異国の美姫と吸血鬼 36
「ねずみ」にいち早く気がついたのはリンツだった。
彼は姫君により肩の傷を手当され、彼女がジークとともに出立した後も、イライザの看病のもと治療室内に寝かされていた。
昨夜受けた傷は広く、出血が酷かった。
紙一重の所で交わしたから致命傷には至らなかったものの、あの厄介なぎざぎざの形状の刃物と、そこに塗り込められた手足の自由を奪う毒のせいで、姫君がいなければ命に関わる傷となっていても不思議は無かった。
あれは明らかに、暗殺用の得物……。
リンツは寝台の上で黙々と考えていた。
誰を暗殺するためのものかなど、考えるまでも無い。
ザックスだ。
そしてただの騎士である自分が狙われたのは無論、バーデンに与する者だと相手に悟られたからに他ならない。
あの時自分はジークの呼び笛を受け、夜陰にまぎれてこの城に忍び込もうとしているところだった。
だがその笛を聞きつけたのは自分だけではなかった。
同じように夜陰に紛れて城の周囲に潜んでいた暗殺者たちもするどく異変を察知して集まってきたというわけだ。
バーデン内に潜んでいた仲間達は無事に城へ入ることができたが、外で見張りをつとめていた自分は一歩遅れ、暗殺者たちとばったり出くわす羽目になってしまった。
なかなかの腕前だった。
騎士である自分にひけを取らないほどの腕の冴えで、しかしながら、その戦い方は騎士としての誇りと礼儀を全くといっていいほど欠いていた。
出会いがしらに、しかも背中から襲い掛かり、あまつさえ毒を使用。名乗りなどは論外だ。
あれは騎士ではない。騎士とは呼べない。
ただの外道だ。
リンツは呻いて身じろぎをした。
だがあれだけの腕前のものがバーデンに敵対しているとしたら、この戦は自分達の想像以上に厄介なものになる。
そして何よりも自分が襲われてしまったという失態のために、トリアー騎士団がここにいるということが既にあちらに伝わってしまっていたとしたら。
──もはやいつ戦を仕掛けられてもおかしくはない!
「……イライザ殿」
寝台の上からリンツはかすれ声を発した。
わずかに身じろぎをしただけで肩の傷が酷く痛む。姫の手によって解毒処置は済んでいるものの、ずきずきと沁みるような嫌な痛みはいまだ激しく彼を責めさいなんでいた。
おまけに毒のせいで発熱していた。
片方だけの瞳に額から流れる汗が入ってひどくわずらわしい。
「イライザ殿。居られるか」
侍女の名を呼びながら腕で乱暴に眼を擦ろうとしたところ、白い手が伸びてきてそれを止めた。
「お呼びですか。シュトラウザ様」
優しげな笑みが眼前に咲いた。
イライザである。
彼女は柔らかく微笑みながらリンツの枕もとに膝を折り、彼の顔の汗を拭きとった。
琥珀色の眼に濃い栗色の髪をして、年のころは20歳前後といったところだろうか。自分とほぼ同じくらいに見える。
彼女の世話になり始めたのは今朝からだが、その奥ゆかしい態度を、黙々と己の為すべきことをこなしていく様を、なにより明るく優しい花のような笑顔をリンツは既に好ましいと感じていた。
自然と目を和ませながら彼女に尋ねる。
「イライザ殿。お願いがあるのです」
「なんでしょう? この部屋を出たいというご希望以外でしたら承りますわ」
にこりと笑ってイライザは答えた。
見事に先回りされてリンツは一瞬絶句したが、すぐに立ち直ってこう言った。
「陛下とヴォルフ様にお会いしたいのです。わたしがここを動くこと叶わぬならば、まことに恐縮ながら、お二人にこちらへいらしていただけるようお願いして頂きたいのですが」
「なりませんわ。ここは姫様の御造りになった治療室。ゆえに入室される方はみなさま姫様の流儀に従っていただく必要がございます。そしてわたくしはその姫様ご本人より、少なくとも今日一日は絶対に、この部屋に第三者を立ち入らせぬようにと強く言いつけられておりますの」
「……それは治療のためということですか?」
「無論です。衛生上の問題ですわ。それに陛下とリヒター様は本日より、怖れながら、相当な血の穢れをその身に負われるかと存じます」
落ち着いた侍女のことばにリンツは軽く唸った。納得せざるを得ない。
ここは姫君の私的な領域、ならばこの中では全てが姫君の采配によって行われるのだ。自分がそれに逆らう権利は無い。
そしてイライザの言った通り、自分達は今日から本格的な戦いに身を投じていくのだ。戦がいつ始まるのかはまだ検討がつかないが、昨夜自分が暗殺者たちと一戦交えたという事実がある以上、逆に言えばいつ始まってもおかしくはない。
いや、あるいは、それは既に──
リンツははっと顔を上げた。
まるで野生の動物が敵の気配を察知したかのように、彼の全身は瞬時に緊張し、警戒心に張り詰めた。
その変化に驚いて声を上げようとするイライザの口元を手で覆い、リンツは全身の神経を研ぎ澄ませる。
片方の眼で治療室の全体を見回しながら空いた右手で寝台のすぐ傍に立てかけておいた剣を手繰る。そして全く音を立てずに鞘から抜いた。
今、かすかに物音がした。
布の擦れるような。帷子のきしむような。
方角は──
「伏せろ、イライザ殿!」
リンツは叫ぶと同時にイライザの上に覆いかぶさるようにして寝台から飛び起きた。
ひゅうっと空を切る音が耳元を掠める。リンツはイライザを突き飛ばしてから跳ね起きた。今の今までイライザが座っていた場所に抜き身の短剣が突き刺さっていた。
ほぼ時を同じくして敵の姿が現れる。どこから侵入したのやら、治療室の天井から降ってきたのだ。
「やはり貴様か!」
リンツは叫んだ。
忘れようも無い、昨夜自分を襲った暗殺者であったのだ。
対して相手も答える。
「貴様こそやはりトリアーの騎士か! おのれ堂々と睨下に反旗を翻し、あろうことかドルトムントごときに与しおって! それでよくも神に任命された騎士だなどと名乗れるものだわ、恥知らずの人殺しめが!!」
鎖帷子に袖なしの胴衣、厚手の外套に身を包んだ歳若い男であった。ずらりと音をたてて腰の剣を引き抜きざまリンツに鋭く斬り付けてくる。
イライザが悲鳴を上げた。
しかしこの時すでに剣を構えていたリンツは猛然と男に迎え撃った。
鋭い音が治療室内に響き渡る。
「ぬかせ! 名乗りもせずに人を背中から切りつけ、何の罪とがも無い貴婦人を平然と巻き込む貴様とどちらが恥知らずだというのだ!! 騎士の名折れ、下衆と呼ばれても詮無いわ!」
リンツは己を対遠距離専用の騎士と自負し、実際に弓矢と投擲を最も得意としているが、トリアー騎士団の一員として刀剣の扱いにも無論長けていた。
しかも彼は刀工としての顔も持っているため己の扱う剣の切れ味は他の追随を許さない。
怪我を負い、発熱しているとはとても思えない動きである。
すさまじい剣戟に襲撃者はじりじりと部屋の隅へと追いやられていく。反撃する隙すらも見つからず、たちまち全身に切り傷を負った。
「うぬ!」
苛立ちに突き動かされて男は反撃の構えを取った。
剣を高く構えて気合一閃、振りかぶる。
しかしリンツは相手の動きを一足はやく読み取って、このときには既に体を低く沈めていた。並外れた素早さである。
「何!?」
眼を剥いた暗殺者の腹をリンツは下から抉るようにして剣の柄で打突した。
声にならない声を上げ、男はその場に崩れ落ちる。
リンツは素早く男の両腕をひねり上げると後方のイライザを振り返って声を掛けた。
「イライザ殿。すまないが縄をお借りできるでしょうか?」
「……は……あの……」
イライザは腰を抜かして床にへたりこんでいた。当然である。
バーデンで戦があったのは彼女が生まれる前であり、イライザは戦を経験したことがないのだ。
これほど間近で武器が振るわれるのも、無論自分が襲われるのも、彼女にとっては全くはじめての経験だった。
リンツは眼を瞬いて彼女を見たが、直後、肩に走った激痛に顔をしかめていた。無我夢中で傷のことを忘れていたのだ。
イライザはそんなリンツの顔を見て、はっと我を取り戻した。
「まあ! 何てことでしょう、わたくしとしたことが! シュトラウザ様を頼むと姫様に申し付けられておりましたのに!」
そして彼女は健気にも震える足で立ち上がり、リンツのもとへとまろぶように駆け寄ってきた。
しかしまず怪我を見ようとした彼女をリンツは止め、縄を持ってきてくれるようにと繰り返した。
イライザは戸惑いながらも部屋の中を探し回り、ほどなくして縄を手に戻ってきた。
リンツは礼を言ってそれを受け取り、男を素早く縛り上げた。
「……これで良い」
「シュトラウザ様、傷が開いてしまっています! すぐに手当てを──」
「否。今はこの男を陛下とヴォルフ様の御前に突き出すことが最前です。頼みます、どうかキースかギュンターにこのことをお伝えください」
「そんな!」
イライザは首を振ったが、リンツもまた同じ仕草を彼女に返した。
琥珀の瞳と夜の色の瞳が正面からぶつかり合う。
双方はしばし互いに見つめあい──もとい睨みあっていたが、やがて先に根負けしたのはイライザだった。
「わかりましたわ」
彼女は言ってうつむいた。姫君といい、ザックスといい、このリンツといい。
どうして自分が世話をする人間はこうも頑固なものばかりなのか。
頑固で、そして無鉄砲な。
「……騎士団のお方を呼んでまいります」
「かたじけない──」
たちまち頭を垂れたリンツの言葉を、しかしイライザは途中でさえぎった。
「けれど! それが終わったら直ぐに、本当に直ちに、肩のお傷を手当させて頂きますからねっ! ご安静になさいませと申し上げましたのにこうも平然とその言葉を無視された以上麻酔も痛み止めも使用いたしませんから、どうぞお覚悟なさいませ!」
「…………!」
リンツが驚きと衝撃にぽかんと口を開いたのを尻目に、イライザは憤然と治療室を出て行った。
***
「成程な。暗殺教育を施された騎士、か」
ザックスが言った。
質素な緋色の王座に腰掛け、眼前の広間に転がされた黒ずくめの男の姿を眺めている。
彼の脇には何の表情も浮かべないヴォルフが佇み、男の背後には抜き身の剣を握ったキースとギュンターが控えていた。
「昨夜リンツを襲ったのと同じ騎士ということです。ということは、我らトリアーがバーデンに入ったという事実は既に法皇派の知るところだと思って間違いないでしょう」
ヴォルフが言った。他でもないリンツから聞いた情報である。
ザックスはひとつ頷くと赤い顎鬚を撫で回してヴォルフを見た。
「そうだな。となると丁度良い頃合だ。あれの守備は?」
「既に伝達は飛ばしております。今頃は兵士に化けた山賊達が北部地区内を駆け回っている頃かと」
「ご苦労」
「いいえ」
淡々と言葉を交し合う領主と騎士の会話を聞いて、暗殺者の男が反応した。両手足を縄で縛られさるぐつわを噛まされながらも芋虫のように全身でもがいて抗議している。
耳まで真っ赤にして憤然と暴れる男に一瞥をくれ、ザックスは短くヴォルフを呼んだ。
「リヒター騎士」
「はい」
ヴォルフも領主が何を言いたいのかはわかっている。
静かに王座から広間へ続く階段を下りると、もがく男の傍に歩み寄り剣を抜いた。
薄い刃の切っ先が男の鼻先に突きつけられる。
ヴォルフは言った。
「久しいな」
冷たく無情な声音をしていた。
暗殺者の男は暗い眼でヴォルフを見上げる。
その瞳には明らかな侮蔑と嘲笑の色があった。
さるぐつわを噛まされていなければこの男は耳を塞ぎたくなるほど凄まじい罵声をヴォルフに浴びせかけていただろう。
だが今はそれができない。
もがくだけの男を前にせせら笑ったのは逆にヴォルフであった。
「何が言いたい? 裏切り者か? 臆病者か? 確かに俺はそのどちらにも当てはまる。だがな、生憎と、おれの主君はもはやかの法皇ではないのだ」
この発言を受けて男は尚一層激しく暴れた。
とどのつまり、ヴォルフとこの男は顔見知りなのだった。
それもヴォルフがトリアーに来てからの知り合いではなく、法皇の宮殿に居たころの知り合いだ。
つまりこの男は法皇子飼いの部下ということである。
脇からザックスが口を挟んだ。
「法皇の教育した暗殺者の一人なのか?」
「そういうことになりますな。正確には法皇の指示の元、大陸のあちこちで育てられた暗殺用の騎士です。つまり法王はこういった下衆を大陸中に飼っているということです」
「なんと! 噂どおりにあくどいな。それらを利用してあれだけ領地を広げてきたというわけか」
「そういうことです。ここ数年で重要な家臣のほとんどが不慮の病と事故で失われたヴァルデック、女王が倒れたのち王位継承者が次々に死亡し滅んだノーザンブリア、内乱が突如としておさまり、めきめきと豊かになりはじめた南方諸国。確かな証拠はありませぬが──魔法のように物事が法皇めがけて好転していく、その裏には、ほぼ絶対に彼らの暗躍があると考えて間違いはないでしょう」
淡々としたヴォルフの言葉にザックスは軽く唸った。これ程までにかの法皇が腐りきっているとは考えが及ばなかったのだ。
疲れたように片手で顔を覆い、バーデンの王たる彼は続ける。
「しかしその者、先ほど北部地区という言葉に反応しおった。つまりはそこに住む貴族諸侯、ひいては御三家が法皇から彼らの存在を賜ったということか?」
「はい。いや、違うな。正確に言えば法皇が御三家に依頼したのではないでしょうか。男色で異国の美姫におぼれているキチガイ領主に膿んでいた彼らは法皇に餌を見せられて食いついたというわけでしょう」
「それは私のことかね。リヒター」
「さて。とにかく、それほど法皇はこのバーデンを欲しがっているというわけですな」
ヴォルフは肩をすくめて答えた。
ザックスはため息を吐いた。
広間に沈黙が落ち、それまで黙って成り行きを見守っていたキースとギュンターがここで初めて口を開いた。
「ヴォルフ様。よろしいでしょうか」
「キース。何だ?」
ヴォルフが答えると部下は軽く一礼して喋り始めた。
「ザックス陛下の御前でまことに無礼とは存知ながら申し上げます。ここバーデンは何故それほど法皇を惹きつけるのでしょうか。さほど領地も広くなく、地理的にも重要でない国です。しかも十年前に法皇は一度バーデンを襲って失敗している。それにもかかわらず尚も法皇が執着する何が、このバーデンにはあるというのですか?」
キースは東方の出身の騎士で、ギュンターはその双子の弟だ。
まだ十代と若いためか非常に勇敢で一途な性格をしており、その良く似た見掛けと、二人揃えばジークとヴォルフですら手こずる強さのために「双頭の鷲」との呼び名でもって知られている。
兄が喋り終えると今度は弟のギュンターが口を開いた。
「俺も兄と同感です。ただ目障りだという理由ならば頭から宣戦布告をして叩き潰せば済むことです。にも関わらずわざわざこのように内乱を招くような真似をするとは、あまりにも卑劣でまだるっこしいやり方ではありませんか」
「そなたは好ましい部下に恵まれているな。リヒター」
双子の騎士を満足げに見つめてザックスが言った。
ヴォルフは恐れ入りますと答えてから双子の騎士に向き直った。
「お前達の疑問は最もだが。では、逆に問おう。何故だと思う? 地理的、政治的な意味合いでは狙う価値の低い土地。それでもここを狙う法皇。しかもそのやりかたは直接的でなく、内乱を招くという間接的で時間のかかる面倒な方法」
「……」
顔を見合わせて考え込んだ双子の騎士であったが、やがて程なくして弟のギュンターが声を上げた。
「そうか──法皇は直接攻め込まないのではなく、攻め込むことができないのですね?」
弟の言葉にキースもはっと瞬いた。
彼らは互いあってこそ自己を高めることのできる、鏡合わせの存在なのだ。
キースは言った。
「なるほど。攻め込む理由がないんだ。つまり、私情でバーデンを欲しがっている」
「正解だ」
ヴォルフは笑った。
ザックスがにこにこと笑いながら注釈する。
「戦をしかける時にも礼儀は必要だ。どの国のどんな支配者も必ず宣戦布告し、双方に準備が整ってから戦いを開始する。こじつけでもなんでもいいから適当な理由を掲げてな」
「それもなしに戦を仕掛けた場合、仕掛けた側の評判は間違いなく地に落ちる。まして法皇ともなれば尚更だろう。だから法皇はバーデンに正々堂々と攻め込むことができないんだ。攻め込む理由がないのだから当然のことだ」
「けれど──いえ、だからこそ何故なのですか? ザックス陛下。ヴォルフ様」
深まる一方の疑問にキースとギュンターは声を揃えてそう訊ねた。
ヴォルフは黙って首を振る。
最終的に彼らの問いに答えたのはザックスだった。
「恐らくは……このバーデンを象徴する二人の異国の美姫が目的」
すなわち。
「ゾフィー・フォン・バーデン妃殿下に、マリア・フォン・バーデン王女だ」