第三章 胸裏
3胸裏
気が付いたら朝だった。寝ぼけ眼を、手を伸ばして掴んだ目覚まし時計にやり、一気に意識が覚醒した。
「やばい!遅刻だ」
慌ててベッドから這い出て、無我夢中で手近にあった服を引っ掴む。今日は絶対に落とせない講義があるのになんて失態だと、碧は舌打ちした。
適当に着込み、部屋の入り口に置いてあった鞄を拾い上げ猛ダッシュで階段を駆け下りた。階下で理恵とすれ違ったが、声を掛ける彼女の言葉を聞くことなく碧は外へ飛び出していた。
何時もの近道を全速力で走って五分。それから電車で三駅。そこからまた全速力で走って七分で大学に着く。計算通りに事が運べばぎりぎり間に合うかもしれない。
走りながら碧は計算し、そこからは自分の体力に賭けるしかないと無心で駅まで走った。
走った甲斐があって、予定より少し早い電車に乗り込む事が出来た。久しぶりに思いっきり走って息が上がっている。運動不足だなと思わず自嘲した。
上がった呼吸を落ち着かせるように胸に手を当て、流れる外の景色に目をやる。
流れに合わせ視線を泳がせているうちに呼吸は平常を取り戻して来た。電車のドアに寄り掛かりながら碧は昨日の夜を回想する。
「和田郁・・・」
思わず口を吐いて出てしまった言の葉に隣の乗客が怪訝そうに碧を一瞥する。しまったと思ったが後の祭りだ。碧は独り言の羞恥に乗客に視線を合わす事無く俯いた。
自分の足元を見つめながら碧は昨日の記憶を回想した。おそらく、一生忘れる事が出来ないのではないだろうかという程の衝撃だった。産まれて此の方、あんなに浮世離れした美しい、心奪われる様な情景は見た事がなかった。昨日の余韻に浸り呆けている所に、碧の通う大学がある駅名が車内アナウンスから聞こえて来た。
よし、と思考回路を切り換え碧は全速力で走る為意気込んだ。取り敢えず、間に合わなければ話にならないのだ。何の為に走ったのか分からなくなってしまう。
電車が停車しドアが開くまでの瞬間も、もどかしく顔をしかめる。開いた途端に碧は駅のホームから構内へ駆け出した。
物凄いスピードで駆け抜けていく碧に周囲のすれ違う人々が唖然と振り返るが、今はそんな視線に構っている余裕はなかった。
大学への道を一目散に駆けて行く碧を視界の端に捕らえた裕子はハッとして碧に声を掛けようとしたが、彼の後姿はあっという間に小さくなってしまった。
「なんだ・・・。元気一杯じゃない」
呆気に取られた裕子は立ち止まり零した。
いつも通り声を掛けよう。上擦る事無く自然に。そう決めていた裕子は幾分拍子が抜けてしまった。呆気に取られたまま足が止まっていた事に気付き徐に歩み出した。
何だか腑に落ちない感が残るが、深く考えずに碧が走り去った道筋を辿った。
久しぶりに激走した甲斐があって、希望の講義にすれすれ間に合った碧は、久方の運動に己の体力の低下に渋面していた。間に合ったはいいものの、息は上がりっぱなしでやっと落ち着いて来たと思ったら今度は激しい眠気と格闘する羽目となったのだった。
思い返すと昨日はあまり寝ていなかった。帰宅が午前様だったので、眠くても当たり前だった。講義の内容なんかそっちのけで、思考は突如昨日の晩に引き戻される。それはつい先程の事の様に鮮やかに、鮮明に碧の心中をきらきらとした印象で埋め尽くして行く。
昨晩、大樹の側まで近づいた碧が目にしたもの。それは、大きな木を羨望の眼差しで微動だにせず、見上げる少女の姿だった。
自分が見つけた秘密の場所に先客がいたのだ。それだけでも心中は驚きの色に包まれたが、なによりまずその光景に息を呑んだ。
身動きせず、ひたすらに羨望の、そして憂いが見え隠れする眼差し。なぜ、そんな目でこの大きな木を見つめるのか。
碧は暫らく動くことが出来なかった。見つめる彼女は自分の存在にまったく気付く様子がなかった。木を見上げる彼女は一枚の美しい絵画から突如現れたかの様で視線を逸らす事が出来なかった。碧の周りだけ、そこは時を止めてしまったかの様に感じる。見つめる碧は暫らく何も考えることが出来なくなるくらい、強い何かを感じて呼吸をする事すら忘れていた。
強い風が彼女の長い髪をはためかす。薄茶色の薄色の髪がとても綺麗だった。それでも彼女は強風によって髪を乱されても構う事無く、羨望の眼差しで大樹を見つめて已まない。その眼差しには色んな色が含まれている様に感じとれた。寂しそうでもあり、慈しむ様な、それでまた愛しそうな。
そんな表情はかつて、誰の瞳にも見たことがないものだった。
呆けたまま、それを見つめてどれくらい経ったのか碧は分からない。大樹を見つめる彼女。その光景を一枚の絵画を見つめる様に動けなくなった自分。時がどれだけ経過したのか。ただ、ふと我に返ったのは彼女が見上げる瞳を落とし長い睫が影を作った瞬間。羨望と取れる眼差しに翳りが差した瞬間だった。
考える間も、自分の行動を躊躇する間もなく、碧は一歩踏み出してしまっていた。思考よりも先に乾いた口が開いていた。
「あの・・・!」
そこで思わず自分の行動に動揺の色を隠せなくなる。話しかけてどうする積もりなのか。見ず知らずの彼女に、こんな場所で。
後悔しても後の祭りだ。彼女は静かに碧の方へ振り返った。今まで横顔しか見えていなかった顔が碧の正面に移り込んだ。
そしてまた。碧は呼吸をする事を一瞬忘れた。想像以上の顔がそこにあった。
彼女は驚いた様子もなく、感情の読み取れない瞳で碧の事を見つめていた。動くことを忘れた碧の身体は、それと同じ様に彼女の読めない瞳を見つめ返すばかりだった。
最初にその空気を破ったのは、優しげに微笑んだ彼女の微笑で碧の止まった時間を引き戻したのだった。
脳裏に焼き付く様なワンシーンだった。
気が付けば講義の半分以上の時間が経過していた。しんと静まり返った教室に朝の明るい陽射しがとても気持ちの好い午前。
授業の話の殆どを聞いていなかった碧は何しに来たんだかと一人心中ごちた。
慌てて止まっていた手を動かしノートを取り始めるが、どうしても心此処に在らずだ。何度思い出しても昂る神経がちょっとだけうざったい様なくすぐったい様な、時間が経っても薄れない程の強烈、且つ、鮮烈な出来事だった。
動かしていた手を止め、窓の外に視線を移す。そこには、授業のない時間の学生達が中庭で談笑していた。そこには昨日の強風はもうなかった。
風がない事に少しだけ安堵する。風さえなければあの秘密の入り口は誰にも発見されないだろう、と碧は思う。自分と、そして、先客しか知らない場所。
彼女は和田郁と言った。
彼女にぴったりの名前だと思った。たどたどしく自分の名前を告げると郁は碧の名を反芻し、そして大樹を見上げた。
それにつられ碧も同じく大樹を見上げた。
強い風に煽られ広く枝を広げた木は、月の光を浴びながらかさかさと不規則なリズムで鳴っていた。
記憶の彼方に碧がトリップしていると、辺りが急にざわめき出した。はっとして、周囲を見渡すと席を立ち次ぎの教室に移動しようとしている他の学生がいた。
しまった。授業は終わってしまったらしい。ずっと心此処に在らずだった碧は、必死になって間に合わせた授業から何の知識も吸収せずに終わってしまったのだった。
殆ど使わなかった教科書とノートを無造作に鞄の中に押し込み、周りの学生同様に席をたった。
次の教室に移動しようと広い校内を歩いている途中。次に受ける筈の教科が休講だという事を知った。
その後は特に何の履修も選択していなかった為、このまま帰ろうと踵を返す。すれ違う知人に軽く挨拶を交わしながら、碧は外に向かってのんびりと歩き出した。
突然、尻ポケットに入れてある携帯が軽快な音を奏で着信を告げる。驚いた碧は手に取った携帯を落としそうになりながら液晶に浮かび上がる文字を確認した。
裕子からだった。
「もしもし?もう終わった?」
こちらが何か言う前に喋り出すのは裕子の癖なのかもしれない。
「今終わったとこだけど」
「じゃあ、いつもの喫茶店で待ってるから。5分以内に来てね!」
じゃ、と言って裕子の電話は碧の返事を聞く事無く終話したのだった。携帯の液晶を睨み付け畜生と一言洩れる。ここの処、裕子に言い様に使われている様な気がするのは自分だけだろうか。
諦めの溜め息一つ、別に予定のない碧は裕子の指示通り喫茶店に向かう事にした。が、ここから喫茶店までは歩いて十分の距離がある。またもや碧は走ることを余儀なくされるのだった。
息急き切って喫茶店に駆け込んできた碧に裕子は満面の笑みで笑いかけた。
「時間通りじゃない」
その満足そうな笑みに遅れたら文句を言うくせに。と心中ごちた。
「ていうか、五分じゃ着かないって分かってて言ってんだろ」
裕子の向かいの椅子を引き碧は身体を滑り込ませた。真夏に何でこんなに暑い思いをして走らなければならないのか。額の汗を拭いながら碧は言った。
「だって。朝から思いっきり走ってたじゃない。走りたいのかと思って」
涼しげな顔してアイスコーヒーを一口啜った。碧も同じものを近くのウェイトレスに頼み裕子に向き合った。
「見られてたのか。寝坊してさ」
「で、間に合ったの?」
「ぎりぎりな」
あの激走を見られていたのかと思うと少しばかり恥ずかしいが、まぁ裕子だしいいかと思う。相手をこれっぽっちも意識していない結論に辿り着いた碧は手元にあったおしぼりを手にした。
「昨日ちゃんと帰れたのか?」
「まぁね。なんか朝起きたら二日酔いだったけどね。また今度三人で飲みに行こうって豊君が言ってた。」
「そうだな」
曖昧に返した。自分がいたらお邪魔な気がするのだが。という気持ちは言葉にしたら怒られそうなので黙っておいた。
「何だか今日は落ち着きないね」
暫らく黙り込んで碧を観察していた裕子は胡散臭げに、徐に口を開いて言った。
その鋭い観察力に一瞬碧の動きが止まる。慌てた様子で、
「そんなことないけど・・・」
否定するその声が軽く裏返ってしまった時点で碧の負け。
にやりと口元に厭らしい笑みを貼り付け、裕子は身体を前のめりにし、
「何か良い事あった?何?」
興味深深。今の裕子にぴったりの言葉だと思う。が、昨日の話は誰にもするつもりもない。さて、ここをどう切り抜けるか。いきなりの難題に思案の顔になる。
「ね、どうしたの?」
なかなか反応を示さないで黙り込んでしまった碧に裕子は首を傾げた。
やっぱり、少し可笑しくなってしまったのかしら。裕子は一瞬哀れな視線を碧に向けたが、俯いていた碧が顔を上げたので慌ててその視線を隠したのだった。
「良い事なんか、別にないよ。久しぶりに走ったから気分がいいだけ。たまには、運動しないとな」
少しばかり苦しい言い逃れだったかと危惧するが裕子は以外にすんなりと、言い分を受け入れてくれたようだった。
「そっか。じゃあさ、今日バイトだよね?」
「うん?」
裕子の話は脈絡がない。
「必ずロッカーを開けてね。絶対だよ」
「ああ、そういえば昨日何か言ってたよな。一体何が入ってるんだよ?」
不意に昨日の話題を思い出し、碧はグラスの回りに汗をかいたアイスコーヒーを啜った。案の定忘れていた碧を裕子は一瞥し、
「見てからのお楽しみ。必ず見てね。見ないと後悔するから」
意味深な含み笑いを洩らしながら裕子は本日初のモンブランを注文した。
それから暫し会話を楽しんでから碧はバイトまで少し眠りたいからと裕子と別れた。帰り際に、ロッカーの件の念を押され首を傾げながら帰りは急ぐ事無く帰路についた。
家に着くと、家族は全員出はらっている様でしんと静まり返っていた。
特にすることもないので早々寝ようと、そのまま自室に向かう。一人になった途端押し寄せてきた眠気と戦いながら覚束無い足取りで階段を上り切ったところで本日2度目の着信がなった。
あまりの眠気に迷惑そうな顔をしながら碧は携帯の液晶に視線を落とした。瞬間、眠気は何処かに吹き飛んでいた。
「五木・・・」
それは亜由美とのことがあってから今まで一度も連絡のなかった当事者から初めての着信だった。
携帯を握る手に自然に力が篭った。苦虫を噛み潰した様な顔で、どうする事も出来ずディスプレイに浮ぶ文字を凝視していた。着信はコール短めに切れたが、碧にはとても長い時間に感じた。怒りとも何とも言えない感情が渦巻いていく。ただ分かるのは、もう考えるのが疲れたと言う事実。それ以上の感情は強制的に思考が拒否していた。
苦渋の面で自室のドアを開け、碧は転がり込むようにベッドへダイブした。
今さら・・・。もう遅えよ。
声にならない声が唇から洩れた。枕に押し付けた顔を上げないまま。次第に掻き乱された心は深い眠りへと誘われた。それは甘美な誘惑で、拒む事無く碧は身を投じた。
物凄い力で両肩を揺さぶられ、深い睡眠から意識を覚醒したのは夜の七時の事だった。まだまだ眠い眼を手の甲で擦りながら自分の顔がやたら汗ばんでいる事に気が付く。
「大丈夫?お兄ちゃん?凄く魘されてたけど」
重い瞼を押し開けてそこに理恵の滅多に見られない心配げな顔が、自分を上から覗き込んでいるのを確認した。
理恵の言うように相当魘されていたらしい事はぐっしょりと汗ばんだ、着ている衣類から容易に確認できた。
何か夢を見ていた気がするがそれは霧がかった様に何も思い出せない。軽く頭を振って理恵を見上げた。
「何か、夢見た気がするけど覚えてない。そんなに魘されてた?」
「うん。部屋の前通ったら聞こえた。部屋のドア半開きだったし」
視線をドアに移し、そういえば閉めないまま眠ってしまった気がする。
「お母さんが夕飯食べに下に降りて来なさいって」
「もう、全員帰って来てるのか?」
「お父さんは残業で遅くなるって」
ふぅんと小さく相槌を打って、碧は手近にあったシャツを掴んだ。あたしも着替えたら下に行くからと言って理恵は碧の部屋から出て行った。
出て行く後ろ姿を見送りながら碧は理恵が制服姿なのを知った。丁度帰って来た処に碧が魘されているのを発見したのだろう。規定の丈より大分短くなっているであろうスカートの裾をぼんやりと眺めながら思った。
何だか夢見が悪かったのか、冴えない気分で軽い溜め息を吐きながら碧は手にした洗濯したてのシャツに手を通した。
気だるい身体に鞭打つ様に階下へ降りると味噌汁のいい香りが鼻腔を擽る。
リビングのドアを開けると母が茶碗を手に戸口に佇む息子におはよう、と告げた。
「よく眠ってたわね。碧は今日バイトでしょう?いっぱい食べて行きなさいよ。」
言いながら母はご飯茶碗に白飯をてんこ盛りに盛った。碧はその量に少しばかり微苦笑を返した。
母の優しさは嬉しかったが、毎回バイトの日に食べさせられる量の多さにうんざりする。親切心からなので邪険に出来ないのはそれもまた碧の優しさだ。
食卓に着くとぱたぱたと音を立て、理恵が降りてきた。
三人揃った処で夕食を食べ始めた。
家族で囲った夕食は何だか疲れきった心を少し開放してくれた様な気がした。
食後のお茶を入れて貰って、碧はそれを片手に自室へ戻った。熱いお茶を片手に、部屋の中央に設置されたテーブルの横に座って無意識にテレビの電源を入れた。
テレビから賑やかな笑い声や弾んだ会話が流れている。その画面を見つめてはいるが、頭には何も入り込んでは来ない。碧はブラウン管のもっと遠くを見つめていた。
最近やけに色んな事があったなと改めて思う。辛いことや、心躍らす様な出来事。それはお互いに交わることのない感情をもたらすが故に一度に起こると許容量がオーバーしそうになる。上手い事、コントロール出きれば楽なのにと思うが実際そんな簡単には行かないし、行ったら行ったで物足りないのかもしれない。
それでも嫌な事は気分を十分滅入らせてくれるものだ。溜め息を一つ、熱いお茶を喉元に流し込んだ。染み入るような熱さが体内に流れ込んでいく感触がやけにリアルに感じた。
現実を感じても、それでも五木の着信については碧の思考はまだ考えることを頭の奥底へ押し込んだままだった。
いつの間にかブラウン管から自分の手元に落としていた視線を上げ、碧は熱いお茶を一気に飲み干し立ち上がった。
気持ちは一点に囚われていた。もう一度、あの秘密の場所に行こう。無性にあの場所に焦がれる自分がいた。
思い立つが吉日。碧は早速バイトに行く準備をする。バイトに行く前にあの場所に行って癒されよう。もしかしたら、また昨日の彼女にも会えるかもしれない。本当はどちらがメインの目的なのか自分でも判断し兼ねるが、取り敢えず早くあの場所に行きたかった。
さっさと支度を済ませ、碧はリビングにいる母に行ってきますとだけ伝え自宅を出た。
玄関の扉が閉まるのを背中に確認し、一呼吸。思わず走り出していた。先走る想いに、足は素直に反応していた。走りながら、先程までの気だるさが嘘の様に、気分が高潮してくるのが分かる。この一日の中でもころころ変わる自分のテンションに自嘲せざるを得なかった。
息せき切って辿り着いたそこは何時もと変わらぬ道であった。だけど、そのフェンスの向こうは誰しもが想像だにしない碧の別世界が広がっている。
急く気持ちを抑えながら用心深く辺りに誰もいないか確認する。じっくり周囲を確認した後、その狭い入り口に吸い寄せられるかの様に碧は身体を滑り込ませた。
服に付いた砂を払いもせず、一目散に草原へ続く森の細い小道を駆け抜けた。風のない今日は、そこはシンと静まり返っていた。碧の足音だけが響いていた。小道を抜けるとあの草原が見えてくる。碧は勢いよく転がった。
背中に大地を感じ、視界には瞬く月が雲に見え隠れする。思わず手を天に掲げ伸びをした。
落ち着く。
たった一人の空間で落ち着いていられるなんてここ最近ではなかった。家にいてもどこにいても一人でいることが苦痛でしかなかったのに、ここは安らぎを与えてくれる様な感じだ。嫌な事も小さな事の様で。
暫らく天高い月を堪能した後、碧は徐にあの大木の方へ首を向けた。寝転がって見る大木は横向きで、何だか可笑しかった。
いるかな・・・。
昨日の郁を思い出す。明け方まで、言葉少なく一緒にいた。その空間は気まずい様で、また充実していた。不思議な子だなと思う。
よくここに来るのか聞くと郁はただこくりと頷いた。会話は単発であまり長くは続かなかったが、二人はじっと大樹を見詰めていた。その時間は長い様で短かった。なんだか、この秘密の場所がくれる安らぎに似ている時間を感じた。
「いる、かな」
何となく思う。別にまた会う約束何かはしていなかったが彼女は今日もいるような気がする。それはただの願望なのかもしれないが。
碧は上半身を起こし大樹を凝視した。が、如何せんここからでは距離がある。郁がいるかは肉眼では確認出来なかった。
行って見ようか少しばかり迷う。期待して行って、居なかったらがっかりしそうだったから。そうも思ったが、居たのに会わないで去るのはもっと後悔しそうなので碧は傍まで行く事にした。
逸る思いを無理やり押さえ込み、碧は普通を装いながら歩いた。
肉眼でも木の根元が確認出来る距離まで来て碧は心臓が跳ね上がった。
彼女は今日もそこにいた。
昨日と同じに、大樹を見上げ佇んでいる。碧は郁を脅かさない様に近づいた。
そしてさり気無く郁の横に並び、
「今日も来てたんだね」
同じ様に大樹を見上げながら声を掛けた。
一瞬郁は目を見開いて碧を見詰めたが瞬時に柔らかい笑みを貼り付けた。そして一度頷いた。
そんな一つ一つの行動に碧の心は奪われるような感覚を覚える。
ばかだな、俺。懲りた筈なのに。
心中、自身に毒づいた。
隣の郁は昨日と変わらず、美しかった。儚げな美しさだと碧は思う。羨望を宿すその瞳も、風になびく長めの髪も、透き通る様な白い肌も、儚すぎてこの世のものとは思えないくらいに。
郁の横顔を盗み見していた碧は、視線を大木に移し、
「郁、この木が本当に好きなんだね」
「うん。本当に好き」
笑んだ顔に嘘はなかった。郁は碧の方に身体を直して言った。
「今日もね、来るんじゃないかなって思ったよ。君もこの場所が気に入った?」
柔らかい声音。
碧は心拍数が上昇しそうになるのを無理して平静を装う。
「気に入ったどころじゃないね。こんな場所そうそうない。郁は、何時からこの場所を知ってたんだ?」
「小さい頃から。私しか知らない場所だったんだ。昨日まではね」
そう言って、郁は悪戯っ子の様にはにかんだ。碧は前髪を掻き揚げながら、
「昨日俺が勝手に入って来ちゃったからな。ごめん。迷惑だった?」
慌てふためいた碧は困った様な視線を郁へ投げた。そんな様子を郁は面白そうに眺め、少し首を傾いだ。
「そんな事ないよ。ここは私だけの場所じゃない。今まで誰もここに気が付かなかっただけだもの」
薄茶色の瞳を真っ直ぐに向けられ、碧の呼吸はまたもや止まるかと思った。直視するのは危険かもしれない。軽く挙動不審に視線を泳がせ、碧は抵抗せず視線を逸らした。
「俺は、誰にもこの場所のことは言うつもりないよ。安心して」
顔を伏せたまま碧は言った。郁がそれを一番心配しているのではないかと思ったからだ。自分だけの場所に他人が入り込んで来たのだ。今まで誰一人として気付かなかったこの場所に。思い入れが強ければ強いほど、感慨深い状況下にあるのではないかなと、碧は思う。
自分が逆の立場でも、自分のテリトリーに土足で入り込まれたらいい気はしないものだ。
「うん。ありがとう」
「俺、また来ても迷惑じゃない?」
「そんな事ないよ。迷惑だなんて」
「それなら良かった。ここさ、俺のバイトの行き帰りにいつも通るんだよね。最近、なぜかここが気になって仕方なかったんだ」
郁は思案顔になる。そして、
「もしかして秘密の入り口、見付けちゃったのね?」
視線の合わない碧の顔を覗きこみ、口角を引き上げた。どんな表情も様になる。綻んだ眼元は笑っていた。
「幸運にもね。小躍りしたくなったよ」
そう言って碧は笑った。
昨日より会話は弾んだ。思ったより、喋る子なんだなと碧は思う。昨日はやはりお互い初対面で気を張っていたのかもしれない。もっと話しをしてみたいと思った。
バイトまでの残り僅かな時間がもどかしい。
「ここはね、どんな時でも自分を受け入れてくれる気がするの。小さな悩みなんか吹き飛ぶ位、自分が小さく見えて世界の大きさを実感出来る。そしたら、自分より小さな悩みなんか吹き飛んじゃう。前向きになれる場所」
郷愁宿る瞳が月明かりに煌いて、碧は思わず息を呑んだ。そして、努めて冷静に自分の感想を述べる。
「うん。なんか分かる。昨日、草原に寝そべってる時に同じ様な気持ちを味わった」
それでは、何か悩みがあったの?とは郁は聞かない。薄茶色の瞳を碧に向け、ただ微笑んだ。
何も聞かれない事に碧はほっとしながらも郁の優しさに感謝する。時には触れない優しさだってある。碧の中のそれはまだそっとして置いて欲しい段階。
とても居心地がいい。郁との時間は荒んだ心を癒す空間の様に碧の心中を一色に染め上げて行く。甘い、媚薬。