異国の美姫と吸血鬼 22
さて、ここであの手紙の真相を知るために、時を巻き戻してみよう。
ヴォルフはザックスから全てを聞かされた。バーデンもかつては素晴らしい国だったこと、彼の父であった先王は心優しくりっぱな人物であったこと、またその妻は若くして亡くなり、数年の後に、異国から新たな妃が迎え入れられたこと。そして彼はその王妃を心ひそかに愛したが、彼女は、10年前突如として攻め込んできた北の法皇によって殺されてしまったこと……。
「わたしがトリアーに執着するのはそのためだ。」
はじめてヴォルフを招き入れた私室で、ザックスはそう告白した。今までに見たことも無い程かなしげな顔をしていた。
「トリアーは法皇によって何かを失ったものたちが作り上げた街だと聞く。彼らがもう二度と何も失いたくないと、やさしさを保ちながら守っている街だと。同志だと思ったのだ。きみたちのように素晴らしい志をもつ人間と触れ合えば、バーデンの民たちもかつての心を取り戻してくれると考えた。もちろん、きみたちの軍事力も魅力的だが、それが最たる目的ではない。……正直に言えば、わたしは寂しい。北の法皇によって王妃は殺され、父はそれを憂いて気を違えた。亡霊だのなんだのと、バーデンのよからぬ噂のひとつにあったと思うが、あれは実はわたしの父の晩年の姿だったのだ。彼は毎夜城を徘徊し、城壁の上でひとり剣を振り回していた。そしてわけのわからない言葉を叫び、歌い、踊り狂って……わたしは彼がいつ飛び降りるかと気が気ではなかった。寝台の上で、寝顔安らかに逝ってくれた時には、心から安堵した……。」
ヴォルフは黙って聞いていた。初めて自分に心の内を見せてくれたザックスに報いるため、余計な言葉は一切はさみたくなかった。ザックスはそんなヴォルフをふっと見つめて、弱々しく笑った。まったくいつもの彼とは別人のようだった。いや、あるいは、普段のあの少し変わったふるまいは、このように傷ついた心を隠すための鎧なのかもしれぬ。貴重な本がぎっしりつめられた本棚も、きちんと磨かれた机も卓も、立派な知識人の所有物にしか見えない。
彼は狂人ではない、と、ヴォルフはようやく確信した。狂人は法皇だ。法皇によって狂わされた、民たちだ。
窓の外から、雅なリュートの音色が聴こえはじめていた。
「シェーネか。」
ザックスが水を傾けながらつぶやく。ヴォルフはうなづいてみせたが、彼女についての言及はこの際避けたかったので口は結んだままでいた。しかし、彼女の兄上は、そうしたくない。何か考え深げに口元を手で覆ってしばらく考えていたが、やがて眉をひそめ、息を吐いた。そして言った。
「……そうだな、あの子のことも君には話しておかなくてはならんな。何故わたしが君に、あの子を愛してはならないと言ったのか」
「お言葉ですがザックス、今話すべきは姫君のことではなく、バーデンとトリアーの問題でございます。」
ヴォルフは間髪入れず、冷たい程に遮ったが、心の内では動揺していた。愛してはならない、などと。一体誰が人の感情に命令などできようか? もう遅い。おれは彼女に惹かれ始めている。ほとんど愛していると言えるほどだ。できるなら彼女をこの街からトリアーへ連れ帰りたい。
そして幸福に笑えるようにしてやりたい!
「シェーネはバーデンの姫だ。わかるだろう、リヒター?」
「……わかりかねます。あなた様が仰りたいこととは何です?」
「わたしはトリアーと同盟を結びたい。そしてバーデンをかつての豊かな国に戻し、あのおぞましき法皇の首を取りたい。そのために、シェーネを君にやるわけにはいかない」
「!?」
ヴォルフは即座に理解した。椅子を蹴り飛ばすほどの勢いで立ち上がり、まさかと唇をわななかせる。物質による明確な記録方法が発展していないこの時代、同盟という大きな約束事を守るために最も有力な方法、その約束が確かに執り行われたと誰もに覚えさせる方法は、ひとつだ。
すなわち、同盟を結ぶ存在間での血の混ぜあい──婚姻。
「まさか……まさか、姫君をトリアーによこすおつもりなのか!? あなたは! ジークフリートに彼女をやると、そう言っているのか!?」
ヴォルフはほとんど叫んでいた。ザックスに掴みかかり、普段の冷静さを欠いた、猛々しい表情で吼える。ありえぬ、と思った。信じたくなかった。
シェーネが、ジークフリートの妻になる?
「さすが理解が早い。しかし、予想以上の狼狽振りだな、リヒター騎士。」
ザックスは鼻先で笑ってさえいた。ヴォルフは頭に血が上るのがわかった。このままだと目の前の赤毛の領主を躊躇なく殺してしまいそうだ。衝動を奥歯を噛んでこらえ、なんとかザックスから離れる。部屋の中を荒々しく歩き回って、髪をかきむしった。ザックスの声が背中から届いてくる。
「もうそれほどまでにあの子に惚れたか?」
「俺の……っ、俺の感情など、この際二の次でも! あなたは、姫君のお心をお考えになったことがあるのか!?」
「勿論だ。わたしはいつでもあの子のことを考えている。大陸最強の騎士団の、長の妻になる。あの子からすれば最も幸福な未来ではないか? なにがあっても守ってもらえる。」
「顔も知らぬ男に嫁がせるなど! 姫君はそのことを知っているのか!」
「勿論、知らぬ。第一ジークフリート殿から返事が来ない内にはなんとも言えない問題だからな。だからきみもこの街にいるのではないか。落ち着きなさい、冷静に考えろ。あの子を愛してくれているなら、あの子が幸せになる道を共に選んでくれ」
「……ッ、ジーク、には、想い人がおります! 彼は彼女を見つけ出すまで一生結婚はしないと言いました!」
「リヒター。仮にきみが騎士団長だったなら、わたしはきみにシェーネをやった。この際ジークフリート殿がどういった人物であるかは全く関係ないのだよ。わたしは彼にシェーネをやるのではなく、彼の立場とシェーネを結婚させたいのだ。」
「しかしそれは全てあなたの勝手だ!」
「シェーネの過去を知らぬからきみはそんなことを言えるのだ!」
怒りをむきだしにするヴォルフに対して、ついにザックスも立ち上がった。二人の男の熱気が部屋に満ち、熱さを肌で感じるほどだ。いつのまにかリュートの音がやんでいることにも気づかないほど、彼らはそれぞれ劇昂していた。ザックスがヴォルフの前まで歩み寄る。つかつかと、長靴の足元が石の床にぶつかって音をたてた。
「……知れ。シェーネを、教えよう。あの子が半年前このバーデンの民から、どれほど非情な仕打ちを受けたか」
「何を」
がん、と壁に背を押し付けられながら、ヴォルフはザックスを睨んだ。憎かった。あの姫君から笑顔を奪うこの男を、自分は一人の男として猛烈に憎んでいた。だが騎士としてはそうできない。そうしてはいけない。
二つの理性に苛まれ、狂いそうだった。
「半年前。それより以前にあの子がどこにいたかは私でも知らぬ。誰も知らぬ。あの子はどこか遠い異国よりフランクに迷い込み、バーデンへ辿り着いた。そして一人の少年を助けた。その少年は病気だったのだよ。シェーネは半年前には既にあのように頭のいい娘だったからな、豊富な医学の知識によって少年を助けた。しかし、まずいことにはその治療法というのが、血を抜く治療法だったのだ」
「──」
「少年は完治した。しかし、少年とその家族はシェーネに感謝するどころか彼女を恐れた。縄で縛り上げ、牢屋にぶちこみ、そして裁判ともいえぬ裁判にかけて……火あぶりに処すことを決定した。」
「ばかな!」
ヴォルフは絶叫していた。ザックスの話す一言一言が、べったりと赤い血となって、心の中に張り付いていく気がした。シェーネが泣いていた理由がわかった。彼女があれほどまでに、外を恐れる理由が。
「わたしは事実を話しているだけだぞ、リヒター。吸血鬼。魔女。シェーネに冠された罪状の名だ。そして彼女は、一度死んだ」
「しかし……彼女は……それでも生きて……人を助けて、」
「そうだ。愚かな娘だろう? 馬鹿で心の優しい……ただの娘なのだよ。あの子の手足を見ると私はバーデンの民を皆殺しにしたくなる。美しいはずの肌が醜く焼け爛れ、脚の爪はもはや溶けて跡形もない。あの子が髪を短く切っているのは、火あぶりの際、長かった当時の髪が燃えてしまったからだ。わかるな。シェーネには、誰にも癒せない恐ろしい傷があるのだ」
「俺は彼女を愛しています」
「興味本位だ。」
「ちがう」
「何故言い切れる?」
「今、そのことに気づいたからです。彼女の過去を知り、その傷を知り……守りたいと思う。興味本位で、これほどまでに心揺さぶられるはずはありませぬ。」
ヴォルフは、己の心の内を探るように、一言一言、切実に言葉をつむいだ。そうしていくほどに、自らの、姫に対する想いが深くなるのを実感していた。ほとんど祈っていた。神に対して。ザックスに対して。
そして、シェーネに対して。
がたん、と部屋の戸口付近で音が立った。ザックスもヴォルフも、弾かれるようにそちらを見た。二人ともそこにいるのが誰か、恐らく確認するよりも先に悟っていた。
始めに視界に映ったのは、真っ青な絹の布地だった。液体のように床に広がり、美しい波を見せている。そしてその波を集める白く細い、美しい手先。ザックスの手が、ゆっくりと、ヴォルフを解放する。
「──シェーネ」
「お兄様。わたし、お受けしません」
姫が、そこに、立っていた。