異国の美姫と吸血鬼 18
──きれいな眼ね。
姫君の歌うような声が、体の中にこだまする。あの白い肌に触れた際の感触を思い出し、それを払拭するように今ひとたび剣を振るう。
息が、乱れていた。
心の臓は狂ったように動いていた。
滝のような汗が、顔の両側を流れ落ちていた。
──おまえに私はどう見える?
美しく。それはそれは美しく、かなしく。石と血で建てられた孤独という名の牢獄の中に、閉じ込められて泣いているように。吸血鬼は太陽の光に当たると灰になるという。魔女も昼間を好まない。
けれど、彼女は外を渇望しているように見えるのだ。
ただの人間、ただの若い娘だろう?人よりすこし頭のできの良い、すこし外見の変わっている、けれどすばらしく魅力のある女性ではないか?
「なぜ彼女だけがあんな顔をしていなければならない?」
声に出して空へ向かって叫んでいた。見えない敵、あの姫をおびやかす全ての敵を切り刻むように剣を振る。暗い林の中、まるで背徳者の心持だった。
「なぜなのですか、神よ!人は誰もが幸せになる権利があると、あなたは仰られた。そのために地上に光をお遣わしになられた。違いますか。あなたは俺を救ってくださった。ならば、彼女も救われていいはずだ、あの細腕が今までに救ってきた命の数を考えれば尚更!」
ザンッ、と、音を立てて剣が地面に差し込まれた。ヴォルフが素振りをやめたのだ。落ち葉が積もり、ところどころ苔の生す大地に膝をつき、彼は腕に顔を埋めて息を乱した。苦しかった。いまだかつて、己自身のことに対してでさえ、これほどまでに胸を痛ませたことはない。
「……クソ……」
騎士としての心得が、神への信仰心が、そして、一人の人間として男として、あの姫君を想う気持ちが、胸の内で荒れ狂っている。止めようがなかった。恋などではない。そんなちっぽけなものではない。これは、この感情は。
「反逆罪だ……!」
「リヒター騎士?」
唐突に、林の中のつめたい空気を揺らした立派な声があった。ザックスだ。ヴォルフは慌てることも怖れることもせず、むしろ鬱陶しそうに顔を上げるとその来訪者の姿を目に入れた。長身の身を今日も赤い衣服に包み、足元は磨きぬかれた長靴、たくわえられた見事なオレンジ色の髭。腰元にたずさえられた大ぶりの剣まで視線がいった時、知らず眉根をひそめていた。
「何用ですか」
「素っ気無いな。どうした、具合でも悪いのか、リヒター騎士。だいぶ息が切れているぞ」
「病み上がりで体がなまっているだけのことです。それよりもよく、おれがここにいるということがおわかりになりましたね」
「ああ。城の使用人から聞いたのだ。今朝方はやく、きみが剣とともに城の裏手に出ていく姿を見たとね。こちら側にあるのは林だけだ。入って捜している内にきみの声が聞こえた気がしてこちらへと足が向いた」
「……成る程。道理で」
ざくざくと小気味よい音を立てながら近づいてくるザックスに対して、ヴォルフはあくまで冷静だった。素っ気無いという感想は当たっている。彼は今、このバーデン領主に対して非常に強い反抗心を抱いていた。
「断りもなく居なくなるのはやめなさい。皆が心配していたぞ」
手放しの好意を向けられてより一層苛立ちがつのった。自分はただの客人、ほんの一時この街に滞在しているだけの人間だというのに、そのように心配するのか。ではなぜ、常に城に閉じ込められているあの姫君のことに対しては、もっとその情熱を割いて見せないのか。
「心配されるのは俺よりもむしろ、あなた方城の住民方であるべきだと思いますが」
「……どういう意味かね?」
「あの姫君や。あなたご自身。いつまで街と決別し、世間から逃げ隠れてお過ごしになるおつもりなのかと言いたいのです。俺を人質にすることはいい。トリアーの力を欲することも何か理由あってのことでしょう。しかしザックス、あなたのやり方はあまりにも、身勝手が過ぎるのではありませんか」
胸の内の感情に乗せて、真意が口をついて出ていた。そろそろ話をすべきだとは思っていたのだ、ザックスと。そちらが求めているものは何か、そしてその理由は、本意は何かと。
赤毛の領主はいっとき黙り、それからやがて厳かに、ヴォルフの緑の眼を見据えた。
「……きみは私に救われた立場なのだということを肝に銘じた方がいい。」
「俺を救ったのはあなたではない。あなたの妹姫様だ」
「シェーネには手を出すなと忠告したろう」
「指1本触れてなどいない。ただ哀れなだけだ。あの姫の涙が、苦しみが、見るに耐えないだけだ!」
「きみは騎士だ。このバーデンに、流行り病の薬を求めてやってきただけの、よそ者だ。よそ者がシェーネに対して勝手な情を抱くことは許さん。心配するのは己の身と、己の騎士団の行く末だけにとどめておきたまえ。」
ザックスはヴォルフの目の前に立ちはだかり、いつのまにか腰の大剣を抜き取ってそう言っていた。太く重そうな、切るというよりもつぶすことによって人を殺めるための武器だ。銅でできているらしく、赤錆色の刀身に上空の木立の影がうつっている。ヴォルフは立ち上がりかけたところを、その剣が顎にあてられたことによって邪魔された。
「シェーネと仲良くしているらしいな、リヒター騎士?」
「少し話をしただけのこと」
「人によっては既にきみたちが恋仲になっていると噂する者もある。身分をわきまえろ。きみは神に任命された聖なる騎士、シェーネは身元の知れぬ哀れな辺境の地の姫君。──己が身に不都合な装身具はその瞳だけで既に十分過ぎるであろう?」
「ッ」
思わず睨み付けていた。直後、安い挑発に乗ったことを知り、奥歯を噛んだ。この、領主は。ほんとうに恐ろしい。底が知れぬ。どこまで知られているというのだ、俺は。
この血塗られた両手のことを。
「……それについて、とやかく言うのは、やめてください。場合によっては俺は、自分の剣で自分の両眼をえぐり出してもおかしくないほど、この眼を疎んでいるのです」
急所をつかれたヴォルフは、一気に顔を青ざめさせた。緑に極彩色を浮かべる、不思議な瞳にまぶたを下ろし、血を吐くように言葉を並べる。ザックスはあっさりとそれを受け止めた。
「そうか。わかった。ならば交換条件だ。きみもシェーネについてとやかく言うのはやめてもらおう。わたしもあの子を殺しかねぬ。」
「馬鹿な」
驚愕するヴォルフの顎から銅の剣が離される。頭上から、ふ、とやわらかい微笑が降って来た。
「可愛い子ほど同時に憎らしく思えるものだ。人の世は愛憎劇を演ずる舞台であろう。そうだな、つくり手は神、観客も神、あるいは悪魔か。……まあ、それは冗談だとしても、これ以上あの子に近づくのは君にとって決して望ましいことではあるまい?きみはトリアーから来た騎士で、いずれすぐにあの街へ帰る運命。遠距離恋愛は辛いものだぞ」
ならば連れ帰ればいいだけのこと、とヴォルフはとっさに考えたが、目の前に立つザックスの体から放たれている何かが、彼にそれをさせなかった。返す言葉を失い、しぶしぶ己の剣を掴むと立ち上がる。汗はすっかり止まっていた。
「帰るか。昼餉を共に食べようではないか、リヒター」
「……俺には昼餉よりも欲しいものがあるのですが」
「何かね?」
服から土と松葉を払い、剣を鞘へ納める。横の樹の枝にかけてあったマントを取り上げ、一気に肩から羽織った。
林から城へと向けて、ザックスと共に歩き始めながら、ヴォルフはどうやら自分は騎士であるしかないようだと考える。その役目を遂行することが、今すべきことだと、神が言っているように思われたのだ。
「貴方が今お考えになっていることを。我々トリアーの力を欲する理由、この街がこんな風になった理由、その全てをお話いただきたい。」
ヴォルフは、騎士だ。だがそれ以前に一人の人間であり、男であるということを忘れたことはない。人間を救えるのは人間の想いだけであると、そういう風に信じられなかったことは一度もない。
あきらめない、絶対にあきらめない。全ての闇の穴につながる光の道を、必ずこの手で切り開いてみせる。
「……私もトリアー騎士団に入団していたかったものだ」
だから、今はまず、そのための鍵を求める。