~ 六ノ刻 妖蟲 ~
「ふん……。俺の仕事にケチをつけて来たのは、お前達が初めてだ」
九条神社の社務所にある一室で、犬崎紅はそう言った。
今、彼の目の前にいるのは、雪乃と高槻の二人である。なんでも、紅によって蠱毒を祓ったにも関わらず、雪乃の前に再び毒虫の群れが現れたとのことらしい。その知らせを嶋本亜衣から受けた九条照瑠によって、紅はここまで呼び出されたのである。
「お前に憑いていた蠱毒は、確かに俺の黒影が滅したはずだ。それは、九条や嶋本からも聞いているだろう?」
「はい……。でも、あの虫たちは、また私の前に現れたんです。会議で夏樹ちゃんや咲花にだけ新しく仕事が来たことが伝えられて……それで、ちょっと辛くなって洗面所に行ったとき、そこの天井から私の上に降って来たんです!!」
ホテルの洗面所で起きたことを思い出し、雪乃は震えながらも声を荒げて言った。紅のことを信用していないわけではないが、あの毒虫達が再び雪乃の前に現れたのも事実。それがある以上、雪乃にはまだ悪夢が終わったとは言い切れない部分がある。
一度は祓ったにも関わらず、連中は再び雪乃の前に姿を現した。この事実が意味するところはいったい何か。当事者である雪乃は勿論、これには紅も首をかしげざるを得ない。誰に何と言われようとも、雪乃に憑いていた蠱毒は確かに黒影の炎で滅したはずなのだ。
「仮に、お前の目の前に現れたものも蠱毒なのだとしたら……」
慎重に言葉を選びながら、紅は雪乃に向かって続けた。
「それは、お前を恨む誰かが再び呪詛を仕掛けたということになる。あの後、誰かから何かを貰ったり、家に何かが送られてきたりしたことはないか?」
「別に、何もありません。今日だって、手紙の一枚だって貰っていないくらいなんですよ」
「ならば、東京のアパートの方に送りつけたか……? いや、しかし、蠱毒は本人が直接受け取らなければ……本人が持ち主として存在を認めなければ、その効果を真に発揮しないはずだ……」
珍しく難しい顔をしたまま、紅は胸の前で腕を組んで考え込んだ。相手の正体がわからない。こんなことは、紅にも初めてだった。
「ねえ、君。ちょっといいかな?」
先ほどから雪乃の横で聞いていた高槻が、たまりかねた様子で紅に尋ねた。
「君、さっきから呪いがどうのって話をしているけど……もしかして、霊能者か何かなのかい?」
「まあ、そういうところだな。もっとも、俺はテレビに出ている霊能者なんかとは違って、もっとスレた人間だが」
「でも、霊能者には違いないんだろう。だったら、一つだけ言わせてくれ」
普通の人間であれば、彼の持つ血のように赤い瞳に睨まれただけで、物怖じして何も言えなくなってしまうだろう。それにも関わらず、高槻は一歩も引かない意思を込めた言い方で口にした。
「君が妙な話で雪乃を惑わそうとしているのなら、僕は君から雪乃を守らなければならない。新興宗教に霊感商法……。芸能界には、そういった類の話を持ちかけて、他人を食い物にするような連中もいるからね」
「なるほど。そう思うなら、とっととその女を連れて帰ればいい。言っておくが、俺はあんな紛い物の力で人を惑わすような連中と一緒にされるのは、この上なく不愉快に感じるんでな」
「僕からすれば、どれも同じようなものだよ。雪乃が苦しんでいる原因が君にあるなら、僕は君から雪乃を守る義務がある」
互いに一歩も引かないまま、紅と高槻は睨み合った。相変わらず紅は肉食獣のように鋭い視線を送っていたが、高槻も負けてはいない。これ以上、紅が雪乃を不安がらせるようなことを口にすれば、即座に彼を殴り飛ばさん勢いである。
長谷川雪乃を毒虫の悪夢から救いたい。それは紅も高槻も同じだったが、二人の考えは極端なまでに違っていた。
確かに高槻は、雪乃の話を聞いて九条神社まで足を運んだ。が、それはなにも、高槻が心霊現象の類を信じていたからではない。
高槻が心配していたのは、むしろ雪乃が妙な霊能力者に引っかかり、霊感商法紛いのやり方で高額な請求をされるのではないかということだった。雪乃の弱みに付け込んで、詐欺を働こうと近づいた者がいるのではないかと勘繰ったのだ。
もっとも、霊の存在を信じていない一般人にとって、これは実に自然な考えだった。事件の当事者である雪乃や、今までに多くの心霊事件に遭遇してきた照瑠とは違い、高槻はあくまで一般的な常識を持った大人の男である。
このまま雪乃を苦しめてなるものか。そう思って紅と対峙する高槻と、あくまで退魔師として意見を述べる紅。お互いに平行線を辿る争いになると思われたが、それを制したのは意外にも、紅の横で話を聞いていた照瑠だった。
「ちょっと、犬崎君! あなた……まさか、このまま雪乃を返すつもりじゃないでしょうね!?」
「当然だ。だが、この女のプロデューサーとやらは、端からこちらを疑っている。大方、長谷川雪乃の話を聞いて、俺にあらぬ誤解を向けているんだろうが……とにかく、このままでは動こうにも動けないことは確かだ」
「そんなこと言ってる場合!? 除霊に失敗したんだったら、素直にそれを認めなさいよ。その上で、呪いを仕掛けた人間を探し出して被害を食い止めるとか……そういった話をするべきなんじゃないの!?」
あくまで正論しか述べない紅に、照瑠は少し苛立った様子で叫んだ。
紅の言っていることは、確かに正しい。高槻にしても、普通の人間が霊的なものの存在を信じないことなどは当然だ。
だが、それで雪乃が抱えている問題を放置してよいかといえば、そういうことでもないだろう。現に今も、雪乃は蠱毒の影に怯え、最後の頼みの綱としてこちらを頼ってきたかもしれないのだから。
この事件には、向こう側の世界の存在が関わっている。照瑠も雪乃の部屋で紅が蠱毒を祓う瞬間を見ていたのだから、それは間違いない。
ならば、一度は紅によって退治された蠱毒が再び現れた原因はなんだろう。目下、解決すべき問題はそこだった。
「ねえ、雪乃。こんな質問をするのも変なことかもしれないけど……あなた、自分を呪うような人間に心当たりはない? あなたのことを恨んでいたり、妬んでいたり……そんな人、身の回りにいないかな?」
「えっ……。でも、そんなのわからないよ。こんな仕事してるくらいだから、嫉妬されることだって普通にあるだろうし……」
「もっとよく考えて。人から恨まれるってことは、あまり考えたくないことかもしれないけど……逆恨みの線まで考えないと、犯人はわからないわよ」
「逆恨み、か……。そう言えば……」
雪乃の脳裏に、今日の洗面所であったことが思い起こされた。
あの時、偶然にも自分の目の前に現れた麻宮星梨香。一度はアイドルとしてデビューを果たしながら、再び候補生に落ちて苦汁を舐めさせ続けられた少女。彼女であれば、T‐Driveに対して逆恨みのような感情を抱いても不思議ではない。
「一応、心当たりはあるかな。候補生の中には、私達に敵対心剥き出しのライバル感情を持っている人もいるみたいだし……」
「候補生か……。それ、名前のわかっている人かしら?」
「うん。あまり仲良くはないけど、名前だけなら……。麻宮星梨香っていう人で、私達より前に一時的にデビューしていたこともあるの。でも、相方の人が心身衰弱になったとかで、今ではユニットも解散して候補生に戻っているわ」
「元アイドルで、候補生落ちした人間か……。確かに、怪しいわね」
犬崎紅の話によれば、蠱毒は呪いをかけたい対象に送りつけることで意味を成す呪具だ。長谷川雪乃を陥れるのであれば、必然的に彼女に近づける人物でなければ不可能ということになる。
狂信的なファンや一部の一般人からの嫉妬も考えたが、そもそも芸能人に対する贈答品など、事前にプロダクションのチェックが入るのが常だ。雪乃のプロデューサー兼マネージャーである高槻がよほどずぼらな仕事でもしていない限り、雪乃には剃刀入りレターの一枚だって届かないはずなのである。
やはり、雪乃に呪いをかけた本人は、雪乃の知っている人間の中にいる。あまり考えたくないことではあったが、可能性としてはこれが一番高かった。雪乃の話からすると、麻宮星梨香が雪乃に呪いを仕掛けた可能性が一番高い。
呪いをかけた本人を見つけ出せば、これ以上、雪乃に悪夢を見せずに済むかもしれない。そう思い、さらに雪乃に話を聞こうとした照瑠だったが、それに割り込んだのは高槻だった。
「いいかげんにしてくれないか、君達。さっきから聞いていれば、呪いがどうの、除霊がどうのと……。雪乃に言われてここまで来てみたけど、僕にはやはり信じられない。それに、仮に君達の言っている話が本当だったとしても、君達みたいな高校生に、いったい何ができるっていうんだい?」
「そんな……。確かに、こんな話を直ぐに信じて欲しいって方が無理なのはわかりますけど……」
「だったら、悪いけど金輪際、雪乃に関わらないで貰えないかな。彼女はいま、原因不明の悪夢で苦しんでいるんだ。そこに霊だのなんだのと、余計な話をして怖がらせたくない」
「でも……そんなこと言っていたら、悪夢の原因を突き止めることはできないんですよ!?」
「それなら問題ない。雪乃には、年末のカウントダウン特番まで、こっちで休んでいてもらえるように手配したからね。余計なストレスから解放されれば、雪乃も落ち着くだろうし」
「余計なストレスって……あの虫は、そんな簡単に消えるものじゃ……!!」
雪乃の見る悪夢は、明らかに向こう側の世界の存在が原因である。それがわかっているにも関わらず、照瑠には高槻にそれを証明するだけの術がない。
自分には、確かに向こう側の世界に通じる力がある。しかし、その力を持っているだけでは、目の前にいる一人の人間にさえも話を信じさせることができない。そんな自分の無力さが、照瑠にはなんとも歯痒く、また悔しく思えた。
「もういい、九条。これ以上は、何を言っても無駄だ」
なおも高槻に食い下がろうとする照瑠を、紅が静かに止めた。照瑠は納得のいかない顔をして紅を睨んだが、やはり言い返す言葉が見当たらなかった。
形だけの挨拶を済ませ、雪乃と高槻は九条神社を後にした。最後に雪乃は照瑠に向かって申し訳なさそうにして頭を下げたが、照瑠の心は晴れなかった。
このままでは、雪乃があの毒虫に食いつくされてしまう。それがわかっていながら、照瑠には雪乃を助ける術が見当たらない。呪いを仕掛けた犯人を探すことも、高槻に向こう側の世界の話を信じさせることも、なにもできないまま終わってしまった。
なんともやりきれない気持ちで、照瑠は部屋に敷いてあった座布団の上に無造作に腰かけた。横では相変わらず、紅が険しい目つきをして正面を睨んでいる。威嚇するような顔つきではあったものの、紅は紅で何かを考えているのだということは照瑠にもわかった。
「ねえ、犬崎君。これから、どうするつもりなの?」
「さあな。だが、このまま放っておいたなら、長谷川雪乃の命が失われるのも時間の問題だ。いくら耐霊体質とはいえ、向こう側の世界の連中の攻撃が効かないわけじゃない。これ以上、今の状態で霊的な攻撃を受け続けることは、あの女の寿命をそれだけ縮めることになる」
「だったら、早く追いかけてなんとかしないと!!」
「まあ、そう焦るな。相手の正体が見えていない以上、下手に動いても無駄足になるだけだ」
逸る照瑠を他所に、紅はあくまで落ち着き払った様子だった。そのまま頭の上で腕を組むと、重ねた座布団の上に頭を乗せて横になる。一見して眠っているようにも思えたが、緊張した空気までは解き放っていなかった。
(もう一度、根本的な部分から考えてみるか……)
長谷川雪乃の前に再び現れた蠱毒。その正体を探るためには、一度先入観を捨てて考える必要がある。
そもそも、第一に問題となるのは、彼女の前に現れたのが本当に蠱毒だったのかということだ。だが、これは恐らく間違いはない。あの日、雪乃の家を訪れた際に祓ったものは、紛れもなく蠱毒の特徴を兼ね備えたそれだった。
では、一度祓った蠱毒が再び雪乃の前に現れた理由は何か。一番に思いつくのは除霊の失敗だが、それは考えられないことだった。
蠱毒を夢の世界から引きずり出し、黒影の吐いた炎で焼く瞬間。それは紅も自身の目で確認している。蠱毒が逃げ去った様子もなく、あれは破魔の炎で完全に焼き尽くされ無に帰したはずだ。
(あの虫は、確かに黒影が倒したはずだ。ならば、新たに蠱毒が長谷川雪乃のところに送りつけられたのか?)
術を破られたことに気づいた術者が、再び雪乃に蠱毒を送る。それは考えられないことではなかったが、それでも紅はまだ納得がいかない様子だった。
そもそも、まずはこれだけの短期間で、新しい蠱毒を用意することが不可能なのだ。
紅の知る限り、蠱毒とは毒を持った生物を壺に詰め、それを土中に埋めて互いに共食いをさせることで完成させる。つまり、どうしても作るのに時間がかかり、失ったからといって直ぐに代わりを用意できるようなものではない。
術が破られた時に備えてスペアを用意するにしても、それはあまりにもリスクの高過ぎる方法だ。万が一のときに備えてスペアを所持している間、そのスペアは当然のことながら所持者の命を削ることになる。雪乃が耐霊体質であることを考えた場合、これでは術者の方が先に命を吸われて死んでいる可能性の方が高かった。
蠱毒の性質を考えた場合、どうしても行き詰まってしまう。長谷川雪乃の前に、こうも早く蠱毒が復活したこと。その説明をするだけのものが、紅には思いつかない。
(まともに考えても駄目だな……。それならば、今一度情報を整理するか……)
思い立ったようにして体を起こし、紅は大きく伸びをして立ち上がった。そして、そのまま部屋の隅にあるメモ用紙の束を目敏く見つけると、それをつかんでひたすらに何かを書き始めた。
「ちょっと、犬崎君!? いったいどうしたのよ!!」
「静かにしていろ、九条。今、少し情報を整理しているところだ」
横から声をかけてきた照瑠に顔を向けることもなく、紅はメモ用紙の上に様々な事柄を書き殴って行く。それは、紅が雪乃に関わってから見たものや聞いたもの、更には事件に関して紅が知る向こう側の世界に関係する知識だった。
クリスマスのライブで紅が感じた違和感から、雪乃の本名と芸名。果ては彼女の関係者の名前や身の回りで起きた出来事など、可能な限り時系列順になるように、紅は並べていった。書かれている文字そのものは決して上手くはなかったが、今の紅にとってはどうでもよいことだった。
一枚、二枚と小さなメモ用紙がテーブルの上に並べられ、紅はそれを腕組みしたまま今一度眺めた。長谷川雪乃の身の回りに起きた出来事、その関係者、そして呪いの方法に関するまで、少しでも抜けはなかったか。自分の見落していたものは、果たして本当になかったのかを探るために。
一般的な蠱毒の性質から考えても、先ほどは直ぐに行き詰まってしまった。ならば、雪乃の話をもとにして、彼女の身に何が起きていたのかを考えた方がよいだろう。
長谷川雪乃の夢に初めて蠱毒が現れた時期。そして、夢か現実かを問わず、彼女の前に蠱毒が現れたタイミング。初めはただ流れを追っているように見えただけだったが、ある一点に来て、紅の目に明らかな変化が現れた。
暗闇の中、一筋の光を見つけ出した時のように、紅の赤い瞳が大きく見開かれる。いつもは冷静沈着な紅が、珍しく驚いているようだった。
「そうか……。そういうことだったのか……」
手にしたペンを落とし、テーブルの上に広げられたメモ用紙を前に呟く紅。今までは矛盾だらけだった点と点の関係が、ここに来て一直線に繋がった。そんなことを言いたそうな感じだった。
「蠱毒の現れたタイミング……芸名……耐霊体質……それに、蠱毒の持つ本来の意味……。まさか、こんな単純な関係に、今まで気がつかなかったなんてな……」
「ねえ、勝手に一人で納得しないでよ。私にもわかるように、ちゃんと説明してくれない?」
「んっ……ああ、そうだな。だが、時間は一刻を争うぞ。できれば余計な長話などしないで、直ぐにでも出発したいところなんだがな」
「直ぐにでも出発って……どこへ行くつもりなのよ!?」
「決まっているだろう。長谷川雪乃と、その関係者が集まっているN市内のホテルだ。全てはそこに行ってから説明する」
「でも、ホテルって言ったって、雪乃がどこに泊まっているかなんて……」
「それなら心配ない。さっき、あの二人が飲み残していったお茶がある。その残りから、コイツに匂いを辿らせればいい」
紅の言葉と共に、彼の影がすうっと天井まで伸びた。そして、そのまま壁から剥がれるようにして影が盛り上がると、それは瞬く間に流動的な黒い塊から成る体を持った犬となる。
「頼んだぞ、黒影。あの二人がどこに行ったのか……その匂いを辿って、俺達を案内しろ」
金色の目を輝かせ、紅の言葉に犬が頷いたように見えた。犬はしばらく湯飲みの周りを漂っていたが、直ぐに紅の中に戻って元の影に戻る。紅はその場で足元の感覚を確かめるような仕草をすると、壁に立てかけてあった白い布の巻かれた棒を手に部屋を出た。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
紅と照瑠の二人がN市に到着したとき、既に辺りは陽が落ちて暗くなっていた。
暮の忙しい最中、市内はさぞ込んでいるだろうと思っていた照瑠だったが、意外にも人の数はそこまで多くはなかった。その代わり、空からは昼刻より降りだした雪が未だ降りてきており、辺りの道路は白い絨毯に覆われつつある。
豪雪地帯として有名な東北地方。そこでの雪は、他の地域の雪とは比べ物にならない。重たく湿った雪が背丈を越えるまでに降り積もることを考えると、このような天気のときにあまり遅くまで出歩きたくはなかった。
「ねえ、犬崎君。勢いで電車に乗ってここまで来たけど……本当に大丈夫なの?」
「問題ない。黒影はあの二人の匂いを覚えているし、長谷川雪乃への連絡先も、さっき嶋本から携帯で聞いておいた。いざとなれば、長谷川を介して関係者との面会に取り付けるまでだ」
「それでも、外はこの雪なのよ。さっさと雪乃のいるホテルを探さないと、このままじゃ帰れなくなるじゃない」
「だったら、今すぐにでもお前だけ引き返せ。危険の中にわざわざ飛び込む理由など、お前にはないはずだ」
横にいる照瑠に向かって、紅は素っ気ない態度で返した。相変わらず愛想のない男だと思ったが、照瑠は喉まで出かかった言葉をぐっと堪えて飲み込んだ。
紅の言っていることは正しいが、ここまで来て事件の全貌を知らずに終わるというのは納得がいかない。長谷川雪乃を今度こそ助けたいという気持ちも相俟って、照瑠の中には自分だけ帰るという考えは湧いて来なかった。
駅を離れて数十分程歩いた頃だろうか。紅と照瑠の目の前に、巨大な建物が姿を現した。N市内でも有数の、観光客を迎えるためのホテルだ。
ホテルの入口で足を止め、紅はその建物をすっと見上げる。いつもであれば何の変哲もない高層ホテルにしか見えないのだろうが、今日に限って、妙にホテル全体が禍々しい気に覆われているような気がしてならない。どんよりと曇った空の下、まるでホテル全体が巨大な怪物のようにして、こちらが口に飛び込むのを待っているような気がするのだ。
「行くぞ、九条……」
余計なことは一切口にせず、紅はそれだけ言ってホテルの自動ドアをくぐった。目の前には直ぐに受付のカウンターがあり、そこには比較的若い受付嬢が座っている。
このまま受付に頼んで雪乃を呼ぶのだろうか。そう思った照瑠だったが、意外にも紅は自分の携帯電話で直接雪乃を呼び出した。紅にしては大胆な行動だとも思ったが、それ以上に、彼のような人間が携帯電話で話をしているところを見るのが珍しかった。
程なくして、紅達の前に雪乃が現れた。彼女の横には、あの高槻も一緒にいる。ロビーにいた紅と照瑠の姿を見つけると、高槻はうんざりしたような顔をして二人に詰め寄った。
「なんだ、また君達か。まさか、こんなところまで追いかけて来るとはね……」
「あそこまで言われて、黙って引き下がるのも癪なんでな。それに、放っておけば、長谷川雪乃の命に関わる事態になる。それはあんただって、望んではいないだろう?」
「やれやれ、今度は脅迫かい? こちらが教えてもいないのにホテルの場所を突き止めたことといい……あまりに悪質だと、次は警察を呼ばせてもらうぞ」
「警察か……。それだったら、N県警に電話して、火乃澤署の工藤という男に繋いでもらえ。俺がその辺のイカサマ霊能者ではないということは、そいつが証明してくれるはずだ」
高槻はあくまで紅達に疑いの目を向けていたが、それでも紅は引かなかった。あまつさえ、知り合いの警察官の名前を出して、不敵にも高槻を挑発するような態度を取る。そんな彼の様子に、さすがの高槻も折れたようだった。
「仕方ない……。それじゃあ、一応は君達の話も聞いてあげよう。だけど……雪乃に万が一のことがあったら、僕は今度こそ警察を呼ぶぞ」
「構わない。そうなる前に、俺がその女に悪夢を見せている元凶を叩いてやるさ」
一度は除霊に失敗しているにも関わらず、紅はいつになく自信に満ちた顔でそう言った。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
高槻に案内されて紅と照瑠来た場所は、このホテルに用意された会議室だった。今日の昼、T‐Driveの面々が打ち合わせを行っていた、あの部屋である。
会議室には高槻と雪乃だけでなく、夏樹や咲花といったT‐Driveのメンバー、果ては麻宮星梨香やプロデューサーの黒部に加え、社長の鴨上の姿まであった。この部屋に通された際、紅が無理を言って高槻に呼ばせた者達だ。
「で……そこの坊やが、俺達を呼び付けた≪自称霊能者≫ってわけか?」
ふてぶてしい態度で紅を睨みつけているのは黒部だ。元よりこういった類の話を信じていないだけに、いきなり高槻に呼び出されたのが不服のようである。
「自称ではない。俺の力は本物だ。今からそれを、お前達の前で見せてやるさ」
「へえ、そりゃ楽しみだ。それで、君はいったい何を見せてくれるんだ? 手品か、それとも占いか?」
「そんな遊びのようなものじゃない。あまり舐めていると、今度はお前が死ぬことになるぞ」
「おお、怖い怖い。それじゃあ、外野は外野らしく、あくまで観客として見物させてもらいましょうか」
あくまで挑発的な態度を崩さずに、黒部はおどけた顔をして星梨香の影に隠れた。紅も、それ以上は相手にするのも馬鹿らしいと思ったのか、黒部には構わずに雪乃達の方を向いた。
「どうやら役者は揃ったようだな。それじゃあ早速だが、今回の事件についての説明をさせてもらおうか」
「今回の事件? いったい何なのよ、それ」
説明を始めようとした紅の腰を折ったのは星梨香だった。彼女もまた黒部と同じように、急に呼び出されたのを不満に思っているらしかった。
「ちょっと、少しは黙ってなさいよ。まずは話を聞かないことには、何が何だかわからないじゃない」
「あら、鈴森さん。あなた、もしかして、この妙な男のことを信用するってわけ?」
「別にそんなんじゃないわよ。ただ、私達を呼び出したからには、その理由をしっかりと聞かせてもらいたいってだけね。もしも下らない理由だったら、高槻さんが言っているように、警察呼んで摘まみだしてもらうけど」
「随分とお人好しなものね。まあ、別にいいんだけど……」
夏樹に注意をされても、星梨香は一向に態度を改めることなく言った。そのまま近くのパイプ椅子に腰かけて、眠たそうに体を伸ばす。そんな彼女に紅も少しだけ視線を向けたが、直ぐに気を取り直して説明を続けた。
「では、仕切り直すぞ。今回の事件は、そもそも俺達がそこにいる女……長谷川雪乃から相談を受けたことがきっかけだった。夢の中に現れた毒虫が、現実世界にも現れて襲いかかってきた。その正体を、探って欲しいということでな」
「夢の中の毒虫って……それ、本当なんですかぁ、雪乃さん!!」
紅の言葉に大袈裟に驚く咲花。雪乃は黙ってそれに頷いて答える。
「長谷川の話を聞いて、俺はこいつを襲っているのが蠱毒ではないかと考えた。人に富や成功を与える代わりに、徐々にその精神を蝕んで死に至らしめる。そういった類の呪いを仕掛けられたんじゃないかと思ったのさ」
夏樹や咲花の前で、紅は蠱毒について簡潔にまとめて話した。照瑠や雪乃は既に紅の話を聞いて知っていたが、他の人間にとってはまったく未知の世界の話だった。
「蠱毒を祓う方法は、大まかに分けて三つある。一つ目は、蠱毒の本体でもある虫のミイラを見つけて、しかるべき力を持った人間が叩き潰すこと。だが、長谷川の家をくまなく探しても、蠱毒の本体は見つからなかった」
紅の言葉に、照瑠は雪乃の家で亜衣と一緒に虫のミイラを探した際のことを思い出した。あの時は、家中の棚や押入れをひっくり返して探したものの、結局虫のミイラなど見つからなかった。
「二つ目は、蠱毒の本体でもある虫のミイラを、蠱毒によって得た富や成功と共に捨てること。もっとも、誰にでも簡単にできる半面、今まで手に入れた名声を捨てるだけの勇気が試される方法でもある。それに、虫のミイラが見つからなかった時点で、どの道この方法でも長谷川は救えなかった」
二つ目の方法は、紅が照瑠の行きつけの甘味屋で話していたものだ。あの時、紅が執拗なまでに雪乃の覚悟を決めさせようとしていたのは記憶に新しい。
「そして三つ目は、夢の中に現れる蠱毒を現実世界に引きずり出し、そこで滅してしまうこと。これは最も確実な方法だが、それ故にリスクも大きい。向こう側の世界に通じる強力な力を持った人間でなければできない上に、蠱毒に憑かれている人間にも相応の負担がかかる」
最後に紅が言ったのは、雪乃の家で紅が行った除霊のことだろう。霊的な存在の攻撃に対して耐性を持っている雪乃でさえ、蠱毒を夢から引きずり出す際には多いに苦しんでいた。それを救おうと、照瑠は紅の助けを得て、自分の持つ癒しの力を使い雪乃を苦しみから解放した。
「結局、蠱毒の本体が見つからなかった時点で、俺は三番目の方法を試すしかなかった。そこにいる長谷川が耐霊体質、つまりは霊の攻撃に対して抵抗力のある体だったから、運よく成功したようなものだがな。それに、九条が長谷川を助けるために、癒しの気を送ってくれたのも幸いした」
最後に付け加えるようにして、紅は照瑠が雪乃を助けようとしたことについて述べた。いきなり自分の名前を呼ばれ、照瑠は意外そうな顔をして紅を見る。他人を認めるような発言をすることの少ない紅の口から、そんな台詞が出ることは滅多にない。
「照瑠ちゃん……。私を助けようとしてくれたって、それ、本当なの……?」
「えっ……。ああ、まあね。でも、実際は犬崎君の力に助けられたようなものだし、私一人じゃ何もできなかったわよ」
「それでも、私のために何かしてくれたのは事実でしょ。あの時は、お礼も満足に言えなくてごめんね」
照瑠が雪乃を助けるために、自らの力を使ったという事実。それを紅の口から述べられて、雪乃は決まりが悪そうにして照瑠に言った。自分のために何かをしてくれたにも関わらず、それに対して何も気づいていないということが、雪乃には申し訳なく思えて仕方なかった。
「礼なら後にしろ。それよりも続きだ」
雪乃に何かを返そうとしていた照瑠を紅が遮った。話の途中で勝手に割り込まれ、少々立腹している様子だった。
「結局、俺は蠱毒の本体を見つけることなく、その存在を滅することに成功した。しかし、俺が蠱毒を祓ったにも関わらず、やつらは再び長谷川の前に現れた。それも、除霊が済んでから半日と経たない間にな。そうだろう、長谷川?」
「は、はい……。今日、私がホテルの洗面所に行ったとき、そこの天井に虫がびっしりと張り付いていたんです……」
あまり思い出したくない。そんな表情で、雪乃は恐る恐る口にした。夏樹や咲花といったT‐Driveの面々は怯える雪乃に気遣うような視線を送っていたが、星梨香だけは呆れた顔をして大きく溜息をついた。
「はぁ……。まったく、何を言い出すかと思ったら、そんな下らないことなの!? あなたが洗面所に行ったとき、あそこで私と会ったでしょう。もし、あなたの言う通り、洗面所の天井に虫がいたのなら……私だって、それを見ていなくちゃおかしいじゃない!!」
「そ、それは……」
「もしかして、あの噂は本当なのかもしれないわね。あなたが妙な薬を使って、ライブの前に高揚感を高めていたっていう……」
パイプ椅子から立ち上がり、これ見よがしに意地悪そうな視線を送る星梨香。相手の弱みを突いて、自分のライバルを蹴落とした。そんな満足感からか、勝ち誇ったかのようにして笑みを浮かべている。
傍から見れば、確かに雪乃の話は荒唐無稽なものだろう。三流ネットニュースに書かれた記事とはいえ、これでは彼女に麻薬の使用疑惑がかかるのも当然だと思われる。が、事件を起こしていたものの正体を知っている紅は、いつも以上に冷ややかな目をして星梨香を睨みつけた。
「おい、誰でもいいから、そこにいる女を黙らせろ。さっきから、やかましくて仕方がない」
「なっ……失礼ね!! そもそも、あなたみたいな得体の知れない人間が、アポも無しに会いに来るってだけでも非常識なのに……」
「いいかげんにしろ! それ以上口を出すなら、今すぐここで眠ってもらうことになるぞ!!」
途中まで文句を言っていた星梨香の言葉を遮り、紅が低く重たい声で怒鳴った。一瞬、その影が星梨香に襲い掛かるようにして伸びた気がして、周りにいた全員が呼吸を止める。それは星梨香も同様で、それ以上は何も言わずに席に戻った。
「まったく、とんだ横槍が入ったものだな。まあ、普通の人間からすれば、これが当たり前の反応なんだろうが……」
再び場を仕切り直し、紅が話を戻した。先ほどの凄みの効いた姿を見ているだけに、今度は誰も口を挟もうとはしなかった。
「それじゃあ、話を続けるぞ。長谷川の前に蠱毒が再び現れた時点で、俺は自分の除霊が失敗したと認めざるを得なかった。だが、俺が蠱毒を夢の中から引きずり出して退治したのは間違いない。それは、ここにいる九条も目の前で見ていることだ」
「うん……。私も犬崎君の使う犬神が、大きな虫を焼き殺すところは見たし……」
「だが、現に長谷川の前には、新たな蠱毒が出現した。これは、未だ長谷川が蠱毒の呪いから解放されていないことを意味している。このまま放っておけば、遠からず長谷川は衰弱して死ぬだろうな」
紅が雪乃に視線を戻す。相変わらず、雪乃はどこか怯えた様子で紅の話を聞いている。
「長谷川を救うには、蠱毒の本体を叩き潰すしかない。しかし、前と同じ方法で戦ったところで、失敗するのは目に見えている。そこで俺は、もう一度最初から今回の事件を考え直してみることにした」
「それ、私の家を出る前にも言っていたわよね。もしかして、雪乃に憑いていたのは蠱毒じゃなかったとか言うんじゃないでしょうね?」
「いや、確かに長谷川は蠱毒に憑かれていた。だが、あれは蠱毒の本体じゃない。しいて言えば、本体に操られる端末……昆虫で例えるならば、女王蜂に使役される働き蜂ってところだな」
「働き蜂!? それじゃあ、雪乃の前に新しく現れた虫は……」
「お前の考えている通りだ、九条。大方、長谷川に憑かせていた働き蜂がやられたことを知って、新しく尖兵を送り込んで来たんだろう。蠱毒のように作るのに時間がかかる呪具で、こうも簡単にスペアを用意するのは難しいからな。だが、働き蜂を送り込んで来ただけとなれば、話は見えてくるさ」
「そんな……。それじゃあ、雪乃に憑いている虫をいくら祓っても、何もならなかったっていうの……」
まったく、なんということだろう。紅の説明を聞いた照瑠は、蠱毒というものの底知れぬ力に改めて恐怖した。
雪乃の部屋で、紅と黒影が倒した毒虫。あれを見た時も相当に気持ちの悪いものだと思ったが、それでさえ敵の末端に過ぎなかった。あの毒虫を束ね、貪欲に人の命を啜る本当の敵。その姿を想像しただけで、なんだか吐き気が込み上げて来る。
「そもそも今回は、俺も先入観から大きなミスを犯してしまった。蠱毒は誰かが呪いたい相手に送りつけるものという固定概念に加え、長谷川がアイドルとして成功していたのが、蠱毒の力によるものだという思い込み。それが俺の目を曇らせて、真実から遠ざけてしまっていた」
会議室に集められた人間の顔を一通り眺め、紅は彼らの側からすっと離れた。そして、その後ろに長く伸びた影を携えて、再び一同の方へ顔を向ける。
「だが、長谷川に憑いていた蠱毒が単なる端末に過ぎないとわかった今、もう間違いは起こさない。蠱毒の本体を操り、長谷川雪乃に悪夢を見せ続けていた張本人。その化けの皮を、今から俺が剥いでやる……」
紅の赤い瞳が、更に赤く輝いたような気がした。その輝きに合わせるようにして、紅の影が一気に伸び上がる。それは瞬く間に紅の身体を離れると、どろどろとした黒い塊になって空中を浮遊し始めた。
「行け、黒影。お前が長谷川雪乃の家で戦った蠱毒……。それと同じ匂いを持ったやつを、この中から探し出せ」
紅の指示を受けて、黒い塊が姿を変える。内部から飛び出るようにして四本の脚が伸び、最後に巨大な犬の顔が姿を見せる。その中央に輝く金色の目で、紅の使役する犬神、黒影は、雪乃達を何も言わずに見つめていた。
ゆっくりと、まるで獲物を品定めするようにして、黒影はその場にいる全員の顔を舐めるようにして見る。一人、また一人と何かを確かめるように眺めてゆき、最後にある人物の前に来て動きを止めた。
「なるほどな……。俺の予想通り、やはりお前が今回の黒幕だったか……」
自信に満ちた表情で、紅が黒影の睨みつけている者の前に立った。が、紅が指していたのがあまりに意外な人物だっただけに、雪乃を始めとした全員が言葉を失ったまま固まっている。
長谷川雪乃に蠱毒の端末を植え付けて、その精神を蝕んでいた張本人。金と赤、二つの瞳が見つめる先にいた者は、他でもない鴨上プロダクションの社長、鴨上裕司だったのだから。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
永遠とも言える静寂が、夜の会議室を支配していた。
長谷川雪乃に呪いを仕掛けた犯人は、こともあろうか社長である鴨上。紅の告げたあまりに衝撃的な事実に、その場にいる全員が何も言えずに動けないでいた。
しんと静まり返った会議室に、部屋の空調の音だけが微かに響く。このまま息が詰まってしまうのではないかと思われる光景だったが、その均衡を破ったのは、他でもない鴨上だった。
「ふふふ……。いやあ、なかなか楽しませてもらったよ。さっきのはどんな手品か知らないが、君には物語を作る才能があるようだね」
「とぼけるな。黒影の鼻は、その辺の犬が百匹集まっても敵わないくらいに正確だ。おまけに現実世界のものだけじゃなく、霊的な存在の匂いまで嗅ぎわけることができるぞ」
「なるほど、確かにそれは物凄い嗅覚だね。だが……仮に百歩譲って、私に君の言う≪人を呪う力≫があったとして、それでどうして私が雪乃君を呪わねばならん? 雪乃君には感謝こそしているが、恨みなどこれっぽっちもないのだよ?」
「ああ、そうだろうな。長谷川雪乃を始めとしたT‐Driveの連中を使って、この世界で荒稼ぎをしているお前にはな……」
最早、全てを見通している。そう言わんばかりの口調で紅は続けた。鴨上はあくまで子どもの戯言として片づけようとしているようだったが、その程度で紅は引かなかった。
「そもそも、蠱毒は本来呪いのために編み出された術ではない。自分の命を生贄に、普通では考えられないような富を運び込ませる。その性質を利用して、殺したい相手に送りつけて破滅させるのが、呪具としての蠱毒の使い方だ」
「ほう、そうなのかい? だが、それがいったい、私が雪乃君を呪うことと何の関係あるのかね?」
「残念だが、関係は大ありだ。確かに蠱毒は持ち主の命を削って富や成功を運び込むが、正しい手順を踏んで使えば、自分の身代わりとなる生贄を指定させることもできるのさ。そうやって、自分以外の人間を生贄にすることで、お前は鴨上プロダクションに成功を運び込んで来たんだ。長谷川雪乃達、T‐Driveの芸能界での成功をな……」
「はっはっはっ! こいつはなんとも愉快な推理だね。まさか最後の最後で、こんなご都合主義な展開になるとは思っていなかったよ!!」
「あくまでシラを切るつもりか、この狸め。もっとも、ここで俺が黒影を使って、あんたの中から蠱毒を引っ張り出せば話は変わるがな。長谷川の時とは違い、何の耐性も持っていない人間から、半ば強引に憑依している霊体を引き剥がすんだ。あんただって、無事で済むっていう保証はないぜ……」
紅の顔が、ゆっくりと笑みの形に歪んだ。その表情に、鴨上だけでなく側にいた照瑠までもが恐怖を覚えた。いつも、教室や図書室で眠っているときに見せる顔ではない。獲物を追い詰め、正に止めの一撃を刺さんとする際の、肉食獣が見せるような顔だった。
「ねえ、犬崎君……」
たまりかねた様子で、照瑠が紅に尋ねた。これ以上、緊迫した空気には耐えきれない。そう思っての行動だった。
「そもそも、どうして社長さんが雪乃を呪ったなんて考えたの? あなたの犬神の力を信じないわけじゃないけど……私には、まだ理由がわからないんだけど……」
「なんだ、そんなことか。少し考えれば、わかりそうなものだがな」
鴨上を追い詰めたはずの出鼻をくじかれ、紅が少し面倒臭そうな顔をして言った。
「思い出しても見ろ。長谷川雪乃の前に蠱毒が現れたタイミング。それは全て、T‐Driveに成功が訪れた際に限られていた」
「で、でも……それは、雪乃に蠱毒の本体が送られていても同じことじゃないの?」
「ああ、最初は俺もそう思った。しかし、今日になって長谷川雪乃から話を聞いた時、妙なことに気がついたんだ。あいつ自身が成功を収めていなくても……他のT‐Driveのメンバーが成功を収めても、蠱毒が姿を現した。それはつまり、蠱毒がもたらしていた名声や成功は、長谷川雪乃に対してだけのものではなかったということを意味している」
「そ、それじゃあ、蠱毒が運んできたものっていうのは……」
「当然、鴨上プロダクションに所属するアイドル達の成功。即ち、最終的には社長の懐に富が入るということだ。アイドルの名が売れて、その曲が売れて……それで最も得をする人間は、他でもないプロダクションの社長だからな」
紅の目が、再び鴨上を捕えて睨んだ。今度は鴨上も、紅を茶化すようなことはしない。普段の温和な様子は消え失せて、静かに押し黙ったままである。
「長谷川の前に再び現れた蠱毒が端末だとすれば、それを送り込んだ人間がいる。その際、重要になるのは相手の名前や生年月日、それと体の一部だ。それらの要素が正確に揃わなければ、誰でも手軽に身代わりなんて用意できるもんじゃない」
「ちょっと待ってよ、犬崎君! それだったら、社長さんだけじゃなくて、ここにいる全員が怪しいってことにならない!? 雪乃の体の一部だって……それこそ、髪の毛くらいなら、誰だって手に入れられそうだし……」
「確かにな。だが、名前の方はそうもいかないだろう。ここにいる人間の中で、長谷川雪乃の本名を知っている人間がどれだけいる?」
「あっ……!!」
そこまで言われて、照瑠もようやく合点がいったような顔をして言葉を飲み込んだ。
長谷川雪乃の本名は、蓮薙有希。雪乃はあくまで芸名であり、本当の名前ではない。
紅は、蠱毒の生贄として他人を指定する際に重要なのは、本人の名前と生年月日、それに体の一部だと言った。体の一部はともかくとしても、本名と生年月日に関しては、そうそう容易く手に入れられるものではないだろう。芸名を使っている以上、増してや本人が公に本名を公開していない以上、同じ業界にいても本名を知る機会など多くはない。
芸能人の本当の名前や生年月日といった個人情報、それに体の一部までを容易く手に入れ、更にはT‐Driveの成功が直接己の富を増やすことに繋がる人物。それに該当する者は、社長の鴨上以外に存在しない。
もう、ここまで来れば間違いはないだろう。蠱毒を使って雪乃を陥れていたのは、他でもない鴨上だ。
本来であれば自分に降りかかる災厄を、事務所に所属しているアイドルを生贄に回避する。その上で、蠱毒の力によって得られる富を、アイドルの成功という形で手に入れる。あまりにも用意周到かつ残酷な、人を消耗品としてしか考えないやり方だ。
「長谷川雪乃が九条の家に来た時に、そこいる女……麻宮星梨香の相方が心身衰弱になったと言っていただろう? それを思い出した時、俺の頭の中で疑念が確信に変わったんだよ。鴨上プロダクションの社長が、長谷川の件より以前から蠱毒を使い、プロダクションを大きくしてきたということにな!!」
紅と黒影が、同時に鴨上を睨みつけた。鴨上は完全に観念してしまったのか、最早何も言い返そうとはしない。
これで、事件は全て解決した。後は鴨上の持っている蠱毒の本体を見つけ出し、紅と黒影の力で滅すればよい。そう考え、照瑠が胸を撫で降ろそうとしたときだった。
「ぬわぁぁぁぁっ!!」
突然、鴨上が奇声を上げて立ち上がり、近くにあったパイプ椅子を持って紅に投げつけた。済んでのところでかわすものの、今度は照瑠を狙って椅子を投げつけてきた。
「伏せろ、九条!!」
照瑠の頭に椅子がぶつかる瞬間、紅がその身体を縦にして照瑠を守った。時間にしては一瞬のものだったが、それは鴨上に会議室から逃げ出すための機会を与えるのに十分なものだった。
「くそっ……! ここまで来て、逃がしてたまるか!!」
足元に落ちたパイプ椅子を蹴り飛ばし、紅が慌てて鴨上の後を追う。黒影を自分の影に戻し、白布の巻かれた日本刀を片手に持つと、脱兎の如く会議室を飛び出した。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
鴨上を追って紅達が辿りついたのは、ホテルの地下にある駐車場だった。
会議室を飛び出した鴨上は、紅や照瑠が驚くほどの速さで逃げていった。あの突き出た腹とたるんだ脚で、どうしてあそこまで走れるのかが不思議なくらいだった。
だが、それでもやはり、体力の差は埋められなかったのだろうか。駐車場に辿りついたところで、鴨上はとうとう紅達に追いつかれた。駐車場の中に入ったところで一度は見失ってしまったが、辺りを探すとすぐに鴨上は見つかった。
「さて……とうとう年貢の納め時だな。あの場で逃げ出すようじゃ、自分が犯人だって認めているようなものだぞ」
「はぁ……はぁ……。まあ、確かにそうかもしれないね……」
息を切らし、肩を激しく動かしながらも、鴨上は不敵な笑みを浮かべて紅と対峙した。先ほど慌てて会議室を飛び出した時とは違う、妙に自身に満ちた笑みだった。
「君の言う通り、確かに雪乃君を蠱毒の生贄として選んだのは私だよ。それだけでなく、かつて星梨香君とユニットを組んでいた愛梨香君……。彼女もまた、蠱毒の生贄として使わせてもらった。もっとも、愛梨香君は雪乃君と違って早々に蠱毒の力に屈してしまい、大して使い物にもならないまま終わってしまったがね」
もう、隠す必要もない。なんら悪びれたこともなく、鴨上は淡々と紅に語っていた。
「だが、それの何が悪い。大した才能もない癖に、一端のアイドルとしてデビューしたいなどと豪語する。そんな理想と現実の区別もつかない人間に、私はほんの少しだけ夢を見せてやっただけだ」
「とうとう尻尾を出したか、この古狸が! 貴様が何と言おうと、その行為は決して認められるようなものじゃない! 他人を犠牲にして成功を得るなど、そんな方法は絶対に間違っている!!」
「ふん……。この業界のことを何も知らない若造が、偉そうな口を利くんじゃない! アイドルなど、所詮は使い捨ての消耗品だ。我々事務所が抱えている、一つの商品に過ぎん! 自分の会社の商品を社長がどうしようと、そんなことは社長の勝手だろう!!」
「それが貴様の本心か……。どうやら貴様は、救いようのない大馬鹿のようだな……」
駐車場中に響き渡らんような声で叫ぶ鴨上を他所に、紅はどこか冷めた口調だった。
己の欲望のためであれば、人を物と同じようにしか扱わない。あまつさえ、その行為を正当化するために、もっともらしい理論を振りかざして開き直る。そんな鴨上の態度に、紅は辟易していたのかもしれない。
「そんな……。社長が私を呪っていたなんて……。私達のことを、そんな風にしか考えていなかったなんて……」
いつの間にか紅に追いついていたのだろうか。彼の後ろに集まった者たちの中心で、雪乃が呟いた。今まで信じていたものに裏切られた。その驚きを隠しきれない様子だった。
「ふふふ……。残念だが、これが真実なのだよ、雪乃君。もっとも、ここまで聞かせて君達をただで返すほど、私もお人好しではないがね……」
鴨上の口元が、三日月のように細く曲がった。いつの間にか、その手には小さな桐の箱のようなものが握られている。鴨上はその蓋を乱暴に開けると、中から何やら乾いたものを取り出した。
それは、言うなれば小さなサソリの剝製だった。赤褐色の体にはところどころ色の薄い部分が存在し、かつてはその体に斑の模様を持っていたことを窺わせる。でっぷりと太った腹と、獲物をとらえる大きな爪。そして、腹の先端についている毒針も含め、雪乃の夢に出て来た毒虫に似ていなくもない。
「もう諦めろ。貴様の手の中にあるもの……そいつをさっさとこちらへよこせ」
「そうはいかんよ、君。こんなこともあろうかと、私にこれをくれた者は、最後の手段まで教えてくれた。君のような存在が私の前に現れた時、返り討ちにしてやるための方法をね……」
「なんだと!?」
「残念だが、後悔するのは君達のようだったな。余計なことに首を突っ込まねば、もう少し長生きできただろうに……」
そう言うが早いか、鴨上は口を大きく開けて、手にしたサソリの剝製をその中に放り込んだ。慌てて紅が止めに入るが、もう遅い。鴨上は口の中でサソリの剝製を咀嚼すると、躊躇うことなくそれを飲み込んだ。
蠱毒の本体をその身に取り込み、鴨上がゆっくりと紅達の方を見る。その瞳に、既に人間としての輝きはない。毒々しい赤紫色に染められた虹彩が、狩りの獲物を品定めするかのようにしてぎらぎらと光っている。
次の瞬間、雪乃の足元から伸びていた影が急に盛り上がった。慌てて飛び退く雪乃を他所に、影の中からは次々とサソリの形をした毒虫が溢れ出して来る。紅の言葉を借りるのであれば、これは蠱毒の端末のようなもの。言わば、一種の働き蜂だ。
雪乃の影から飛び出した無数の毒虫。それは鴨上の影に集まり、吸い込まれるようにしてその中に消えた。それと同時に、鴨上の身体から発せられる禍々しい気も徐々に強くなってゆく。
(端末を呼びもどして還元している……。まずいぞ、これは……)
虫が完全に鴨上の影に吸い込まれたことで、紅も手にした日本刀の柄に手をかけて身構えた。
蠱毒の本体ともいえる蟲のミイラを直接食す。それは即ち、術者が自ら蠱毒のヒエラルキーの頂点に立つことを意味している。今までは蠱毒が使っていた様々な呪力を、今度は術者自身が使えるようにするための禁術だ。
もっとも、そんなことをした以上は、術者も普通の人間ではいられない。蠱毒と同じく人間の精気を吸うことでしか生きられない、一種の妖怪と化してしまう。蠱毒を食うということは、正に最後の手段といっても過言ではないことなのである。
これ以上は、見ていることも限界だろう。妖怪となってしまった以上、鴨上を斬ることも已む無しか。そう思って、紅が刀を鞘から抜こうとしたときだった。
突然、鴨上の身体に変化が現れた。今までは余裕の表情を浮かべていた顔が、瞬く間に苦悶のそれに変わってゆく。脚は膝から崩れ落ち、全身が痙攣を始め、開いた口から醜く涎を垂らしていた。
「しまった! 遅かったか……!!」
紅がそう言うのと、鴨上の口からサソリが溢れ出すのが同時だった。鴨上の口から溢れ出したサソリの群れは瞬く間にその身体を蹂躙し、赤黒い下地に黄緑色の斑が目立つ不気味な甲殻が全身を覆ってゆく。
蠱毒を食することは、確かに蠱毒のヒエラルキーの頂点に立つことを意味している。しかし、それはあくまで、蠱毒の持つ霊力をその身体に取り込めるだけの力を持った者が行った場合の話だ。
見たところ、鴨上はなんら修業などしていない一般人のようだった。先ほど、蠱毒を誰かから貰ったということを口にしていた以上、それは間違いないだろう。
何の力も持たない者が、蠱毒をその身に取り込もうとする。それは即ち、自らが逆に蠱毒によって食いつくされてしまうことと同義だった。
夢の中でしか力を発揮できない蠱毒は鴨上の肉体も魂も喰らい尽くし、現実の世界へと溢れ出た。鴨上の軽率な行動によって、現世で活動するための新たな肉体を得てしまったのだ。
「下がっていろ、お前達。あれはもう、お前達の知っている社長じゃない……」
刀を鞘から抜き放ち、紅が後ろにいる照瑠や雪乃に言った。その間にも、鴨上の身体に張り付いた虫たちは醜く動き回り、やがて一つに繋がってゆく。赤黒い甲殻はそのままに、鴨上の身体を軸にして、人のような姿へと変貌していった。
「きゃっ! な、なんなのよ、あれ……」
かつて、鴨上であったもの。そのあまりの変貌ぶりに、夏樹が思わず悲鳴を上げた。それほどまでに、鴨上を包むようにして毒虫が集結したものは、おぞましい姿をしていたのだ。
全身を覆う、斑模様の目立つ赤黒い甲殻。二本の脚でしっかりと大地を踏みしめているものの、その身体はどう見ても人間のそれではない。両手の指は失われて鋭利なハサミへと変化し、額には二つの目玉の代わりに、四つの単眼がついていた。
腹の脇からは左右にそれぞれ二本の脚が伸び、ゆらゆらと空中を漂うようにして揺れている。口は縦に裂けるようにして割れ、その中からは透明の粘液のようなものが溢れ出している。更には背骨にそのまま繋がるようにして、一本の巨大な尾が伸びていた。その先端には巨大な鍵爪のような毒針が剥き出しになってついており、これまた獲物を狙って静かに宙を舞っていた。
「ひぃぃ……気持ち悪いですぅ!! あの毒サソリ怪人みたいなのが、社長の正体だったんですかぁ……」
半泣きになりながら、咲花が高槻の後ろに隠れた。
鴨上の変貌した怪物は、身体の特徴だけ見れば特撮番組に出てくる怪人と同じと言えなくもない。が、ラテックス性のスーツとして作られた偽物と違い、これは本物の毒虫をそのまま巨大化させたようなリアルでグロテスクなものだ。未だ中学生の咲花にとって、この姿はあまりにも刺激が強すぎた。
「お前達の社長の肉体を得て、あの毒虫は現実世界でも活動するための身体を手に入れた。術者もいなくなったあれは、もはや誰のコントロールも受け付けない。本能のままに人間の魂を喰らう、人間も怨霊も越えた怪物だ!!」
刀を構え、紅が叫ぶ。その言葉に合わせるようにして、彼の影から黒影が飛び出した。
「行くぞ、黒影! 赫の一族の末裔として、あの怪物は俺が仕留める!!」
刀の柄を握る紅の手に力が入り、同時に刀身から無数の闇が溢れ出した。初めはミミズや蛇のように宙を舞っていたそれは、すぐに刀身を覆うようにして集まり一本の黒い気の塊となる。
闇薙ぎの太刀。かつて多くの罪人の首を刎ね続け、終いには生者も死者も問わず貪欲に魂を喰らい続けるようになった呪われし妖刀。うかつに使えば使用した者の命さえも削ってしまうが、同時に悪霊の魂をも喰らい尽くす最終兵器でもある。犬神の黒影と同様に、犬崎紅が使う闇の力の一端だ。
黒い気に覆われた刀身を自らの腰の後ろに隠すようにして、紅はそのまま妖怪と化した鴨上へと向かっていった。その後を追うように、黒影も駐車場の天井すれすれを飛んで襲い掛かる。が、それに気づいた妖怪も、大きく口を開いて不気味な咆哮を上げた。
次の瞬間、紅の足元を払うようにして、妖怪の尾がしなりながら伸びた。風を斬る激しい音がして、強靭な尾の一撃が地面を叩く。
ガッ、という激しい音がして、駐車場のコンクリートが砕け散った。霊的な存在が物理的な攻撃を仕掛けられないという常識に反し、妖怪の一撃は明らかに駐車場の床を抉っていた。
鴨上の肉体を得たことにより、現実世界も活動可能になった蠱毒。その力は、なにも夢の世界だけに留まらない。現実世界での肉体を得たことで、物理的な攻撃をも可能とする真の怪物となったのだ。それだけに、今までの相手と比べても厄介な敵には違いない。
尾の一撃を辛うじてかわし、紅はすかさず妖怪の懐に潜り込んだ。そのまま渾身の一撃を、妖怪の腹目掛けて叩き込む。
カキン、という音がして、怪物の甲殻が紅の一撃を弾き返した。闇薙ぎの太刀は、普通の刀として用いても恐ろしいまでの切れ味を誇る。それにも関わらず、無数の毒虫が集結して生まれた甲殻は、易々と太刀の刃を跳ね返してしまった。
「くそっ……。なんて固い殻だ!!」
刀身を弾かれたときに襲った痺れが、未だ紅の手に残っていた。だが、それが収まるのを待つ暇もなく、今度は妖怪のハサミが紅の首を狙って振り下ろされる。
頭の上で、ジャキッという嫌な音がした。後少し遅ければ、首と胴が離れ離れになっていたところだ。
――――グォォォォッ!!
術者の危機を感じ取ってか、黒影が雄たけびと共に炎を吐いた。全ての闇を焼き尽くす青白い破魔の炎。それは駐車場の空気をも焦がし、妖怪の巨大な爪に直撃する。
腐った卵と焦げた砂糖を混ぜたような匂いが、駐車場の中に溢れ返った。現世で行動するための肉体を得たとはいえ、元は怨霊のようなものだ。鴨上を取り込んだ今も、魔を滅する力を持った黒影の炎による攻撃は効果的のようだった。
両手の爪を燃やされ、炎を振り払うようにして暴れる妖怪。その隙を逃さず、紅は新たな一撃を叩き込まんと刀を構える。そのまま大きく刀身を振りかぶり、今度は相手の脳天目掛けて太刀を振り下ろした。
この攻撃で全てを決める。そう思って繰り出された必殺の一撃。だが、黒影の攻撃で動きを止められていると思われた妖怪は、紅の予想に反して未だ健在だった。
炎に包まれた爪を大きく振り回し、妖怪は紅を身体ごと弾き飛ばした。打撃武器としても十分に機能する巨大な爪が、横殴りにする形で紅を襲う。
「がっ……!!」
まともに食らえば、それこそ骨の一本や二本は平気で砕いてしまうであろう一撃。それの直撃を受けた紅は、そのまま宙を舞って駐車場の壁に叩きつけられた。なんとか刀だけは落とさなかったものの、さすがに今度ばかりは身体が言うことを利かない。全身を襲う激しい痛みに、苦悶の表情を浮かべたまま倒れ込んだ。
術者を倒され、黒影が怒りに震えた雄叫びを上げる。今度は相手の喉笛を咬み千切らんと、怪物に向かって襲い掛かる。
普通の人間であれば、捉えることさえも難しい黒影の動き。しかし、そんな黒影の攻撃でさえも、妖怪を仕留めるには足らなかった。
黒影が飛びかかろうとしたその瞬間、妖怪の口から白い霧のようなものが放たれた。それは、霊的な存在にのみ通用する毒ガスのようなものだったのか。直撃を受けた黒影が、たまらず低い唸り声を上げて大地を転がった。
「くっ……。下がれ……黒影……」
片手を伸ばし、紅は黒影を懸命に自身の影へ戻そうと試みる。だが、そんな彼の言葉も虚しく、黒影は犬の姿を捨てて、どろどろとした黒い塊へと戻ってしまった。完全に消えてしまったわけではないのだろうが、黒影もまた、かなりの深手を負ってしまったようだった。
紅と黒影。二つの邪魔者を排除して、妖怪は満足そうにガチガチと歯を鳴らした。その口からは粘性の高そうな唾液が溢れ出し、不気味な糸を引いている。
ゆっくりと、まるで準備運動を終えたとでも言わんばかりに、妖怪は両手の爪で空を斬った。爪を覆っていた炎にまみれて、その周りから無数の焼け焦げた虫が辺りに飛び散る。それは直ぐに燃え尽きて灰になってしまい、あとには青白い煙が上がっているだけだ。
黒影の吐いた炎と一緒に身体の一部を切り離す。そんなことをすれば、当然のことながら爪も欠けてしまうはず。が、しかし、妖怪が一瞬だけ身体を震わせると、その傷口から瞬く間に新たな毒虫が湧いて出た。それはすぐさま傷を塞ぎ、数秒と経たずに新たな甲殻を形成する。無数の毒虫が集合して生まれた妖怪にとって、この程度の傷などは怪我の内に入らないようだった。
壁に叩きつけられて動けない紅を他所に、妖怪がゆっくりと照瑠達に迫る。獲物として、まずは誰から狩ってやろうか。そんな品定めさえしているようにさえ思われる。
「逃げるんだ、雪乃……。ここにいたら、みんなあの化け物に食われてしまう……」
高槻が、雪乃達を庇うようにして前に出た。自分でも敵わないとはわかっていたが、それでも最後まで雪乃達を守りたい。それがT‐Driveのプロデューサーとして、自分の果たさねばならない使命だ。
生物にしては妙に乾いた足音が駐車場に響く。高槻達は徐々に奥へと追いやられ、最後は壁にぶつかって動けなくなる。
もう、これ以上は後がない。そう思った矢先、妖怪が嬉しそうに口を開いて涎を垂らした。
巨大な爪を振り上げて、奇声を発しながら妖怪が走り出す。だが、額にある四つの単眼に映し出されたものは、果たして雪乃や照瑠ではなかった。
「ちょっ……なんでこっちに来るのよ!!」
妖怪が最初の獲物として狙った相手。それは他でもない、麻宮星梨香だった。
逃げようにも、足が震えて動けない。たまらず星梨香は、側にいた黒部にすがりつく。ところが、そんな星梨香の気持ちとは反対に、黒部もまた取り乱した様子で星梨香を突き離した。
「は、離せ、馬鹿! このままじゃ、こっちまで食われちまうだろ!!」
「そ、そんな……。私のこと、大切に思ってくれているんじゃなかったの!?」
「それとこれとは話が別だ! いくらお前のことが大切でも、自分の命に代えられるか!!」
無情にも、黒部は星梨香を怪物に向かって突き飛ばした。足元に獲物が転がってきたのを見て、怪物の動きが一瞬だけ止まる。その隙を突いて、黒部は一目散に駐車場の外に向かって逃げ出した。
「あ……ああ……」
もう、自分を助けてくれる者は誰もいない。目の前では怪物の振り上げた爪が、星梨香の首を狙っている。
絶望。その二文字が星梨香の頭を支配した。このまま自分は、怪物に殺されて短い一生を終えてしまうのか。アイドルとして成功することもできず、信じていた男にも裏切られ……そんな無様な終わり方が、自分の一生なのか。そう、星梨香が諦めたときだった。
一陣の黒い風が、突如として怪物に襲いかかった。何事かと思い照瑠が目をやると、それは先ほど妖怪に白い霧の一撃を食らわされた黒影だった。
身体の再生は行わず、黒い球体から犬の頭だけを出した姿。なんとも不格好な形状だったが、不意打ちで妖怪に食らいつくにはこれで十分だった。
首筋に牙を突き立てられ、妖怪がガラスを引っ掻くような奇声を上げて暴れまわる。星梨香にとって、逃げ出すチャンスは今しかない。が、そう頭でわかってはいるものの、彼女の足は動かない。
信じていた男に裏切られた絶望や、妖怪に食われそうになった恐怖。そういった様々なことが原因で、星梨香は完全に自分を見失っていた。逃げなければならないのに、逃げられない。そうしている間にも、妖怪は黒影を振り解こうと懸命にもがいている。
「麻宮さん!!」
もう、これ以上は我慢できない。そう言わんばかりの勢いで、高槻の後ろから雪乃が飛び出した。
いつもは大人しく、控え目な態度が目立つ雪乃。決して人より目立とうとはせず、ともすれば怖がりと思われがちな色白の少女。そんな彼女が、敵対心剥き出しで嫌味を言ってきたライバルを助けるために飛び出す。それは高槻だけでなく、夏樹や咲花にとっても意外なことだった。
「は、長谷川さん……。あなた……」
「しっかりしてよ! 麻宮さん、来年はソロでデビューが決まっているんでしょ! それなのに、こんなところで死んじゃったら、全部お終いだよ!!」
雪乃にとって、確かに星梨香は苦手な相手だ。一度は彼女が雪乃に蠱毒を仕掛けたのではないか。そう疑ったものである。
だが、疑念が晴れた今となっては、雪乃が星梨香を見殺しにする理由はなかった。同じアイドルであるならば、歌という武器で互いに勝負する。そんな想いが雪乃の中にあったからだ。
未だ腰が抜けている星梨香の手を取って、雪乃は彼女を引っ張ろうとした。その瞬間、とうとう黒影を振り払った妖怪が、再び星梨香と雪乃の方へ向き直る。額にある四つの単眼をぎらつかせながら、妖怪は獲物が二つに増えたことに喜びを隠せない様子だった。
このままでは、二人とも妖怪に食われてしまう。そう思われた次の瞬間、今度は刀の鞘が空を斬って妖怪の頭にぶつかった。
「逃げろ……早く……!!」
壁を背に、苦悶の表情を浮かべながら立ち上がる犬崎紅。先ほどの鞘は、彼の武器である闇薙ぎの太刀を入れていたものだ。
「行くよ、咲花!!」
「はい、夏樹さん!!」
紅が作った一瞬の隙。それを逃さず、今度は夏樹と咲花が飛び出した。二人は雪乃と同じように星梨香の手を取ると、互いに呼吸を合わせて怪物の前から引きずり出す。言葉など何も交わしていないのに、まるで打ち合わせでもしていたかのように息がぴったりだ。
そのまま高槻のいる場所まで星梨香を引っ張ったところで、三人は全身の気が抜けたようにして座りこんだ。咲花に至っては、高槻の脚にすがりついて泣いている。勢いに任せて飛び出したはいいが、きっと物凄く怖かったのだろう。
T‐Driveの三人の協力で、星梨香を助け出すことには成功した。しかし、脅威はまだ去ってはいない。
獲物が逃げ出したことに腹を立てたのか、妖怪が低い唸り声を上げて紅を睨んだ。再三に渡って狩りを邪魔されたことで、当面の標的を完全に紅に定めているようだった。
「さあ、来いよ……。貴様の相手は、この俺だ……」
ふらつく足取りのまま、紅は刀を杖代わりにして身体を起こす。口では強がりを言っているものの、既に脚に力が入らない。口からは豪快に血を吐き出し、内臓を痛めているのは明白だ。下手をすると、あばら骨の数本は折れているかもしれない状況だった。
じりじりと、妖怪が紅の方へ向かって迫る。動けない紅に対し、妖怪の爪が無情にも紅の首筋を狙って繰り出される。
今度こそ、逃れる術はない。誰もがそう思ったそのとき、駐車場の中にけたたましいクラクションの音が鳴り響いた。
「なっ……今度はいったい何なのよ!?」
それは、駐車場に止めてあった一台の車だった。運転手などいないのに、車はまるで自動操縦でもされているかのようにして、豪快に妖怪を跳ね飛ばす。そのまま柱に叩きつけるようにして、車は妖怪を車体と柱の間に挟み込んだ。
突然の乱入者に、驚きを隠せない表情で見守る照瑠。あの車はいったいなんなのか。その答えは、車のガラスから黒い影が飛び出してきたことで直ぐにわかった。
ガラスから飛び出して来たのは黒影だった。以前、照瑠の行方を捜索する際に、警察のパトカーに憑依した九十九神の術。それを使い、駐車場の車を使って妖怪の動きを封じたのだ。
――――グゥゥゥゥゥ……!!
妖怪の爪が鋼鉄製のバンパーに食い込み、金属の曲がる嫌な音がした。自分の身体を柱に押し付けている乗用車を、妖怪は強引に引き剥がす。
あれだけの重たい一撃を食らったのに、妖怪の身体には傷一つない。やはり、あの怪物に抗う術は存在しないのか。思わずそんなことを考えてしまった照瑠だったが、紅も黒影も、まだ諦めてはいなかった。
「行け、黒影! 頭を狙え!!」
紅の最後の指示を受け、黒影が再び青白い破魔の炎を吐き出した。車を退けて間もない妖怪に、それを避ける術はない。隙だらけの頭に炎を被り、今度ばかりは頭を抑えながら妖怪が地面を転がった。
普通の悪霊であれば、このままでも十分に滅することは可能だろう。しかし、相手は人間と悪霊が融合して生まれた未知の妖怪だ。この程度で消えるとは思えないし、紅もまたこれで終わったとは思っていなかった。
決めるなら、次の一撃を除いて他にない。そのためには、出し惜しみさえしている暇もない。
何かを決意したような表情で、紅は刀の柄に巻かれていた布を剥ぎ取った。梵字のようなものが一面に書かれたそれは、闇薙ぎの太刀の力を抑えるための拘束具。鞘に無数に巻きつけてあるのと同じ、闇が溢れることを防ぐための封印だ。
刀身と、それから柄に巻かれている布まで失った今、闇薙ぎの太刀は本来の力を完全に取り戻した状態といえた。それは即ち、貪欲なまでに魂を欲する太刀の本性が剥き出しになったということ。妖怪だけでなく、太刀を手にしている紅もまた、その魂を恐ろしいまでの速度で削られてゆくこととなる。
刀の柄から溢れ出る黒い気が、紅の手に絡みつくようにして侵蝕した。ミミズのようにのたうつそれが掌に入ってゆくと同時に、紅の腕の血管が瞬く間に盛り上がる。
この状態で、長くは太刀を握れない。それは紅にもわかっていることだった。あの妖怪が黒影の炎を振り払う瞬間。そこを狙って、最後の一撃を叩き込むしかない。
頭についた炎を爪で払い、妖怪はその四つの瞳を紅の方へと向けた。破魔の炎によって焼け焦げた部分は瞬く間に剥がれ落ち、傷口から湧いた無数の虫が、集結して新たな甲殻を形成する。
中途半端な攻撃では、相手は直ぐに再生してしまう。だが、その再生する瞬間こそが、紅の狙っていた最後の隙だ。
全身に走る痛みに耐えながら、紅は闇薙ぎの太刀を勢いよく妖怪に向けて突き出した。黒い気が溢れ出しているその剣先は、妖怪の開いた口の中に、まるで吸い込まれるようにして突き刺さる。固い甲殻に阻まれていない唯一の場所。それは、妖怪の体内へと通じる数少ない弱点だった。
――――ギィィィィッ!!
耳をつんざくような悲鳴を上げて、妖怪が最後の抵抗を試みる。爪を振り回し、尻尾を地面に叩きつけ、刀を振り解こうと暴れまわる。
もっとも、そんなことで獲物を離してしまうほど、一度食らいついた闇薙ぎの太刀は甘くはなかった。爪の一撃を避けて紅は妖怪から離れ、最後の気力を振り絞って印を結ぶ。
「滅……」
紅がそう呟くと同時に、今まで見たこともないほどの量の黒い気が、刀の全体から溢れ出した。それは一本一本が蛇のようにのたうちまわり、怪物の身体を貪欲に食らい尽くしてゆく。
霊的な部分を全て食われたからだろうか。赤黒い甲殻は瞬く間に変色し、黒いサソリの死骸となって剥がれ落ちた。妖怪も傷口に生き残りの虫を集結させて再生を試みるが、今度ばかりは間に合わない。
少しずつ、その身を剥がれるようにして、妖怪は徐々にその身を灰の山に変えていった。数匹の虫は逃げ出そうとしたが、すぐに黒い触手に捕まってその魂を吸い尽くされた。
両手の爪、尻尾、そして最後に頭まで食らい尽くされ、いつしか妖怪は完全に灰となる。頭が消えたところで刀が落ち、コンクリートの地面とぶつかって鋭い音を立てた。
「終わった……か……」
ふらふらと、全身の気が抜けてしまったかのような足取りで、紅はその場に転がっている闇薙ぎの太刀を拾い上げた。太刀は未だ全身から黒い気を放っていたが、手にした封じ布を柄に巻くことで、なんとか力を抑えこむ。その上で、照瑠達の近くに転がっていた鞘を拾うと、紅は黒い気を放ち続ける太刀をその中に収めた。
「これでもう……お前は毒虫の悪夢にうなされることはない……。お前を苦しめていた闇は、俺が全て祓い終えた……」
刀を鞘に収め終え、紅が高槻の横にいる雪乃に向かって言った。が、次の瞬間、紅は糸の切れた人形のようにして、どっとその場に倒れ込んでしまった。
「犬崎君!!」
紅が倒れたのを見て、照瑠が思わず彼の名を呼びながら飛び出した。
今回の戦いで、紅は大きな傷を負った。爪の一撃は彼のあばら骨を折っている可能性があったし、刀の力を解放したことで、紅もまた魂を大きく削られてしまったはずだった。
刀を持ったまま倒れ込んだ紅の頭を、照瑠は仰向けにさせて抱え込んだ。周りの目を気にしている暇などない。そのまま紅の手を握ると、精神を集中して陽の気を送り込む。
九条の一族が持つ癒しの力。照瑠はその力を完全に使いこなせるわけではなかったが、今の紅を助けるにはこれしかない。例え効果が薄くとも、ここまで酷く傷ついた紅に対し、何もしないというわけにもいかなかった。
照瑠が紅に気を送り続けてから数分後、紅の口から軽い寝息が漏れ始めた。未だ意識は戻らなかったが、とりあえずは成功と言ってよい。雪乃や夏樹が見守る中、照瑠はほっと溜息をついて、紅の頭を自分の膝の上に降ろした。
「ねえ、照瑠ちゃん……。犬崎君、大丈夫なの?」
「うん、なんとかね。それよりも、早く救急車を呼んでくれる? もしかすると、犬崎君……骨折しているかもしれないから……」
本当に骨折しているならば、もう少し慌ててもよさそうなものである。思わず自分で自分に突っ込みを入れそうになった照瑠だったが、あえてそれはしなかった。
照瑠の膝に頭を乗せ、安らかな寝顔を浮かべている犬崎紅。そんな彼の姿を見ていると、なんだかこちらも妙な安心感に包まれてしまう。
いつもは険しい表情を見せることの多い紅の、意外な一面を見ることができた。照瑠はなぜかそれだけで、不思議と満たされた気持ちになっていた。