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異国の美姫と吸血鬼 35

 

「ユーディット」

 

 

 

 バーデンより北東に位置するプルーセン王国は、どうどうと流れる大河の傍に存在し、その河の恩恵により栄え護られてきた国である。

 広大な領地に点在する町村は無論のこと、わけても国王の住まう宮廷は河の中洲に建てられて、城から繋がる跳ね橋を渡らなければ何者も侵入すること許されない。

 その堅固な建築とあいまって難攻不落との呼び名フランク一を誇る、美しくも強靭な戦闘用の水城であった。

 

「ユーディット……そこに居るか」

 

 そのプルーセン王宮の一角、最深部ともいうべき塔の中に、長く幽閉されてきた女性が居た。

 塔の内部は陰鬱と暗い。明り取りの窓が少ないためだ。太陽の光が届かないのでじめじめと湿気が多く、一歩立ち入ればカビの匂いがむっと鼻腔に忍び込んでくる。

 そんな塔内に、薄手の毛織物を身に着けただけの姿で、靴下すら履かずに両手足を鎖で拘束された女性がいたのだ。鎖は太く長い。部屋の中を歩き回ることはゆうにできる長さであったが、その根元は壁の中にがっちりと組み込まれており、大の男でも引き千切ることは不可能と思われた。

 誰がどう見ても塔に捕らわれた囚人の体である。

 ──しかし。

 

「……此処に、妃殿下」

 

 ふいに、部屋の外からひそやかな声が響き、同時に覗き窓から掲げられた蝋燭があった。

 ゆれる焔の灯りは部屋のわずかな範囲を照らし、それはかろうじて捕らわれの女性にも届いた。

 女性は顔を上げた。はじめこそまぶしそうに眼を細めたが、すぐにその眼は見開かれた。

 囚人の瞳ではない。

 捕らわれの身にあることを甘んじて受け入れて、諦めた人間が持ちえる眼ではけっしてなかった。

 

「どうなさいました、妃殿下」

「ユーディット。南から風が吹きつけてくる」

 

 鎖を引きずりながら扉の前ににじり寄る、彼女の声は澄んでいた。

 その声を聞いて、ユーディットと呼ばれた侍従は、固く鍵の掛けられた部屋の前に膝を折った。

 

「──南から? ……では、まさか」

 

 押さえた声音が震えを帯びた。

 捕らわれの女性はきっぱりと頷いた。

 

「そうじゃ。焦がれたものが、近づきつつある」

「わかるのですか」

「わかるのじゃ。この血……ノーザンブリアの血潮がわらわにそう告げておる」

 

 扉の覗き戸からきらめく双眸を覗かせて女性は断言した。

 蝋燭を持つ手を歓喜に震わせながら、侍従ユーディットはその眼を見つめる。

 平生は淡い水蒼みずあおの色をしながら、こうして闇の中で光を浴びれば赤みを帯びる、不思議な瞳。

 否、赤色だけではない。その瞳は角度により、空気の湿り具合により、もっと様々な色に変化して見えるのだ。

 そしてこの瞳こそが、失われし聖王国ノーザンブリアの、その正当なる王家の血筋を受け継いでいるという、何よりの証明。

 

「いざや時は満ちたり」

 

 女は艶然と言い放った。ユーディットはふたたび歓喜にうちふるえた。女も笑った。彼女の、足元まで覆う長い髪が生き物のようにさざめいて揺れる。

 

「ユーディットよ、戦の準備はできておるかえ?」

「は。この数年をかけて準備して参りました」

「数はいかほど」

「きっかり五百人、集まりました」

「ちと少ないか……否」

 

 侍従の答えに女は愛らしく首を傾げたが、すぐに再び前を見た。

 その顔も髪も、長きにわたる幽閉生活のせいで真っ黒に汚れている。だが彼女は、洗えば相当な美貌であろうと思わせる、際立って整った目鼻立ちをしていた。

 女は声を低めて言った。

 

「この南風、何か大いなる力を秘めておる。……我らは我らだけの力でここを脱出する必要はなさそうじゃ」

「と、申しますと?」

 

 ユーディットが膝を折ったまま早口で尋ねる。

 彼女は牢屋番の女だが、時刻も深夜を過ぎた今、交代が間近に迫っていたのだ。もうあまり時間が無い。

 女もそれを理解していた。

 覗き戸の間際まで寄せていた顔を後ろに引くと、彼女は牢の中にゆっくりと後退し始めながらこう言った。

 

「ユーディット。そなたの仲間である流浪の民達に伝えよ。南風はここプルーセンと同時に、隣国ヴァルデックにも吹くであろうと」

「ヴァルデック……」

 

 その国の名を聞いてはっと眼を見開いたユーディットである。

 

「では、かの騎士団が……!?」

「うむ。高潔なる金獅子は、ヴァルデックに膿む女将軍にはこの上も無い味方であろう」

 

 牢の中の女は今一度微笑んでそう答え、それからすぐに思い出したように付け加えた。

 

「──無論、わらわにとってもだが」

 

 ***

 

 

 漆黒の眼差しが見据える先には、黎明の空。

 黒曜石の色合いに燐光がまたたき、強い意思を湛えていた。

 

「なにを、考えておられる?」

 

 ジークフリートは姫君に尋ねた。

 吐く息が白い。世界はまだふかく夜の闇に閉ざされて、濃い霧が周囲に立ち込めている。

 旅立ちの朝。

 バーデン城内の厩であった。

 夜明け前にひっそりと馬を引きだす騎士と姫を見送る者は誰もおらず、辺りにはつめたい冬の静寂が張り詰めていた。

 姫も騎士も双方貧しい衣服に身を包んでいたが、その裾のほつれた外套をめくり上げれば、内には頑丈な鎖帷子を身につけて、それぞれの武器を携帯しているのであった。

 

「……考えていたのではない。感じていたのです」

 

 既に馬上の人である姫君は答えた。

 深々と頭巾を被った白い顔がジークを見つめ、微かにほほ笑む。

 華奢な手が、す、と上げられ、今しも蒼い光を放ち始めた地平線の彼方を指差した。

 

「ご覧になって」

 

 ジークは言われたとおりにする。

 

「この、空気の甘さ、冷たさ、闇と光の近しさ。あなたは御存じないかもしれませんが、全てわたくしにとって、ひどく懐かしいものなのです。」

 

 姫君は、言われなければ誰もそうとは気付かないだろうが、わずかに訛りのある言葉を喋る。だがその少し低い声や、端的な物言いが知的で快いとジークは好ましく思っていた。

 彼はにこりとほほ笑んで、姫を見上げる。

 

「存じ上げておりますとも──ヴォルフから、聞いています故。しかし、それにしては、ひどく落ち着いていらっしゃる」

「そう……それが、我ながら不思議なの。」

 

 姫はわずかに小首を傾げた。

 

「ずっと怖かった。一歩も外に出るものかと、そう固く誓っていた。緑と大地の匂いは、わたしを怯えさせるだけだと思っていたわ。でも、違う。私、いま、喜んでいるの」

「当然ではないでしょうか。人も自然の一部です。動物も人間も、草花も全ては同じ流れの中で生まれ、死にゆく。その流れから意図的に抜け出すなどと、どう考えても不自然です」

 

 ジークが言うと、姫君はなぜか笑った。

 外套にくるまれた背中がかすかに揺れて、彼女は口許に手を寄せる。

 

「トリアーのひとたちって、本当に変わっているわね」

「は? 姫君?」

「もう、やめて頂戴。わたしは姫君などではないと、何度言ったら判ってくださるの。わたしはマリア。魔女のマリアよ。それ以上でもそれ以下でもなく。」

「しかし、ですね」

「ヴォルフは判ってくださった。あなたも、本当は判ってくださっているはず」

 

 姫はそう言い、さらに笑んだ。

 ジークはしばし考えたが、やがて自分もふっと小さく笑っていた。

 わずかに頭を振り、愛馬の手綱を取る。

 

「わかりました。では──参りましょう。マリア」

 

 そしてひらりと馬に飛び乗った。

 ひとつ大きく脇腹を蹴り、弾みをつけて走り出す。

 マリアも倣い、半年城の中に幽閉されてきたとは思えないほどのたくみな馬術ですぐにジークフリートの後を追った。

 たちまちの内に追いつかれ、ジークは低く口笛を吹く。

 

「驚いたな。あなたは本当に……我らの想像をいともあっさりと超えてしまう」

「わたしが馬に乗れるのが意外?」

 

 姫は吹き付けてくる冷たい風を心地よさそうに受けながらジークの隣に並んだ。彼は肩をすくめてみせる。

 

「それはもちろん。我々の常識として、淑女は馬に乗るものではありませんからね」

「まあ、それは差別というものですわ。わたくし、馬は好きですの。ここバーデンに参る少し前、流浪の民たちと生活を共にしていたときに乗り方を教えてもらったのですよ」

「るっ……流浪の民!? あの、大陸中を移動して、盗みだのいたずらを働いては歌って踊って去っていくというおもしろおかしな!?」

「それは多分に偏見の含まれた情報ですわ、ジークフリート様!」

 

 マリアは声を転がして笑うと、ぐんと体を沈めてさらに馬の速度を速めた。そうしていともたやすく追い抜かれると、馬を操る騎士たるもの、さすがに矜持が傷つけられる。ジークは慌てて姫の後を追った。

 

「姫! お待ちください、始めから飛ばすとばてますよ!」

「何を悠長な。のんびりしている暇など私達にはないでしょう?」

 

 姫は振り返りもせずに進んでゆく。

 どんどん遠ざかる小さな背中を見つめて、ジークは彼女を愛する親友の顔を思い浮かべた。彼は昨夜、苦虫を百匹以上噛み潰したような顔でこう言ったのだ。

 

 ──いいかジーク。彼女に怪我でもさせてみろ。その時はおれはためらわずにお前を斬る

 

「……待っ……」

 

 額を、背筋を伝いおちた汗は、けっして馬に乗っているためだけではない。ジークは今一度馬の脇腹を強く蹴った。

 

「待ってください、マリア!!」

 

 二人はまっすぐに城門をめざして駆ける。

 

 *** 

 

「行ったか……」

 

 ジークと姫君が並んで馬を駆り遠ざかってゆく姿を、城のバルコニーからザックスとヴォルフが見つめていた。

 双方、共に厳しくも考え深げな眼差しで前だけを見据えている。

 ザックスが言った。

 

「無事に帰って来てほしいものだ。彼らの帰還が我々の計画の雌雄を決するのだからな」

「御心配は無用です、陛下。ジークフリートは腐っても我々騎士団の長を務める者。その腕もさながら、あいつが人との約束を違えることは絶対にございません」

 

 きっぱりしたヴォルフの言葉にザックスはちいさく笑った。

 シェーネを心配していないはずは無いのに、それをおくびにも出さず己の務めを果たそうとしている姿に好ましさを覚えたのだ。

 

「そうか。ならばもう何も言うまい。──山賊達と連絡はついているのだろうな?」

「は。すでに兵舎は彼らによって乗っ取られているはずです。ジークと姫君は問題なく通過できることでしょう」

「うむ」

 

 ザックスが軽く顎を引いた所で、バルコニーの背後に音もなく一人の騎士が現れた。

 床に膝をつき、胸に手を当ててヴォルフとザックスに頭を垂れた。

 ヴォルフは振り向きもせずに彼を呼んだ。

 

「キースか。どうした」

「は。ただいま城の裏門よりアルフレド様とヴァルター様がプルーセン目指してご出立されました。」

「そうか。山賊たちの守備はどうだ?」

「滞りなく。付近の山中に潜んでいた彼らの仲間を集めまして、既に正門、裏門、兵舎の三箇所に奇襲をかけさせました。無事に乗っ取りは済んだようです」

「そうか。よくやった」

「は。加えまして、先ほどギュンターが城内に入り込んでいたねずみをつかまえたようですが、処理はいかがなさいますか?」

 

 キースのその一言にヴォルフはザックスに視線を向けた。

 ザックスは面白そうに微笑んでいたが、ヴォルフの真剣なまなざしを受けると笑みをますます深くした。

 

「残念ながら我が城には、ねずみ捕りの猫はいないのだよ」

「狼なら此処におります」

 

 眉ひとつ動かさずにヴォルフは答えた。ザックスは満足そうに頷いた。

 

「では、貸してもらうとしよう」

 

 そのまま城内へと踵を返した彼を追い、ヴォルフも歩き出す。キースが黙って後を追った。

 白いマントが翻り、そこに縫い取られた金色の獅子の刺繍が輝きを放つ。

 彼らの背中の後ろでは太陽が刻一刻とその姿を現しつつあった。

 

 ──始まりの夜明けである。

 

 

 


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