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異国の美姫と吸血鬼 25

 

 

「ひ──」

 

 ヴォルフは全身が燃えるのを感じた。汗が、たちまち服の下から噴き出してくる。其れは、愛する女の裸体を目の当たりにしたからという理由だけでなく、姫の、その、想像を絶するほど華奢な手足が……本来ならば顔と同じくまっ白でなめらかであるはずのその皮膚が、蜘蛛の巣のように引き攣り、焼けただれていたのを目撃したからであった。

 

 怒りが地鳴りのように体を打ち、ヴォルフはよろめいた。

 姫が半年前火あぶりに処されたという事実がいま、実態を伴って目の前に大きく存在している。吐き気がするほど憎悪を覚えた。

 

 沈黙が部屋を支配する。汗が背中を伝い落ちるのを感じた。

 まばたきすら出来ずに姫を見つめるヴォルフに、シェーネはただ、囁くような声で尋ねた。

 

「醜いでしょう?」

 

 ヴォルフは首を振る。ただ、ただ、首を振る。

 

「おぞましいでしょう。兄さまからもう聞かされたと知ってはいます。けれど、どうしても私の口からもう一度伝えたかった。ヴォルフ。私は半年前にこの町へやってきた。そして一人の少年を助け、魔女として捕えられて、火あぶりにかけられたの。この火傷はその時のもの。煙に当てられて気絶し、あと一歩でほんとうに死ぬところだった私を兄さまが助けてくれて、極秘裏に城へと運んで介抱してくれた。あまつさえ、世話をして、妹として育ててくれて……医師としての仕事を与えてくれた。たとえ太陽の下に出ることが二度と叶わなくとも、私はだから兄さまを恨んではいない。」

 

 けれど、と姫は息を吸った。言葉を、ほんのひととき詰まらせた。まっ白い裸体……触れたら壊れてしまいそうなやわらかな曲線で形作られたそれが何かに怯えたように震える。

 どくん、と己の体の奥底で、なにかが大きくうごめくのをヴォルフは感じた。

 

「けれど……あなたに出会ってしまった。」

「姫」

「私を見て。リヒター。これでも同じ言葉を言える? わたしのことを愛していると? 人間は恐ろしい動物よ。どれ程仮面を被っていても、彼らが狂気に取りつかれればこのような恐ろしい行動を成し得るのです。私はこれから一生、人間を愛しながら、恨み続けるでしょう。この傷が肌から消えることはないでしょう。火を見るたびに怯え、あの時に燃えてしまった髪を伸ばすことすらできないかもしれない……いいえ、それだけならいい、もしかしたなら。もしかしたなら、人間を殺めさえするかもしれない。恐怖と憎悪のあまり。それでもいいの? わたしの肌は、体は、この時代の人間の象徴よ。私を愛していると公表すれば、あなたはその時点で人々に宣戦布告をすると同義なのです。私は正当な王家の血筋ではない──憐れみだけで生まれた姫よ。あなたの荷物になることはあっても、助けになることはきっとできないわ。」

 

 ヴォルフは頬を伝うものを感じた。

 それは、自分がこの街へ辿りつき、姫とまみえて以来ずっと、胸の内にゆるやかに流れていた感情であった。

 シェーネは非常に率直で、そして聡明だ。その身に降り注いだ数多の災いを受け流すことすらせずに呑みこんだ。己だけの悲しみに浸り、それこそ魔女のように人々を呪う存在となっても決して不思議はなかったというのに、彼女はそうせず、未来を見据えた。

 この時代の終わりを、闇が開ける朝を、そしてそれをもたらす希望を、彼女は信じ続けている。

 

(……ああ)

 

 ヴォルフは瞬きをした。やっと理解した。

 だからか。俺がこの姫にこんなにも惹かれたのは。

 囚われの身でありながらも前へ進み続ける強さを持っているから──だから、憧れたのだ。

 

 聖母。聖母マリア、か。

 

 いつかの山賊の言葉も嘘ではないな、と、ヴォルフは一つ、彼が生まれてきてから今までに見せたどんなそれよりも優しい頬笑みを浮かべて姫を見た。

 

(話してくれた。ならば俺も、包み隠さず伝えよう)

 

「……リヒター?」

 

 姫は不安におびえた顔をして、その裸身を己が両腕で抱こうとした。

 しかしヴォルフがそれを阻んだ。

 かつん、と小さな足音を立てて彼は前進し、姫を両手で抱きあげた。

 

「──っ!?」

「あなたは憐れみの姫などではない。希望の姫君だ。」

「リヒター、何を……私を抱くの?」

「まさか。婚姻の日までそれは許されぬこと。風邪をお召しになるぞ、服を着られるがいい。素肌に外套の身を羽織ってこられるとは、あなたはどうやら、本当はかなり大胆な性格をしておられるようだな。姫」

 

 寝台に下ろしてやり、床に落ちていたマントを肩からかけてやりながらヴォルフが言うと、姫はかあっと真っ赤になった。まるで闇の中ひらく薔薇のように。

 ヴォルフは今一度ほほ笑んだ。姫の足もとに跪き、その手に口づけを落とす。

 

「御身の物語を語ること、決して易くはなかったでしょう。感謝します。これであなたの事を誰より深く知ることができたと、俺は自惚れてもきっと許される。ヴォルフと呼んでください。いつかそう誓ったように俺は貴女の騎士です。廻り逢えた以上、これから永久に。」

「リヒター」

「ヴォルフと。姫。愛しています」

 

 今一度その言葉を、ヴォルフは今度こそ自ら紡いだ。

 姫がまなこを見開いて稲妻に打たれたような顔をする。

 美しい眼だ、とヴォルフは想った。どこまでも黒い、混じりけのない黒曜石。まつ毛も髪も同じ色で満たされており、彼女の繊細な一挙一動を実に表情豊かに見せる。その漆黒と対をなす雪白の肌も、小柄な体も、当世の美女の基準からすれば姫はたしかに当たり前至極のそれではない。むしろその特異な容姿のために、魔女と言う呼び名にふさわしい妖しげな存在に見えても致仕方ないかもしれぬ。

 

 しかし、しかし。

 この身を救ってくれたその医療の腕は。

 その甘い声によって歌われる、聴いたこともない異国の音楽は。

 たおやかなリュートの音は、多くの国の物語は。

 

 光と希望に満ちている。この闇の時代を照らす、強さを持つ。

 

「あなたを離さない。ジークフリートには決して渡さない。それを、俺に許して下さいますか。」

「……私が許すことは簡単です。けれどお兄様がそれを許さないことこそが、ヴォルフ。わたくしたちの問題なのですわ」

 

 姫は言った。今だ怯えた様子であったが、ヴォルフはふるえた彼女の手のひらを取り、このように答えた。

 

「無論おれには策があります。幸運なことに、それを成し得るだけの力と友も。お信じ下さい、姫。ジークフリートがこの街の土を踏んだその日こそ、貴女が開放される時。そして貴女はトリアーへ行くんだ。」

「あなたと共に?」

「左様。俺の、妻として」

「……未来は……」

 

 姫は、問うた。

 ずっと暗い城の中に閉じ込めていたその強さを、彼女は、いま羽ばたかせようとしていた。

 

「未来は、変えられると、思いますか。ヴォルフ」

 

 ぎこちない。けれど信じたいと、信じようとしている翼。

 ヴォルフは彼女を見上げ、はっきりと頷いた。

 

「はい、姫」

「……マリアと呼んで」

 

 姫はそしてやっと、暁のように微笑んだ。

 

 

 

 

 


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