第二章 秘密
2秘密
「今日こそ、飲ましてもらうからね。約束だったでしょ。ついでに言うと、豊君ももう誘っちゃたからね。無理って言っても駄目だからね」
電話の向こうで、裕子がまくし立てるように言った。碧は思わず携帯を耳から遠ざけてしまった。興奮しているのか、必要以上に声が大きかった。電話の向こうの表情まで簡単に思い浮かんで来て、碧は頭を抱えた。
何の事を言っているかというと、裕子は碧が豊に貰った酒を飲ませろと言っているのだった。しかも碧に断らせないよう、念入りに豊まで誘ったと来ている。
別に飲ませないなんて言ってないのに。
「そんなに大きな声出すなよ。ちゃんと飲ませてやるって」
「やった!今日行っていい?」
「ていうか、もう豊も誘ったんだろ?聞く前から来る気まんまんだったんじゃないか」
そう答えると、裕子は楽しそうにけたけたと笑った。
「ばれた?実を言うとね。もう向かってるんだけどね」
「まじで?今、どの辺り?」
碧はギョッとして、だらしなくベッドに転がっていた上半身を起こした。人を呼ぶ予定がなかったので部屋が散らかっていたのだ。携帯片手に空いている手で脱ぎ捨ててあった、衣服を拾いクローゼットに押し込んだ。
「今ね、駅から碧君の家に向かってる所。」
後どのくらい?と向こうで裕子が豊に聞いているのが聞こえた。
今度は空いた手で昨日飲んだ空き缶をゴミ袋に詰め、換気をする為窓を開けた。
「後十分くらいで着くから。何か買って行こうか?」
「おつまみなんか適当に買ってきて」
「分かった。じゃあ、待っててね」
妙に明るいテンションで裕子は電話を切った。碧は部屋着のまま少し部屋を片付け、下にグラスを取りに行った。
しばらくすると玄関のチャイムがなった。リビングのソファに座っていた碧は玄関の鍵を開けに向かった。今日は家に誰もいないので、多少騒がしくなっても咎める人はいないので一安心だ。
「おつまみ買ってきた。おじゃましまぁす」
裕子はコンビニの袋を顔の位置まで持ち上げ満面の笑みだ。その後ろにこれまた、意地悪な顔をした豊がにやにやとして立っていた。碧はげんなりしながら、二人を招き入れ二階に上がって行った。
「適当に座って」
碧はベッドの淵に腰掛、視線で二人を促した。裕子は腰を降ろしながら、落ち着きなく辺りをきょろきょろと見回している。
「意外とさっぱりした部屋だね」
簡単な感想を述べながら裕子は買ってきたおつまみを取り出しごそごそ開けた。碧は返事をしないまま、三人分の酒をついで二人に手渡した。思わず、裕子がにたりと笑ったのを見逃さなかった。やれやれ、と思いながら、
「乾杯。」
と一言。一口飲んだ裕子は、「美味しい」と感嘆し、一気に飲み干してしまった。この調子じゃ今日中に飲み干してしまうなと碧は苦笑の笑みだ。
「お酒足りないと思ってさ、余分に買ってきたんだよね」
「お前らうちで飲み明かす気かよ」
げんなりして、碧はおつまみのスナック菓子に手を出した。豊はケロッとして、
「どうせお前暇だろ?だから俺らで付き合ってやろうと思ってさ」
「そりゃ、どうもありがとうございますね」
「まぁまぁ、ふて腐れないで飲みなって」
無理やり注がれ、碧はこぼしそうになりながら酒を口まで運んだ。口に入った酒はそれでもやっぱり、一人で飲むより断然美味く感じた。こいつらはこいつらなりに心配してくれてるんだよな。と、思うが敢えて言わないでおこうと思う。
次第にアルコールが入って来ると、話題は絶え間なく飛び出してきて、話は尽きない。
「でね、私はやっぱり止めようって言ったんだけどね、どうしてもって言うから」
さっきから裕子はバイト先の話を興奮しながら語っている。
「手伝ってやったのか?」
「そう。断れなかったの。だから碧君覚悟しといて」
不意に自分の名前を挙げられ、呆けていた碧はぎょっとした。酔っ払った裕子は碧が話を聞いていなかった事に気が付いていなかった様子で、「だから」と一言一言を強調しながら言った。
「明日バイト先のロッカーを開けてみて。面白い物が入ってるから!」
「は?一体何の話?何が入ってるんだよ?訳が分からないんだけど・・・」
「話聞いてなかったの?じゃあ、教えてあげないんだから!」
何の事か分からず動揺する様子にやっと裕子は話を聞いていなかった事に気が付き、頬をぷうっと膨らませそっぽをむいた。どうやら怒ってしまったらしい。
話の内容なんかよりそちらの方がまずいと慌ててその場を取り繕うと、碧は裕子の空いたグラスに酒を注いで、
「ごめんって!まぁまぁ、裕子サン。飲んで下さいよ」
そんな様子が可笑しいのか、豊は笑いをかみ殺して、
「今のは、お前が悪いな。まあ、ロッカーを開けてからのお楽しみだな」
と、裕子に向かって言うと、裕子は機嫌が直ったのか悪巧みをする子供の様な顔をした。これでは、何の話だったのか聞き出せそうにない。諦めて、碧は頷いた。
「分かったよ。バイト行くまでお楽しみは取っておきますか。それよりさ、バイトで思い出したんだけど、バイトの行く途中にずっと前から工事が途中で放置されてる場所があるんだけど。あそこが何を作っていたのかお前ら知らない?」
ふと、バイト繋がりで思い出した碧は気になっていた質問をぶつけた。知る訳ないだろうなと思ったものの、ここ数日何故だか気になって仕方なかった。二人は小首を傾げて考えているが、裕子は場所がどこの事か分からなかったし、豊は知っていても今まで気にした事もなかったからもちろん知らなかった。
「その場所がどうしたの?」
何かあるのかと、好奇心旺盛の裕子はわくわく顔だ。
「いや、何もないんだけどね。一度気になったらすごく気になっちゃて」
「なーんだ。そんな話かぁ」
裕子はがっかりして、手にしたクッションを抱え込んだ。確かに、そんな話程度の事なのだが、碧は気になって仕方がなかった。ここ最近は亜由美達の事より、あの現場を思い出してぼうっとしている事の方が多い様な気さえするのだ。
「豊も知らない?」
「知らない。俺らが小さい時の事なら親が知ってるんじゃないの?」
「それが聞いてみたんだけど、知らないってさ」
やっぱり知らないか。と自然にため息が出てしまった。そんな様子を見た二人は顔を見合わせ神妙な顔をした。
なんだか、変な勘違いをされた様だと碧は悟ったがほうって置くことにした。根掘り葉掘り亜由美達の話題を詮索されるのはごめんだった。
案の定、裕子は碧が亜由美達のせいで可笑しなことを言い出したのかと思ったが、何も弁解しない碧に投げる言葉が見つからなかった。
「そんなに気になるなら調べに行ってみるか?」
暫らくして、考え込んでいた重い口を豊かがあけた。
碧は弾かれた様に、落としていた視線を上げ、大袈裟に顔を横にぶんぶん振った。調べたいのだが何故か他の人に興味を持たれるのが嫌な気がした。
「いや、いいよ。別に大した事じゃないし。ただ通りがけに気になっただけだから、そんなわざわざ調べる程の事じゃない」
嘘を吐いた。意味も分からず気になって仕方がない。本当は調べたくて仕様がない。だけどあの場所は他の人のは教えたくなかった。なんでそんな風に思うのか。よく自分でも分からなかった。最近よく分からない事だらけだな。と、自分の事なのに何だか情けなくなってしまった。
「なんだからしくないよなぁ。そんな事気にしてるなんて」
「そう?俺、最近らしくない?」
タバコに火を点け、豊は呟いた。その発言にどきりとし、碧は全身が強張った。最近の俺はそんなに様子が今までと違うのか。亜由美が原因だという事を悟られたくなくて、自分では極力普通に振舞っていたのだがやっぱり伝わってしまうものか。
「まぁな。仕方ないんじゃない?そんな時もあるって」
思いっきり背中を叩かれ、思わず手にした酒を零しそうになってしまった。バツが悪そうな顔をした碧に裕子が言った。
「私が慰めてあげるって!」
「いや、遠慮しておくよ」
「碧君。時には謙遜が相手の好意を傷つけることもあるのよ」
裕子は本格的に酔っ払って来ている様だった。呂律が回らなくなって来ている。
「じゃあ、なんて言えばいいんだよ・・・」
そんな事を言われれば、返答にたじたじになってしまう。悪いが碧はそんな気はさらさらないのだ。助け舟を求め豊の方を見たが、そ知らぬ顔だった。お前が振った話題なのに・・・。怨めがましく視線を送ったが豊は明後日の方を見ていて気付きもしない。
「裕子じゃ不満だって言うの?」
「そうじゃなくって、お前酔っ払ってるんだよ。水でも飲むか?」
「私、酔ってなんかない。豊君も何か言ってやってよ。碧君私の言うこと信じてくれないんだから」
顔を赤くした裕子は明らかに酔っていたが酒の勢いに任せ、怯む様子もなく豊にまで食って掛かった。内心碧は、標的が自分だけではなくなってほっとした。絡まれた豊は、碧の部屋の掛け時計に目をやり、
「もう電車の時間なくなるな。そろそろ帰ろう。裕子」
「もう!二人とも嫌いなんだから」
相手にされなかった裕子は悪態を吐きながらしぶしぶ帰り支度を始めた。
碧はほっとしながら、送るよ。と一言いい、胸を撫で下ろした。この手の話題はもう散々だ。
帰り支度を済ませた二人を送る為階段を降り、玄関を開け外に出た。
「凄い風だな」
天気は悪くないのに、風は強かった。強風と呼べるだろう。地面に積もった塵や砂が俟っている。目に入らないように自然に目を細めた。
「なにこの風。来るときはこんなに強くなかったよねぇ」
「ほんとだね。しかも向かい風だから歩きにくいな」
しかめ面で豊が相槌をうつ。言葉少なめに三人は駅までの道を、近道した。わざわざそのルートを選んだのは、工事現場跡地を通らなくていいからだった。
「私、ちゃんと歩けてる?」
不意に裕子が口を開いた。どうやら、歩いて始めて酔っている事に気が付いた様で碧は可笑しくてくすっと笑った。
「微妙にネ。ちゃんと豊が送ってくれるから大丈夫だって」
不安げな表情を見せたので、碧は言った。そうね、と裕子は納得してまた黙って歩き出した。
近道をしたのであっという間に駅まで着いてしまった。裕子は名残惜しそうだったが「また明日、大学で」と言って、豊に連れられて、駅の改札を通った。今日は二人の後ろ姿が見えなくなるまで見送り、碧は踵を返した。
そして、来た道とは違うバイト先を迂回して帰るルートを辿る。どうしても工事現場の跡地に行きたくなっていた。俺、本当にどうかしてるな。気になって仕方がない。今までこんな事はなかったのに。
自分に疑問を持ちながらも、気持ちが急いていた。心なしか歩調も早くなる。強い風が行く手を阻んでもどかしかった。いつも寄るコンビニも素通りし、あのフェンスが見えて来る。そして、碧ははっとして歩みを止めた。
「嘘・・・」
呆然と呟いた。これは神様のくれた幸運だろうか。それとも見間違いか。手の甲で目を擦ってみたがそれは見間違いでもなんでもなかった。幸運だ!
「やった!」
小さく呟き、碧は問題のフェンスの位置まで駆け出した。フェンスの一角が、強い風に煽られ鈍い音を立てながらはためいていた。老朽化したフェンスにはこの強風に耐えられなかったのだろう。匍匐前進で進めば何とか碧にも入れる程の隙間だった。
それを目の前にし、ごくりと喉をならした。妙に鼓動が早くなる。中に入れるんだ。この中が一体どうなっているのか調べられるんだ。碧は興奮していた。勝手に入ってはいけないとは分かっているが、この衝動は止めることが出来なさそうだ。
こんな事が気になっておかしいという思いはもう湧いては来なかった。むしろ。入って確かめなければならないという義務感すら感じて来てしまっている。
碧は辺りを慎重に見回し、誰もいない事を確認した。そして身を屈め、そこに出来た小さな入り口を潜った。土が服に付くのも気にならなかった。案外すんなり潜れ、碧は一息吐き体制を立て直した。そしてまず、視界に広がったのは、工事の為の鉄筋等ではなく、自然のままに広がる緑だった。
工事道具などどこにも見当たらない。視界に広がるのは目の間に聳える山へと続く小さな森だった。
「手付かづのまま撤退したのか」
小さく囁き、碧は森の奥へと静かに歩きだした。月明かりしかなく鬱蒼とした森に入って行くのに不思議と不安ではなかった。何か、こう小さな高揚感。なぜかわくわくしていた。強い強風に煽られ木々が不気味なざわめきを立てるがこの高揚感には何者も太刀打ち出来ないと思った。
辺りを再度見渡して見たが、これといって物珍しい物は発見出来なかった。広がるのは活き活きとした木々や草花のみだ。碧は月明かりを頼りに木々の間にわずかに出来た細い道を進んで行った。
一体何で、手付かづで撤退したのにフェンスは張り巡らされたままなんだろう。
新たな疑問がもたげたがそれはさほど気にはならなかった。気分は上々だ。ここ数日の中でこんなに気分が高揚したのは久方ぶりで、つい鼻歌まで口ずさんでしまう。
「このまま行くと山の斜面にぶち当たるのかな?」
独り言が洩れたその時、丁度視界が開けた。そこは碧の想像していた山の斜面ではなく、一面に広がる草原だった。背丈の低い草花が一面を敷き詰めて茂っている。その荘厳な情景に思わず感嘆の溜め息が洩れた。
凄い・・・。こんな身近な場所にこんな所があったなんて・・・。暫らくの間、呆けていた碧は草原の向こうに一箇所だけ背丈のある大きな木を見つけた。不自然にその木一本だけがぽつりと、草原の中に佇んでいる様な感じだった。距離があるからか、そんなには大きくは見えないが近づいたらもの凄く大きい木なのかもしれないな、と碧は思った。
こんな所で過ごしたら気持ちいいだろうな。間違いなくここは自分の宝物の場所になるだろうと碧は思った。誰も知らない自分だけの場所。ふと、子供の頃秘密基地を作って遊んだ事を思い出した。今の気分はその時感じた気持ちと幾分変わらなかった。あの頃感じた、わくわくをこの年になってまで感じる事が出来る何て。人生は辛いことばかりではないのだなと前向きな気持ちになれるのを碧は実感していた。
強い風に煽られ、背丈の低い草花がそよそよと揺れる。思いっきり深く深呼吸をし、倒れるように仰向けに転がった。空には雲ひとつない。強風が雲をどこかに隠してしまった様だった。
「気持ちいい」
満面の笑みで明るい月を見上げる。地べたに大の字になって転がるのはいつ以来なんだろう。遠い記憶を呼び戻そうとしたが、それは霧がかかった様に表には現れなかった。
誰もいない、誰も知らない。こんな場所を見つけた自分はどれだけ幸運だろうか。思わず顔の筋肉が緩んでしまう。誰もいないのにそれを隠そうとしている自分に気付き碧は可笑しくなって思わず噴出してしまった。
静かに目を閉じてみた。感じるのは風に揺られ、草花のそよぐ音。自分の呼吸。そして瞼を通して感じる月の明かり。何故か不思議な感じがした。このまま大地に溶けて還れそうな気がする。背中に大きな息吹と慟哭がダイレクトの伝わって来る。何もかもなかった事にしてこのまま大地の一部になれればどんなに幸せだろうか。
それから暫らく、碧はただただそこに在るものだけを感じていた。
次に瞼を押し上げたのは、一時間ばかり後の事だった。そこには変わらず明るい月が柔らかい輝きを纏って碧を見下ろしていた。
上半身を起こし、改めて周囲を見渡す。やはり、視界に入り込んでくる大木が気になってしまう。こんなに好奇心旺盛だったか、俺。疑念を抱くが、碧は先に行動を起こしていた。
さくさくと大木目指して歩みを進める。以外に距離がありそうだった。碧が歩く度に、緑の絨毯は何かを告げるように湿った音を鳴らした。大樹が近くなるにつれ、心なしか歩調は速まっていく。あと少しで大樹の全貌が現れる距離で、碧はハッと息を呑んだ。
終電間際の電車は人でごった返していた。遅くまで仕事をしていた人、飲み会帰り、寄り添う恋人。車内を見渡せばいろんな人が各々の思いを馳せながら一時の共有の空間に存在する。まったく知らない人が一時の間、自分と同じ時間を共有する。
「ねぇ、碧君はやっぱり忘れられないのかしら」
裕子は普段時間を共有する事のない、今後もする事はないであろう車内の人々に視線を投げながら呟いた。
「暫らくは、無理なんじゃない。碧からしてみれば大打撃だろうしな」
同じく豊も車内の人々に視線をやりながら力なく相槌を打つ。
「早く元気になって欲しいね。豊は彼女の浮気相手と話した?」
不意に裕子は問う。それに豊は肩を上下させ否、と呟いた。
本当は豊も五木と話してみようかと思ったのだが、それは敢えて止めた。碧が話す気がないのに第三者の自分が入り込んで話をややこしくしてしまうのを危惧しての事だった。それに解決するにはやっぱり碧が自分から行動を起こさなければ話にならないとも思う。ただ、碧に一向に動く気配いがないのが少々気がかりではあった。このまま、時間と共に風化させてしまうつもりなのか。
心の中に留まる感情を浄化させずにこのままでいるのはよくないと思う。それは何時しか綺麗な内部まで侵食し、真っ黒に酸化させてしまうのではないか。壊れてしまうまえに・・・。
どうにかしてやりたいのだが、本人にどうする積もりもないので豊自信も身動き出来ないのが現状だった。
「俺らは支える位しか今は出来ないんじゃない」
そう呟いた豊はほんの少し憂いを帯びていた。裕子はなにも言えず、黙ったまま豊の足元に視線を落とした。
明日大学で見かけたらいつも通り声を掛けよう。
裕子に今出来る、優しさだった。