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異国の美姫と吸血鬼 16

 

 灰色の鳩が一羽、開いた窓の枠に止まっている。

 深紅のドレスを身につけた姫君がそばに歩み寄り、その丸く愛らしい体を手の上に乗せた。

 

 

「あなたはトリアーで育ったの?」

 

 返事のかわりに、クルクルと甘えたような喉声が心をやさしくなだめてくれる。この鳩はヴォルフがトリアーを出立する前に飛ばしたあの鳩だ。バーデンに舞い降りて以来、すっかりシェーネに懐き、城に居ついてしまっている。育ててくれた人の元に戻らなくてもいいの、と指先で頭を撫でると、ばさばさと灰色の翼が広がった。

 

「翼。美しいわね、あなた方のそれは」

 

 自らもまた窓際に腰掛け、シェーネは焦がれるように呟いた。人間には絶対に手に入れられないもの。自分が欲しくてしようのないもの。飛んでいきたい。翼を得て、この窓から、自由な場所へ。

 

 とうの昔にあきらめたはずだったその欲望が、この数日で急速に胸のうちに燃え上がりつつある。理由は、無論わかっていた。外の香りを嗅いでしまったせい。外の歌を教えてもらったせい。

 

 あの騎士が──目の前に現れてしまったせいだ。

 

「シェーネ様」

「……イライザ。どうかして?」

「昼餉のお時間ですわ。広間へおいでくださいまし」

 

 控えめなノックの音とともに部屋に入ってきた侍女の姿に、シェーネは安堵した笑みを見せた。彼女、イライザは、シェーネがこの城の中で、ひいてはこの世界の中で心を許している数少ない人間の内の一人である。半年前バーデンへ突然現われ、突然城に住み着くことになった自分を助けてくれたのはこのイライザだけだったのだ。憎悪も、恐怖もその上にのせない、あたたかな手のひらでこの肌に触れ、やさしく笑み、そして言ってくれた。

 

 私はあなたに仕えます、と。

 

「ありがとう、今行くわ。お兄様はもう席につかれている?」

「いいえ、ザックス様は使用で城外へお出かけになっていらっしゃいます。」

「ええ?では、私ひとりで食事をしろというの?いいわ、わざわざ広間に降りずともこの部屋で十分よ」

「そういうわけには参りませんわ、姫様。あなた様をお待ちになっている方がいらっしゃるのですから。」

 

 いぶかしむシェーネに向けてイライザはきっぱりと言い放ち、そしてその時はじめて主の膝の上で戯れている一羽の鳩を発見した。悲鳴に近い声をあげてシェーネの側へ駆け寄り、鳩を追い払う。

 

「まあ、またそのように鳩とお戯れになって!服に羽がついているじゃあありませんか、すぐにお着替えいたしませんと、昼餉に間に合わなくなってしまいますわ」

「イライザ、待って。誰のこと──私などと食事をとりたいなどという物好きは。いいえ、それ以前に、この城に入る度胸のあった勇者がこの世にはいたの?」

「今ばかりはその回る口をお閉じになって、とびきりのおめかしをしないといけませんわよ、シェーネ様。美しき殿方がお相手なのですからね。少々お待ちくださいませ、衣装を持って参りますわ。今日のご気分は何色でございます?先ごろお仕立てになったばかりの秋桜色、それとも姫様の白肌を引き立てるあの深緑でしょうか。ああ、でも、そうですわ!忘れていました、昨日染め上げたばかりの、すばらしい紫色のドレスがございますの。そうだわ、あれがふさわしい、かのお方の瞳にもきっとよくお似合いになります。では、失礼。少々お待ちになっていてくださいましね、シェーネ様」

「ちょ、待、イライザ!殿方とは、一体……」

「今日は髪の毛も結いますわよお~っ」

 

 混乱するばかりのシェーネを置いて、侍女イライザは勢いよく部屋を出て行った。その異常なほどの張り切りように不安を隠せないシェーネ。手の中の鳩がいなくなり、突然訪れた部屋の静寂がより一層心の表面を波立てる。

 

「殿方……?」

 

 それはあまりにも自分と縁遠い言葉だった。なぜなら、自分はこの地で疎まれているからだ。女として男に見つめられたどころか、人間として人間に認められたことがない。この髪、この肌、この顔のつくり。すべてが異端で、だからこそ人々は自分のことを恐怖した。火あぶりにかけた。

 

「っ」

 

 脳裏に、あの日が、あのおぞましい光景が蘇る。両手両足を縛られて広場までひきずられていった際の、あの煉瓦と肌の擦れる感触。十字架にきつく縛り付けられた手首と足首の鈍痛。血が通わない感覚は吐き気と眩暈を体にもたらせて、しかしその後すぐに足元に藁が投ぜられて、やがてそれに火がつけられる──

 

 ──いや!

 

「嫌、やめて……っ!」

 

 炎が肌をなめる。足の指の爪を溶かす。煙で視界が覆われて、何も見えなくなる。涙がこぼれて呼吸ができない、苦しい。

 

 自分で自分を強烈に抱きしめながら、シェーネはその場に膝をついた。全身が、がくがくと震え、歯が鳴り、肉体を静止させることができなかった。

 

 ──あの日、わたしは、殺されたのだ。

 

 一度死んだのだ。魔女として火あぶりにあって。バーデンの民に十字架にかけられて。

 

 

 人間としては、認められずに!

 

 

 *** 

 

「本日の昼餉は広間でお取りになってください」

 

 そう侍女の一人に告げられ、ヴォルフが割り当てられた部屋を出たのは、ちょうど太陽が空の真上まで昇った頃のことだった。今日は天気がいいため、開いている窓から外を眺め、大体の時間を感覚で把握することができる。

 

 ──しかし何故、あのキチガイ領主と二人きりで食事をしなければならんのかね。

 

 ため息ながらに石造りの廊下をゆっくりと歩いていく。視界の裾で時折揺れるのは礼装用の白いマントだ。上着とズボンは濃い藍色、長靴は革製だが、いずれも侍女が食事用に着ろと用意してきたもの。

 礼装は嫌いではないが、あのザックスとの食事のために何故こんなかしこまった服装をしなければいけないのか全くもって理解できない。まあ、男色のようだったからな、と頭に浮かんだ想像に寒気が走り、腕を組んで別のことを考えることにした。

 

 今最も自分が考えるべきこと。

 それは何か。トリアー、そう、トリアーだ。

 

「バーデンへ入って七日か……」

 

 きっちり指を折って確認する。

 姫君の手厚い介抱のためもあって、体はすっかり快復していた。となるともう故郷であるあの街へ帰してもらってもいい頃だとは思うのだが、まあそう易々とは行くまい。ザックスがあれほどまでに簡単に流行り病の薬をトリアーに届けてくれたことを考えると、その行動の裏に何か企みがあるに違いなかった。

 

 それは何か?

 

 十中八九、兵力の要請だ。この大陸一との誉れ高い、完璧な団結を誇る騎士達。ザックスはトリアーの兵力が欲しいに違いなかった。と、すると、ザックスは近々戦を起こす予定があるか、あるいはそうでないにしろ、強力な兵力を必要とする状況にあるということだ。目的が一致すれば協力してもいいが、それにはザックスという人物をもっとよく知る必要がある。

 

 ──まあ、あの領主は、俺を良い取引材料にして話をすすめようとしているんだろうがな。

 

 仮にも騎士である俺がなめられたもんだぜ、と笑みさえ漏らしながらヴォルフは更に考える。クロイツでなければ俺が馬を駆れぬとでも思っているのか。護身用の短剣を胸の中に隠し持っているとは考えないのか。愚かにも程があるが、まあ今はこの街を内から探るいい機会だ。大人しくザックスの言いなりになっていることとしよう。

 

「かつて飛ばした伝書鳩も、この街にはいることだしな……」

 

 一人つぶやき、後でジークフリートに手紙を書かなければならない、と決意する。夜がいいだろう。鳩を呼んでも暗闇に紛れれば何がなんだかわかるまい。軟禁状態にあろうが自分の街と連絡を取ることなど造作もないことだ。ザックスは本当に愚かだ。

 

 目前に現われた角を曲がり、そこから前方に存在する階段を降りるべく足を進める。が、ふと耳に感じた違和感に、ヴォルフは長靴の足元を止めた。今しも通り過ぎた戸口の向こうで誰かが泣いている気配がする。知っている。あれは彼女の部屋だ。この城に閉じ込められ、誰からも虐げられ、ひとり寂しく生きている、美しい異国の姫君の部屋だ。

 

「姫……?」

 

 トリアーが、ザックスが、今考えていた全ての物事が、ヴォルフの頭の中から消えていく。世界が切り替わった。彼の中にはもはやシェーネしか居なかった。

 

「姫!」

 

 駆け戻り、戸口を叩くことももどかしく、部屋の中へと押し入っていた。孤独な涙に濡れていた異国の姫が驚きに顔をあげ、涙にひかる大きな瞳をヴォルフに向ける。

 

「リ」

 

 彼女の白い肌の上に真珠のような涙がころがり落ちる様を見て、ヴォルフは自分でも抑えられぬ衝動が自分の体を貫くのを感じた。

 

「リヒター……?」

「ご無礼を。姫君」

 

 近くへと寄り、跪く。胸が張り裂けてそこから血潮が噴出してもいるかのような気分だった。かつて一度も、生まれてから一度も憶えたことの無い凄烈な感情が胸の中に渦巻いている。この体を動かしている。内から叩いている。

 

 白い手を取り、この上なくやさしく口付けを落とした。

 

「リヒター!なんの冗談なの、急に女性の部屋に入って、このようなことを──」

 

 気丈にも涙を拭き、そう正面から自分を見つめてくる姫君。ヴォルフは、理解した。何故自分が剣を取るようになったのか。何故この街へと辿り着いたのか。

 

 心の中で声がする。この姫を救えと。そのためだけにお前は生きよと。

 

「出て行きなさい。人を呼ぶわよ」

「外へ」

「何?」

「外へ出よう。姫君」

 

 そして太陽の光を、世界を吹き渡る風を、足元の大地の感触を感じよう。

 

「何を言って、無理に決まっているでしょう!?馬鹿にしているの、私が城外へ出れば殺されることを、あなた知っていて、そんなことを言っているのでしょう!」

「俺が騎士だということをお忘れか?」

 

 立ち上がり、姫をもまた、立ち上がらせた。もう黙ってはいられない。ザックスが何を言おうと、姫がどれだけ嫌がろうと、連れ出してみせる。

 

「騎士が存在するのは何のためだ、姫?」

「やめ、て、リヒター。お願いよ、街は、この街だけは嫌……!」

「守ってみせるよ。何があろうと、絶対に。」

 

 あんたが隠れて泣くことなんてない。

 笑って。

 背筋を伸ばして、空を仰いで。

 

 

 誰よりきれいに笑ってくれ。

 

 

 

 


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