~ 終ノ刻 歌姫 ~
それは、どこにでもいそうな小さな黒猫だった。
深夜の駐車場を、黒猫は人目を避けるようにして駆け抜ける。時折、その首についている鈴が鳴り、無人の駐車場に金属のはじけるような音が響き渡る。
ひたひたと、足音さえ殺すようにして、猫は駐車場に置かれた車の下を通り抜けて行った。闇の中、金色に輝く二つ目だけが、まるで流星の如き軌跡を残して左右に飛び交っている。
緑色の非常灯がついている扉の前で、猫はゆっくりと車の下から姿を現した。改めて見ると、その姿は普通の猫と比べてどこか禍々しい。
首に巻かれた赤い首輪には、小さな鈴がついていた。それは髑髏の形をしており、これを猫に与えた人間が、決して良い趣味をしていないということが窺える。
闇の中で光る金色の目は、猫というよりは人のそれに近い。大きく丸まった虹彩は猫のそれに違いないのだが、その瞳から放たれる視線は、まるで人間が相手を凝視する際のものとまったく同じなのだ。
辺りの匂いをしきりに嗅ぎながら、猫は足音もなく駐車場の隅に歩いて行った。タールを塗りたくったような艶やか過ぎる黒い毛並み。非常灯の明かりに照らされて、それはなんとも言えない不気味な輝きを帯びている。
「ニャオ……」
まったく可愛さの感じられない、それでいてどこか嬉しそうな声で、猫が一つだけ鳴いた。動物であるにも関わらず、目を細めて口元を緩く曲げているようにも見える。まるで、目当ての物を見つけて喜ぶ人間のようにして、猫は舌なめずりをしながら身構えた。
薄暗がりの中、猫の頭がゆっくりと下に落ちる。代わりに尻を大きく上に突き出して、尻尾だけが別の生き物のようにゆらゆらと揺れる。
――――チリン……!!
首に着いた鈴が鳴るのと、猫が飛び出すのが同時だった。銃口から放たれた弾丸のようにして、猫は駐車場の隅で小さくなっていた物に向かい、一直線に走り出す。
バシッ、という音がして、猫の爪が獲物をとらえた。最後の抵抗として獲物が尾にある毒針を振り回すが、猫はいち早く毒針のついた尾に咬み付くと、完全にその動きを封じてしまった。
獲物を咥え、意気揚々と駐車場の中央に戻って来る黒猫。気がつくと、駐車場には一人の青年が姿を現している。先ほど、猫が駐車場を走りまわっていた際には、影も形も見えなかったというのに。
「ご苦労さまです、マオ。どうやら今回は、呪具の破壊だけは免れたようですね」
青年が、獲物を咥えた黒猫の頭をそっと撫でる。頭を撫でられた黒猫は、しばし甘えるような仕草を見せたものの、やがて青年の足元に獲物を置いて上を見た。
黒猫が足元に置いた獲物を、青年がそっと拾い上げる。それは、気味の悪い姿をした一匹の毒虫。全身を赤黒い甲殻に覆われた、サソリのような姿をした生き物だった。
既に死んでしまったのか、それとも気絶しているだけなのか。青年の手に握られた虫は、既に動きを止めている。青年は虫の体を裏返したり戻したりして眺めていたが、しばらくすると、鞄から取り出した小さな瓶に虫を放りこんで蓋をした。
「ふむ……。どうやらこれは、既に人の肉を得た存在になっているようですね。本来であれば、虫の力が最高に高まったところで回収したかったのですが……これは少し、勿体ないことをしたようです」
「デモ、仕方ナイヨ……。コノ虫ノ家来タチ、タブン主人ヲ守ルタメニ殺サレタ……」
黒猫のいた場所には、いつの間にか一人の少女が立っていた。赤い中華服に身を包んだ少女は、片言の日本語で青年に話しかけていた。
「まあ、これも仕方の無いことでしょう。どさくさに紛れて、本体だけでも上手く逃げ出していたのは幸運です。それに……僕もまさか、あの鴨上の下にいた少女の一人が、火乃澤町の出身とは思っていませんでしたからね。まったくもって、奇妙な縁というものはあるものです」
自嘲を込めた苦笑を交え、青年は虫の入った瓶を鞄にしまいながら言った。だが、そんな青年とは対照的に、少女は表情一つ変えず、コケシのような顔をしたまま青年を見ているだけだ。
「ネエ、紫苑……。コレカラ、ドウスルツモリ?」
「そうですね……。僕としても、これ以上は邪魔をされたくないというのが本音です。火乃澤町は確かに陰の気が集まりやすい場所ですが、どうやら僕達にとっての抑止力も存在しているようですからね。僕の仕込んだ呪いの旋律が、これで三度も破られたことになる。これは少し、僕達にとって面倒なことになりそうです」
「抑止力……。ナラ、ソレヲ見ツケテ殺セバイイ?」
頭の左右についている、団子状に丸めた髪。そこに刺さっている簪のようなものを外し、少女はそれを自分の中指にはめて構えた。
古代中国で用いられていた、峨眉刺と呼ばれる暗器の一つ。相手を刺殺することを目的とした恐るべき凶器を、少女はまるで玩具のようにして弄ぶ。人を殺すことに対する躊躇いなど、まったく存在していないようだった。
「おやおや、どうやら力が有り余っているようですね、マオ。しかし、あまり目立つ行動は控えた方がいいですよ。下手に騒ぎになるのも嫌ですし……それに、僕はどちらかといえば、暴力を好む性格ではありません」
「ダッタラ、私ハ何ヲスレバイイノ?」
「とりあえずは、偵察といったところでしょう。僕達の仕事の邪魔をする者が誰で、その力がどの程度のものなのか……。まずは、それを探るところから初めて下さい。ただし……くれぐれも、早まった行動にだけは出ないようにして下さいね。僕達の本当の目的を、邪魔者に悟られるわけにはいきませんから……」
「是、紫苑。デキルダケ、頑張ッテミルヨ」
中国語を交え、少女が答えた。青年はその頭にそっと手を置くと、先ほど黒猫の頭を撫でたようにして、少女の頭を優しく撫でた。
「では、そろそろ行きましょうか。今日は雪も積もるみたいですし、いつまでもこんな寒い場所にはいたくありませんからね」
少女の頭から手を離し、青年は踵を返して歩き出す。二、三歩ほど足を進めたところで、その後ろから小さな鈴の音が響いてきた。
――――チリン、チリン……。
首につけた鈴を鳴らしながら、黒猫が青年の足元に現れる。黒猫は青年の脚に絡みつくようにして甘えていたが、やがて体を縮めると、その脚のバネを使って一気に青年の肩へと跳び上がった。
青年と黒猫が去り、深夜の駐車場に再び静寂が訪れる。かつては異形なる者との決戦場にもなっていたその場所も、今では何事もなかったかのように、平穏な空気を取り戻していた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
一月ともなると、神社は一年でも最も忙しい時期を迎えることになる。照瑠の実家である九条神社もその例外に漏れず、毎年たくさんの参拝客で賑わうこととなる。
普段は人も殆ど訪れないというのに、この時期だけは鳥居に続く長い石段にも参拝客の列ができる。そればかりでなく、境内には小さいながらもいくつかの屋台が店を出し、その賑わいに拍車をかけている。
その日は既に元日から数えて四日ほど経っていたが、神社を訪れる参拝客は一向に減ることがなかった。稼ぎ時と言えばそうなのかもしれないが、それでもこう人が多いとさすがに疲れてくる。巫女として、参拝客に札の販売をしたり甘酒を振る舞ったりせねばならないため、照瑠にしてみれば一年で最も疲れる季節でもある。
「ふぅ……。とりあえず、午前中の参拝客は一通り捌けたかな……」
額の汗を拭うようにして、照瑠は社務所の奥に戻りながら言った。参拝客は完全に途絶えたわけではなかったが、そろそろ交代の時間である。バイトとして手伝いに来てもらっている亜衣や詩織、その他数名の級友達と交代し、昼食休憩に入らねばならない。
社務所の中に戻ると、そこには亜衣がコタツでみかんを食べながらくつろいでいた。休憩中とはいえ、まるで自分の家にいるかのような厚顔無恥な態度。思わず呆れてしまいそうになったが、今日に限って照瑠は亜衣に突っ込みを入れることができなかった。
亜衣の隣で彼女と楽しく談笑している三人の少女達。その顔を見た瞬間、照瑠の目が大きく見開かれる。何を隠そう、彼女の目の前にいたのは、あのT‐Driveの三人組に他ならなかったのだから。
「あっ、照瑠ちゃん! お仕事、もう終わったの?」
「えっ……! ど、どうして雪乃がここにいるわけ!?」
「お正月は生放送番組で忙しかったけど、今日と明日はお休みなんだ。だから、高槻さんに少しだけ無理言って、火乃澤に帰って来ちゃった」
「で、でも……あなたはいいとして、なんで他の二人まで……」
「実は、それも高槻さんにお願いしたんだ。照瑠ちゃんにはお世話になったし、何か恩返しもしたかったから……。三人で話し合って、お正月のお仕事を手伝うことにしたの。T‐Drive、一日巫女さん体験企画ってことでね」
「はぁ……。まあ、そういうことなら仕方ないわね……」
照瑠の脳裏に、昨年の大晦日に電話越しで楽しそうに話していた父の姿が思い浮かんだ。きっと、あれは高槻からの電話だったに違いない。
神主でありながら妙に俗っぽい考えに囚われて、常に飄々とした態度を取り続ける食えない人物。それが照瑠の父である、九条穂高の性格だ。あの父のこと、恐らくは高槻の注文を二つ返事で了解し、雪乃達が正月の仕事を手伝うことを許可してしまったのだろう。勿論、国民的なアイドルが仕事を手伝うことで、神社の知名度を上げて参拝客を増やそうという打算が入っての計画に違いない。
父のことを考えると全身脱力しかねない照瑠だったが、雪乃達の手前、なんとかそれは堪えることができた。代わりに雪乃に近況を尋ねると、なんとか上手くやっているとの返事が返ってきた。
昨年の暮、ホテルの駐車場での戦いで社長が亡くなったことで、当然のことながら鴨上プロは大混乱に見舞われた。公には行方不明としか発表されていないが、照瑠達は社長が二度と見つからないであろうことを知っている。もっとも、それを誰かに説明したところで、にわかには信じてもらえないのだろうが。
社長を失った鴨上プロは、事実上の倒産に等しい状況になっていた。新しい社長を決めようにも話が進まず、このままでは社員もアイドル候補生も路頭に迷ってしまう。最終的には業界最大手とされる森内プロダクションか、j―mixに吸収合併されるだろうと言われていた。雪乃達もそれに合わせ、そのどちらかの事務所に移籍する可能性が濃厚である。
事件の後、あの麻宮星梨香のプロデュースも、雪乃達のプロデューサーである高槻が引き受けることになったという。彼女の元担当であった黒部は早々に行方をくらましてしまい、今では連絡を取ることもできない状況だ。
まあ、あんな事件に巻き込まれてはそれも已む無しと思えるが、それでも少し無責任と言わざるを得ない。黒部の本音がどうであれ、彼が麻宮星梨香の拠り所となり、その心も体も捧げさせていたのは事実なのだから。
かつてのライバルのプロデュースを、自分のプロデューサーが代理で行うという事実。どう考えても気持ちの良いものではないだろうが、雪乃はあえて不満を口にはしなかった。アイドルたる者、勝負はあくまで舞台でつける。夏樹に影響されて、そんなプロ意識が芽生えていたということもあったのかもしれない。
どちらにしても、雪乃がアイドルとして再スタートを切ったのは間違いない。今までは奇妙な力に支えられ、命を削って得ていた成功。今度はそれを、自分の力で勝ち取ること。そんな覚悟が雪乃の中で固まったのだ。
雪乃の歌唱力の才能は、確かに優れたものがある。だが、歌唱力の才能だけで成功をつかめるほど、芸能会は甘い世界ではない。
雪乃もそれはわかっているようで、彼女は照瑠にこれからも努力を続けるという旨の話をした。それを聞いた照瑠もまた、自分の中で一つの決意が固まったことを確信していた。
才能だけで、全てが上手く行くはずはない。それは、今回の事件で照瑠も思い知らされたことだ。結局、今回も自分は傍観者のままで、肝心なところは全て紅の力に頼ってしまった。
九条神社の巫女として、一刻も早く癒しの力を手に入れること。それには今以上に厳しい修業と、それに耐える精神力が必要だ。昨年の暮は妙な焦りから自分を追いこんでいたような気もするが、今の照瑠にそれはない。
雪乃の話を聞いて、自分もまた同じであると知った照瑠。その胸中に、既に迷いや焦りといった感情は存在していなかったのだから。
自分は自分のできることから始めればよい。決して焦らず、しかしたゆまず怠らず。それこそが、自分が九条家の跡取りとして真の力を得るための近道である。
教えられるはずが、逆に教えられた。助けるはずが、逆に助けられた。そんな事実が、照瑠と雪乃にいつしか強い親近感を抱かせていた。
雪乃であれば、アイドルとしてではなく一人の友人として接することができる。そう思っているのは照瑠だけではなく、雪乃もまた照瑠のことを大切な友人だと考えていた。
「ねえ、照瑠ちゃん。今日は、私達に出来ることがあったら遠慮なく言ってね。今日はアイドルのT‐Driveじゃなくて……できれば、照瑠ちゃんのお友達としてお仕事を手伝いたいから」
少しだけ照れ臭そうにしながらも、雪乃は照瑠にそう言った。照瑠は大きく首を振って頷いてそれに答える。午前中の疲れなど、既にどこかへ吹き飛ばしてしまったかのような笑顔だった。
「ありがとう、雪乃。亜衣はあの通りの性格だし、実は人手が足りなくて困ってたんだ」
「むぅぅ、失礼な! 私だって、やる時はやりますぞ、照瑠殿!!」
今までコタツに潜っていた亜衣が、口を膨らませながら文句を言った。
「何を言ってるのよ。確かにあなたも手伝ってくれたけど、初日の賽銭箱の前での出来事……私は忘れてないからね!!」
「えっ……!? い、いやぁ……。いったい、なんのことでございましょうなぁ……」
「とぼけるのもいい加減にしなさいよ、亜衣……。私があなたのやったことに、気づいていないとでも思っているのかしら……?」
照瑠の額に青筋が走り、亜衣を徐々に部屋の隅へと追い詰めてゆく。対する亜衣は、先ほどの調子はどこへやら。顔に油汗をかいて、完全に動揺しているようだった。
「あなた、仕事が終わった後、賽銭箱の周りに転がっていた小銭を拾ってたでしょ。あれ、立派な賽銭泥棒じゃないの!!」
「うぐっ……。で、でも……元はと言えば、箱にちゃんと入れないで、遠くからお金を投げた人が悪いんじゃん!! それに、賽銭箱から直接お金を盗ったわけじゃないし、神様だって許してくれるよ……たぶん」
「なに調子のいいこと言ってるの! 拾った小銭をネコババしたってことには変わりないでしょう!? 今すぐ雁首揃えて、盗んだ小銭を返しなさい!!」
「い、いやぁ……あはは……。実は、その小銭なんですけどねぇ……。あの後、お腹がすいていたもので、屋台のたこ焼き買うのに使っちゃいまして……。というわけで、返したくても返せないってわけですよ、ははは……」
自分の腹をさすりながら、乾いた笑い声を交えて話す亜衣。思わず殴ってやろうかと思う照瑠だったが、次の瞬間、彼女達のいる部屋の襖が豪快に開けられたことで、その拳は行き場を失った。
「お、おい! 九条はいるか!?」
襖の向こう側から、慌てた様子で一人の少年が飛び出して来る。照瑠の級友であり、今日の仕事の手伝いを頼んでいた者の一人、長瀬浩二だ。
「ど、どうしたのよ、長瀬君! そんなに慌てて……」
「いや……。実は、今日くらいちょっと羽目を外してもいいかと思ってさ……。九条の親父さんの許可ももらって、余った甘酒を飲んだんだが……詩織のやつが、ちょっとマズイことになっちゃって……」
「マズイことって……まさか、急性アル中で倒れたとか!?」
「それだったら、いくらかマシだったぜ。まあ、飲ませた俺にも責任はあるけど……九条も見ればわかると思う……」
いつもであれば気取って格好をつけている浩二だが、今日に限ってはやけにしおらしかった。自分の彼女である加藤詩織のことを気にしているのもあるのだろうが、それにしても普段の雰囲気が感じられない。
いつもとは違う浩二の様子を、訝しげな表情で見つめる照瑠と亜衣。だが、その答えはすぐにわかることとなる。
「あっひゃひゃひゃひゃ……。九条ひゃ~ん、嶋本ひゃ~ん……わらひ、酔っ払っひゃっひゃよ~」
いつもの生真面目な空気など皆無な呂律の回らない声。声色からそれが詩織のものだと気づいたが、そこには既に照瑠の知っている詩織はいなかった。
顔を赤くし、目はだらしなく下に垂れ、完全に千鳥足になっている詩織。いつもは真面目で優等生な彼女だが、どうやら稀に見る下戸だったらしい。しかも、酔った際の酒癖は、並みの酔っ払い以上に性質の悪いものだった。
「ねえねえ、長瀬くぅ~ん! ちゅーひよ、ちゅー!!」
酒臭い息を撒き散らしながら、詩織が浩二の首に絡みついてきた。普段であれば人前で手を繋ぐことさえ恥ずかしがる詩織が、こうも大胆に変貌するとは。まったくもって、酒の魔力とは恐ろしいと照瑠は思う。
「や、やめろよ、詩織! みんな見てるじゃんか!!」
「あれぇ~。もひかひて、恥ずかひいの~? 二人のとひは、いひゅもすっごくでぃーぷなやひゅをやっひぇるくせにぃ~」
「あの時はあの時、今は今だ! 頼むから、いつもの詩織に戻ってくれってば!!」
照瑠達の見ている前で強引に唇を奪われそうになり、泣きそうな顔になっている浩二。いくら自分の彼女が相手でも、こんな形でのキスなど御免被りたい。浩二は格好こそ遊び人に近いが、実際は悪を気取っているだけなのだ。人前で酔った相手と見境なくキスをするほど節操がないわけではない。
「ちょっと詩織! ここじゃマズイから、少し奥の部屋に行っててよ……」
浩二に絡みついて離れない詩織を、照瑠が強引に引き剥がす。しかし、酒の力で見境がなくなった詩織は、照瑠のことなど見えてはいない。じたばたと手足を動かして暴れ、しまいには自分の服の胸元に手をかけて肌蹴始めた。
「ああ、もう! この服あっひゅいね、長瀬君」
「ちょっ……なにやってんのよ、詩織!!」
「あっひゃひゃひゃひゃ……。なんか窮屈らひ、わらひ、ここれ脱いじゃおうっと! 全部脱いれ、すぱぁっとすっきりぃ、みたいなぁ!!」
「だ、駄目だってば! 亜衣、長瀬君、二人とも詩織を止めてぇ~!!」
バイト用として貸し出した巫女の服を、豪快に脱ぎ捨てんと暴れる詩織。それを阻止するべく、亜衣と浩二も詩織の腕を取る。それでも詩織は何やら叫んでいたが、やがて奥の部屋に移されたのか、その声も聞こえなくなった。
騒ぎの収まった社務所の一室で、雪乃達は互いに顔を見合わせて頷いた。
照瑠の知り合いには、どうやら一癖も二癖もある人間が多いようである。こんな状況では、確かに彼女が人手を欲しがるのも頷けるというものだ。
「やれやれ……。雪乃に誘われて来てみたけど、本当に滅茶苦茶な連中ね。東北の田舎町なんて退屈な場所だと思ってたけど、なんだか東京のスタジオ並みに賑やかだわ……」
「まあ、それでも楽しければいいじゃないですか、夏樹さん。それに、私も照瑠さんのお手伝いできるのは嬉しいですよ。巫女さんの服、一度着てみたいと思ってましたし!!」
「相変わらず、あなたは悩みがなさそうでいいわね、咲花。言っておくけど、手伝いとはいえ仕事は仕事。オフの日のことでも、T‐Driveの名に泥を塗るような真似は許されないわよ」
「わかってますぅ! 雪乃さんも、今日も元気百倍絶好調で行きましょうね!!」
もう、これ以上は黙って座っていられない。そんな様子で小躍りしながら、咲花が雪乃に言ってきた。
「そうね。それじゃあ、皆で照瑠ちゃんの代わりに神社のお仕事手伝いましょう」
雪乃も立ち上がり、三人もまた社務所の奥にある着替えの場所へと去って行く。廊下を走る三人の足音が、徐々に遠くなりやがて聞こえなくなる。
嵐が過ぎ去り、静寂に包まれた社務所の一角。全ての人がいなくなったその場所に、再び誰かの足音が響く。雪乃達が走り去った時とは違い、それはゆっくりと廊下の板を踏みしめるような音だった。
辺りの様子をそっと窺うようにして、廊下の隅から一人の少年が姿を現す。赤い瞳と白金色の髪、そして雪のように白い肌が特徴的な人間、犬崎紅だ。
暮の戦いで負傷していた紅だったが、以外にも彼は早々に病院を退院していた。未だ肋骨にヒビが入っていたものの、動けないというわけではない。常に向こう側の世界の存在を相手に戦うための備えをしている紅にとっては、骨折程度で何日も病院のベッドにお世話になる必要もなかったのかもしれない。
人のいない廊下の壁に寄りかかり、紅はコートのポケットからイヤホンの片割れを取り出した。普段は音楽など聞かない紅だったが、今日は少し特別な気持ちだった。
ポケットに突っ込んだままのプレイヤーのスイッチを入れ、紅は自分の耳に流れてくる音に意識を集中させる。イヤホンの奥から響くそれは、決して上手とは言えない一曲の歌。どこか優しく、それでいて一生懸命な気持ちが伝わってくる、つたなくも心に響くものだった。
名残雪。紅の聞いている歌の曲名に使われている言葉だ。その名の通り春になってから降る雪のことで、冬の名残を思わせる。春の陽射しに照らされて、積もることなく溶けてしまうことがほとんどだが、それ故に切なさと儚さを感じさせることもある。
歌の歌い手は、他でもないあの雪乃だった。彼女がまでデビューしたての頃、右も左もわからないままに、ただ前を向いて真っ直ぐに歌っていた静かなバラード。今時流行りのポップスとは違う、彼女らしさを前面に押し出した優しい歌だ。
普段であれば、紅がアイドルの歌を聞くことなどない。が、今日に限って、彼は文句の一つも言わず、雪乃の歌に耳を傾けていた。
長谷川雪乃の選んだ道には、これからも困難が待っていることだろう。そしてそれは、九条照瑠も同じこと。巫女としては未熟な彼女にとっては、これからも向こう側の世界の存在に脅かされることがあるだろう。
そんなとき、彼女を守ってやれるのはいったい誰か。それは他でもない、紅自身である。
強過ぎる力と才能を持ったが故に、その使い方を誤って闇に堕ちる。かつて、そうやって闇に堕ちてしまった少女を救えずに、殺めることでしか闇から解放してやれなかった紅。その贖罪が、照瑠のような人間を無償で守るということなのだ。
曲が別の物に変わったところで、紅はイヤホンを外して歩き出した。社務所の奥からは、詩織を寝かしつけた照瑠や着替えを済ませたT‐Driveの三人が姿を見せ始めている。
これからも、自分は影ながら照瑠を見守って行けばよい。そうして照瑠が真の力に目覚めたときが、自分が火乃澤町を去るときだ。
そう考えると、紅は少しだけ自分の中に寂しさのような感情を覚えた。だが、すぐに迷いを振り払い、照瑠や雪乃に気づかれないよう社務所を後にする。
時刻は既に、昼を少し過ぎた時間になっていた。曇天の多い東北の冬にしては珍しく、今日は太陽がしっかりと顔を出していた。