第四章 転機
4、転機
人の人生というものは何処でどう展開して行くか分からない。だから面白くもあり、先が不安でもある。お呼びではない出来事もあれば、棚から牡丹餅と言う事も。
ただ果たして自分にとってそれがどちらの状態か瞬時にして判断出来かねる事も人生にはしばしばある事は間違いない。
そんな事を寝不足の頭で考えながら、碧はうつ伏せたまま枕に顔を半分以上埋め長い吐息を吐いた。
その判断出来かねる状態と言うのが、まさに一昨日から話題に上がっていた、裕子の言うロッカーの件であった。
中にあった物を碧は複雑な面持ちで、手にしたのは昨日の晩。秘密の場所で郁と別れ、後ろ髪惹かれながらも訪れたバイト先である。
裕子から念を押されていたので何かあるのは分かっていたが、まさか中に手紙と手作りのクッキーが入っているとはさらさら思いもしなかった。手にした瞬間、まさか裕子から?と血の気が引いた事だけは口に出すまいと心に誓った。
添えてあった手紙を無造作に開けて見てそれが裕子からではない事が分かり、碧は危惧していた事態は避けられたと安堵した。
差出人は裕子のバイト先の玲子からだった。碧も何度か顔を合わせている。
あまり興味が無かったからじっくり見た事は無かったが、確か理恵みたいに最近の若者の代表かの様な格好をよくしていて髪はいつも見事に巻かれていて感心する。
仕事で巡回している時に何度か声を掛けられた様な気がするが話しの内容までは流石に記憶にない。
枕に突っ伏したまま顔の前に持って来た手紙を半眼で見る。
そこには、短い文字が並んでいた。
簡単な内容である。携帯の番号が書いてあり、その横に連絡下さい。と綺麗な文字が綴られていた。そしてそれに添える様に控えめに差出人の名前が書いてあった。
さて、この状況が瞬時にして棚ボタなのか、招かれざる出来事なのか判断出来ない理由。それは簡単である。普通、こういう状況の場合大抵は棚ボタ。と喜ぶ者が多いだろう。ただし、碧は違ったのだ。正直、玲子には興味が無かったのだ。また、厄介な事に裕子の同僚と来ている。手紙を無視するのも忍びない。と言うより、無視するのも怖い様な気がする。かと言って連絡するのも変に期待させるようであまり気が進まないのも事実。
そうなると碧の中では招かれざる出来事の色が濃いかもしれない。気持ちは嬉しいのだが、純粋に喜べない辺り自分は摺れているのかもと自虐的な笑みを貼り付けた。
そしてこんな手紙を手にしつつ、思考が自然に郁の事を考え始めてしまうのを止める術を知らなかった。
別に郁とどうこうなるつもりもない。それなのに彼女は自分の心の大半を埋め尽くして行く。不思議な存在だった。
-----------何時まで居たのかな。
疑問に思い、寝返りを打った碧は手にしていた手紙を床に放り出した。
これから寝るには窓から差し込む朝日がまぶし過ぎた。今日も炎天下だそうだ。快適に過ごせる温度に保った部屋で、熱くはないがカーテンを引いていても差し込んで来る朝日に眠りを妨げられ四苦八苦する。
何だか最近の俺の人生は走馬灯の如く色んな事が起きて過ぎさって行くのかなと、感慨深く思いタオルケットを目深に被った。朝日が遮られるとそのまま眠りに吸い込まれて行った。考えるのは起きてからにしよう。
午後からの講義を受けようと、まだまだ眠たい身体に鞭打ちながら辿り着いた大学。少し早めに来てしまい、碧は食堂で遅めの昼食にありついている処だった。
そこに満点の笑みを貼り付け駆け寄って来た裕子に、苦渋の面を貼り付けたのは五分程前の事。
碧が座る目の前の席を陣取り、頬杖を付く裕子は楽しげだった。それと対称的に、丼片手に碧の口に収まる牛丼は味を失くして行った。
「で?見たよね?電話した?」
来た。
瞬時に碧は固まった。今一番会いたくない人物に、今一番話題にしたくない話。もはや牛丼の味は皆無に等しくなってしまった。
頬の筋肉を引き攣らせつつ、
「いや、まだだけど・・・」
「早く電話してあげてよ。玲子さ、ずっと待ってたんだよ。碧君がフリーになるの。真剣なんだよ」
あまりの予想通りの展開に碧は苦渋の半笑い状態で、俺にどうしろって言うんだよと心の中でごちた。裕子が怖くて口に出せないのが情けないが。
「碧君だって早く新しい彼女見付けてさ、幸せになりなよ。玲子はいい子だよ!あたしが保障するって」
新手のセールスマンかよ、と思いながら碧は必死で口の口角を引き上げた。笑ったつもりだったが、かなりの勢いで引き攣ってしまったので笑顔になったかどうかは定かではないが。
「いや、俺別に彼女とか暫らくいらないんだけど」
「じゃあ、玲子はどうすんのよ?話しもしないで断るって言うの?」
先程までの満面の笑みを百面相の如く豹変させた裕子がずいっと詰め寄ってきた。やはり機嫌を損ねてしまった様だ。
面倒くさいなと思いつつも相手の機嫌をこれ以上悪くさせない様台詞を選ぶのも至難の業だ。
「や・・・そういう訳じゃないけど。今はそんな気になれないって言うか」
「そんな事言ってたら何時まで経っても元カノの事忘れられないよ」
「もう忘れたって。そんなに引き摺ってない」
「嘘」
「嘘じゃない」
ここで漸く二人は押し黙った。気まずい沈黙が二人を包む。確かに引き摺っていないなんて言い切れないのは碧も百も承知だ。傍から見てる裕子にもばればれな事も。
それでもこの状況に打ち勝つにはここは退けない処だ。
正直、自分の気持ちの整理がついてない今色々入り込まれるのは遠慮したい。
だだ、ちょっとばかり強引なこの友人は悪気がある訳ではなく、むしろ親切心でやっているので性質が悪い。こちらが素直に断れば悪者は碧になってしまうではないか。
困惑の顔を裕子に向けた碧は丼を手元に置いて、
「気持ちだけ有り難く受け取るよ」
「でも、玲子は諦めないと思うよ?」
「それはそん時考えるって。あ、もうそろそろ講義始まるぞ。移動しようぜ」
そう言って碧は早々に話しを切り上げた。食器の載ったトレーを返却し、二人は食堂から教室へ移動したのだった。
移動の間も裕子の仏頂面は顕在であった。先が思い遣られるな、とうんざりしたのは言うまでも無い事。
炎天下なだけあって日が沈んだ後も街はじっとりとしていた。まさに熱帯夜。ついさっきまで碧もエアコンのある快適な自室で過ごしていた。涼んでいた身体も外に出れば一瞬で湿気を纏う。不快には思えど嫌いではないかなと、思う。こういう感じが一番季節や自然を身近に感じる気がする。そういった感じが好きなのかもしれないなとふと思った。
手にした缶ジュースを飲み干し、近場にあるゴミ箱へ放り投げた。空き缶は弧を描きながら上手い具合にゴミ箱の中に身を隠した。
手持ち無沙汰になった碧は腕時計に目をやると、丁度短針と長針が重なった。約束の時間である。
碧は腰掛けていたベンチを後にし公園の入り口に向かった。家の近くの小さな公園で、碧の秘密の場所とは逆側に位置している。学校に行くのもバイトに行くのにも通りがからないこの公園は久し振りに訪れた。
待ち合わせに指定してきたのは豊である。つい先日免許を取得した彼は車を乗り回し足りないらしく夜のドライブに誘って来たのだった。
公園の入り口に立つと少し離れた所に黒いバンが止まっていた。
「よぉ。よくここまで来れたな」
思わず憎まれ口を叩く碧に悪気はない。
「ばかにすんじゃねぇよ。
今後の命は保障しないけどな」
豊も負けてはいなかった。碧は助手席に滑り込み腰を落ち着けた。
腰を据えた碧を確認すると豊はゆっくりとアクセルを踏んだ。視線は前にしたままで、
「裕子誘いに行く?」
鼻歌交じりでご機嫌に言った。すかさず碧は、
「まじ、今だけは勘弁・・・」
溜め息混じりに即答した。事の経緯を簡単に説明すると、暫し豊は黙り込んだ後碧にちらりと視線を投げて言った。
「お前、色恋沙汰たえな過ぎ」
「俺だって今はうんざりだよ。どうにかしてくれよ」
「自業自得だろ?」
「いや、俺何もしてないし」
そこで黙り込んだ豊は、カーステレオに手を伸ばしCDを再生した。軽快なリズムが車内を包み込む。暫し、音楽に聞き入っていた二人の沈黙を最初に破ったのは豊だった。
「で、どうすんの?その子」
「どうすんのも何もないよ。興味ないし。ただなぁ・・・裕子が問題なんだよ。断ったら俺悪者扱いだぜ。絶対!」
語気の上がった碧は手を顔に当ててぼやく。そんな様子を横目にしながら豊かはだろうな。と小さく呟いた。
裕子に悪気はないのは二人とも重々承知。だから余計に性質が悪い。
「ところで何処に向かってんの?何かもう俺知らない道だし」
ハンドルを握る豊は何かを企む様ににやりと笑んだ。
「行き先は今決まった!何も言わずついて来い」
意気揚々と言う豊についてくも何も車の中だしと突っ込むのを碧は敢えて止めた。
そして何だか嫌な予感がするという碧の予感は後程見事に的中するのであった。
なぜ、こんな事になっているんだろう。つい一時間ばかり前から働くのを停止してしまったのではないかと思われる自分の思考回路はいつまで経っても働く気配がしない。
いや、働くのを拒否していると言うのがこの場合は正しいかもしれない。
兎も角。今はっきりと分かっているのは自分が一杯食わされたという事だろう。
氷の溶けきったグラスを恐る恐る口にし、碧は気まずそうに視線を泳がせた。何処を見ていいのか分からないのだ。
深夜に豊にドライブと称し、連れて来られたのはファミリーレストランであった。
先陣切って店内に入っていく豊の後を遅れまいとついて行った碧は一瞬にして凍りついた。碧の周りだけ熱帯夜は何処かへ去ってしまったのだ。
テーブル席に迷わず歩み寄って行く豊とは間逆に碧は足を止めた。そして本気で引き返そうか悩んだのは言うまでもない。そこに待ち受けていたのは、見慣れた裕子に本日も見事な巻き髪の令子。
完璧に豊に担がれた碧は愕然とし、全身から血の気が引く思いを久し振りに味わった。
こんなに突然ご対面させられても、正直話す事なんかない。更に目の前には裕子がいるのだ。下手なことは間違っても言えないではないか。
---------このやろう・・・
心中歯噛みしながら碧は裕子の前のベンチソファに腰を降ろした。
相手に向けた笑みはやっぱり笑顔になっていたかの自信が持てなかった。
豊に非難の視線をあからさまに送ってやったが敵は素知らぬ顔。メニューを片手に知らん振りを決め込んで居る様だった。
恐らく裕子に泣き付かれたのだろう。と推測を立てるが今はそんな場合ではない。と、自覚をすると今度は背中に変な汗が吹き出て来た。
一体何を話せばいいんだ?
思考回路が鈍くなった碧は、口をパクパクと動かしているだけで、声にはならなかった。そんな様子を呆れ顔で眺めていた豊が、
「ま、固くならずに何か頼もうぜ」
妙な緊張感漂う空気を少しばかり軽くしたのが一時間ばかり前の出来事であった。
「今日の碧君大人し過ぎ!喋りなよ」
裕子の容赦ない一声に碧は頬を引き攣らせた。
この状況で一体何を喋ればいいのか?こんな事になるなら自分から電話でもすると言っておけば良かった。
内心嘆くがもう後の祭りだ。後悔先に立たずとはよく言ったもの。
「ああ、まぁ」
よく分からない返事を返し、碧はこの上ない位そわそわした視線を窓の外へ向けた。
店内に足を踏み込み一時間。終始この気まずい空気は変わっていなかった。
この一時間。気まずい思いをしながらどうすればいいのかを考えてみたが一向に打開策は浮んでこない。
むしろこの状況に苛立ちさえ感じ始めていた。何かと話しかけてくる裕子と令子に愛想のない相槌を返して来たが正直もう我慢の限界に達して来ているのは明らかで、碧のこめかみには青筋が立っているのではないかと思うほどに引き攣っている様な気がした。
「わり、俺便所」
そう言って碧は席から立った。
入り口付近に手洗いがあるのを発見し、碧はそちらへ向かった。
そこで一旦自分たちの席を振り返り、こちらからそこが死角になっているのを確認した瞬間。
咄嗟にそこから逃げ出している自分がいた。
勢いよく外へ飛び出した碧は、走って大通りに向かい暫らくして後ろを振り返る。
誰も気付かなかった様で誰も追いかけては来ていなかった。
みんなには悪い気もするが正直今はむかついていた。なんで俺がこんな目に合わなきゃならないんだよ。
ほっといて欲しい。
深い溜め息を吐き、碧は夜の通りに視線を泳がす。深夜だと言うのに、大通りは車の通りが激しかった。
おかげで簡単にタクシーを捕まえることが出来た碧は、自分の住む駅を告げた。
タクシーの背もたれに身を預け、碧は静かに目を閉じた。気持ちがどっと疲れを訴えていた。早く休まりたい。冴えない気持ちだけがいらいらと碧の心をささくれ立たせた。
暫らく無心で気持ちのもやもやに格闘していたが、何もかもが馬鹿らしく感じてきた碧は瞼を押し上げ流れる景色に視線を移した。
きらきらと輝く夜のネオン。それすらもが今の碧にはお節介に感じられた。もう、誰も構わないで欲しかった。これ以上余計な感情を抱え込むのが億劫で煩わしい。
亜由美の件依頼、碧の心はあまり自分を取り巻く環境や状況に興味を示さなくなった。
なるようにしかならないし、努力したって人の気持ちは簡単に変わるのだ。今は令子だって気があるかも知れないが、いつ心変わりするか分からないではないか。
そう思うと真剣に取り組む事すら馬鹿馬鹿しく感じる。正直在り難迷惑なのだ。
深い溜め息を吐き、碧はいらいらと爪を噛んだ。
深夜二時半を回っていた。まさか、こんな時間には居ないだろうと思っていた碧は、そこでまたもや遭遇し、心臓が跳ね上がる思いをした。
郁は今日もそこにいた。大樹を見上げて、佇んでいる。
さすがの碧もこんな深夜に郁がここにいるとは思わなかった。半ば呆然と郁の後姿を眺め、今日は誰とも関わりたくないと思っていたのに。無性に郁の声が聞きたくなった自分に顔をしかめた。
郁の姿をこの瞳が認めた瞬間、ささくれ立っていた気持ちがすぅっと落ち着いて行くのが分かった。こんな時間に郁がいる事への疑念すら、引き潮の様にどこかへ消えてしまった。
郁との関係はいい。お互い何も知らない。お互い何も詮索しない関係。ただただ、この場所が好きで来ているだけであって、待ち合わせなどもしない。そんな微妙な距離が今は一番楽だ。
少しばかり優しい笑みを取り戻す事が出来た碧は無言で郁の足元に腰を降ろした。
碧の存在に気付いた郁は軽く清純な笑みを碧に向けた。
そこに会話は必要ないのだ。
お互いに、ここで感じる。自然がもたらす癒し。そんな二人に会話は必要ないと碧は思った。郁の事はなにも知らない。確かに気にはなるが、それを口にするのは憚られたし、タブーの様な気がする。ここでは詮索はしないのだ。なぜなら、この関係が好きだから。居心地がいいから。お互いに干渉しない。
それは碧が勝手に思った事であったけど、何も、郁も聞いて来ないのだから自分と同じなのだと、碧は勝手に解釈する事にしていた。
人には触れられたくない事がある。
郁は大樹を見上げたまま、碧は足元に広がる草原の先を眺めたまま、二人は長い時間そのままで過ごした。
今夜の空も数個の星がきらきらと瞬いていた。枝葉の間から眺めるそれは至極の落ち着きをもたらす。
何時の間にか、碧は深い睡魔に意識を飲み込まれて行った。
次に碧の視界に飛び込んできたのは、朝日色に染まり上がった空を背景に今日も威厳に満ち溢れた大樹の姿だった。
「やべ・・・」
うっかり寝込んでしまった碧は慌てて上半身を起こした。朝焼けの空を見上げる。夜が明けたばかりの空は清々しい程に晴れ渡っている。今日も暑くなるのだろう。
碧は軽く伸びをし、まだ残っている眠気を追い払った。
空の明け具合から電車の始発は出ている時間だなと推測付ける。でも、別に碧の家はこの近所だし、郁が電車でここまで来ているのかは知らない。
そこまで考えて碧ははっと我に返った。
つい眠ってしまったが、郁はあの後帰ったのだろうか?
勢いよく辺りを見回して見たが、郁の姿は見付けられなかった。
前髪を物憂げにかき上げ、碧は視線を足元へ落した。足元の草の葉が朝露に濡れていた。
-----------どこに、住んでるんだろう
疑問に思えど、それを口にする勇気はなかった。この楽で安全な関係を失う勇気はないし、ややこしい事を考えるのはもう嫌だ。
ここに居る現実以外は全て消してしまいたい。全てを忘れて楽になりたかった。
これ以上傷つくのが恐いだなんて、これっぽっちも自覚してはいなかったが、悶々とした日々は現実から逃避するのに十分な口実だった。
もう少し休んでから帰ろうと、起こした上半身を改めて転がした碧は、見えるはずの空の場所に郁の顔を見付けた。
「あれ?居たの?」
先程探したときにはいなかった筈の郁が上から碧の顔を覗き込んでいる。碧は呆気に取られた様子で下から郁の顔を直視した。
透明な笑顔が碧に向けられる。
つられて碧の口角も上がった。
「俺、寝ぼけたかな。さっき郁はもう居ないかと思ったんだけど」
朝日が眩しくて、手を翳した。
「ずっと、ここにいるよ」
少し、悲しげな笑みに見えた。そして、また大樹を見上げた。その視線はもっと遥か上の方を映しているような錯覚を覚える。ふと、碧は思う。郁は、この大樹を通して何かを見ているのだろうか。
色素の薄い、長い髪がそよ風に吹かれていた。
それはやっぱり、一枚の絵画の様で現実とはかけ離れている様な錯覚を覚えた。