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異国の美姫と吸血鬼 17

 

「そんなことは許されませんよ」

 

 

 ヴォルフが更に姫君に向かって一歩寄った瞬間、背後の戸口から侍女のイライザが現われた。振り返ろうとするヴォルフの横を実にすばやく通り抜けて、シェーネの体を守るように立ちはだかる。

 

「リヒター様。感心いたしませんわね、独り身のお若い男性が同じく未婚の若い女性の元を訪ねるなどと。ましてやシェーネ様はこのバーデンの姫君でいらっしゃるのですよ、周囲に誤解を与える行動は慎んだ方がよろしいのではありませぬか」

「おや、心外だ。俺はただ、姫君が泣いている声を聞きつけ、その涙を拭くために上等の布地を持って馳せ参じただけなのだが。」

 

 明らかに敵意を剥き出しにした侍女の言葉にもヴォルフは余裕で応酬する。着ていた白いマントの裾をもちあげてみせるとすぐに落とし、今度はイライザと姫、ふたりまとめて迫っていく。

 

「それに侍女ならば姫君の身を誰より案じてみるべきではないのか、イライザ殿。あなたは姫がこのような石の牢獄に閉じ込められ、虐げられている姿を見て何も感じないというのか?だとしたら、信じられぬな。心が凍り付いているとしか思えぬ」

「まあ、失礼な、わたしがそのようなことを望んでいるとでも……っ!」

「実際そうとしか見えないではないか。先ほどの言動、そうやって姫君をすぐに背中に隠してしまう。それだけ聡明な姫君を飼い殺しにするつもりなんだな。あんたも。ザックスも。この街の人間は皆」

「く、口を慎んでくださいリヒター様!それ以上不躾なことを仰られた場合、ザックス様に──」

「報告したければすればいい。その時は剣を抜くのみ。俺は騎士だからな。今俺がすべきことはあんたと話していることではないのだ。さあ、姫」

 

 安い挑発に乗ったイライザの肩をつかむとやんわりと脇にのけ、ヴォルフは再び姫君と対峙した。侍女の背中の後ろから現われた彼女は、存外静かな表情をしていた。いや、きめこまやかな肌が青白く染まり、眼が暗い光をたたえているところからしても、決していい感情を抱えてはいないのだろうが、少なくとも、ヴォルフの言葉に烈火のごとく起こっている、というわけではないようであった。

 

 紅い唇が動き、夜の闇のように深い瞳がヴォルフをひたと見据える。

 

「……リヒター。」

「何か、姫君?」

「先ほどのあなたの言葉に嘘はなくて?」

 

 ヴォルフは頷いた。当たり前だ。

 

 騎士が嘘をつくなどということはありえぬ。ましてや神に任命された聖なる騎士である自分がそのようなことをすれば、その時点で剣を折らなければならない。

 

 胸に手を置き、頭を垂れてみせる。

 

「騎士は己の言葉に己の命を込める。賭す。俺は俺の命をかけて、必ずあんたを守り抜く」

「そう、ならば」

 

 くっと顎を上げ、シェーネは息を吸った。その動作があまりにもきっぱりと、強い意志に彩られたものであったために、ヴォルフは彼女が自分の意に添ってくれるのだと期待した。しかしそれは間違いであったと、一瞬のち、目の前に突きつけられた短剣の輝きに理解した。

 

「ならば。私を外に出そうなどと、二度とは口にしないで頂戴」

「──姫!」

「あなたは知らないのよ。わたしがどれだけ醜い存在なのか、どれだけ恐ろしい悪魔なのか、知らないからそんな風に私に接することができるのよ。知ったら、知ったらきっと……絶望するのだわ。そして嫌悪するのよ。離れていくの。耐えられない。わたしはきっとそのことに耐えられないから、だから言わないで。それ以上踏み込んでこないで」

「俺が?命の恩人であるあんたを嫌悪する?見捨てる?そんなことはありえぬ!」

「ありえないことが起こり得るのがこの世界なのよ、リヒター!」

 

 姫君が絶叫に近い声で叫び、真正面からその叫びを受け止めたヴォルフは勿論、彼の背後で事の成り行きを見守っているしかなかったイライザまでもが驚愕した。この姫が。平生は常に冷めた眼をし、冷静で的確な物言い、必要最低限な事しか口にせず、感情を露にするということをほとんどしないこの女性が、これほどまでに取り乱している。恐怖している。

 

 心臓に触れたか、とヴォルフは舌を噛んだが、後に退くつもりは毛頭なかった。息を短く吸い込み、再び泣き出しそうな様子でうつむいている姫を見た。

 

 そしてもはや自分の鼻先に触れそうな位置に突きつけられ、震えている短剣の刀身を、素手で躊躇なく握り締めてもぎとったのだった。

 

 ***  

 

 押し殺した悲鳴が耳に届く。短剣の切れ味は以前から想像していた通り抜群であった。ヴォルフ好みの薄く鍛えられた刀身は皮膚から肉に寸分の間なく食い込み、実に的確に細胞の間を切断する。傷口からゆっくりと、夢のような鮮やかさで血があふれ出で、ヴォルフの手、指先、刀身を経由して、石造りの床に落ちた。

 

 ぽたり、という音が空気を揺らす。

 

 姫君が声なくその場に崩れ落ちた。

 

「リ……リヒター様っ、なんてことを……すぐに止血なさいませんと」

 

 背後からのイライザの呼びかけにもヴォルフは振り返らない。ただ静かに、姫だけを見つめている。痛みなど感じなかった。この程度の傷、かすった程度に近い。今まで自らが経験してきた恐ろしい戦の数々を思えば──。

 

「止血するべきは俺の肉体ではない。あんたの精神だろう、姫。ちがうか?」

「リヒター、リヒター、あなたは……あなたは、強すぎるわ。あまりにも……」

「この血が見えるだろう。俺は誓う、今ここで。この血にかけて。姫君、あんたを絶対に裏切らないことを」

「嘘よ」

「騎士は嘘をつかぬと申した」

「嘘だわ!信じられるわけがないでしょう、たかだか数日前にこの街へ入って、私のことを知ったばかりのあなたなのに──!」

「では何故俺の眼を見ない!」

 

 余りにも頑なな姫君が痛々しくてたまらず、ヴォルフはとっさに短剣を床に放ると、その白肌に両手を伸ばしていた。その手が血に濡れていると気がついたのは、姫の美しい顔に真っ赤な鮮血がべたりと染み付き、短剣の束が石の床に当たってころがる、冷たい音が立った後。

 

 その色に、脳裏に浮かぶ記憶があった。

 

「……頼む。信じろ。俺はあんたを救いたいだけなのだ」

「……」

 

 知っていた。自分が罪深い人間であるということは、いっそ知りすぎるほどに。そのことで死のうとしたこともある。けれどできない理由があった。ジークフリートに出会い、騎士として認められ、トリアーという街を手にしてから、やっと再び歩き出すことができるようになったのだ。

 

 この姫を見ていると、そういうかつての自分を思い出すのだ。己の命が、己の血が、重すぎて仕方なかった時代。

 

 あのとき世界は暗黒だった。

 

「あんたの素性を知ることはできないが、俺はあんたを他人と思えぬ。同じものを感じるのだ。とてつもなく気にかかる。だから救いたいと思って何が悪い?俺は騎士だ。この剣を捧げる相手を自分で選んで何が悪い。俺の眼を見てくれ。不気味な眼だろうが、そこに偽りなどひとつもない」

「……同情なのね」

「今はまだ、それだけにしか計れない。けれど信じてくれ。俺はあんたに──惹かれているんだ。」

「うつくしい眼。さぞ多くの物事を目にしてきた瞳なのでしょう。おまえに私はどう見える?」

 

 ヴォルフの影に呑まれ、光のあたらない状態のシェーネは、まるで闇の底にいるように見えた。それは彼女自身が孕む闇だ。ヴォルフと同じ色の闇。それでも白い手は前に伸ばされ、ヴォルフの美しくも不思議な、極彩色を浮かべる緑の瞳に触れようとこころみるのだ。

 

「きれいな眼ね。リヒター……」

「……そう言ってくれたひとは、あんたでやっと二人目だ」

 

 つぶやいた言葉が震えたことにヴォルフは気づいていなかったが、シェーネは理解して、ちいさくうなづいた。

 

 部屋の後方で息を潜めている自らの侍女の姿を確認すると、その名を静かに呼ばわり、立ち上がる。

 

「イライザ」

「は、いっ。何でございましょうか、シェーネ様」

「人払いを。リヒター騎士の手当てをするわ。昼餉は後にして頂戴」

「──かしこまりました。」

「さ、リヒター。愚かな人、これでまたあなたは私に借りを作ってしまったのよ。どちらにしろ外には出られないじゃない。怪我などしてしまっては」

「次回があるさ。それに、そのことによってあんたに捕らわれることができるというのなら、俺は何だってするよ。」

 

 イライザがドアを閉め、部屋を出て行った。残された美しい姫君と、誠実な騎士はお互いにお互いのことのみを瞳に映し、見つめ合う。

 

「姫。俺はあんただけの騎士になりたい」

「……本当に、愚かなひとね。」

 

 

 ふたりの想いはそのとき確かに、通じ合っていた。

 

 

 


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