異国の美姫と吸血鬼 23
「姫……!」
眼を見開いたまま涙を流す姫めがけて、ヴォルフは思わず、足を踏み出していた。姫もそれを拒まない。自らを力強く抱き寄せる騎士の腕にされるがままになった。リヒター、と震える声で呟きながら、ヴォルフの衣服の胸元を引き寄せる。彼女は泣きじゃくっていた。ほとんど子供のようだった。
「シェーネ! いつから、いつから聞いていたのだ。お前にとって、最も残酷なこの会談を……」
ザックスは弱りきっていた。まさか、姫本人にこの話を聞かれるとは予想だにもしていなかった。いや、無論、城の構造を考えればそれは容易に起こり得る事態なのだが……今日の自分は、ヴォルフに心の内を吐露したことで箍が緩んでいたのかもしれない。
あるいは、心の何処かで、この計画が姫にとって正当ではないと、恥じていたのかもしれない。
「……お兄様がわたくしを、大陸最強の騎士団、その長にやる、と、リヒターに仰っていたあたりですわ。」
ヴォルフの包帯を巻いた手に頭を撫でられながら、姫君は答えた。切なさに満ちた声だったので、ザックスは咎められている気分になった。姫もやはりヴォルフのことを恋い慕っているのだ。だとすれば計画が台無しだ。
「それでは、話の核心はほぼ全て聞いてしまったというわけだな……」
「ええ。大変ショックでした。驚きましたし、憤りました。悲しくもありましたし。けれど私ひとりが犠牲になってお兄様が救われるならそれでもいい、と思いもしましたわ」
「ならば」
「しかし心変わりいたしました。何故って、リヒターの言葉を聞いてしまったからです。」
シェーネはここで、ヴォルフから離れた。いまだに流れる涙を拭いもせず、兄を訴えるように見つめる。いくら血がつながってないと言えど、シェーネを心から愛しているザックスは、そんな顔をされると何も言えなかった。今しも愛というものを知った妹は、気圧されるほど神々しい、不思議な強い眼をしていたのだった。
「おにいさま。私、彼の近くにいたい」
「シェーネ。頼む。わたしを困らせるな」
「ごめんなさい、お兄様には命を救って頂いて、この城に住まわせて頂いて、返しても返しきれない恩があるわね……でも、ずっと考えていたの。リヒターが目の前に現れてからずっと。わたしは確かに外が怖い。バーデンが憎い。でも人を救いたいとおもう欲求は消せないの。世界をもっと知りたい、そしてもっと多くの人々に出会いたい。リヒターは私にそう考えさせてくれた。彼はわたしを認めてくれたのよ、はじめてだったの、そんな人、いなかった。うれしかったのよ」
「ジークフリート殿も噂に名高い名騎士だ。きっとお前を大切に扱ってくれる。シェーネ、リヒターでは駄目なのだよ。彼は副団長であるし、それに、お前同様いわくつきの過去がある。そんな男に、お前を救えるわけはない──」
「お互いに傷を持つ同士であれば、お互いを誰より深く思いやることができますわ。それにお兄様、勘違いなさらないで。誰かが誰かを救えるなんてことはないの。この世には。自分を救うのは自分でしかないわ。他者はきっかけを与えてくれるだけよ。そしてリヒターは、わたしにそれをくれたの」
「シェーネ」
「その名も、もう捨てます。」
「……シェーネ!」
ザックスはお手上げ状態だった。妹は完全に、恋の虜になっていた。あるいは、彼女が今言ったように、恋によって、今まで超えることの出来なかった自らの内の壁を飛び越えてしまったかのようだった。いつのまにこんなに強い眼をするようになったのだ、と思った。今朝の今朝まで、彼女は、外を恐れて城の中をひっそりと歩き回る、確かに美しく賢いが、ただの一人の女性であったというのに。
今ザックスが目の前にしている女性は、明らかに、この世のどこにも存在しないと言い切れる、最も美しい女性のひとりだった。
「お兄様」
「バーデンには……トリアーが必要なのだよ。」
頭を抱えてうめく。新しい計画を練り直すか、それとも心を鬼としてこの二人を引き離すか。どちらの展開にも、それぞれに得と損があった。いやしくも領主、帝王学を学んできた身としてはどう考えても若者の恋愛感情など尊重するに値しないものだった。しかし、シェーネはあまりにも哀れだ。思うが、前王妃さまの例もある。異国からの人物、しかも女性が幸せに生きていくためには、この世は血に汚れすぎている。やはりどう考えても最強の騎士団に嫁がせるのが最高の道のように思えた。最強の騎士団の、その頂点に立つ団長に。副団長などという中途半端な立場の男にではなく。
そうだ、絶対それがいい。
副団長なんてだめだ絶対。
ここはやっぱり、領主権も同時に握っている団長じゃないと。
団長、騎士団長。
団長。
……団長……?
「リヒター。」
「はい」
急にぱっと声を明るくしたザックスに、それまで沈黙を守っていたヴォルフが返事をした。だが決して嬉しそうではなく、むしろ不安そうな顔をしている。ヴォルフはバーデンに入って数週間、この赤毛の領主を見てきたが、彼は何か、自分の親友であるジークフリートと似ているところがあるのだ。ジークがこんなふうな顔と声をする時、決しておもしろくはない展開が待っていることをヴォルフは知っていたのである。
「なにか。ザックス領主」
「やはり駄目だ。シェーネは騎士団長に嫁にやる」
「お兄様っ!」
すがりつくような声を上げた姫にむかって両手を広げ、彼女を胸の中に納めながらザックスは更に言った。眼が輝いていた。
「しかし、一度彼に会ってからにしたいのだ。どうにかしてジークフリート殿をバーデンに呼び寄せることはできぬか?」
「真っ向からですと……不可能です。騎士団に混乱が走ります。ジークの性格を考えると、仕事は買ってでもさぼりたいぐらいの奴ですから、こちらが堂々と呼び出せば堂々と欠勤するんですよ。副団長である俺が不在の今、それは民の不信感を煽ることになります。ですから、呼び寄せるなら、こっそりと、周囲を騙して彼だけを呼び寄せるような方法を選ばないといけないですね」
「君にはそれが可能か?」
真っ向から姫との仲を裂かれたはずなのに、ヴォルフは何故か悲しみを感じられなかった。ザックスが何か企んでいることを察知していたからだ。
「……適当に手紙を書けば、なんとかなるかと。あいつは単純にして妙に頭のいい奴ですから。おびきよせましょう」
「そうしてくれ。手紙は三日で届くかな?」
「鳩ですと四日はかかりましょう。ジークがこの街に入ってくるまでには、さらに三日はかかるかと存じます」
「合計で一週間か。うむ、よろしい。」
ザックスは満足げにうなづくと、腕の中のシェーネを抱き上げて振り回した。
「さあ、シェーネ。彼がバーデンへついた時がお前の兄離れの時だ。支度をはじめるぞ。嫁入りの支度だ!」
「おにいさま……っ、嫌よ、わたし!」
「大人しくしていなさい。ああ、実にいい気分だ。何もかもがうまくいくぞ。わたしは少し街へ出てくる。リヒター、姫を頼むぞ」
「……了解いたしました。」
そうして口笛さえ吹きながらザックスは城を出て行き、残された姫君は悲嘆に暮れ、ヴォルフは彼女をなぐさめようとしたが突き放された。仕方なく自室に戻り、言われたとおりにジークおびきよせの手紙を書いた。彼の性格を考慮して、自発的に、うまくトリアーを抜け出してくれるような文面にする。勿論ザックスの言いなりになっているだけのつもりはないので、最悪の場合姫を連れて逃げられるように、クロイツを始めとした援助の希望も明記して。
……どんな劇が始まるっていうんだ?
羽ペンをかじりながらため息をついたヴォルフの疑惑は、七日後に明らかになる。