異国の美姫と吸血鬼 7
──細い。
というのが、噂の異国の美姫に対するヴォルフの第一印象だった。顔は見えぬがたいそう細い。そして自分が今まで目にしてきたどの女よりも小柄。だがけっして貧相な体つきというわけではない。
ここまで書き立てるとヴォルフが女性の体つきしか見ないヘンタイのように思われそうだから弁解しておくが、彼はそのように女遊びの激しい人物ではけっしてない。むしろ女性を寄せ付けぬ孤高の騎士としてトリアーの女たちの間ではちょっとした評判になっているくらいである。
しかし異国の美姫はその、山賊に言わせれば「えっれえ」美しいという顔を仮面で隠し、おまけに帽子までかぶっているのだ。首から下に視線が言って当然ではないか。
ヴォルフは自分の視線が美姫から引き剥がれないことをそうやって無理やり理由付け、ただただクロイツの上から呆然と姫のことを見つめつづけていた。
と、その視線をさえぎるようにして、彼女の脇に立っていた長身赤毛の男性が前に進み出てきた。
太ってはいないが騎士であるヴォルフよりも体格がよく、口周りにたくわえられたヒゲまでもが燃えるような夕日の色をしている。
全身からあふれるような威厳を放つその姿に、ヴォルフは思わずクロイツを後退させた。
と、びろうどのマントを広げながら、その者は口を開いた。
「ようこそ、フランク最大のトリアー騎士団副団長殿。貴方のことをお待ちしておりましたよ。私はバーデン領主、ザックス・ドルトムント。待ちくたびれてややバテバテですがね、バーデンだけに。はっはっは」
──何語だ?
ヴォルフは彼の言葉が理解できなかった。
フランク一帯はおおよそ自分たちと同じ言葉が話されると思っていたが、バーデンは例外であったか? なんだいまの、体に走った妙にさむいような感覚は。
「……歓迎痛み入ります。しかしわたしたちには時間がない。一刻もはやく手紙に書いたものを調達したいと願っております」
「まあそう焦りなさるな。君とて旅の疲れがあるだろう、今日はゆっくり休みなさい」
「は? いや、ですから」
にこにこにこ、と終止笑顔の領主にヴォルフはなにやら不安を感じ始めた。話がかみ合っていない。
「いいですかドルトムント国王陛下、私は4日前にトリアーを出発いたしまして、今こうしている間にも街は──」
「きみは大層いい騎士だそうだね。噂はここまで届いているよ。後で一度手合わせを願いたいものだ、これでも私は剣にそこそこ自信があるのだよ。」
「──陛下!」
「明朝お願いしよう。とにかく今は大人しく眠っていて欲しい」
ザックスは狂人、とジークフリートが言っていた言葉を思い出す。
ヴォルフは自分の背中を捕られたのを感じた。振り返るよりも先に頭か布が被せられ、鼻腔に甘ったるい強烈な匂いが満ちる。クロイツから引き摺り下ろされ、地面に叩きつけられて脳裏に星が炸裂した。
しまった、バーデンの狂人とはザックスだけではなく……
かは、と思い切り街の石畳に背中を打ちつけて喘ぎながら、ヴォルフは悟った。
……彼に仕えるもの全てが狂っているという意味か……!
「大人しくしていなさい、ヴォルフラム・リヒター君。そうしなければ君はトリアーに帰るどころか、病の解決法を見つけることすらできずに我が町で火刑に処されるであろう。半年ほど前にこの街はひとりの娘を焼き殺してね、以来火刑が好きで好きでたまらなくなってしまったようなのだ」
剣の柄に手を伸ばす、が、手足の自由がきかない。甘ったるい匂いが神経をまひさせているようだ。
冗談ではない、こんなところで眼を閉じているわけにはいかぬ!
ヴォルフは息を吸いこんだ。
「クロイツ!」
愛馬の名を呼ぶ。
だが彼は答えない。
「クロイツ、どうした!?」
「いい馬ですよねえ。昨晩も思いましたが。こんだけあんたに懐いてなけりゃまじで我が物にしたいもんです」
「──……!」
それはまぎれもなく、昨晩の山賊の声だった。はめられていたのか、とはじめて気がつく。街に入った途端、領主が出迎えるなどとおかしいとは思ったが、こいつがザックスの手下ならば頷ける。
「クロイツに、手を、出すなっ」
「出しませんとも。治療させていただくだけでさあ。あなたさまと一緒にね……ねえ、“聖母さま“?」
かぶせられた布ごしに、衣擦れの音が聞こえた。シュル、と上質の絹がすべる音。
『異国の美姫』とは、けっして人前に姿を現さないのではなかったのか、と思いながら、ヴォルフは朦朧と白濁していく意識を感じていた。
するとやがて首筋に這わされた冷たい手。
ぞくっときた。
「姫様。そのように薄着ではお体を壊されます。お戻りくださいませ──ザックス様も。」
「そうだな。では、戻るか。皆も、もう戻るがいい。」
ザックスの声を受けても鎮まらず、ざわざわと動揺し怯えている民衆達の声が聞こえる。
ヴォルフは腑に落ちなかった。この街は、調和が取れていない。領主と民の心が通じ合っていない。
なぜ異国の美姫とやらは外に出てきている。
なぜ俺は捕らわれている。
なぜ民は、怯えている?
「ザックス!」
「眠れ」
短い言葉と共に後頭部に走った衝撃。
何もできぬまま、ヴォルフはついに意識を失った。
***
夢現のなか、感じた奇妙な痛みと快感。
皮膚の下にもぐりこむ鋭いもの、それから何か、浮遊感に似た感覚と、全身をめぐる倦怠に近い悦楽。
「間に合ったわ。この血ならば問題ないでしょう」
麗しい声に、ああそうか、自分は血を吸われたのだとはじめて理解した。
開いても何も見えぬ視界。
「ごめんなさいね。いただくわ」
ここちよい熱の眠りに、いつか再びおちてゆく。
***
「しかし何故、姫様までもを城下にお遣わしになりましたのか! 危険すぎます、民の反感が日々強まっていることなどご存知でしょう、ザックス様!」
「ディー、におうぞ。また酒を飲んだな」
「あ、はあ、昨夜あの騎士の素性をさぐるため、少しだけ……」
バーデン領主の城内、大広間。
玉座にこしかけた王者と、そこからやや離れた床に膝をついている男がひとり。
ザックス・ドルトムントと、その臣下ディートリッヒ・ハイネス。よくよく見れば、昨晩ヴォルフに「げっへっへ」とかセンスのかけらもない言葉とともに襲い掛かっておきながら、一発でうちのめされた、小汚い山賊のおかしらであった。
「おまえが街を追い出されてあーんな谷の監視を申し付けられてるのはひとえにその酒癖の悪さのせいなのだぞ、ディー。いやしくもかわいい甥であるお前をあんな寒い仕事につけているのは私としても肩身がせまい。酒をやめなさい。というかやめろ。やめないと打ち首にするぞ」
「ま、またまたザックス様、悪いごじょうだんをぉ」
「はははは決してじょうだんなどではないぞぉ、私は真剣だ。どうだ、『神』剣使いだけにな! はっはっは」
ザックス領主愛用の剣は神によって清められたという胡散臭さ爆発の大剣であった。
ディーはひきつった顔をしながら冷や汗とともに笑顔を浮かべる。
本気なのか嘘なのかまじでわからんだけに怖い。
──これじゃ城下の人々は主を信用できなくてしょーがねえよなあ……。
ただでさえ、数ヶ月前に火刑に処したあの娘を助けて以来、住民からのザックスに対する支持は下がる一方、むしろ狂人などというレッテルまで貼られてクーデター一歩手前の緊張感が張り詰めているというのに。
それなのにあーんなに簡単に姫を人前に出したりよお、自分も前に出てきちゃったりしてよお。全くザックスおじさんの考えることはほんとわけわかんねーよ。
ちなみにディーはザックスに、「自分の年を認識させるから」との理由でおじさんという形容詞を用いることを固く禁じられていた。
ふう、とため息をついて、さっきから静かになっているザックスの方に顔を向ける。しかし主の顔はさらにドアの方に向けられていた。眼を瞬く。
「ザックス様?」
「もういいのか。シェーネ」
「ええ。失礼しますわお兄様」
音を立てずに一人の美姫が大広間へと入ってきた。
紅色のドレスを脱いで今は簡素な服に身をつつんではいるものの、まぎれもなく先ほどの異国の美姫と同じ人物だ。白い肌、細い体。仮面と帽子は外されていた。
「申し上げます。さきほどの騎士の病はやはり黒死病」
姫はりんとした声で言った。ザックスは頷いた。
「黒死病。そうか。北フランクにて3つの町を滅ぼしたという、あのねずみが媒体となる病ということだな」
「そうです。けれど触れただけで感染するというのは全くの噂でございます。黒死病は血液を通して感染する病気。ネズミの血を吸ったノミに人間が血を吸われて、はじめて感染するのですわ。よって彼が道程で触れ合っただけの者、ディー、おまえのような者には感染の心配はありません」
「さ、さようでございますか! それは全く、ありがてえこって」
「そして肝心の薬ですが、できました。彼の馬に弱毒化の薬を飲ませ、その後血清を採取。そして彼にその血清をさらに与え、黒死病を完治させました。黒死病は一度完治した人間は二度と罹ることはありません。これは一度病にかかったことにより、その人間に病に対する抵抗力がつくからです。」
「ははあ……よくわかるような、わからないような。神のご加護としかいいようがないな」
「違いますわよ、お兄様。これはただ人の体そのものが持ち合わせた力に過ぎませんの。そして最終的には、彼の騎士から血を頂いて、そこから薬を作り上げたということですわ」
呪文を読むような声で告げた姫は、独特の美しさを持ち合わせていた。
驚くほど白い雪肌。黒く、張りのある髪は肩の上で切りそろえるという斬新な髪型にまとめられており、なによりその顔立ちが、フランクはおろかヨーロッパ大陸において全く見たことのない造りをしていた。人によっては確かに魔女に見えるかもしれぬ。
だが、その知性に燃えるような瞳、不思議に人目を惹き付ける大きな瞳にとらえられないものは居ない。
表向きザックスの妹姫となっているこのシェーネこそが、バーデンにてうずまいている「吸血鬼」、「魔女」、そして「異国の美姫」、すべての噂の根源たる娘であった。
「よくやった、シェーネ。して、かの騎士の様子はどうだ?」
ザックスが問うと、シェーネの頬が心なしか赤くなったように見受けられたが、誰もそれには気がつかなかった。
「危ないところでしたわ。街を出てから四日。彼はずいぶん早くの内に感染していたようですから。病気の潜伏期間は六日、長くて一週間です、お兄様。あの方が回復するまで待っていてはトリアーは壊滅します」
「それは望むところではない。血清のお返しに、騎士団たちには私を助けてもらわねばならぬのだから」
「馬の準備は出来ております」
「あの騎士の馬か?」
「ええ。もう元気を取り戻していますわ」
そこではじめてシェーネは笑った。緊張感がほぐれたようだ。彼女に見とれてディーが思わずでれっと鼻の下を伸ばしたが、ザックスはそれをさえぎるように立ち上がり、ディーの首根っこを掴んで大広間を横切っていった。
「ざ、ザックス様!?何を、お慈悲を!」
「わたしの代わりにトリアーを訪ねてくれ。卑しくも領主、国王たるもの街を留守にするわけにはいかん。四日間の小旅行だ。かの騎士の馬に道案内を頼むから、おまえは自分の馬を厩舎に行って準備してくるんだな。あの馬が主以外を背に乗せるとは到底思えぬ故」
「し、しかし、なぜわたしが!?」
「そなたも騎士のはしくれならば意地を見せてみるんだな。なあシェーネ?」
「ええ。血清はすでに門番へと渡してありますから。どうぞお気をつけて行ってらっしゃいませ、ディー」
にこり、と美姫に微笑みかけられてはディーとしても返す言葉はない。暴君の叔父に命令され、みじめたらしくも大広間を出て行くしか道はなかった。
──ああ、ほんとに民衆どもの気持ちがわかるよ……
こぼれた涙は無人の廊下にぱたりと落ちた。
「……暴君ーーーーっ! ザックスおじさんの馬鹿やろーっ!!」
ディーは思いっきり絶叫し、それを聞きつけたザックスが飛び出してくるより先にすたこらさっさと逃げ出していた。てやんでい。
行ってやるよ。行きゃあいいんだろう!?
「酒が禁止されてるっていうトリアーによおぉおおおお!」
ディーはもはや自棄を起こして城を飛び出していった。