異国の美姫と吸血鬼 33
「ジークフリート」
羽ペンを持ち、蝋燭ごしにしばらく姫とザックスの様子を眺めていたヴォルフは、頃合いを見計らって友に発言を促した。
トリアー騎士団長は頷くと、椅子を引いて立ち上がった。
騎士達も──むろんヴォルフも──わずか遅れてそれに倣う。
「では、トリアー騎士団長として皆に命ずる」
すらり、と剣を鞘走らせて、彼はその刃を宙に掲げた。
ザックスとマリアが息を詰めて騎士たちの顔を見つめている。
団員たちが同じように腰帯から剣を抜くのを見届けて、ジークは言った。
「これより我らは、全力を以てここバーデン領国を法皇の魔手よりお守り申し上げる。皆もその恩を受けた通り、トリアーは先に発生した流行り病のため、バーデン領国のご援助なくば滅亡を余儀なくされていた。神に任命された騎士としての誇りにかけて、国王陛下とその妹姫、マリア・フォン・バーデン王女殿下に礼節を尽くせよ!」
朗々と言葉を切り、ジークは刃に額を押し当てると、今度は床に跪いて、剣をザックスの足もとに突き立てた。そのまま深く礼をする。
騎士達もそれに続き、ザックスとマリアの視界には一瞬、彼らの白い礼装と、その背に縫いとられた金色の獅子しか映らなくなった。
崇高とも言えるほど、高潔な騎士団の、宣誓の図であった。
「……貴方がたの厚意に、心より感謝する。」
やがてザックスが、厳かな声でそう呟き、皆に起立を促した。
「だが私は、君たちを臣下ではなく友人として遇したい。どうぞ立って、いま一度席についてほしい。」
「もちろんです、国王陛下。」
にこりと笑ってジークが応じ、騎士達を立ち上がらせると、そのまま椅子へと座らせた。
ヴォルフがゴブレットを持ち上げて、一口水を口に含むと、またすぐ羽ペンを手に取っていた。
それで、と彼は隣の悪友の顔を見る。
「具体的にはどうするつもりだ、騎士団長殿?」
「うん。まずはだな。──とりあえず婚姻の儀を上げようかと」
がふっ、と妙な音がした。
ザックスが笑いを噛み殺そうとして失敗したのだ。
だがヴォルフはとても、笑っていられるような心持ではなかった。
羊皮紙にペンを思いっきりひっかけて、インクがあざやかに飛び散った。
頭を押さえながら、彼はうめき声に近いものを上げた。
「……いま、何と言った、ジークフリート……」
「聴こえなかったのかよヴォルフ?」
きょとん、と瞬く騎士団長さまは、あくまで無邪気を装っている。
卓の上に放置していた林檎を手にとると、直接口に運んでしゃりりと齧った。
「だからー、まず手始めに俺と姫君との婚約を発表する。そして先に上がった法皇の息がかかった御三家と、ヴァルデック、プルーセンにも結婚式への招待状を送る。ついでに法皇にもお手紙送っちゃおうかな~、さぞやビックリしてくれると思うぜ!」
「お、お前ってやつは……っ」
いたずらを思い付いた子供のようなジークフリートに、怒りを隠せず立ち上がりかけたヴォルフであったが、大陸一の騎士とうたわれる彼を、なんと片手で制したものがいた。
「静かになさい、リヒター。」
マリア姫である。
ヴォルフはぱっと彼女を見たが、いま一度お黙りなさい、と命じられると、おとなしく席についた。
ジークフリートを筆頭として、場の騎士たちはみな唖然とした。
……あのヴォルフ(様)を、片手で制しちゃう御姫様ってどんなよ!
ほとんど恐怖に近い驚きに、騎士達はみがまえた。
マリアがまっすぐジークを見つめ、彼を呼んだ。
「ジークフリート様」
「は。はいっ!」
ジークは慌てて姿勢を正した。何故かはわからないが、この姫にはただならぬ気迫があった。
逆らったら恐ろしいことが起きるような、そんないわれのない予感に、背筋を汗が伝い落ちる。
「御話をお続けになって。わたくしと貴方様の婚姻を発表し、法皇派をバーデンに集め、それでどうなさるおつもりなの? 一気に敵を叩くおつもり?」
「その……おつもりです。」
ジークは眼を白黒させながら応えた。
やはり、この姫君は只者ではない。恐ろしく聡い女性だ。
マリアは頷き、長いまつげを上下させた。
「そしてそのままヴァルデックとプルーセンという領地をお兄様に提供なさるおつもりなの? 半法皇派の勢力を広げるために?」
「その通りです」
「そしてバーデン領主国を成長させ、ゆくゆくはお兄様をフランク地方全体の王と据えるおつもりなのですね。」
「……その、通りです。」
ジークはもはや言葉もなかった。ただ感嘆し、舌を巻いていた。
今回トリアーがバーデンに助力するのは、単にザックスと姫君に恩を返すためだけではなく、この期を借りてバーデンおよびトリアーを狙う諸公を一度に叩き、そのまま半法皇派の勢力を広げてしまおうというもくろみのためでもあった。
姫君はその全てを理解していた。
うーん、俺こういうひととは結婚したくないな……と考えて、思わず苦笑いしてしまったジークであった。
「しかしそううまく行きますかしら? 仮にも法皇、ヴァルデックとプルーセンの軍勢はそれなりものでしょう。反面わたくしたちバーデンとトリアーは、合軍であることを考えても、先の法皇派から比べるとものの数に入らない規模である事は間違いありません。ねえ、お兄様」
「うむ。シェーネの言う通りだ」
ザックスは相変わらず姫君を偽名で呼んだ。
マリアはそれに対して不満そうな顔をしたものの、何も言わなかった。
ザックスはジークとヴォルフに顔を向けて尋ねる。
「騎士団長御みずからバーデンへ来られたということは、留守を預かるトリアーが危機にさらされているということを意味するのではないか? なのに君たちは平気な顔をしている。つまり、留守をしても大事ないほどの兵力をトリアーに残してきているということだろう。それは逆にいえば、君たちが私たちに貸してくれる兵力が少ないという事にはなるまいか」
「さすがはバーデン領主殿。鋭い眼をお持ちでいらっしゃる」
頷いて見せたのはジークであったが、彼は一瞬のち、またあの不敵な笑みを浮かべていた。
「しかし、御心配には及びません。我らトリアーは卑しくも、大陸一の騎士団との誉を戴いております。最低限の労力で、最大限の功績を。それが我らの信念の一つにございます」
「具体的に説明するんだ、ジークフリート」
少し格好良く決めてみたのに、横からのヴォルフの突っ込みに舌打ちをしてしまうジークである。
「……はいはい、全くせっかちだよな! ──ええと、ですから、計画はこうです。第一に姫君と私の婚約を発表。結婚式の日取りも合わせて公表して頂きます。第二に法皇派をバーデンへおびきよせます。これは結婚式までの日にちを生かし、着実にやりましょう。そして第三に、少し荒技になりますが、マリア姫をお借り申し受けたい」
「──シェーネを?」
ザックスは眉をひそめた。
同時にヴォルフが額に青筋を立ててジークの首根っこを掴んだ。
しかしながら、再び姫君ご本人が、愛らしく首を傾げて彼を止めていた。
「おやめなさいと言ったでしょう、リヒター」
「しかし、姫!」
「ただ守られるだけの姫では居たくないと、先だって伝えた筈よ。……ジークフリート様?」
「何でしょう、マリア姫」
呼びかけられ、ヴォルフに首根っこを掴まれたまま、ジークが応じた。
マリアは尋ねた。
「わたくしをお連れになってどうなさるの? 何かのお役にたてるのでしょうか?」
「それはもう。考え方によっては、貴方様の行動しだいで我々の勝負は決まるでしょう」
ここで、いつも通り奇想天外な団長の言葉に、なにも聞かされていない騎士達のあいだから動揺のざわめきが起きた。
当然である。麗しき貴婦人を、戦いの場にひっぱりだすなど、騎士の恥といわれても仕方のない蛮行なのだ。
なのに、それを、こともあろうに団長本人が行うというのだから!
たまりかねて口を開いたのはアルフレドだった。
「口をさしはさむ御無礼をお許しください、しかしながら、このようにか弱い貴婦人を争いに巻き込むのは騎士として為すべき行いではないかと心得ておりますが……!」
「うーん。お前は正しい。けどな、正確に言うと、巻き込むわけじゃないんだ。決定権は、姫君にあるんだから」
ジークは頭を掻きながら部下に応えた。
その言葉を聞き、いまだに彼の首を掴んでいたヴォルフは、手に込めた力を強める。ほとんど首を絞められる状態となって、ジークは苦しみに呻いた。
「やめ、やめろヴォルフ! 苦しい! マジで死ぬから!!」
「ふざけた事ばかり言っているからだ! 姫君を巻き込むなどと、本気で殺してやってもいいくらいだぞ!」
言いながらがくがくジークを揺さぶるヴォルフを見かねて、部下達が止めに入った。
「ヴォ、ヴォルフ様っ! おやめ下さい! ジーク様も! お戯れはいい加減にしてくださいっ!」
「おれ、お戯れなんかしてないもん!!」
「何がもん、だ! 少しは黙れ!」
「ぎゃー! 本気で死ぬぅうぅう!!」
「……賑やかな騎士団である事だな」
この騒ぎを横目に、ぷっと吹き出していたのはザックスであった。
眼の前でトリアー騎士団の長が殺されようかという所であるのに、いっこうに止めに入る様子がない。まさに楽観している。
肩を揺らして愉快そうに笑うバーデン領主であったが、彼の隣では、姫君が深刻な顔をして考え込んでいた。
ザックスはそれに気づいて声をかけた。
「シェーネ? どうした?」
「……お兄様」
姫は、ゆっくりと顔を上げて兄を見た。
黒々とした瞳が切なる望みを以て見開かれている。
「わたくしを、この城から出して下さい」
「──」
何を、と間髪いれずに言い返そうとして、ザックスは失敗した。
姫の瞳があまりにも深く澄みわたっていたために、眼をそらせなかったのである。
結果的に、ただまじまじと、妹姫を見つめてしまうことになった。
マリアは、ふたたび、繰り返した。
「城から出して下さい。わたくしはジークフリート様のお申し出を受けます。結婚は致しません。けれど、ただ待つだけ、ただ物事を悲観するだけで、自分の運命を捻じ曲げられるのはもう嫌なの。わたくしにできることが例えひとつでもあるのなら、わたくしはそれに賭けたいと思います」
「なにを……」
今度こそ、掠れる声でザックスはそう、呟いた。
眼の前の姫を愛する気持ちが、守れなかった王妃への気持ちが、豊かで美しかった少年時代の思い出が、彼の脳裏を鮮やかに駆けめぐって声をふるわせた。
「なにを、賭けるというのだ、シェーネ」
そなたは、そなたの力に。
人は、自らの力に、何を賭して、何を目指せばいい?
「死ぬかもしれん。捕らわれるかもしれん。ふたたび魔女と虐げられて、凌辱され、八つ裂きにされるかもしれんのだぞ。それほどまでの危険を冒しても、そなたが手にしたい物とは何ぞ?」
ザックスは、姫に問いかけた。それは同時に、己に対する問いかけでもあった。
過去を悔み、立ち止り続けたわたしはこれから、一体なにを目指せばいい──。
その、悲痛な叫びを、ザックスはマリアに託していた。
「それは……」
マリアはわずか俯いた。
細い肩が震え、短く切りそろえられた髪のあいだから、まっ白なうなじが覗いた。燃やされた髪に肌。
そしてその心。
「それは、未来です、お兄さま」
それでも姫は前を見た。
兄を、騎士達を透かして、広間の暗闇の先にかがやく時代を見つめていた。
「人は、未来へ進む生き物なのです、お兄様。幸福を記憶し、傷を超えて、生きて行くことができる唯一の生き物ですわ。独りでは、きっとできることには限界があるでしょう──けれど。けれど、仲間がいれば多くの事を成し遂げられるのですわ」
「……そなたの望みを」
ザックスは、熱いものが目にこみあげるのを感じ、思わず眼頭を指でおさえた。
彼女を救って、だが本当は救われたのはザックスの方であったのだと、シェーネはきっと考えることもできないだろう。
「叶えて遣わす。好きなように、するがいい」
異国の魔女にして吸血鬼。
たぐいまれなる知性と力を持つ、わたしの最愛の妹。
「だが決して、死ぬでないぞ……マリア」