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吹き抜ける風  作者: hisa
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第一章 樹

1、樹


 きらきらと降り注ぐ眩しい位の日の光を、大樹の枝葉の間から覗くのが好きだった。

そこは自分以外誰も知らない場所で、楽しい時も悲しい時もどんな時でも大樹の側で過ごした。

どんな気持ちの時もその大きな樹はたくさんの葉で優しく包み込んでくれ、その太い幹で支えてくれた。

死ぬまで一生側を離れる事はないと思ったしそれが可能だと思っていた。

だが、期待とは裏腹に大樹との別れはあっという間に訪れた。別れから二日。もう大樹には触れる事が出来なくなってしまった。

それは、今までのなかで一番の絶望だった。すべては大樹がいたから、頑張る事が出来た。挫けそうになっても大樹が励ましてくれる様な気がしたから乗り越えて来たのに、もうあの大樹には触れることも出来ない。

和田郁は悲しげに大樹を仰いだ。

空を仰げば、大樹は今も昔も変わらずあの気持ちをうきうきさせる木漏れ日を作り上げているし、夜になれば葉の間から零れんばかりの星の瞬きを見せる。

今も昔も大樹は変わらない。

変わり果ててしまったのは自分だった。

郁はため息をついてその場にしゃがみ込んだ。この大樹に触れたい。

願えば願うほど胸の鼓動は早まるのにそれは叶わない。

郁はしゃがみ込んだまま大樹を仰いだ。長い髪が肩を流れる。白いワンピースに身を包んだ彼女は一昨日死んだ。だからもう大樹に触れられない。



飛んだ誤算だった。今朝はあんなに晴れていたのに今じゃこの土砂降りだ。

「本当についてねえな」

傘もないので突然の雨に濡れながら藤家碧は大学からの帰り道を走っていた。

午後の講義を終え、さて帰ろうとしたところにこの土砂降りだ。少し止むのを待とうかとも思ったが時間がないのを思い出し雨に濡れる覚悟を決めたのだった。

今日は自宅に高校の時の友人が遊びに来る予定なのだ。

急げ急げと心の中で呟きながら碧は自宅に続く下り坂を猛スピードで駆け下りた。

いつもの見慣れた道も雨の日に見ると大分感じが変わる。そんな感じもいいかも知れないなと碧は思った。今日は真夏の炎天下だったから、突然の雨がもんもんとした湿気を生み出し碧の体にまとわり付く。それだけが、気分を不愉快にさせるが、それ以上に碧は浮かれていた。

今日は友人が手に入れたなかなか手に入らない日本酒を持って来てくれるのだ。

酒好きの碧には堪らなく嬉しかった。

走った甲斐があって家には予定より早く帰り着いた碧は、雨で全身びしょ濡れだったのでシャワーを一浴びしようと風呂場へ向かった。

意気揚々と濡れた服を洗濯籠に放り出し、鼻歌交じりで碧は浴室に入った。

もう少しでここ数日楽しみにしていた銘酒の味を吟味する事が出来る。心が何時になく浮きだっていた。


一浴びした碧は無造作にくしゃくしゃとタオルで髪を拭きながら、二階の自分の部屋へ上がっていく。

碧の部屋は年頃の青年にしては物も少なく質素な部屋だ。だが物がごちゃごちゃしている部屋があまり好きではない碧はこの部屋が気に入っていた。

部屋の中央に配置されているテーブルに酒の席の準備をする。

乾き物の肴でも出すかと下のキッチンに降りていく途中で家のチャイムがなった。

「お、木内が来たな」

 日本酒の持ち手が現れたと碧はキッチンから玄関へと進路変更をし、勢いよく玄関のノブを回した。

「よう。久しぶり。」

 久しぶりに会った木内豊は変わらない笑顔を見せた。相変わらずだなと、変わらぬ友人を嬉しく思い、碧は豊を部屋へ招き入れた。

「碧。見て驚け!これがお前が死ぬ前に一度飲んでみたいと散々熱弁していた銘酒だ。」

 豊は自信満々な得意げな表情で紙袋から取り出した日本酒を碧の前に置いた。

それを目の当たりにした碧は、比較的端麗な顔を一気に破顔した。

「豊でかした!いったいどうやって手に入れたんだよ。」

 銘酒の瓶を手に取り騒ぐ碧の視線は銘酒に釘付けだ。豊はそんな様子を見ながら煙草に火を点け一服すると、

「親父がなんかで貰ってきたんだよ。でもうちの親父下戸だろ。うちにあっても宝の持ち腐れだしな。」

 碧は一度見かけたことのある豊のおじさんの顔を思い出し、心の底から感謝した。

碧は満面の笑みで栓を開け豊と二人分を注いだ。

「木内の親父に感謝!」

 乾杯の音頭を取り二人は銘酒に口をつけた。一口飲んだ瞬間熱い感覚が喉にしみ込み、碧は大満足で杯をテーブルに置いた。

 それから二人は銘酒の味について一頻熱弁を交わした。


 酒の味を散々楽しみ酔いが程よく回って来たところに、豊が重々しく口を開いた。

「お前、もう亜由美と五木の事は吹っ切れたのか?」

 気まずそうに、だが心配そうに豊は碧の顔色を窺うように聞いた。

---------亜由美と五木か・・・。

 その名前を聞いて一瞬碧の表情が暗く翳ったのを豊は見逃さなかった。

 やっぱりこいつ吹っ切れてないな。そう察した豊は軽くため息を吐いた。

 つい、数週間前の出来事だった。

 亜由美と五木が付き合っていたのを知ったのは。二人は高校の同級生だった。ただ、ただの同級生なら何も問題はなかったのだ。

 問題だったのは、亜由美は碧の彼女であり、また五木は碧の親友だったのだ。

 いつから二人の関係が始まったのかは知らない。むしろもう知りたくもなかった。碧は一度に彼女と親友を失ったのだ。

 それからしばらくの間亜由美からしつこく携帯への着信とメールを受信したが、あまりの裏切りに碧は話しをする気にもなれなかった。そしてその対称的に五木からは何の音沙汰もない状態だ。

 碧は正直こんな酷い仕打ちを受けたことは今まで経験した事がなかった。亜由美の事はとても大事にしていたのだ。だからその分余計にショックは大きかった。初めて付き合った相手だった。本気で大学を卒業したら結婚してもいいと思える位の相手だったのだ。それがどうだろう。いつの間にか自分の親友と碧の知らない所でくっ付いていたなんて。

 五木の事だって、亜由美の件に拍車をかけた。寄りによって何で五木なんだ?他の知らない男なら一度の浮気位許してやれたのに。

 それに五木だって何だって自分の親友の彼女に手なんか出すんだよ。俺たちの関係って所詮その程度の友情だった訳かよ。

 考えたくなくても、気付けば二人の事ばかりが思考回路を占領した。四六時中どうにかしてやりたいと二人を怨んだ。

 酷い裏切にどちらにも腹が立ってしょうがない。そして酷く悲しかった。こんなに胸が苦しい思いをしなければならないなんて。

「亜由美達の事は、確かにまだふっ切れてはいないけど、もう終わった事だから・・・」

「でもお前、話し合ってないんだろ?このまま終わらせていいのかよ?」

 憂鬱そうに吐き出した碧の声は考えたくないという感じが手に取る様に感じ取れた。

 それでも豊は言った。高校からずっと一緒にいる豊も碧の親友なのだ。心の底から今の碧が心配だった。碧がどれだけ亜由美の事を大事にしていたか側で見ていたのだから。

 辛いけどこのまま終わらせて碧は後悔しないだろうか。

 お節介だとは思ったが言わずにはいられなかった。また、豊も碧と同じように腹を立てていたのだ。親友の彼女に手を出すなんて。

「今は話す気にもなれないよ。今はこうして美味い酒を飲んでいる。この瞬間が一番幸せだって俺は気付いたの。もう亜由美と五木なんか知らん」

 少々酔っ払っている碧はうんざりした後、百面相の様に酒に満足な顔を向け、そして最後にふてくされた子供の様な顔を豊に向けた。

 本当はその事が気になって仕方なかった。でもそんなことは誰にも気付かれたくなかった。同情されるとますます惨めな気持ちになる。また、心配してもらってるのに、そういう風にしか思えなくなってしまっている自分がますます嫌だった。

「同情するなら新しい女紹介しろよ。」

 わざとらしくにやにやしながら碧は言った。

 豊は口元に苦笑の笑みを張り付け、

「酒の次は新しい女か。お前も懲りないな。」

 湿っぽいのが嫌で言った台詞がうまい事返され、今度は碧が苦笑する番だった。

そして、一気に酒を喉に流し込み、一言。

「しばらく女はいらねえ」

「だろうな。」

豊は大きくかぶりを振って相槌をうった。


 それからしばらく碧と豊は酒を飲み続けた。一旦は湿っぽい話になったが、久しぶりに会った二人はお互いの大学生活や、昔話に花を咲かせ短い時間だか充実した時間を過ごした。

 久しぶりに気分転換になった碧はここ数日の落ち込んだ気分を束の間忘れる事が出来た。

-----------木内に感謝しないとな。

 胸の内で、碧は呟いた。

 今は一人でいる時間が一番苦痛だった。嫌でも思考は亜由美達の事を考え出してしまうから。一度考え出してしまったら、しばらくは心が猟奇にとりつかれてしまう。

 あまりに亜由美を大事にしていたし、五木を心より信頼していた。だからその反動で碧は思考の中で何度も二人を殺した。あまりのショックに一度や二度では足りない位だった。そこにしか怒りや苦しみをぶつける事が出来ない事が余計に辛く、惨めだった。

 誰かが側にいれば考えずに済むと、豊に泊まれと勧めたが、明日は朝一から講義があると振られてしまった碧は、豊を送りがてらコンビニへ行くことにしたのだった。

 駅までの薄暗い街頭の裏路地を歩きながら豊は言った。

「お前さぁ、バイトまだ続けてるの?」

「まぁな。変えようかと思うけど家から近いしな。しかも楽だし」

 にやけて言う碧に豊は笑った。

 確かに、碧がまじめにバイトする姿は想像出来ない。高校の時の掃除当番ですらまともにやらなかった奴だったと改めて豊は思い出していた。

「楽な上に給料いいからな。どうせ事件なんか滅多に起きないしさ。」

「そりゃそうだ。そんなにしょっちゅう何かあったらこの町終わりだよ」

 とデパートの夜間警備員のバイトをしている碧に豊は返した。

 何だかんだと話し込んでいるうちに二人は駅の前まで着いていた。切符を買うのを見届け、碧はまた憂鬱そうな表情で豊に言った。

「また連絡しろよ」

「おう。じゃあな。

 あんまり考え込むなよ」

 何の事か聞かずともあの事しかない。さっきまで明るかった碧の表情にあっという間に影が差したのが心配だった。

 碧は豊のそんな気は知らず、軽く手を上げ、豊に背を向け歩き出していた。


 そのまま真っ直ぐかえる気にもなれず、碧は駅からの帰り道をわざわざ遠回りした。

 駅から離れると喧騒が嘘の様に静かなになる。いつもは近道する裏路地を避け、バイト先を迂回するルートを辿った。たまには散歩もいいかもしれない。

 酔った体に夜風が気持ちいい。

 今日は豊のおかげで大分気分転換が出来た。結局、自分を裏切るのもまた、救ってくれるのも友達なのだ。

「ちぇ。人って上手く出来てるよな」

 軽くふてくされながら、碧は足元の小石を蹴飛ばした。小石はからからと音を立てながら雑草の生い茂る茂みの中に隠れてしまった。

 やっぱりこの数年間を思い出すとそうそう立ち直れそうにないと改めて思う。碧の中では色鮮やかで、そして濃度の濃い記憶だ。心の奥深くに封印したくても、きらきらと色鮮やかなそれは自ら自己主張を始める。どうにかしたいのに、自分ではどうにも出来ない。とても歯がゆい気持ちでいっぱいになる。

 亜由美の事を忘れる事なんて出来るのだろうか。かと言って、二人を許す気にも今はなれない。結局現状をどうする事も出来ないのだ。亜由美が浮気をしたのには自分にも多少なりと原因があったのかもしれない。そんな事も考えたが被害者意識が募る一方で、自分の非なんか一つも思い浮かばなかった。

 ぼんやりと物思いに耽っているうちに目的のコンビニが見えてきた。碧がバイトに行く前に夜食を買い込んで行くコンビニだ。個人経営の小さなコンビニで、品数もあまり多くはない上、夜の十二時になると閉まってしまう。地域密着の小じんまりとしたコンビニで、見るからにあまり流行ってはいなさそうなのが一目瞭然だが、碧はそんなコンビニの店主の醸し出す暖かい雰囲気が好きでよく立ち寄っていた。

 見慣れた、オレンジ色の看板にちらりと視線を泳がせ入り口のドアを開けた。相変わらず店内はがらんとしていた。

 特に買うものなんか決まっていなかったが店内を一通り見て周り、やっぱりこれかなと、さっきまで散々飲んでいた酒に手を伸ばした。嫌なことから逃げるにはこれがやはり一番なのである。

 発泡酒の缶を手に取り碧はレジへ向かった。レジ横に置いてある呼び鈴を鳴らすと、店の奥の方から店主がゆっくりと出てきた。いつもの見慣れた光景である。

 カウンター越しに馴染みの顔を見つけた店主はにこりと笑いかけた。碧もつられて暖かい笑みを向けた。

 お会計を済まし、店内に入る前より明らかに暖かい気分で店を出た。ここに来ると、毎度の事ながら、和やかな気持ちになれることを碧は知っていた。どうやったらあんなに雰囲気だけで人を和ませる人になれるのだろう。

 これは人生の課題かもしれない。なんて事をふと思い、碧は可笑しくなった。

 ----------あんなに暗い気分だったのに俺も現金なやつだな。

 嫌なことがあっても頭では以外に下らない事もちゃんと考えていたりするもんだと、少し前向きになれそうな気もする。

 コンビニの袋を片手に碧は家路をぶらぶらと覇気なく歩いた。

 少し歩くと工事現場だったのか、昔から板状のフェンスで張り巡らされている通りに差し掛かる。結構な範囲で、高さがあるので中を窺うことは容易ではなさそうだ。以前は工事をしていたのかもしれないが、今はそのまま放置されている状態だった。その向こうはそのまま小さな山に面しているので、こちら側からしかフェンスに接する面はなかった。

 普段は気にも留めず通り過ぎていたが、本当はここに何を建てるつもりだったのだろうか。と、不意に疑問がもたげた。

 碧は足を止め自分の前に聳えるフェンスを見上げた。思い返せば、気付いた時にはすでにフェンスが張り巡らされていた。それを証明する様に、聳え立つフェンスは大分雨風に晒され、老朽化している。

 立ち止まった碧は小首を傾げながら、そんな昔の出来事じゃ、考えても分かるわけがないかと諦めてその日は大人しく岐路についた。


「ちょっと、待って」

 突然後ろから呼び止められ、碧は反射的に振返った。

 大学の午後からの講義に出席し、何となく授業を受けてこのまま帰ろうとした所だった。

 そこには知った顔が小走りに碧の後を追いかけて来ていた。ショートカットの小柄な彼女は名を長谷裕子といい、碧のバイト先のデパートに入っているテナントでバイトしていて、同じ大学ということもあり最近仲良くなったのだ。

「おう。どうしたんだよ」

「今日の授業はもう終わり?」

「終わったよ」

 裕子はそれを聞くとまだあどけない幼顔を輝かせ、食事に行こうと碧を誘った。特にこの後用事もないし、一人で居るのも嫌だったので碧はそれに応じた。

 二人で大学を出て、近くの喫茶店に入った。碧はコーヒーを注文し、裕子はモンブランと紅茶の組み合わせだ。よく来るこの喫茶店で頼むメニューは毎回同じだ。

 モンブランを一口頬張り裕子は出し抜けに、

「聞いたよ。彼女と別れたんだって?」

 また、その話しか。と、碧はあからさまにうな垂れた。そんな様子を見ても裕子は悪びれた様子もなく続ける。

「最近見かけても上の空で歩いているから何かあったのかとは思ったのよ」

 その言葉に初めて碧は、他人から見ているだけで分かってしまうほど気落ちしているのが態度に出てしまっていた事に気がついた。

 まいったなと、人差し指で頬を掻き、

「それ、誰から聞いたの?」

「豊君」

 -----------あいつ余計な事しゃべりやがって・・・。と、つい顔をしかめた。

 以前碧は豊と裕子を合わせた事があった。それ以来二人が連絡を取っているのは知っていたがそんな話をするほど二人が親しくなっているとは思いも寄らなかった。

 自分の辛気臭い話よりそちらの方が全然面白いじゃないかと話をそちらへ逸らしてみたが、

「別に。碧君が想像する様な仲じゃないわよ。お互い気が合うだけ。そんな事より、今は碧君の話じゃない。一体どうして?」

 裕子の方が一枚上手だった。上手く話を戻され、碧には苦笑を貼り付けるしかなかった。始めから説明するのも億劫で、どうせ話すなら全部話しといてくれりゃあいいのにと心の中で豊に悪態をついた。

「彼女と俺の親友が出来ちゃってたの。だからもう終わりにしたんだよ」

「うそ!信じられない。酷い話だね・・・」

 驚いた裕子はフォークからケーキを危うく落としそうになった。

「俺の方が信じられないっつーの」

 と、テーブルに両肘をつき頬杖をついた碧は口を尖らせた。

「彼女とはちゃんと話したの?」

「何で?話す必要なんかないよ。だって俺は話すことないもん」

「でも、ほんの出来心だったかもしれないじゃない」

「出来心で俺の親友と出来てた、って言うなら尚更話すことはないよ」

 碧が切り返すと裕子は何かを言い掛けてそのまま黙り込んでしまった。何かを言いたいのだが言葉が浮かんで来ない様で、視線ばかりが泳いでいた。

 そんな裕子を見ながら、ふて腐れていた碧は頬杖を解きコーヒーを一口飲んだ。少し苦くて、もっとミルクを入れるべきだったと軽く後悔し、顔をしかめた。そんな様子を見ながら裕子がまた口を開いた。

「それで、碧君は後悔しないの?」

 まだこの話題を引っ張るのかといささかうんざりして来て、

「しないよ。今は理由なんか聞きたくないしね。よし、この話は終わり。違う話しようぜ。」

 と辛気臭い話にピリオドを打った。裕子は不満げな表情を浮かべていたが、大人しく応じた。

 頷いた裕子を確認し、心の中で碧は安堵のため息を吐いた。せっかく人と一緒にいるのに嫌なことをわざわざ思い出す会話はしたくなかった。これじゃ一人で居るときとなんら変わらない。

 しばらく会話もなく静まり返っていた二人だったが、碧が丁度コーヒーの御代わりをした所で裕子が切り出した。

「今日バイトあるの?」

 沈黙に耐えかねた裕子が尋ねた。

「夜勤入ってるよ。朝までね。だから今日は酒が飲めないんだよなぁ」

「相変わらずだね。こないだ珍しいお酒飲んだんだって?」

 豊のやつ、近況報告に俺の話してるな。と碧は思ったが、友達の会話なんて共通の友達の事が多いよなと、ぼんやりと思い、そしてまた、下らない事考えてる自分に可笑しくなった。

「豊が持ってきてくれたんだ。こんど裕子にも飲ましてやるよ。本当に美味いんだこれが。」

 と、本日初の満面の笑みを向けた。つられて裕子もにんまりした。なぜなら、裕子も碧に負けず劣らず酒好きなのだった。急激に仲良くなったのは、もしかしたらバイトや学校が同じという共通点よりこちらの共通点の方が影響的に大きかったのかもしれない。

 その後二人は酒の話題を筆頭にしばらく他愛ない話をし、喫茶店を出た。


 自宅に帰り、母親の作った食事を簡単に済ませ、バイトの時間まで仮眠をとるため碧は自室に戻った。

 たいした事もしていないのだか、ベッドに入るとすぐに心地よい眠気が訪れた。それに身を任せあっという間に眠りに落ちて行った。バイトに出るまで後三時間は眠れるはずだったが、眠りに落ちてまもなく碧は意識を呼び戻された。

 聞きなれた携帯の着信音。それは間違いなくメールの受信音ではなく、着信の音だった。

 これから三時間の深い眠りに全力投球しようと決めていた碧は、当たり前の様に鳴り続ける着信を無視しようとしたがいつまでたっても鳴り止まない携帯をしぶしぶ手に取った。寝ぼけ眼で確認した名前は、液晶にしっかり亜由美という文字を表示していた。

 それを確認し、思わず飛び起きてしまった。眠気などは一瞬にして遠く彼方まで飛んで行ってしまった。ベッドに座り込みしばらく携帯の液晶を眺めていたが次第に不快な感情が心を占めていく。心がかき乱されるような気分だった。

----------今さら、何の用だよ。五木と宜しくやってりゃいいじゃねぇか・・・

 うんざりしながら碧は携帯をベッドから床へ放り投げた。以外に大きな音を立て携帯はベッドの下へ転がり込んだ。もしかしたら軽く壊れたかもしれないと思い、少し焦ったが確認する気力も起きなかった。

 それからは眠りに就くことも出来ずベッドの中をごろごろする羽目になってしまった。

最初の内は怒りよりもショックが大きく、悲しい感情の方が大きかった。浮かんで来る疑問もなぜ?と言う言葉しか浮かんで来なかった位だ。悲しみから怒りを覚えられるようになったという事は、俺は立ち直って来ている証かもしれない。そしてこのままその感情を忘れて行くのだ。きっと。人間は忘れる生き物だから。怒りに変わる前に壊れてしまわなくて良かったのじゃないか。と何気なく思った。

 怒りもあるがやはり悲しいのも本当の気持ちだ。一人になると今まで一緒に過ごして来た時間、そしてこれからも過ごすであろうと思っていた時間をどうやり過ごしていいものか。時間を持て余してしまう。一人とはこんなにも虚無感を感じるものだったか。誰かに問いたい気分だった。

 少しでも眠ろうと一頻り努力をしてみたが力及ばずの徒労であった。無駄に時間が過ぎる一方で、頭は思考にとりつかれ目はぱっちり覚めてしまった。結局碧はのそのそとベッドから這い上がり、ベッドの下に落とした携帯を拾った。手に取りよく見てみると派手な音を立てて転がった割に傷は付いていなかった。

 ちょっと早いが、ここでうだうだと考え込むのも嫌だったのでバイトに行く準備をし、早めに家を出る事にした。着替えを済ませ、下に降りて行くと今帰ってきたのか、碧の妹の理恵が丁度玄関に立っていた。最近の、高校生の代表の様な格好にメイクを施した理恵は碧を見るなり、元気いっぱいの笑顔を向けた。目いっぱい笑うとえくぼの出来る理恵はどんなに化粧を施して大人っぽくしても年相応にしか見えないと碧はいつも思う。

「お帰り。こんな時間に帰ってくるとまた親父に怒られるぞ」

 毎度帰りが遅く父親にどやされる理恵を碧は何度も目撃していた。が、当の本人は懲りた様子もなくけろりとしている。

「別にー。聞き流せばいいし。お兄ちゃんバイト?」

 靴を脱ぎながら理恵は碧に視線だけ投げかけた。碧は理恵が退くのを待ちながら頷いた。時間はあるので足止めを多少くらっても今日はいらつかなかった。眠れなくなってしまって時間を持て余してしまったからである。

「バイトの帰りにアイス買ってきて。苺のやつ。あたしが学校行く前に帰って来てよ」

「太るぞ」

 ずうずうしいお願いもしょっちゅうの事で慣れっこだ。

 碧はからかい半分、理恵が気にしている事を言ったが今日は機嫌がいいのか鼻歌をうたいながらそのまま二階へ上がって行ってしまった。

 そのご機嫌を分けて欲しいよと心の中で毒づき思わずため息を吐いてしまう。相変わらず気分は塞ぎ込みがちだった。

 外に出ると、夜風が吹きぬけた。今日は風が強い。雲が流され、月が煌々と照らしていた。いつものバイトへの道をのんびり歩いて行く。見慣れた景色に、工事現場のフェンスが差し掛かって来た。不意にこの間の疑問がもたげて来た。

「気になるな・・・」

 どうでもいい事なのだが、一度気になってしまうとどうしようもなくなってしまう。一体ここには何を造るつもりだったのか。そして現在はどうしてほったらかしになっているのか。

 そしてどうして自分はこんな事が気になってしまうのか。よく分からないが、今さらながらに興味が湧いてしまう。

 思わず足を止めて暫らく眺めてしまった。前回となんの変化もなくフェンスは老朽化し色が変色してしまったままである。もしかしたら、中に入れる場所があるかもしれない。いけない事だと頭では理解していたが、思わず心は浮きだってしまった。小さな変化をも見落とさない勢いで、一通りフェンスを端から端へ確認して行った。そして気が付いたら一番端まで辿り着いてしまい落胆した。

「そう、甘くはないか・・・」

 誰に呟くでもなく碧はため息を吐いた。その場に未練を残すように工事現場後を立ち去って、いつものコンビニに寄って、バイトへ向かった。



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