異国の美姫と吸血鬼 9
「なに、シェーネが?」
夕餉の時間になった。
居間にて一人妹姫の登場を待ちつつ給仕を受けていたザックスは、彼女付けの侍女が運んできた一報に素っ頓狂な声を上げた。
「食事をとりたくないと?わたしと?拒否か、それは!」
「そうではありません。少しお体のお具合が悪いと仰っておられまして、今日は部屋でひとりでお食事をなさりたいそうです。わたくしがお食事をお運びするようにと命じられました」
「あの騎士を看病していた疲れが出たかな。3日3晩寝ずに付き添っていた」
「……そういうことですので、今日はザックス様、おひとりでお食事なさってくださいましね。シェーネ様のお部屋をおたずねになるようなこともおやめくださいまし。」
「フーム、地獄のようだが、まあ、致し方あるまい。わかった。シェーネにはお前から食事を運んでやってくれ。ただし、かの騎士には私から持っていく」
運ばれてきた上等の焼肉に口をつけながらザックスが言った言葉に、侍女は疑問に頭をもたげた。城主であるザックス自ら騎士に食事を運ぶなどもったいないにも程がある。
「侍女であるわたくしで十分ですわ、そのようなお役目は。第一かの騎士はまだ食事をとれるほど回復してはいないじゃありませんか」
「それがな、もうすっかり回復しているのだよ、イライザ。リヒター騎士は驚くべき強靭な肉体と魅力をお持ちだ。わたしはどうしても今一度、かの騎士の瞳を覗きこみたい」
うっとりとした表情で語るザックスに侍女はう、と仰け反った。出たわ、城主様の「キチガイ」が。いい加減になさってくださらないと、ほんとうにバーデンは壊れてしまう。
「男色もほどほどに。では、わたくし、下がらせていただきます」
「ウム。ご苦労だった」
肉をつきさしたフォークを目の前でひらひらと振りながら、ザックスはイライザを見送った。ばたん、とドアが閉まる。
がじりと肉を口の中に押し込んで、租借してから飲み込んだ。
「……ほんとうに、あの騎士は危険な魅力をおもちなようだ」
異国の美姫、吸血鬼、魔女と呼ばれ、氷のように心を閉ざしてしまったシェーネ。その彼女の心を揺らがせるほどの、なにかを。
──あの騎士は確かに持っている。
ザックスは深く重いため息をつくと、召使を呼び寄せ、上等のぶどう酒と、もう一人分の食事を用意するようにといいつけた。
愛する妹の未来に釘を打つのは、けしていい気分ではない。
***
──あのような男を見たことは無かった。
自室の窓辺に腰掛けながら冬の夜の風を受け、シェーネはひとり物憂げに考えていた。
すばらしくたくましい肩に腕、介抱する時に目にした露な胸。あきらかに、毎日血のにじむような訓練を行って鍛えた体で、思い出すだけで体の芯が熱くなるほど、強烈な男の匂いをまとう体だった。
顔立ちだって、整って美しくはあるけれども、力強い口元や目元が捕らわれそうになるほど男性的で、なんの間違いかあの唇が自分の手に押し当てられた瞬間には、文字通り口から心臓が飛び出すのではないかと思うぐらい、恐怖に似た驚きがこの体を貫いた。
──なにより、あの、魅惑的な不思議な瞳……
自分の右手の甲をもう片一方の手で触れながら、シェーネは首を左右に振る。知らず知らず体温が上がっていた。
思い出しているのはあの深緑色の瞳。光を受けると金色に輝く。右に傾くとわずかに蒼、左に傾けると、あわい紫。
見つめられた瞬間には、戦慄した。
あんな瞳と瞳を合わせてしまっては、たとえどれほどお高く止まっているオリンポスの女神たちでさえ、平静を保っていられないであろう。虜になることを恐れ、おびえて、彼の手を振り払ってきて逃げてしまった自分を、けっして誰も笑うことなどできないはずだ。
「わたし、変だわ」
シェーネは呟くと立ち上がり、開け放していた窓に雨戸をはめた。部屋の中に明りを増やして卓の上に置いてあった写本を取る。
それは、愛について説かれている本だった。