~ 伍ノ刻 再来 ~
その日、雪乃は実家を離れ、市内の再び市内のホテルに戻っていた。
束の間の帰省も今日で終わり、再び多忙な日々がやってくる。ホテルでは夏樹や咲花といったT‐Driveのメンバーに加え、プロデューサーの高槻も雪乃を待っている。東京に戻る前に、年末番組の最終打ち合わせを済ませておく予定なのだ。
ホテルの廊下を進んで行くと、その先には会議室のような部屋があった。本来であれば、どこぞの会社が研修などに使う場所なのだろうが、今日は雪乃達の貸し切りである。
数人のメンバーだけで打ち合わせをするには広すぎる気もしたが、部屋が広くて文句を言うなど贅沢な話だ。
「おはようございます……」
遠慮がちに朝の挨拶をしながら、雪乃はそっと部屋の扉を開けた。打ち合わせの始まる時間には少し早かったが、それでもどこか控え目な態度になってしまう。
「あっ、雪乃さん!!」
部屋の中にいたのは咲花だった。雪乃の姿を見るなり、椅子から立ち上がって駆け寄って来る。
「雪乃さん、無事に戻って来てくれたんですねぇ……。咲花は嬉しいですぅ……」
「ちょ、ちょっと! 大袈裟だって、咲花」
「そんなことないですぅ! クリスマスのコンサートのこともあったから、このまま雪乃さんが戻って来ないんじゃないかと思って……そう考えたら、夜も眠れなかったんですよぉ!!」
涙と鼻水でくしゃくしゃになった顔で、咲花が雪乃に抱きついてきた。今の顔をファンの人間が見たならば、きっと卒倒することだろう。
「ごめんね、咲花。心配掛けちゃったみたいだね」
「うぅぅ……。だ、だいじょうぶでひゅ……。わらひは、ゆひのさんがもろってきてくれれば、それらけで嬉しいれすぅ……」
もはや、呂律さえ完全に回っていない。雪乃は単に実家に帰っただけだったのだが、咲花の頭の中では永遠の別れのように話が作られていたようだ。とはいえ、雪乃とてT‐Driveを辞めるつもりはなかったので、これは明らかに咲花の思い込みによるものである。
先日のコンサートでの失敗があったとはいえ、何をどう間違えれば雪乃が引退するような流れになってしまうのだろう。どうも、咲花は想像力が豊かな分、一度妙なことを考え出すと勝手に妄想が膨らんでしまうらしい。
泣いている咲花の頭を撫でながら、雪乃は長机の前に座っている夏樹に顔を向けた。
相変わらず、夏樹は真面目そうな顔をして目の前の紙の束に目を通している。恐らくは、年末に放送される特番の台本と言ったところだろう。
こちらの様子を気にもかけずに台本を読み漁る夏樹に、雪乃は少しだけ声をかけづらい雰囲気を感じてしまった。あの、コンサートの後の出来事もあっただけに、下手に声をかけて夏樹の神経を逆なでするのが怖かった。
「あの……夏樹ちゃん……?」
腫れ物に触れるような声で、雪乃は夏樹の名前を呼んだ。その声に、夏樹は無言のまま顔を上げて雪乃の方を見る。相変わらず舞台の裏では険しい顔をしていたが、その瞳に怒りの色は浮かんではいなかった。
「なにやってるの、雪乃。いつまでもそんなところに突っ立ってないで、さっさと座りなさいよ」
「う、うん……」
「もしかして、この前のことを気にしているの? だったら、心配いらないわよ。私もあの時は、ちょっときつく言い過ぎたって思ったしね」
顔はいつものままだったが、その声は幾分か落ち着いていた。そんな夏樹の態度に安心したのか、雪乃も咲花を連れて彼女の隣にある椅子に腰を下ろす。
先日のコンサートの後、雪乃は夏樹から一方的に叱責を受けた。あの時は混乱とショックで何も言えなかったが、今ならば彼女とも普通に話すことができる。
夏樹が雪乃に怒りを覚えたのは、単に舞台を台無しにされたからだけではないだろう。アイドルとして芸能会で生きてゆくには、中途半端なことはしたくない。そんな一際高いプロ意識が、雪乃への叱責に繋がったに違いない。
一度は失ってしまうかもしれないと思った自分の居場所。そこがまだ健在であったことは、純粋に嬉しく思う。夏樹も咲花も、なんだかんだで雪乃の帰りを待っていてくれた。この業界に関わったきっかけこそ違うものの、今では二人とも雪乃にとってのかけがえのない仲間だった。
再び戻ってきた忙しない日常。それは、一般の女子高生にとっては非日常であるものの、同時に雪乃が輝かしいスポットライトを浴びることのできる唯一の場所。
T‐Driveの一員として、これからも三人で歌い続けることができる。あの、奇妙な毒虫もいなくなり、来年からは安心して仕事に打ち込める。それは雪乃にとって喜ばしいことだったが、反面、彼女は犬崎紅に言われた言葉に、一抹の不安を抱いてもいた。
――――お前に今まで舞い込んできたアイドルとしての成功は、金輪際ばったりと途絶えるかもしれない。
紅が雪乃に初めて会った際に告げた言葉である。彼によれば、雪乃の今までの成功は蠱毒の呪いによる副産物のようなもの。雪乃の魂を蠱毒が蝕むことによって得られた、仮初の至福でしかないという。
昨晩、自分の家で何があったのか、雪乃はよくわからなかった。ただ、虫に襲われる悪夢の中で、自分は巨大な犬のような影に助けられた。その後、なにかとても暖かいものに触れたような感じがして、そのままぐっすりと眠り込んでしまった。
照瑠の話では、紅は雪乃の中にいた蠱毒を完全に祓ったとのことだった。それは雪乃が二度と再び毒虫の悪夢や幻覚を見ないことを意味していたが、同時に彼女が蠱毒の力による成功を得られなくなったことも意味していた。
自分にアイドルらしさがないことくらい、雪乃自身が一番よく知っている。蠱毒がいなくなった今、自分の存在が、夏樹や咲花の足手まといになるのではないか。雪乃はそれが怖かった。
「ねえ、夏樹ちゃん……。私、T-Driveの一員として、ちゃんと役に立てているのかな……?」
「どうしたのよ、急に。まさか、この前の舞台の一件で、おじけづいたんじゃないでしょうね?」
「そうじゃないの。でも……私は夏樹ちゃんや咲花みたいに、目立って優れたところなんてないし……」
「ああ、はいはい。また、雪乃のネガティブキャンペーンの始まりってわけね……。残念だけど、今はあなたの愚痴を聞いているような時間じゃないの。そろそろプロデューサーだって来る頃だし、今の内に一通り台本に目を通しておきなさいよ」
「う、うん……。ごめんね、変なこと言って……」
本当のことなど、言えるはずもなかった。雪乃が今までアイドルとして活動を続けられたのは、呪いにも似た不思議な力のせいであることなど。そんな自分が、本物のアイドルとしての素養を持った、夏樹や咲花と一緒に仕事をする資格がないことなど。
二人に真実を告げられないまま、雪乃は夏樹から渡された台本を読むことに集中した。
今は少しでも余計なことを考えず、仕事に没頭したい。T-Driveという自分の居場所を失いたくないという気持ちが、雪乃にそうさせていた。
それから数分後のことだろうか。程なくして高槻も部屋に現れ、四人は年末の特番に向けての打ち合わせを開始した。
特番と言っても、T-Driveの仕事内容が大幅に変わるわけではない。多少、何かの実況をするような場面はあったとしても、後は普通に持ち歌を歌って終わりとなる。
唯一の違いは、これが今までの収録とは異なる生放送ということだ。先日のコンサートのような失態は許されないが、蠱毒から解放されたはずの雪乃に、その心配はない。むしろ、彼女が心配しているのは、今後の仕事で仲間の足を引っ張らないかどうかだ。
台本の読み合わせをしながら細かいスケジュールを確認することで、打ち合わせは思ったよりも簡単に終了した。内容を確認した感じでは、特に難しいことをやらされそうな心配はない。
この分なら、今のところは大丈夫だろうか。そう思いながら雪乃が隣を見ると、早くも咲花が長机の上にぐったりと伸びてスライム化していた。打ち合わせが終わった後は、大抵の場合咲花はこうして伸びていることが多い。
「ふわぁ~……。やっぱり会議って疲れますぅ……」
「なに言ってんのよ、咲花。プロデューサーが来てから、まだ一時間と少ししか経ってないじゃない」
「それでも長すぎますよぉ、夏樹さん。学校の授業だって、50分で終わって休み時間になるんですよぉ……」
「中学校の授業と仕事の打ち合わせを同じにしないでよね。舞台の上ではどれだけ歌っていても平気な顔しているくせに、どうして会議になるとこうなのよ」
いつにも増してだれている咲花の態度に、夏樹はややご立腹の様子だった。もっとも、咲花としても、本気で仕事に対してやる気がないわけではない。ただ、まだ中学生の彼女には、ほんの少しだけ周囲に甘えたい気持ちも残っているというだけだ。
夏樹にとって、仕事はあくまで真剣勝負。そんな彼女からすれば、咲花の今の行動でさえも許し難い。だが、夏樹が更に続けて何かを言うよりも先に、高槻が咲花の気持ちを汲んでそれを制した。
「夏樹もその辺にしておけよ。僕もそろそろ休憩を取った方がいいと思っていたし……何か、そこの自販機で飲み物でも買ってこようか?」
「まあ……プロデューサーが、そう言うのでしたら……」
さすがの夏樹も、年長者には意見をすることがないようだった。
会議室を出ようと、高槻はパイプ椅子から腰を上げた。が、調度その時、彼が部屋を出るよりも先に、会議室の扉が開く音がした。
「やあ、君達。打ち合わせは順調かね?」
扉の向こうから姿を現したのは、社長の鴨上だった。T-Driveの応援に駆けつけて以来、どうやら彼もこちらに滞在していたようだ。
「社長。事務所の方は、大丈夫なんですか?」
「心配はいらんよ、高槻君。前にも言ったが、事務所の方は残っている社員だけでも十分に回せる程度の仕事しかない。それに、私だって、何もしないでこのホテルに留まっていたわけではないぞ」
「と、言いますと?」
「うむ。今日は、来年の仕事について、君たちに直々に伝えたいことがあって来たのだ。申し訳ないが、少し時間をいただけるかね?」
高槻の顔を覗き込むようにして、鴨上が言った。相手に拒否権を与えない、妙に自身に溢れた顔だった。
「さて……。打ち合わせの最中に悪いが、今日は君達T-Driveに良い知らせを持ってきた。今後の芸能活動に関係する、とても重要な話だぞ」
夏樹、雪乃、咲花の三人を前に、鴨上は椅子に腰かけながら言った。T-Driveの三人は、そんな鴨上の顔にしっかりと目線を合わせている。社長から直々に話があるなど、これは相当に凄いことに違いない。
「最近のT-Driveの活躍は、業界の中でもかなり広く認められるようになってきた。それは、君達も感じていることだとは思うがね……」
「はい。ですが、私はここで満足するつもりはありません。もっと高みを目指して……いつかは、母を越える人間になりたいと思っています」
「ははは。夏樹君は、相変わらず真面目だな。実は、そんな夏樹君に、今日はこんな話が持ち上がっているんだよ」
そう言いながら、鴨上は鞄から企画書のようなものを取り出した。どうやら新年度から放送されるドラマの企画書らしく、その表紙には見たこともないタイトルが大きな字で印字されていた。
「夏樹君は、以前から女優の仕事もやってみたいと言っていただろう? そんな君に、なんと新年度から始まる月曜ドラマの出演依頼が来ていてね。これは、その企画書だよ」
「げ、月曜ドラマって……!! それ、本当なんですか、社長!?」
「こんなことで、嘘をついても仕方ないだろう。実際に放送されるのは4月からだが、知っての通り、ドラマの撮影は先行して撮り溜めをしておくものだからね。先方からは、早めの返事を催促されているが……受けて見るかね、夏樹君?」
「で、でも……そういったものは、実際はたくさんのオーディションなどを通して配役を決めるものではないのですか?」
「うむ、普通はそうだ。しかし、今回はドラマの撮影を指揮する監督が、君のことをえらく気に入っているようでね。さすがに主演というわけではないが、それに近い待遇の役を回してもらえることになっているよ」
未だ信じられないという顔をしている夏樹に、鴨上はさも当たり前のようにして告げた。夏樹にしてみれば寝耳に水の話だったが、それでも断る理由はない。
夏樹が本当に目指したいもの。それは、母を越えるタレントとして、この芸能界の頂点に立つことである。今は一人のアイドルかもしれないが、いずれは女優、司会、その他様々な仕事を万能にこなすことのできる、トップスターになるのが夢なのだ。
T‐Driveの活動を踏み台と思ったことはないが、夏樹は今の状況に満足するつもりもなかった。
自分はもっと上を目指したい。親の七光などといわれずに、自分の力でトップに立ちたい。その気持ちが、夏樹に鴨上の提案を断るという選択を与えなかった。
「社長……。そのお話、謹んでお受けさせていただきます」
「おお、やってくれるかね、夏樹君! いやあ……これで我が社からも、とうとう月曜ドラマにタレントを出演させることができたか!! 私としても、感無量だよ」
「そんなに煽てないでください。まだ撮影だって始まっていませんし、これからどうなるかもわからないんですから……」
「でも、やっぱり夏樹さんは凄いですぅ! オーディションも無しに月曜ドラマに出られるなんて、普通じゃありえないですよぉ!!」
大袈裟に手を叩きながら、雪乃の隣に座っている咲花が声を上げた。自分が選ばれたわけでもないというのに、当事者そっちのけではしゃいでいる。
「はぁぁ……月曜ドラマかぁ……。私もいつか、カッコイイ俳優さんと、らぶらぶなシーンをやってみたいですぅ……」
ぼんやりと天井の方を眺めながら、そんなことを呟く咲花。とろんとした目の奥では、恐らくイケメンの男性俳優とキスシーンを演じている自分の姿があるのだろう。ファンが見たら幻滅確実なしまりのない顔をしながら、早くも妄想の世界に突入していた。
「ちょっと、咲花。あなた、涎が出てるわよ」
見かねた雪乃が、咲花を突きながら声をかけた。その瞬間、まるで夢から覚めたようにして、咲花は現実世界へと舞い戻った。
「はっ……!? ご、ごめんなさい、雪乃さん。私、また妄想してましたぁ……」
「おやおや。咲花君も、ドラマの仕事に興味があるのかね? それだったら、私の方から監督に口利きをしておけばよかったかな?」
冗談なのだろうが、鴨上がそんなことを口にした。さすがに恥ずかしくなったのか、咲花も肩を縮めてその場で丸くなった。
「まあ、咲花君が羨ましいと思うのも無理はないがね。そこで……そんな咲花君にも、私はちゃんと仕事を持って来たぞ」
「ええっ!! 本当ですか!?」
「ああ、勿論だとも。もっとも、こちらはドラマの出演依頼ではなく、児童番組の司会だがね。小さな子ども達にもわかりやすく、元気よく解説できる子が欲しいと言われたので、君を紹介しておいた。近々、本格的な仕事の話が来るだろうから、心の準備をしておきたまえ」
「はぁい、わっかりましたぁ!!」
夏樹だけでなく、自分にも仕事が回ってきた。先ほどまで小さくなっていたことなど直ぐに忘れ、咲花は力強く片手を上げて鴨上に答えた。
今までは歌を歌うだけだったが、来年からは違った形でのテレビ出演もある。まだ年が明けたわけでもなかったが、この調子で行けば、来年のT‐Driveの仕事も安泰だ。
プロデューサーの高槻としても、自分の担当している娘達が活躍の場所を広げてくれることは素直に嬉しく思える。ただ、彼女達の可能性を切り開くような仕事を、社長に持ってきてもらってしまったことだけは少々気まずくもあった。
「なんだか、申し訳ないですね、社長。本当だったら、彼女達の営業は僕がしなければならない仕事だというのに……」
「いや、構わんよ。高槻君は、今まで本当によく頑張ってくれたからね。今後も三人の支えとして、T‐Driveに関わってくれたまえ」
「ありがとうございます。ところで……雪乃なんですが、彼女に仕事は来ていないんですか?」
「うむ……。しかし、彼女は元より歌手志望だ。それに、その歌唱力は私も買っている部分がある。雪乃君には、今後も歌手としてトップを目指してもらえればそれでいい」
「そうですか。では、彼女が歌手として成功をつかめるよう、僕も一層頑張らなくてはいけませんね」
雪乃は歌手として頂点を目指せばよい。そう思って何気なく言った高槻だったが、当の雪乃は何も口にしなかった。
(私の成功は、私自身の力じゃない……)
犬崎紅に言われた言葉が再び雪乃の脳裏を掠め、雪乃は沈んだ気持ちになった。
蠱毒がいなくなったことで、アイドルとしての栄光も失う恐れがある。認めたくない、考えたくもないことだったが、やはり現実は残酷だ。
蠱毒を祓ったその翌日に、夏樹と咲花だけに仕事が来る。そして、当の自分には何の仕事もやって来ない。これは今までの自分が、蠱毒による呪いの副産物で成功をつかんでいたという証拠なのだろうか。
本当は、夏樹や咲花が新しい世界に踏み出すことを祝福してやりたかった。しかし、今の雪乃は、そんなことを考えてやれるだけの余裕さえ持ち合わせていない。ただ、自分がT‐Driveとして活動してきた今までの思い出を否定されたような気がしてしまい、それが何よりも辛かった。
「あの……。私、ちょっと気分が悪いんで……申し訳ありませんけど、一度席を外させてもらっても構いませんか?」
鴨上と高槻、それに夏樹や咲花にも断って、雪乃はそのまま会議室から外に出た。あのまま部屋に居続ければ、今に泣き出してしまいそうで怖かった。
誰もいない廊下を歩き、雪乃はそのまま洗面所へと足を運んだ。別に何か用があるわけでもなかったが、とにかく今は一人になりたい。そう思ってのことだった。
今は昼時で、ホテルの宿泊客もどこかへ出かけている者が多い。自分たちの他には、誰かに会うようなこともないだろう。
力の入らない様子で、雪乃はとぼとぼと洗面所に足を踏み入れた。舞台で見せている笑顔はなく、顔は下に俯いたままだ。目線まで完全に下に落ち、もはや自分の足元しか見えていない。そんな雪乃が目の前にから歩いて来る人間に気がつかないことは、至極当然のことと言えた。
「あっ……!?」
気がついたときには遅かった。雪乃は洗面所に入るなり、今まさにそこから出ようとしていた相手と出会いがしらにぶつかってしまった。
「す、すいません!! 私……よく前を見ていなくて……」
「ちょっと、気をつけてよね……って、なんだ。あなた、長谷川さんじゃない」
目の前で、雪乃に見降ろすような視線を向けて来る背の高い少女。美人だが、どこかきつそうな面持ちをしたその相手は、雪乃も良く知っている人間だった。
「えっ……? 麻宮……さん?」
思いがけない相手に出会ったことで、雪乃はしばし目を点にさせて固まった。
麻宮星梨香。雪乃と同じ鴨上プロダクションに所属する、元アイドルのアイドル候補生。かつて、雪乃達がT‐Driveとしてデビューするよりも前に、先輩として活動していたこともある少女だった。
「長谷川さん……。あなた、こんなところで何しているの? 今は、打ち合わせの途中じゃないのかしら?」
「えっ……ま、まあ……。でも、どうして麻宮さんがここにいるんですか? それに、私達の予定まで……」
「別にいいでしょ、そんなこと。同じ事務所に所属する者同士、相手の予定を知っていたって不思議じゃないじゃない」
どこか冷たく、突き放すような口調で星梨香は雪乃に言った。夏樹も厳しい物言いをすることはあるが、星梨香のそれは夏樹のものとは少し違う。相手に対する期待や尊敬などない、ともすれば敵意をむき出しにしているような言い方だった。
「そんなことよりも、長谷川さん。あなた、ネットのニュースに妙なこと書かれたんですって?」
「妙なこと……。それって……」
「とぼけないでよ。それとも、本当に知らないのかしら? この前のステージであなたが退場したのは、あなたが裏で変な薬を使っていたからじゃないかって……昨日の朝一番の記事で叩かれていたわよ」
「そ、それは……」
追及とも取れる星梨香の言い方に、雪乃は何も言い返すことができなかった。
ネットニュースに根も葉もない噂を書き立てられたことは、雪乃も高槻の電話から知っていた。だが、それを星梨香が知っていようとは、誰が予想しただろうか。いや、それ以前に、こんな場所で星梨香に会うことになるなどと、雪乃は考えてもいなかった。
いったい、星梨香は何の理由があって自分と同じホテルにいるのか。他の候補生達が東京に帰ったにも関わらず、星梨香だけがなぜ。
疑問は次から次へと湧いて来る。しかし、星梨香の顔を見る限り、それを尋ねられるような雰囲気ではない。そして、そんな雪乃の気持ちなどお構いなしに、星梨香は更に雪乃を見下したような態度で話を続けた。
「私、来年の一月に再デビューが決まったのよね。それも、今度はソロでの活動が」
「そうですか……。それは、おめでとうございます……」
「だから、あなたにも少しは自覚を持ってもらいたいのよ。同じ事務所に所属しているアイドルが変な薬を使っているなんて噂されたら、こっちのイメージダウンになるじゃない」
「は、はい……。どうも、すいません……」
謝る必要など何もない。自分には、何も疾しいところなどないはずだ。
それにも関わらず、雪乃はなぜか星梨香に頭を下げて謝ることしかできなかった。自身に満ち溢れ、新たな仕事に期待を膨らませている星梨香を前に、今の雪乃には何も言い返す言葉が見当たらない。
「まあ、せいぜいあなたも頑張ることね。私もこれから黒部さんと、来年のことで話があるから。こんなところで油を売ってないで、さっさと会議室に戻った方がいいんじゃないかしら? もっとも、あなたに戻る場所があればの話だけどね」
雪乃のことを鼻で笑いながら、星梨香は去り際に痛烈な一言を残していった。だが、今度も雪乃は何も言えず、ただ拳を震わせて立ちつくすしかない。
洗面所を後にした星梨香の足音が、徐々に遠ざかって行く音が聞こえてくる。その音を耳にしながら、雪乃は自分の目頭が徐々に熱くなるのを感じていた。
自分には、星梨香にあそこまで言われなければならない覚えはない。それなのに、あそこまで強烈な嫌味を言われて、何一つ言い返すことができなかった。星梨香の全身から出る圧倒的な自身に、完全に気持ちが押し任されてしまった。
こんなことで、自分はこれからもアイドル活動を続けて行くことができるのだろうか。不安は雪乃の中でどんどん大きくなり、その心はまさに押し潰れる寸前だ。
雪乃とて、順風満帆なアイドル生活を送ってきたわけではない。どうしても自信が持てず、辛い気持ちになることも多くあった。
それでも活動を続けられたのは、なんだかんだでT‐Driveとして仕事を成功させてきた経験が大きかった。舞台で歌う前は不安でも、いざ上がって歌い終えた後の大歓声。そして、自分の名前を呼んでくれるファンの熱い声。そういった諸々の事柄に勇気づけられ、なんとかここまでやってきた。
しかし、その成功が蠱毒の呪力による副産物だと知ったとき、雪乃の自信は完全に打ち砕かれてしまっていた。今までの成功は、決して自分が自分の力で手に入れたものではない。そう示されることで、雪乃は星梨香の理不尽な言葉にさえも言い返す術を失っていた。
(私……これから、どうしたらいいんだろう……)
ふと鏡を見ると、その中にいる自分が泣いていた。それを見てしまった雪乃は、とうとう洗面台に突っ伏すようにして泣き出してしまった。
悪夢を見なくなる代わりに、自分が失ってしまったもの。その大きさを考えると、今の現実に雪乃は耐えられそうに思えなかった。
照瑠や亜衣、それに紅には感謝している。夢が現実になったなどという下らない話を信じ、さらには蠱毒を退治することまでしてくれたのだから。
こと、照瑠に関しては、除霊の際の苦しみを和らげるために力を使ってくれたという。本人から聞いただけの話なので実感はなかったが、それでも雪乃は照瑠の優しさを純粋に嬉しく感じていた。
だが、その一方で、このままでは雪乃自身、T‐Driveという居場所を失ってしまう。それは即ち、雪乃が大好きな歌を歌うための場所と、共に歌う仲間を奪われるに等しいのだ。これでは仮に生きていても、心は完全に死んでいるも同じである。
結局、自分はどうすることが正しかったのか。答えがまったく見えないまま、雪乃はそっと顔を上げた。
「はぁ……。酷い顔……」
泣き腫らして赤くなった自分の顔を見て、雪乃は大きな溜息をつきながらそう言った。こんな顔では、会議室に戻ることも憚られる。涙で濡れたその顔は、とても現役のトップアイドルのものとは思えない。
もう、いっそのこと、芸能界から足を洗ってしまおうか。所詮、引っ込み思案な性格の自分には、この業界で生きることは無理だったのだ。このまま火乃澤町に帰り、普通の高校生に戻ってしまう。それができれば、どんなに楽なことだろう。
(これ以上、みんなに迷惑はかけられないな……。私がいなくても、夏樹ちゃん達は一人でやっていけるだろうし……)
今日のことで、夏樹も咲花も新しい道を見つけるためのきっかけを得た。歌手としての仕事を続けなくとも、それこそT-Driveとして活動しなくても、彼女たちならやってゆけるかもしれない。先の星梨香ではないが、ソロで活動することも夢ではないはずだ。
自分はもう、夏樹や咲花にとって不要な存在なのかもしれない。プロデューサーに高槻にとっても、これからは単なるお荷物にしかならないのかもしれない。
本当は、これからも歌を歌い続けたかった。T‐Driveの一人として、夏樹や咲花と一緒に頑張りたかった。が、今の状況を跳ね返してまで、アイドルを続けて行けるだけの自信が雪乃にはなかった。
「もう……私には無理だよ……。ごめんね、みんな……」
思わず口から出た、仲間への謝罪の言葉。誰もいないはずの洗面所に、雪乃の声が響いたときだった。
――――ガサッ……。
すぐ近くで、何かの動く音がした。思わずハッとした顔になり、雪乃は泣くのを止めて顔を上げた。
――――ガサッ……。
また、音がした。今度はもっと近く、もっとはっきりとした大きさで。
「う、嘘……。これって……」
先日のコンサートで起きた、忌まわしい出来事の記憶が蘇る。舞台の上で次の曲のスタンバイに入っている際に、雪乃の目の前に現れたもの。あの、夢で雪乃を喰らい尽くそうとしていた、醜悪な姿の毒虫たち。それが現れたときの音だ。
照瑠の話では、雪乃の中にいた蠱毒は紅が完全に退治したとのことだった。雪乃はその一部始終を見ていたわけではないが、少なくとも照瑠が気休めから嘘を言っていたとは思えない。
では、この奇妙な音の正体は何で、自分には何が起きているのだろうか。両手を鏡の前にかざしてみるが、この前のように服の隙間から虫が出て来るような様子はない。素早く辺りを見回してみたものの、床に壁にも毒虫の姿は見当たらない。
――――ボタッ!!
突然、何かが目の前に落下して、雪乃は思わず手で顔を覆いながら後ろに下がった。そして、床の上で転がっているものが目に入った瞬間、雪乃の顔が見る間に恐怖でひきつってゆく。
洗面所の床で、その醜く太った腹を剥き出しにして脚を震わせているもの。どす黒く濁ったような赤い甲殻に、黄緑色の斑を持つ不気味な身体。わき腹から出ている六本の脚を動かして、それは床の上でしきりにもがいていた。
間違いない。これは、あの夢に出て来た毒虫だ。夢の中で、もう一人の雪乃自身から溢れ出し、雪乃の身体を喰らい尽くさんと迫ってきた恐るべき虫。犬崎紅の言っていた、蠱毒の化身だ。
「ど、どうして……。なんで、この虫が出てくるの……」
蠱毒の本体は、紅が完璧に消滅させたはずだった。では、今目の前で脚をバタつかせてもがいているものは何なのか。
恐る恐る、雪乃は洗面所の天井へと顔を向ける。そして、そこに張り付いていたものが視界に入った瞬間に、今度は大声で悲鳴を上げた。
「い、いやぁぁぁぁっ!!」
そこは、一面が隙間なく毒虫で覆い尽くされていた。互いに体を重ね、虫たちは尻尾を振りながらガサガサと這い回っている。ギチギチと、何かの噛み合うような嫌な音がして、虫は一斉に雪乃の方へと頭を向けた。
次の瞬間、天井に張り付いていた虫が一斉に雪乃目掛けて降ってきた。逃げ出す暇さえなく、雪乃は瞬く間にその体を虫に覆われる。どれほどあがいても、どれだけ振り払おうとしても、虫たちは次々に雪乃の身体に飛び移ってはその肌の上を這いずり回った。
「あ……あぁ……」
もはや、声を上げることさえもできなかった。
虫は雪乃の服の袖から中へと入り、彼女の服の中で動き回った。そればかりか、彼女の髪の間、さらには口の中にまで、隙間さえあればそこに大挙して入り込もうと押し寄せる。
蠱毒の見せるものは、所詮は幻覚に過ぎない。しかし、今の雪乃には、これが幻覚だとは到底思えなかった。肌の上を虫の脚が動き回る感触は、どう考えても本物なのだ。
全身のあらゆる場所を蹂躙されて、雪乃はとうとう涙を流しながら意識を失った。洗面所の床に乾いた音が響いたが、それでも虫たちは雪乃の身体から離れようとはしない。気を失って倒れてしまった雪乃の上で、まるで砂糖に群がる蟻のようにして、不気味な山を作っていた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
気がつくと、そこには白い天井が広がっていた。
上にかけられていた布団を跳ね飛ばし、雪乃は勢いよく起き上がる。思わず自分の体のあちこちを弄ってみたが、とくに何かがいるようなこともなかった。
蠱毒を祓ったにも関わらず、あの虫たちは再び雪乃の前に現れた。夢に出てきたときとまったく変わらぬ姿で、雪乃の身体を隅々まで食いつくそうと襲いかかってきた。
犬崎紅の話では、蠱毒を祓うことで雪乃のアイドルとしての成功は失われるとのことだった。初めは半信半疑だったが、今ではそれも本当のことではないかと思っている。今日の社長から言われた言葉が、それを何よりも物語っているからだ。
だが、それではなぜ今になって、蠱毒は再び雪乃の前に現れたのか。悪夢から解放されたと思っていたが、それは単なる気休めにしか過ぎなかったというのだろうか。
自分の身に何が起きているのか、もう雪乃にも理解できなかった。誰に話しても、何をやっても、あの毒虫の群れからは逃げられない。絶望に近い感情が、雪乃の中で徐々に大きくなっていった。
「もういや……。どうして私ばっかり、こんな目に遭わなくちゃいけないの……」
両腕で胸元を覆うようにして、雪乃はひたすら周囲の様子に気を配りながら震えていた。あの毒虫達が、いつまた目の前に現れるかわからない。そのことが、雪乃の精神を過剰なまでに過敏なものに変えてゆく。
突然、ドアの開く音がして、雪乃は思わず肩を震わせた。音のする方を見ると、そこにはプロデューサーである高槻の姿があった。
「雪乃。気がついたみたいだね」
「あっ……プロデューサー……」
高槻の姿を見て、雪乃の口から安堵の溜息が漏れる。見知った顔が目の前に現れたことで、緊張が急速に解けてゆくような感じがした。
「あの、プロデューサー。私……」
「洗面所で倒れていた君を夏樹と咲花が見つけて、僕がここへ運んで来たんだ。まだ、あまり無理をしない方がいいよ」
「えっ……。それじゃあ、ここは……」
「僕が泊まっているホテルの部屋さ。それよりも、雪乃。いったい、君に何があったんだい?」
ベッドの前で中腰になり、高槻は雪乃に目線を合わせた。仕事をする上での形式的なものではなく、あくまで一人の人間として雪乃を心配している。そんな目だった。
このまま高槻に、本当のことを話すべきなのだろうか。雪乃の中に、一抹の迷いが生まれていた。
確かに高槻は、プロデューサーとして今まで雪乃達を支えてきてくれた男だ。しかし、それでも彼は、あくまで普通の人間である。幽霊がどうした、呪いがどうしたなどという話をしても、一笑に付されて終わってしまうかもしれない。
思い切りがつかないまま、時間だけが過ぎてゆく。そんな雪乃の変化を感じ取ったのか、高槻は再雪乃の肩にそっと手を置いて話しかけた。
「雪乃……。君は、昨日の朝に僕が電話をしたこと、覚えているかい?」
「えっ……」
「あの時は、確かに僕も気が動転していて失礼なことを言ったと思う。だけど、あえてもう一度聞くよ。雪乃……君、最近になって、変な人と関わりを持ったようなことはないかい? その……変な薬を勧められたり……そういったことは、なかったのか?」
「プロデューサー……。それ、やっぱり私のことを疑っているんですか……。プロデューサーも、私が麻薬をやっているって……本気でそう思っているんですか!?」
「いや、そうじゃないよ。ただ、僕は君のことが心配なだけだ。自分で言うのもあれだけど……この業界は、外から見ている以上に汚いものが溢れているってことは、雪乃だって知っているだろう?」
雪乃の肩に置いた手をそっと離し、高槻は立ち上がった。雪乃は何も答えなかったが、それでも高槻は雪乃に向かって話を続けた。それはどこか、自分の懺悔を聞いて欲しいともいえるような話し方だった。
「なあ、雪乃。僕がこの業界に入った理由、君は知っているかい?」
「プロデューサーが、芸能界で仕事をしようと思った理由……ですか? いえ、私は知りません」
「まあ、そうだろうね。僕自身、こんなことを誰かに語ることは早々ないんだ。だけど、今日はあえて話をさせてもらうよ。僕がどういう想いでT‐Driveに関わってきたのか……それを、雪乃にも知っておいてもらいたいからね」
雪乃に背を向けたまま歩き、高槻は窓の近くまで来て足を止めた。眼下にはホテルの中庭が広がっており、空からはちらちらと雪が降り始めていた。
「僕は、最初からこの業界で仕事をしようと思っていたわけじゃないんだ。ただ、僕の父さんは昔から芸能界で仕事をしていてね。今の僕と同じように、アイドルのマネージャーをやっていたんだよ」
「そうだったんですか。それじゃあプロデューサーは、お父様の後を継ぐ形でお仕事を?」
「まあ、そんなところだね。もっとも、僕だってそこまで真剣に後を継ごうなんて思っていたわけじゃない。大学を卒業してもまともに就職が決まらなくて、父さんのコネで業界に潜りこんだんだ。当時は鴨上プロも今以上に弱小な会社だったから、コネで入ったと言っても大したことはないんだけどね」
どこか自嘲気味な笑みを浮かべて、高槻は続けた。いつもの彼からは想像もつかない、どこか影を帯びて冷え切ったような表情だった。
「鴨上プロに就職が決まっても、僕自身は特に変わらなかった。所詮はコネで入っただけの社員だから、当然のことながら使い物になんてならない。いきなりアイドルのマネージメントやプロデュースなんてできるはずもなくて、事務作業とトイレ掃除が日課だったよ」
「そんな……。プロデューサーが事務作業とトイレ掃除しかしないなんて……そんなこと、信じられません」
「確かに、今の僕しか知らない雪乃達から見れば、そうなのかもしれないね。でも、当時の僕は本当にそんなものだったよ。もっとも、それから少しして起きたある事件がきっかけで、真剣に仕事に関わろうと思ったんだけどさ」
「ある事件……? それ、何なんですか?」
「雪乃もこの業界で仕事をしているなら、聞いたことくらいはあるだろう。日高実……。君達がデビューするよりも前に、この業界でトップ街道をまっしぐらに進んでいた女の子さ。でも、彼女は最終的に覚醒剤の所持が発覚して、この業界を去ったんだ。そのときに彼女のマネージメントをしていたのが、他でもない僕の父さんなんだよ」
「えっ……。そ、それって……!?」
それ以上は、雪乃は何も言えなかった。
日高実の名前は、雪乃も聞いたことがある。数年前、雪乃がまだ地方のご当地アイドル活動を始めたばかりの頃に、流星のように現れた若き期待の新星。
彼女の歌を聞いたとき、雪乃は自分もあのような大舞台で歌ってみたいと夢に見たものだった。もっとも、その後に報道された覚醒剤所持のニュースを聞いてからは、彼女に対しては幻滅しか抱かなかったが。
そんな日高実のマネージメントを、他でもない高槻の父がやっていた。それは雪乃にとって、まさに衝撃の事実である。あの、いつも気さくな笑顔を絶やさない高槻にも、人には知られたくないような裏があったということだ。
「日高実が逮捕されたとき、父さんは彼女に対して何もしなかった。事務所も一緒になってシラを切り通して、責任の全てを彼女一人に押し付けてしまったんだ」
憂いを込めた表情のまま、高槻は雪乃の方を向いて言った。
「真実はどうだか知らないけど、本当はプロダクションの側だって知っていたはずなんだ。日高実が、自分だけで覚醒剤なんて手に入れられるはずがない。不良芸能人や暴力団、それ以外にもきな臭い連中が彼女の周りにいたことに、誰も気がつかないなんて方がおかしいさ」
「そんな……。それじゃあ日高さんは、プロダクションに見捨てられて……」
「ああ、そうだよ。本来は、マネージャーである父さんが、日高実を守ってやらねばいけなかったにも関わらず……自分の監督不行届き棚に上げて、プロダクションと共に保身に走ったんだ。そんな父さんを、僕は許せない……」
最後の方は、高槻の言葉が少し震えていた。その顔は、じっと唇を噛んだまま、どこか苦痛に耐えているようにも思われた。
日高実が覚醒剤に手を出した理由。それは雪乃にもわからない。だが、それでも雪乃は今になって、かつては幻滅した彼女に僅かばかりの同情心を抱きつつあった。
T‐Driveとして活動を始めて以来、この世界が綺麗事だけで成り立っていないということは何度も思い知らされた。その際、周りに自分を支えてくれる人間がいたからこそ、その辛さにも耐えられた。
恐らく、日高実は、周りに頼る者が誰もいなかったのだろう。プロダクションもマネージャーも、自分のことを単なる金づるとしてしか考えてくれない。そういった孤独が彼女の心を徐々に蝕み、最終的には麻薬に走ることでしか、辛さを忘れられなくしてしまったのではないだろうか。
「結局、日高実はその事件がきっかけで、二度と再び芸能界で仕事をすることはできなくなった。それ以前に、麻薬でボロボロになった身体を治すだけでも一苦労なはずだけど……父さん達は、そんな彼女が社会復帰するための支援さえしてやらずに、ゴミのように日高実を捨てたんだ」
「可哀想ですね、それ……。確かに麻薬に手を出したのは悪いことですけど……それでも、日高さんが全ての悪の元凶みたいに扱われるのは、やっぱり間違っている気がします」
「そうだろう。だから、その時から僕は決意したのさ。周りからどんなに馬鹿にされようとも、古臭い考えだと罵られようとも、最後まで自分の担当するアイドルを裏切るようなことだけはしないってね」
「プロデューサー……」
「もう一度聞くよ、雪乃。僕には君達を、最後まで守る義務がある。だからこそ、本当のことを教えて欲しい。君は本当に、変な薬には手を出していないんだね? 妙な連中とつき合って、そういった類の物を貰ったこともないんだね?」
ゆっくりと念を押すようにして、高槻は雪乃のことを真っ直ぐに見て言った。その瞳は、一点の曇りもない真剣なものだ。雪乃を信じていないわけではなく、むしろ、どんな答えが返って来ても受け止める。そんな覚悟を決めた者の持つ瞳だった。
「あの……こんなこと言って、信じてもらえるとは思えないんですけど……」
あんな話まで聞かされて、これ以上は隠しておけるはずもない。そう思った雪乃は、震える声で自分の身に起きたおぞましい体験を語りだした。
先ほどまでは、高槻にも笑い飛ばされると思っていた蠱毒の話。だが、そんな話でさえも、今は恐れることなく話すことができる。
高槻は、最後まで雪乃の身を案じていた。だからこそ、昨日の朝早くから電話で彼女の安否を確認してきたのだ。それは決して保身から来る気持ちではなく、ただ純粋に自分の担当するアイドルを守りたいという考えからだ。
仮に、あそこで雪乃が麻薬を使ったことがあると言っても、高槻は決して彼女を裏切るようなことはしなかったはずだ。罪は罪として清算させながらも、同時に彼女の社会復帰を最後まで信じて応援してくれる。高槻とは、そういう人間である。
相手を信じていなかったのは、高槻ではなく雪乃自身。それがわかったとき、雪乃は恥ずかしいと思うと同時に、改めて目の前にいる男の大きさを感じていた。
高槻であれば、信じてくれる。例え雪乃の口から出た言葉が荒唐無稽なオカルト話であったとしても、最後まで何も言わずに聞いてくれる。
一度そう思ってしまえると、後は簡単だった。雪乃はベッドの上で体を起こしたまま、今までに自分の身に起きたことについて、少しずつ高槻に語り始めた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
誰もいないホテルの廊下を、麻宮星梨香は独り歩いていた。彼女のいるのは、先ほどT‐Driveの面々が会議をしていた部屋のある階ではない。普通の宿泊客が泊まる、多くの客室を抱えた階だった。
廊下に響く自分の足音を横耳に、星梨香は一番奥にある部屋の扉の前で足を止めた。手にしたカードキーでロックを解除して、重たい金属性の扉に力を込めて押す。
「ただいま。戻ったわよ、黒部さん」
扉の向こう側で待っていたのは、他でもない黒部だった。以前、彼女がアイドルとして活動していた頃に、プロデューサーとして関わったことのある男。そして、その関係は星梨香が候補生に落ちた今も続いている。
「やあ、星梨香。どうやら下で、何かゴタゴタがあったようだね」
「別に大したことじゃないわ。T‐Driveの一人がトイレで倒れたって話だったけど……まあ、興味はないわね」
「相変わらず、他のアイドルには手厳しいな。俺が言うのもなんだが、あいつらだって同じ事務所に所属している人間だぞ?」
「そんなの関係ないわよ。私は自分がトップに立てればそれでいいの。それ以外のことに、関心はないもの」
大袈裟に髪をかき上げる仕草をして、星梨香は部屋にあるソファーに腰を下ろした。傍から見れば高慢そのものだったが、黒部は何ら気にしていない様子だった。
「それより星梨香。来年には君のソロデビューが決まったそうだが……担当の方は、どういう話になっているんだ?」
「そんなの決まっているじゃない。黒部さん以外の担当なんて、私はお断りよ。もしも社長が他の人を担当につけるようなら、直談判してやるつもりだし」
「なるほどな。でも、それを聞けて俺も嬉しいよ。今まで君に、色々と注ぎ込んできた甲斐があるってものさ」
「当然でしょ。私には黒部さんしかいない。それは昔から、今もずっと変わらないはずだもの」
そう言いながら、星梨香はそっと立ち上がって黒部の方に歩み寄った。そのまま体を斜めに倒し、覆い被さるようにして黒部に体重を預ける。黒部はそれを受け止めると、躊躇うことなく星梨香の腰に手を回して彼女を抱いた。
互いに見つめ合ったまま、二人は徐々に互いの顔を近づけてゆく。そのまま流れるようにして唇を重ねると、本能のままに相手を求めて舌を絡ませた。
アイドルと担当プロデューサーが、互いに仕事の関係以上の関係となる。それが何を意味するのか、星梨香や黒部が知らないはずもない。
だが、それでも二人は業界のモラルよりも、互いに男と女の関係になることを望んだ。特に星梨香に至っては、自分の隙間を埋めるようにして黒部を求めることが多かった。
長い長い口づけを交わした後、星梨香は甘くとろけるような瞳を黒部に向けた。普段の気丈な彼女からは想像もできない、妙に艶っぽい眼差しだった。
「ねえ、黒部さん……。今日は、黒部さんの部屋に泊まったら駄目かしら……?」
「残念だけど、それは難しいんじゃないか? 俺と君の関係は、社長だって知らないんだ。再デビューが決まった矢先にスキャンダルってのは、さすがにマズイと思うけど?」
「うふふ……。口ではそんなこと言いながら、本当は私と一緒にいたいと思っているくせに……」
「そうだな。ただ、やっぱり夜にこっそり会うのは何かと問題がある。だから……今、ここで君を抱いてしまおうか。幸い、社長も高槻のやつも、今は長谷川雪乃の看病で忙しい頃だろうしね」
「もう、ムードないんだから……。でも、そういうところも嫌いじゃないわよ、黒部さん」
はぁっ、という音と共に甘い息を吐き出しながら、星梨香は再び黒部の唇を求めた。口ではムードがないなどと言いながらも、一度相手を求めると、全てが終わるまで満足できなくなるのは星梨香も同じだ。
芸能会は、決して華やかな面だけを持つ世界ではない。むしろテレビの裏側では、様々な人間のどす黒い欲望が渦巻いている修羅場のような場所なのだ。
そんな業界の中において、たった一人で頑張り続けること。それができる者がいるのであれば、是非とも御目にかかりたいと星梨香は思った。
人は、その心のどこかで、自分を支えてくれる何かを欲しているものだ。時にそれは家族であり、仲間であり、恋人であり……そして、今の星梨香にとっては黒部だったというだけである。
自分はもっと輝きたい。容姿も歌唱力も、それにアイドルとしての素養も、自分がT‐Driveの面々に劣っている部分は一つもないはずだ。麻宮星梨香はこんな場所で、いつまでも燻っているアイドルではない。
T‐Driveの三人がデビューしてからというものの、星梨香は反対に苦汁を舐めさせられることの方が多かった。その鬱憤を晴らすためにも、今まで辛い稽古に耐え続けてもきた。それは一重に、黒部の支えがあったからこそだ。
汚い大人の事情が渦巻く芸能界において、迂闊に他人を信じることは危険である。それは、同じ事務所の人間を相手にしたとて変わらない。所属している事務所が同じでも、下手に相手に気を許すわけにはいかないのである。それが、麻宮星梨香がこの業界で学んだ処世術だった。
周りの誰も信じられず、孤独な戦いを続けるしかない世界。その孤独を埋めるために、星梨香は黒部のことを求めた。一人になってしまう恐怖と戦うためには、公私を越えて自分の心の隙間を埋めてくれる人間が欲しかった。
横長のソファーに倒れ込むようにして体を預け、黒部と星梨香は互いを求めて抱き合った。時刻はまだ夕方にもなっていなかったが、二人だけの空間において、そんなことは些細な問題にさえもならなかった。