異国の美姫と吸血鬼 32
「ヴォルフ、息災だったようだな」
「ああ。手厚く世話して頂いた。軟禁とも言うがな。おまえも無事なようで安堵したぞ、ジークフリート。」
城内へ入った騎士達は、先ず城の中央に位置する大広間へと通され、暖かな食事と飲み物を提供された。
縦に長い長卓の上には新鮮な肉に魚、果物などが所狭しと盛られ、あきらかに南の騎士達の到着を待っていた風情である。
手負いのリンツだけは姫君に連れて行かれ席を空けたが、冬の旅と監察の疲れのたまった団員達は、ジークの合図を確認して粛々とそれらの馳走を食べ始めた。
しかしながら、当の団長と副団長は手をつけようともせずに互いの顔を見比べている。
卓の上に置かれている燭台の灯りが、厳しいふたりの騎士の顔を照らしていた。
「いつ入城した、ジーク?」
「昼過ぎだ。お前は居なかったようだな。」
「姫君と話をしていたのだ。では、ザックス殿と大体の話は済んでいるのか?」
「ああ。対法皇派を討ち、ここバーデンを復興するためという名目で、正式に助力を請われた。まだ答えてはおらなんだが」
「そうか……。」
ヴォルフはそこで腕を組み、しばし何か考え込むように不思議な瞳を瞬いていたが、やがてその双眸をふたたび友に向けていた。
「ジーク。おれがこれを言うのは奇妙に聞こえるかもしれんが、彼は──ザックス殿はまことの王者たる器だ。狂王だのなんだという噂は、彼の父、つまり先王が彼に遺した負の遺産である」
「そのようだな。」
ジークは気安く請け負った。
ようやく卓に手を伸ばし、まだほかほかと湯気の立つパンを取り上げると、彼はそれを林檎か何かのように齧った。
「俺も色々と調査はした。彼が我々と志を同じとする御方であられることはもうすでに判っているさ。ゆえ、俺自身としてはバーデンは助けてもいい、否、どちらかといえば助けたいという心づもりでいる。だが昨日一日を費やして、部下たちにバーデンの街を調査してもらったのだ。最終的な判断を下すのはその報告を受けてからにしたいと思っている」
「無論。我らがザックス殿に加担するということは、すなわちその時点で戦がはじまるということだからな。」
「そうだ。それも知りたい。話がバーデン内での内乱にとどまればいいのだが──恐らくそうはいかんだろう。敵の数も味方の数も把握せねばならぬゆえ」
「ああ。犠牲は最小限に抑えたいものだな……」
ヴォルフがそう呟き、不思議な色合いの瞳が憂いにふっと翳ったとき、部下たちが一斉に食事を止めた。広間の扉が開かれたのだ。
そして、入って来た二対の人影が目に映った。ザックスと、姫君である。
みなが立ちあがり、跪こうとするのを、赤毛の領主は片手を振って拒んだ。
「良い。食事を続けてくれ。遠路はるばるバーデンまでお越し頂き、さぞお疲れと見受けられる。話は食べながらでも十二分にできるというもの」
「しかし、貴殿。そういうわけには」
「良い、とわたしが言っておる。」
言い募ったジークを遮ったザックスだったが、騎士団長が従ったのは一瞬だけだった。彼はでは、と笑顔で言った。
「貴方様にではなく、姫様にご挨拶させて頂きます。」
そして彼が手を叩くと同時に騎士達が姫の足元に膝を折っていた。
風のようなその、あまりの素早さに唖然とする姫君を可笑しそうな表情で見つめて、誰よりも先にジークフリートが姫の手に口づけを落とした。
「御挨拶が遅れまして、ご無礼をお許しください。私はトリアー騎士団の長、ジークフリート・ゲザングと申します。麗しく聡明な御方につきましては、我々の街、トリアーを御救い下さったこと、親友ヴォルフを介抱して下さったこと、それからつい先ほどリンツを救ってくださったこと、いずれも厚くお礼を申し上げたく機会をお待ちしておりました。とはいえ、我々の感謝の意は、どれほど礼を尽くしても、伝えきれるものではないのですが……」
「ありがとう。誠実な感謝のことば、誠にうれしく思います。されど今は時間に余裕がありません。どうぞお立ちになってください」
マリアはわずかにほほ笑んで応えた。
内実では、ジークフリートの示した率直な感謝の意、今だかつてかけられたこともなかったようなその謝辞にたいそう感激していたが、自分で口にした通り、いまはそのような甘い喜びに浸っている場合ではない。
ジークを、そして他の騎士団員たちを立ち上がらせると、彼女は兄のザックスに目で促した。彼は大きく頷いた。
「うむ。シェーネの言う通りだ。いまは、話すべき事、成すべき事があまりにも多くある。……かたがたよ、どうぞ座ってくれ。」
「着席。そしてアルフレドから順に、監察の報告を」
命じたのはジークではなくヴォルフだった。
団員達は頭を垂れて従った。
「御意」
そして此処に、バーデン、トリアー双方の歴史に刻まれる、深夜の会合が始まったのだった。
***
「バーデンには既に法皇の手にかかっておりまする。北部地区の貴族たちを筆頭として、畏れながら国王陛下を弑し賜ろうとする勢力が膨れ上がっています」
夜が深まった。
凍えるように冷える広間にはごうごうと音を立てるほど薪が燃やされ、暖が取られた。
卓の上の蝋燭も幾度となく取り換えられて、ひそやかに話し合う騎士達の横顔を照らしている。
「フム。名は判るか?」
「は。フォン・デール、ハウクヴィッツ、それから先だって家長の逝去なされたティーレ家。この御三家が軍勢を集めている様子でございます」
報告を受けてザックスは赤い顎ひげを手で撫でまわした。
「いずれも先王崩御と共に私が職を解いた、あるいは、法皇の戦によってその権威を失った者たちだな。愚かな。現在確認できた軍勢はいかほどばかりか?」
「城郭を保護する兵舎はすでに先の御三家の息がかかり、我々が潜伏した限りでは本来の機能をほとんど喪失しておりました。」
ザックスはそこでようやく、ふっと笑った。
「この街の兵が役立たないのは先刻承知だ。バーデン以外の人間がバーデンに攻め込む準備があるのかを問いたい」
「私はバーデンの北部地区にて、まさしくデール家の屋敷に潜伏しておりましたが、侯はヴァルデック公国と膨大な量の書簡を交わし合っていた模様です」
「ほう、ヴァルデックの古狸めが。法皇に賄賂でも贈られたか」
「私は街中で奇妙なうわさを耳にしました。流れ者の一座の話しによると、北方の民をちかごろよくフランク大陸の中央で見かけるようになったというのです。話を聞く限りではどうやらプルーセン王国に北方から大量の人間が流れ込んでいるようです」
「プルーセン? 何とな。近頃みょうに頻繁に書状をよこしてくると思いきや、そう言う事であったのか。」
ザックスは顎ひげを撫でながら、磊落に声を挙げて笑った。
その様子に、騎士団での常と同じく、会議の書記を務めていたヴォルフが眉をひそめて口を開いた。
「何がおかしいのです、陛下。あなたは御自分が窮地に立たされていることをわかっておいでか!」
いかなトリアーの騎士といえども、国王との地位にあるザックスに対してこれは無礼ともいえる叱責であったが、無論彼は気にしなかった。
葡萄酒の入ったゴブレットを仰ぎ、口許を手で拭いながら、さらに唇を笑みの形にゆがめている。
騎士達の顔を眺めながら、彼は言った。
「無論わかっているとも、リヒター。ただ、これが笑わずにいられるかという所なのだよ。ヴァルデックにプルーセン、この二つの領地はフランク大陸のなかでも近頃めきめきと勢力を伸ばしてきた領地であってな。どうやら強力な後ろ盾を手にしたらしいと思ったら、果たして、やはり法皇の手にかかっておった。しかも双方、わたしに同盟を組まないかとうるさい。」
「つまり、法皇に忠誠を誓えと言いたいのですな」
ジークが一言でまとめた。
その、簡潔に過ぎる説明に、騎士達の何名かは噴き出しそうになったが堪えた。
ザックスはジークフリートを見たが、その顔はやはり笑っていた。
「そういうことだ。恐らくは、断れば命はないぞということなのだろうな。他の領土と違って直ぐにでも攻め込んで来ないのは、バーデンが以前にも法皇と戦ってその軍勢を辛くも撃退しているからだろう。」
「フーム。ということは、今度勝てば、恐らくはバーデンは、二度と法皇が手出しのできない強国へ成り変わると言うことですな」
ジークは無邪気を装って言ったが、口にした内容は、かなり過激なものだった。
場に一瞬沈黙が落ち、それからふいにザックスが、豪快に声をたてて笑い始めた。
背を曲げ、卓を手で叩き、眼に涙まで浮かべている。
彼の隣りに腰かけていたマリアが、唖然とした様子で眼を見開いている。
「お兄様? 御控えなさいまし、騎士に御せられたかたがたの御前にございますよ!」
「っはは、シェーネよ、これが笑わずにいられるか? わたしは長く、孤独だった。法皇に奪われ、法皇を憎み、だが同じ志を持つ者を見つけられずに、あまりにも永く独りきりで戦ってきたのだ。それが」
前のめりに喋りながら、ひゅう、とザックスは息を吸い込んだ。
彼の大きな背が震えるのを、妹姫は見た。
かつて一度も、曲げられたことのない、気丈な、その背。
「……それが、こうして次々に、扉が開かれてゆく……!」
嬉しいのだ、と彼は両手で顔を覆った。
「私は、嬉しくてたまらないのだよ、シェーネ……!」
「お兄さま……」
マリアは、かつて一度も目にした事のない兄の様子に激しく戸惑いながらも、同時にはじめて兄の人間味に触れたような気もした。
思えばザックスは先王が崩御なされて以来、たしかに彼の言った通り、たった独りでこの土地を治め、法皇を始めとする数多の魔手から守り抜いてきた。眉ひとつ動かさずに街を仕切り、シェーネを庇い、他国との交渉を行ってきたが、考えてみれば妻もおらず、子も持たずに、ただ一人でこの岩城に住まう彼は、まだ弱冠の二六歳なのである。
(わたしは、己の闇に捕らわれるばかりで、お兄さまを知ろうとはしてこなかったのかもしれない……)
マリアは考えて、胸に深い痛みを覚えた。
かもしれないではない、そうなのだ。
自分は、兄に何一つ、返してはこなかった。
右も左もわからない状態で、魔女として謗られ、陥れられて、死に向うばかりだったこの命を、救ってくれた恩人。
あろうことか、育て、慈しみさえしてくれたというのに、自分は兄に何を返せた?
兄の、何を見て、何を知っていると言える?
マリアは己に問いかけるように瞳を閉じて、そしてそこに、唯一の、確かな答えが存在している事を知った。
なにも、知りはしない。
けれど──
「お兄様……」
けれど、今、傍に居る。
この人のために何かしてあげたいと思い、そうすることができる。
「お兄様、どうぞお泣きにならないで。」
マリアは兄の背に手を伸ばすと、そこにそっと頬を寄せた。
「もうお兄様は御一人ではございません。わたくしがおります。リヒターも、ジークフリート様も、そして、トリアー騎士団の皆々様が、お兄様をお救いしたいとここに御控え申し上げております」
「シェーネ……」
涙にぬれた顔を上げたザックスに、姫君はほほ笑みかけた。
「わたくしはマリアです、お兄様。さあ、どうぞ涙を拭いて。そして皆と共に、新たな未来を切り開こうではありませんか」