじてい続けていたが、令子に会う事のない深夜の時間帯だけのシフトに組み替えてもらった。

 何もかもが面倒くさい。

 部屋にある姿見に視線を流し、自分の顔にうんざりした。

--------俺、こんなにやつれてたっけ?飯、飯食ったのいつだ?

 一頻り黙考し、昨日の朝から何も口にしていない事に気が付いた。

 冷房の効き過ぎた部屋の中は碧を刺激するものがない安全地帯だった。

 ここ数日、部屋とあの場所だけを殆ど往復している様な生活になってしまった。

 どちらも碧にとっては安全な優しい場所だ。煩わしい事も面倒な事もない。何も考えずに済む大事な場所。そして、郁に会える場所。

 ここ最近、郁の事を考える事が多くなった。

 郁は、いつもあの木の下にいる。いつもここにいると言うのはあながち嘘ではなさそうだと思う反面、余りに毎回郁がそこにいるので何をしている子なのか気にならないでもなかった。

 それでも、お互いの干渉をしないと心に気めたのは自分自身だったし、郁の瞳の奥に宿る不安定な輝きを見詰める度に碧は疑問を飲み込まざるを得なかった。

 何も聞いてはいけない。

 自分の中の何かが訴えかけている様に思えた。

 それに郁は何も聞いてこない。

---------先に、進めない

 虚ろな瞳を宙に漂わせたまま碧は窓の外から差し込む、初夏から真夏の日差しに変わったそれを薄ぼんやりと眺めた。

 光のカーテンはきらきらと碧の上へ注いでいるのに、気分は宵闇の中だ。

---------なんか、最近俺一段と酷くなってないか?

 何が酷いか、明確には分からないが何かが引っかかる。最近、妙に体がだるい。気分が優れないのは勿論だが、それ以上に身体に纏わりつく倦怠感。

 自分の意思と身体ではない様なアンバランスな感じが否めない。

 だがよく考えても、自分の身体に変わりはないのだから、と碧は結論付けた。あまり深く考え込むのは嫌だった。 

-------もう少し眠ろう。

 エアコンの効いた部屋で、夏掛けの毛布を頭から被り碧はベッドの中で縮こまった。


 喧騒の中忙しなく行きかう人々の波に紛れて豊は携帯の通話ボタンを押した。

 周りの喧騒をバックグラウンドに呼び出しのコール音が重なる。人の波をすり抜けながら、少し逸る歩調を何とか自制心で抑える。

 ついに呼び出し音は留守番電話のガイダンスに変わってしまった。

 深く長い溜め息を吐き、豊は終話キーを押下した。やっぱり、電話に出ない。あれ以来碧と全く連絡が取れなくなってしまった。裕子に聞いても大学でも見かけていないと言う。

 正直こないだの件は、やり過ぎたかと少し反省していた。碧の事を思ってした事だったが気が急いていたのかもしれない。まだそんな時期ではなかったのだ。碧は引き摺ってないと言うが本人が言うほど吹っ切れてはやはりいなかったという事だろう。

 豊は浮かない表情で手にしている携帯に視線を落した。文明の機器も役割を果たせなければただの機械でしかない。もう一度ため息を吐き、止まってしまった足を今度は重たげに踏み出した。

 繁華街を進みながら、少しばかり迷う。今のコールで電話に出なければ家まで押し掛けようと思っていた。が、実際そうなると躊躇してしまう。

 親友と言えど、他人なのだ。自分がここまでお節介を焼いていいものなのだろうか。唯でさえこの間の令子の件で碧は怒っていると思われる。

 どうしたものかと思い悩む中に、思い足取りはまたもや停止していた。

 周囲の喧騒を遠くの音のように聞きながら豊は俯いた。

 自分の爪先を凝視しながら、

--------やっぱり放っとけねぇ。

 胸裏に若干の不安を残したまま碧の家の方面へ向かう。

 何かしてあげられる事は無いかもしれないが、何もしないではいられなかった。迷惑がられてもいい。少しでも力に成れればいいなと思う。それは自分の中のエゴかもしれないが、助けたかった。


 最近この秘密の場所に訪れる人が現れた。端麗な面持ちの少年を過ぎた青年。優しげな瞳を持っていて、それでも何かその瞳に翳をちらつかせる、彼。

 ずっと独りきりの場所だった秘密の場所を共有する仲。思ったより、嫌な気分にはならなかった。どちらかと言うと、少し嬉しいかもしれない。

 何だか気恥ずかしい気持ちもあるが、彼が何も聞かない事が有り難かった。

 郁は今日も大樹を見上げる。愛しい樹にとまり短い寿命を嘆くかの様に、蝉が力の限り鳴いている。

 こんな風に、生前泣いた事があっただろうか。

 もう、あまり思い出すことも出来ないが、後悔だけが強く残っている様な気がするのだ。だから、この大樹の傍から離れてはいけない。いつも支えてくれたこの樹の傍にいなくては。

 今日も、彼はやって来るかもしれない。

 いや、絶対やって来る。妙な自信を持って郁は確信する。同じ波長、同じ匂い。お互い惹きつけられる何かがある。

 高温の熱を発する太陽の熱を浴びた草々が、その熱によって暖められた風にそよいでいた。自然と、いつも彼がやって来る方角をぼんやりと眺めていた。

 その行為がここ数日、癖になっていた。


 豊が碧の家の前に辿り着いた時には、長い夏の陽も大分傾きかけている頃だった。

 何度かインターホンを押すのが躊躇われ、出したり引っ込めたり繰り返していた右腕が宙に情けなく浮いた状態のまま、暫らく豊かは硬直していた。

 碧に会った所で、どんな切り出し方をすればいいのか、何を話せばいいのかすら正直分からないでいる。

 最近の碧の様な鬱々とした表情を豊は張り詰め、かつ緊張した面持ちで人様の玄関先で硬直していた。

 暫らく葛藤した挙句漸く、ここに来た意味を思い出し、怯む手を押し出しインターホンを押した。何処にでもあるインターホンの音を聞きながら、変に心拍数が上がって行くのを感じる。

---------友達に会うだけで何緊張してんだよ。俺。もっとしっかりしろって。相手は碧だ。

 自分に叱咤するが、相手は普通の心理状態ではない事を思い出し、やはり心拍数は高鳴って行く。

---------上手いこと、路を指し示す。立ち直る切っ掛けが碧には必要なんだ。

 心中呟き、返答のないインターホンをもう一度押した。緊張の所為かやけに音がスローモーションに聞こえる。

 こんな背を押す大役を果たして果たせるのだろうか。と不安が擡げるが、やはり親友としては放って置けない。

 暫らくすると中から階段を駆け下りて来る音が中から聞こえて来た。随分慌しい。

 やがて玄関の戸が勢いよく開いて、中から「はーい」と言う間延びした声が聞こえて来た。理恵の声だと悟った豊はほんの少しだけ安堵した。

「あれ?豊君じゃん」

「よ。久し振り。碧、いる?」

 中を窺うように豊。

「お兄ちゃんならさっきまで居たけど、ついさっきどっか出掛けて行ったよ」

「あちゃ〜、すれ違ったか。何処行ったか聞いてない?」

「聞いてない。最近ふら〜とどっか行っちゃうんだよね。あんまり元気無いみたいだし。よく分かんないけど」

 小首を傾げながらも理恵はあまり興味が無さそうに返答した。

 出端を早速挫いてしまった豊は少し途方に暮れた表情で理恵の厚みのある睫の上に視線を注いだ。

「携帯に電話してみなよ。連絡取れるかもしれないしね?」

「そうなんだけど、最近電話に出ないんだよ。処でさ、理恵、碧が行きそうな場所知らない?」

「ええ〜。お兄ちゃんの行動パターンなんて知らない。ああ、でもよくコンビニに行ってるみたいよ」

 くるくると表情の変わる理恵を見ながら、豊は目が碧とよく似ているなと思った。

「コンビニか。ちょっと行ってみるわ。どの辺だか教えて」

 思案顔の豊に理恵は、身振り手振りでコンビニの場所を教えてくれた。

 豊はそんな理恵に軽く礼をいい、そそくさと藤家家を後にした。

 足早に目的のコンビニを目指す。

 果たしてそこに碧は居るのだろうか。またもや降って湧いた不安に顔をいぶかしめるが、歩く速度だけは落さなかった。これ以上擦れ違っては堪らなかった。

 何が出来るかなんて高が知れているが、この間の事もきちんと詫びたかった。また、以前の様な常に前向きな明るい碧に戻って欲しい。それが一番碧らしい姿だと豊は思う。

 暗くなった住宅街を足早に豊は、碧がよく行くコンビニを探した。

 何が何でも今日中に碧との接触を計りたかった。


 日が沈み幾分気温の下がった夜だったが、倦怠感の付き纏う身体にはこの夏の猛暑は大分きついものがある。

 汗ばむ掌を乱暴にシャツの裾で拭きながら碧は気だるそうに住宅街の路地を歩いていた。ここ数日で痩せこけてしまった頬はこそげ落ち顔色を一段と悪く見せている。

 そんな事には関心のない碧は自分が急激に痩せてしまった事にはまったく気が付いていなかった。身体の節々が軋む様な痛みがする。まるで風邪の引き始めの様な痛みだった。

 力なく歩き、今日もまたあの場所へ向かう。きっと今日も郁はあそこにいるだろう。それだけが荒んだ心にほんのりと明かりを燈す。ただただ流れていく時間だけをあの場所で過ごす。そんな時間が今の碧の全てになってしまっていた。

 かつての生活とは全てが一転してしまっていた。他は何もいらないものになってしまった気がした。誰かの心も、自分の心も。

 辿り着いたフェンスの前に佇み、碧は秘密の入り口を見詰めた。

 いつもここにくると少しだけ不安になってしまう。誰かにこの入り口を発見されてはいないか。この小さなフェンスの入り口に気付いてしまった人がいるのではないか。

 それだけは一番避けたい出来事だった。この秘密の場所は誰にも踏み入れて欲しくなかった。ここは郁と碧だけの聖地なのだ。この場所と郁だけは自分を裏切らない。それだけが小さな支えなのだから。

 フェンスに手を伸ばす前に辺りを確認しようとし、碧は久し振りの顔が自分を見つめて立ち尽くしているのを発見した。

「・・・豊・・・」

 口の中で小さく呟いた声は少し離れた所にいる豊には聞こえなかっただろう。

 立ち尽くしていた豊は厳しい表情で碧の前まで歩み寄って来た。思わず入り口を庇う様な角度でフェンスを背後にし、碧は対峙する。

 なぜ、こんな所に豊かがいるのか。

 碧には見当も付かなかった。

「あのさ、話があって探してたんだ。ここ数日電話には出ないし、大学にも来てないって裕子が言ってたから」

 目前まで歩み寄って来た豊は徐に口を開いた。心なしか気まずそうで、視線が咬み合わない。

 無言で碧は豊の顔を見詰めていた。

 この間勝手に帰った事の文句でも言いに来たのだろうか。ふと、この間の光景が過ぎる。文句を言いたいのはこっちではないか。そう思った瞬間碧の表情は自然と引き攣った。

「だから、どうしたって言うんだよ。文句でも言いに来たわけ?何で勝手に帰ったかって?」

 うんざりした様な口調で碧は吐き捨てた。慌てた様に豊の視線が碧を捕らえる。本日始めて合わさった視線の先の瞳は意志の通わないただのガラス玉の様だ。

「いや、そうじゃないんだ。

 この間のことはこっちが悪かった。すまん。謝りたくって。碧の事を考えての事だったけど、浅はか過ぎたって反省した。あんな事があったんだからそう簡単に割り切って次とかは無理だよな。悪かった」

 慌てて謝罪の言葉を捲し立てた豊は、碧の前で頭を下げた。今までにないくらい心臓の鼓動が大きく鳴っているのが耳の真横で聞こえている感じがする。碧にちゃんと伝わるのだろうか?口から心臓が思わず零れるのではないかと思った。

 碧は豊の言葉の後、暫らく黙り込んでいた。

 二人の間にいい加減気まずい空気が立ち込めてきた辺りに、漸く思い口を開いた。

「あんな事、しておいて、勝手な事言ってんじゃねぇよ。誰が割り切れてないって?俺がいつ引き摺ってるって言ったよ?誰もあんな女の事引き摺っちゃいねぇよ!勝手に決めんな!もう余計なお世話なんだよ!お前も裕子も!」

 感情任せに怒鳴り散らし、碧は豊かの前から踵を返した。

「碧!!」

 後ろから追って来た声と共に強い力で腕を引かれ碧は思わずその力によろめいてしまった。

 そんな力を入れたつもりもなかったのだが、碧を引っ張った反動で豊自信もバランスを崩し、二人して地面に転がる羽目になってしまった。

「いってぇ・・・」

 倒れ込んだ反動で思いっきり膝を地面に打ち付けた碧は思いっきり顔を顰め、地べたに座り込んだ。

 碧の下敷きになった豊も訝しげに顔を顰めたまま碧の前に座った。

「お前・・・」

 打った肘を擦りながら豊は小さく洩らした。今の反動で分かった事があった。

 碧は確かに大柄な方ではない。しかし、小柄な方ではないのだ。なのに、あの力のなさはどういうことだ?不意打ちとはいえ男があの位の力で倒れるだろうか。そして、下敷きになった時の重みだ。明らかに軽かった。

 ハッとして豊は打った膝を擦る碧を凝視して始めて気が付いた。

 ここ数週間一体どんな生活を送っていたらこんなにやつれるのか?思わず息を呑むほど碧は憔悴しきっていた。

 覇気のない顔。張りのない肌。窪んだ瞳。以前の碧とは似ても似つかない面だった。

「お前・・・」

 もう一度呟いた豊の瞳は大きく見開かれていた。

 碧は擦りむいた膝から視線を上げ、不快感丸出しで豊を睨み上げた。

「いてぇよ。何だよいったい!」

「どうしちゃったんだよ。碧・・・何でこんなんなってんだよ!こんなんなる前に言えよ!」

 豊はやせ細った碧の手首を持ち上げ、自分らの視線まで持ち上げた。

「は?何言ってんのお前。意味わかんねぇよ・・・」

 力なく豊の手を振り解き碧は視線を逸らした。その力も余りの弱々しさに豊は締め付けられる思いを味わう。

 こんな事になるなら、もっと早くに会いに来るべきだった。早くも後悔が押し寄せて来た。この尋常じゃない弱り方は一体全体どういうことか。こんなに憔悴する程碧の内面は弱かっただろうか。確かに辛い出来事ではあった。だがここまで憔悴するものか?少し前までの碧はもっと元気ではなかったか。

 何か憤然としない物を感じながら豊は、視線を逸らしふて腐れている碧をぼんやりと視界に捕らえていた。

 自分の親友は一体どこを彷徨っているのだろう。分からない事がただ悔しかった。救えない事が悲しかった。

 どうしてあげればいいのか分からない事が雫になって零れそうだった。



「お兄ちゃん!いい加減起きなよ」

 昼過ぎ、深い眠りから元気な声に碧は起こされた。

 薄目を開けぼんやりとした視力で声の主を見やる。確認しなくとも相手は理恵しかいなかったのだが。

「・・・何?」

 少し開いた瞳をまた閉じながら、碧は理恵に背中を向けた。まったく起きる気配を見せない実兄に理恵は頬を膨らませる。

「だから、起きてって!今日は日曜だよ。昼ごはんの時間だからお母さんが降りて来いって!!」

 碧の肩を揺すりながら理恵は甲高い声を出した。そんな大きな声を出さなくても聞いているのにと、心中ごちりながら碧は気だるい身体を鞭打って起こした。

 やっぱりどんなに寝ても身体がだるい。こんな事は今まで一度もなかった。前髪を掻きあげながら碧は深い溜め息を吐いた。

「すぐ行くって言って・・・」

 覇気のない返事を返し、機嫌の悪い理恵を部屋の外に追い出した。

 暫らくぼんやりとベットの上に投げ出した足を眺める。昨日出来たばかりの膝の傷が痛々しかった。

 あの後結局豊とはそのまま別れてしまった。あのまま郁の場所にも行くわけには行かず、碧はそのまま家に戻ったのだった。

 どうして周りは自分をこんなにも掻き乱すのか。何もかもが煩わしくって、豊が何をしたいのかも、何が言いたいのかも分からなかった。とにかく放って置いて欲しい。自分は何も引き摺ってなんかいないのだから。

 昨夜の一抹を反復し、碧は不快な思いを噛み潰した。

 やっとの思いでベッドから降りたが、歩くと少し膝が痛んだ。

 階段を膝の痛みを堪えのろのろと降りて階下へ行くと、食卓には昼食の準備が出来ており先に家族は食べ出している所だった。黙って椅子につくと碧の前にご飯茶碗が差し出された。

「あんたちょっと最近寝すぎじゃない?どこか身体の具合が悪いの?最近少し痩せたみたいだし」

 茶碗を渡した母は碧の顔色を窺うように顔を覗きこんできた。碧は無言で箸を運ぶ。

「最近お兄ちゃんだらけ過ぎ」

 理恵は箸を動かしながら碧の方を見ずに言った。何の反応を示すのも億劫で碧は聞こえない振りを決め込んだ。だんまりに限ると思った。次第に、会話は碧の事から離れ、ここ最近はどうだとか世間話をおかずに食事は進んで行った。碧は軽く耳を傾けながらも終始黙っていた。

「そういえば、この間並木橋の交差点で事故があったそうよ。理恵ちゃんも通学で通るんだから気をつけてね。あそこは見通しが悪いから」

「ああ、知ってる。あそこね」

 母の心配をよそに理恵はあっけらかんと返事を返した。碧は会話には参加しなかったものの、並木橋の交差点を思い出した。

 あまり碧は通らない道だが確かに見通しは悪い。

「事故にあった子ね、亡くなってしまったらしいわよ。若いのに可哀相ね」と、母は沈痛な面持ちで言った。それからあっと言う間に話題は違う方向へ進んで行った。

 女の話はよくもまあ、こんなに飛ぶもんだと多少うんざりしながら碧は早めに昼食を切り上げて食卓を離れてしまった。

 自室に戻り出掛ける仕度をする。今日こそは誰かに邪魔される前にあの場所に行きたかった。

 昼間だから用心しなければ誰かに目撃される危険がある。そんな心配を抱えて碧は玄関を後にした。

 一歩外に出ると真夏の陽射しが痛々しい程降り注いでいた。室内に篭ってばかりの碧の目には刺激が強い様にすら思われた。さんさんと照る太陽に背中を押される様に碧は覚束無い足取りで秘密の場所へ向かう。

 頼りない足元が、遠くから見ると具合の悪い人に見えかねない。碧は意識しながら歩みを進めた。

 久々にいつものコンビニに寄ろうと碧は一旦フェンスの入り口を素通りした。最近立ち寄っていなかったなとふと思った。

 店内に入るとここは変わらず穏やかな雰囲気を保っていた。レジカウンターには店主が新聞を広げ読み耽っている。碧に気が付いた店主は、新聞から視線をあげ「いらっしゃい」と穏やかな声で迎えた。

 碧は飲み物売り場に向かい水のペットボトルを手にした。余りの暑さに喉がからからだった。他には目もくれずレジに向かいお会計を済ませた。

 何故か店主は碧の顔を見、一瞬不思議そうな顔をした。が、すぐにそれは何時もの笑みに変わったので、碧には分からなかった。

 「有難うございました」の声に見送られ、碧はコンビニを後にした。

 店の外で水を一気に飲み干し、ペットボトルをゴミ箱へ放り投げた。空になったボトルは軽い音を立てながら底へ消えていった。

 碧は潤った喉を鳴らしながら、用心深く辺りを偵察し始める。昼の時間帯は通行人が夜よりも多い。用心に用心を重ねても足りない位だ。

 暫らく陽射しのしたに突っ立て観察していると、先程の水が体の外に噴出して来るのが分かる。汗を片手の甲で拭いながら碧は入り口の中へと消えて行った。

 素早く秘密の入り口に滑り込んだ碧は俊敏な身のこなしで体勢を直した。そこは碧の焦がれて已まない場所が広がっている。何時もとなんら変わりなく碧を受け入れる。

 服に付いた土を軽く払い、さっきより軽い足取りで郁のいるだろう大樹を目指した。

 視界の開けた草原に踏み込む。ここは外の世界の猛暑を感じさせない爽やかな風が吹いている。そんな気がした。青々と茂る草の絨毯の上を碧は軽い足取りで郁のもとに向かう。何度来ても毎回湧き上がる高揚感。隠し切れない程、溢れ出す暖かい気持ち。

 外の世界では忘れてしまった感情。この場所でだけ動き出す碧の世界。安心と言う名に包まれた世界。

 ほら、辿り着いたそこで迎えてくれるのはいつもと変わらない慈愛に満ちた優しい笑顔。

 お互い何も知らないから向ける事の出来る優しい笑顔。本当は、それは寂しいことなのかもしれないが、今の碧にはそれこそが必要なのだ。

 そよぐ風に靡く髪を押さえる郁の手は思っていたより細かった。真夏の陽射しに眩しさを覚えながら、視線を逸らす事は出来なかった。

「今日は来たんだね」

 一拍空けて郁は碧に言った。

 と言う事は、郁は昨日も来ていたと言う事だ。豊に邪魔された碧は来ることを断念せざるを得なかったが、郁の言葉を聞いて悔やまれた。

 一人で居させたのか-------

 可哀相な事したな。と碧は思った。だが碧がここに来るまでは郁は常に一人だったんだなという事に今更ながら気が付いた。

 それに特に約束などしている訳ではない。

 そんな感情は逆に迷惑かもしれないと碧は思い直した。

「ここは涼しいよな。外の暑さを感じないな」

 碧が柔らかい草の上に腰を降ろすと、郁もそれに習った。

「そうだね。ここは本当に居心地がいいよね」

 郁はそう言って愛しそうに大樹を仰いだ。その上には雲一つない青空が広がっていた。

「何もかも忘れてここにずっといれればいいのにな・・・」

 遠い目をした碧に郁は曖昧な笑顔を向けた。

「本当にね」

 そして郁は同じ様に遠い目を空の彼方に向けた。

郁には一体どんな思いがあるのだろうか。ふと碧は思う。

 碧にも考える所や思いというのがある様に、郁も胸裏に何か抱えているのかもしれない。郁は何を求めてここにいるのだろうか。

 そんな事を考えて自分が何を抱えているのかもよく分からなくなってしまった碧は他人の事等考えても分かる筈がないと早々に諦めた。

「日が、沈み始めたね」

 空を見上げたまま郁は呟いた。

 また、翳りが垣間見えた様な気がしたのは碧の気のせいだろうか。

 返事をする事を忘れて碧は横から不躾なほど郁を凝視していた。

 やはり近くで見ても郁は浮世離れした雰囲気で、何度ここで顔を合わせても初めて郁を見つけた時の記憶がフラッシュバックしてしまう。その度に碧の肺は呼吸を忘れそうになるのだ。

 本当は気になっているのを碧は気が付いていた。色々聞いてみたいことはいっぱいあるのだ。だが、それをしないと決めたのは碧自身だったし、なによりこの関係が崩れてしまうのが心配だった。

 もしかしたら郁はもう此処には来なくなってしまうかもしれない。

 そう思うと、考えなしには何も行動が取れないと思った。碧は上の空で郁の言葉は耳に入らなかった。

「さっきからどうしたの?何か顔についてる?」

 見詰め過ぎた。と碧は郁の言葉に慌てて視線を逸らした。訝しげに小首を傾げる郁の様子が想像以上にかわいいと思った。

 そんな胸裏を見透かされないよう碧は郁と視線を合わせないよう努めた。

「いや、なんでもない」

 少しばかり動揺が声の響きに含まれてしまった様な気がして碧は罰の悪い顔をした。

「変なの」

 そう言って郁は可笑しそうに小さく笑った。こんな瞬間が今の碧には一番の幸せに感じられた。重みのない、軽い差し障りのない会話。

 重いことはなにも考えたくないし、もう考えられない。他の誰かの考えを恩着せがましく押し付けられるのも、傷つくのもうんざりだ。

 碧はここでしか出なくなってしまった笑顔を郁に惜しみなく向け、束の間の会話とこの瞬間を楽しんだ。この瞬間だけが碧の中で時を刻んでいた。





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