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~ 四ノ刻   蠱毒 ~

 長谷川雪乃が毒虫の夢にうなされ始めたのは、T‐Driveが結成されてから間もなくのことだった。


 夢を見た当初、雪乃はそれを下らない悪夢の類だと思って気にはしなかった。確かに気持ちの悪い夢ではあったものの、多忙な日々に追われ、そんなことを気にかけている暇もなくなった。


 だが、そんな雪乃の日常は、先日のコンサート会場で起きた一件によって、脆くも崩れ去ってしまった。


 会場で歌っていた自分を襲った、謎の毒虫の群れ。他の人間には見えていないようだったが、あれは確かに夢で見た毒虫達だった。


 夢で見た物が、現実の世界に現れて自分を襲う。にわかには信じ難いことだったが、雪乃自身、この目で見た物を疑おうとは思えない。あの、虫に全身を這われたときの感触を思い出すと、それだけで体が震えてくる。


 全てを話し終えたとき、雪乃は小さく俯いていた。昨日のコンサートのことは、できればあまり思い出したくない。そんな感情が見て取れた。


「なるほどね。それで、ゆっきーは私に相談を持ちかけたってわけだ」


「うん……。こんな話を信じてくれる人、亜衣ちゃんしか思いつかなくって……」


「まあ、そうだろうね。夢の中の虫が現実世界に飛び出して来るなんて、それこそホラー映画の世界だし。でも、ここにいる二人に任せれば、もう安心だよ」


 雪乃の様子を気遣ってか、亜衣は少し軽い口調でそう言った。しかし、その一方で、紅も照瑠も難しい顔をしたまま表情を変えようとしない。こと、照瑠に至っては、いつになく真剣な態度で雪乃の話を聞いていた。


 心霊現象と悪夢。以前、その二つが絡んだ事件に関わってしまったことは、照瑠も記憶に新しい。


 今から一月ほど前、照瑠が巻き込まれることになった『魄繋ぎ事件』。その事件で知り合った少女、天倉癒月もまた、悪夢にうなされる日々を送っていた。


 癒月から悪夢のことについて相談を持ちかけられたとき、照瑠は彼女の話を親身になって聞いてやった。が、所詮はその程度のことしかできず、癒月のことを真の意味で救うことはできなかった。


 既に死んでしまった己の魂を現世に繋ぎ止めるため、他人の身体を移植することでしか生きることのできなかった癒月。その真実を知った時、彼女は自ら炎の中に消えるという道を選んだ。他人の命を奪ってまで生きるくらいであれば、帰るべき場所に帰ることを選択したのだ。


 あまりにも救いようのない、悲劇的な結末。その一件が、照瑠に巫女としての修業を行うことを決意させた。向こう側の世界・・・・・・・に関わることで不幸な末路を辿ってしまうような者を減らしたいと思うようになったのも、癒月の一件があってのことだ。


 長谷川雪乃の見ている悪夢の原因が、いったい何なのかは照瑠にもわからない。だが、それでも雪乃を助けたいという気持ちは紛れもない真実であり、そのために自分の力が役立つのであれば、照瑠はそれを出し惜しみするつもりはなかった。


「夢で見た虫が、本当に現実の世界に現れるなんて……。犬崎君は、どう思う?」


 先ほどからずっと黙りこくったままの紅に向かい、照瑠は何の気なしに聞いてみた。


 修業をして力をつけてはいるものの、心霊現象全般の知識において、照瑠はまだまだ疎い。雪乃を助けるためには、紅の意見を聞くことも必要になるだろう。そう思ってのことである。


「毒虫に全身を食われる夢か……。一応、心当たりはあるんだがな……」


 照瑠の問いに、紅は正面を向いたまま返事をした。相も変わらずぶっきらぼうな口調だが、今のそれには、どこか悶々とした気持ちが込められているようにも思える。答えは既にわかっているが、同時に何かに引っかかっている。そんな感じなのだ。


「心当たりって……やっぱり、何かの心霊現象なの?」


「ああ。俺達、向こう側の世界・・・・・・・に通じる人間にとっては、かなり有名な呪詛の一つがある」


 険しい表情を変えないまま、紅はずばりと言ってのける。普通であれば呪いや祟りの話など一笑に付す者が多いのだろうが、紅の全身から放たれている空気には、それをさせない何かがある。


「今回の件に絡んでいる呪術……。それは恐らく、≪蠱毒こどく≫と呼ばれているものだろう」


「こどく? 何なの、それは?」


「人間の歴史の中でも最も古い呪いの術……否、正確には、妖怪の類を生みだすための術と言った方がいいかもしれない」


「よ、妖怪って……。そんなもの、人の手で生み出すことができなんて初耳よ!?」


「話は最後まで聞け。妖怪と言っても、今回の相手は河童や一つ目小僧なんかの仲間じゃない。少しばかり、特殊な性質を持ったやつなんでな」


 照瑠の言葉を制し、紅は話を続ける。こういった類の話になると、いつもは無口な紅が途端に饒舌になる。いつもは何を考えているかわからない態度を取っているが、自分の土俵では、意外と博識な面をさらけ出すのかもしれない。


「そもそも、蠱毒は古代の中国で生み出されたとされる一種の呪術だ。その原点は、恐らく殷の時代にまで遡る」


「殷の時代……って、いつ頃のこと?」


「少なくとも、紀元前17世紀頃には存在していたらしい。歴史上、考古学的に実在が確認されている最古の王朝だ。世界史の教科書で、名前くらいは見たことがあるだろう?」


「まあ……確かに、それはそうだけど……。そんな古くから、呪いってあったんだ……」


 今から数千年も前の時代から、既に呪いの儀式は存在した。そんな驚愕の事実をあっさりと言ってのける紅に、照瑠は思わず言葉を失った。それは亜衣や雪乃も同様で、特に亜衣などは、完全に目を丸くして紅の話に聞き入っている。いつもであればメモの一つでも取り始めそうなところだが、今日に限ってはそれもない。


「蠱毒は、その殷の時代に確立された呪詛の一つだ。ムカデやサソリ、それに毒グモなんかを始め、ヒキガエルや毒ヘビなどの体内に毒素を持った生き物を一つの壷の中に集め、それを地面の下に埋めておくことで完成する」


「地面の下に? でも、それでどうやって人を呪うの?」


「地面の下に埋められた壷の中では、毒を持った生き物たちが飢えと渇きに苦しんで、最終的には互いに共食いを始める。その中で、最後まで食われずに生き残ったやつを取り出して、乾燥させてミイラにする。そうやって作られたのが、蠱毒と呼ばれる呪いの道具さ」


「うわぁ……。なんか、物凄く残酷で気持ち悪い方法ね……」


「確かにそうだな。だが、蠱毒の本当の恐ろしさは、こんなもんじゃない」


 紅の赤い瞳が、亜衣の隣にいる雪乃に向けられた。血のような色をした二つの目に睨まれて、雪乃は思わず身体を逸らして身構えた。


「そもそも蠱毒は、最初から他人を呪うために作られた術ではなかったんだ。互いに共食いをして最後まで生き残った毒虫の力を借りて、現世で利益を得ようとするためのものだった。それも、一生分の運を使っても得られないほどの富を、自分の側に舞い込ませるような強い利益だ」


「現世利益って……。そんなもので、本当に何か御利益があるの?」


「それは、蠱毒を作った者の力次第だ。素人が作っても大した効果はないが、プロの作った蠱毒はとんでもない力を持つ。だが……その代償として、蠱毒で富を得た者は、その魂を蠱毒に生贄として食われることになるんだ。その性質を応用して蠱毒を気に入らない相手に送りつければ……後は、お前達でもどうなるか想像がつくだろう」


 照瑠から亜衣、そして雪乃の順に目配せをしながら、紅はゆっくりと首を動かしてそう言った。


 彼の言わんとしていることは、照瑠達にも良くわかる。蠱毒を送られた相手は知らずの内に富を得ることができる代わりに、徐々にその命を削られてゆく。そして、最後は幸せの絶頂にありながら、最も悲惨で非業な死を遂げることになるのだろう。


 呪いたい相手を持ち上げるだけ持ち上げておいて、最後に地獄のどん底へ叩き落とす。人の心を弄ぶようなやり方に、照瑠は憤りを隠せない。仮に紅の言っていることが本当であれば、雪乃の命は今も削られ続けているということになるからだ。


 目の前の少女は、果たして本当に呪われているのか。今の照瑠には、見ただけでそれを判断するほどの力はない。


 だが、それでも照瑠は、雪乃を救うために自分の力が役立つのであれば、それを出し惜しみするつもりはなかった。救えるはずの者を救えないまま後悔する。そんな想いは、もうたくさんだ。


「ねえ、犬崎君。もし、長谷川さんが本当に呪われているって言うのなら……私達で、何とかしなくちゃいけないよね?」


「まあ、そういうことになるだろうな。もっとも、蠱毒を祓う場合は、そこにいる女にもそれなりの覚悟を決めてもらわなくてはならないがな」


 紅の血のように赤い瞳が、更に赤さを増したような気がした。人間離れした瞳で見据えられ、雪乃は思わず身体を仰け反らせるようにして反応する。紅のように愛想のない人間と話をすることは、正直なところ、雪乃は苦手だった。


「あの……。覚悟って、いったい何をすればいいんですか?」


 雪乃が恐る恐る紅に尋ねた。これから自分が何を言われるのか、それだけが不安で仕方がない。


「簡単な話だ。お前に、今のアイドルとしての名声を捨てる覚悟があるかどうか……。俺は、それを確認したい」


「名声を捨てるって……それ、どういう意味ですか!?」


「どういう意味もなにも、そのままの意味だ。蠱毒を祓う最も簡単な方法は、蠱毒の力によって得られた富や名声……その全てを、蠱毒と共に捨てればいい。お前がアイドルになってから貰ったもの……それこそ、ファンレターから事務所の支給品まで、怪しいものは一切合切破棄すればいい」


「そ、そんな……。ファンの人からの手紙や事務所の人から貰ったものまで捨てるなんて……私にはできません!!」


「だが、そうしなければ、お前は今に魂をあの虫に喰らい尽くされて死ぬぞ? 人間、一度手に入れた富や名声を捨てたくないと思うのが普通だが……そこに付け込んで破滅に導くのが蠱毒のやり口だ」


「だったら、お祓いか何かで消したりできないんですか? 妖怪の一種と言っても、呪いには違いないんでしょう?」


「まあ、できないことはない。ただし、それで蠱毒を祓ってしまえば、当然のことながら全ての呪力が消える。お前に今まで舞い込んできたアイドルとしての成功は、金輪際ばったりと途絶えるかもしれない。どちらにせよ、下積みからやり直すくらいの覚悟はしてもらわないとな」


 ばっさりと切り捨てるようにして、紅は何の容赦もせずにそう言った。


 アイドルにとって、今の栄光を捨てて下積み時代に戻ること。それは即ち、業界内での死を意味する。雪乃でなくとも、すぐに返事ができないのは当然だ。


 それ以上に、雪乃は紅から告げられた事実の方がショックだった。紅の話が本当ならば、今までの成功は全て呪いの副産物だったということになる。T‐Driveの成功も、雪乃の人気も、全ては実力に見合った物ではなかった。そう言われたに等しいのだ。


 自分に実力がないことくらい、雪乃もわかっていた。だが、それでも現実を認めたくないという自分がいるのも事実であり、それが彼女に決断することを躊躇わせた。


 呪いなど、この世にあるわけがない。そう思わねば、やっていられなかった。


 オカルト話に詳しい亜衣に頼っていながら、今さらになって信じたくないと言うことは、さすがに都合が良過ぎると思えてしまう。それでも、ここで現実を認めてしまえば、それは雪乃が今の生活を失うことを意味するのだ。


 自分はもっと歌いたい。自分は歌うことでしか、その存在を認められることなどない。その想いが、雪乃の心を頑なに縛りつけていた。


「私は……アイドルを辞めるつもりはありません。折角相談に乗っていただいて申し訳ないですけど……歌えなくなるくらいなら、死んだ方がマシです」


 力なく、憂いを込めたような表情で、雪乃は紅に向かって言った。こう言えば、紅もこれ以上は何も言わないだろう。そう思ってのことだったが、それが返って紅を怒らせることに繋がった。


「死んだ方がマシ、だと? お前……本気でそう思っているのか?」


 先ほどまでとは、明らかに纏っている空気が違った。いつもは感情を露わにすることのない紅が、珍しく怒っている。激しく怒鳴りつけるようなことはないにしろ、彼が雪乃の言葉に憤りを感じているのは紛れもない事実だ。


「死ぬ覚悟があるなら、お前はどうして生きる覚悟を決めないんだ? 偽りの地位にしがみついて、得体の知れない虫に苦しめられて……そんな状態でアイドルを続けて、お前は本当に満足なのか?」


「それは……確かに、あの夢を見なくなるなら、それに越したことはないですけど……」


「だったら話は早い。お前の中に巣食っている蠱毒……そいつを俺が祓えば全ては終わる」


 雪乃の返事を待たず、紅は一方的に言い放った。仕事に対して報酬の有無を気にする紅にしては、いつになくやる気になっているのが珍しい。


「長谷川と言ったな? 死ぬなんて言葉は、そう簡単に口にしていいほど軽いものじゃない。お前がどう思っているかは知らないが……死という言葉を口にするならば、それに見合った覚悟を見せてみろ。それもできないなら、無暗に死ぬなんて言葉を使うべきではないな」


 最後の方は、紅は普段の口調に戻っていた。そんな紅の横で、照瑠は珍しく昂奮している彼の様子に自分の中で抱いていた印象が変わってゆくのを感じていた。


 ぶっきらぼうで口が悪く、おまけに無愛想で金に意地汚い。今までの紅の態度からして、彼にはそんな印象しか持ってはいなかった。


 だが、今日の件ではっきりとわかった。紅は、単に不器用なだけだ。死者を相手にするような仕事を生業にしているからこそ、人の死に対してことさら敏感になる。そんな彼の言葉から、照瑠は紅の中に少しだけ優しい部分があるのではないかと思い始めていた。


「それじゃあ、とにかくその蠱毒ってやつをさっさと退治しましょう。長谷川さんには悪いけど……やっぱり私も、死ぬとわかっている人を放っておくのは気が引けるもの」


「私も賛成だよ! 呪われている可能性のある友達を放っておくなんて、やっぱりなんか気分が悪いしね。ゆっきーだって、本気で死にたいなんて思ったわけじゃないよね?」


「亜衣ちゃん……」


「そう、心配しなくても大丈夫だって。なにしろこっちには、神の右手を持つ照瑠様と、悪霊退治の専門家までいるんだからね!!」


 そう言いながら、亜衣はにやりと笑って紅と照瑠に大きなVサインを送った。いつもであれば調子に乗るなと言わんばかりに紅が頭を叩いているところだが、今日に限っては彼も軽く苦笑するだけに留まっていた。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 雪乃の家は、火乃澤駅からバスで三十分ほど走ったところにあった。


停留所まではものの五分程度であり、交通の便はそれなりによい。閑静な田舎町の一軒家にしては、モダンな作りになっている部分も多かった。


「ここがゆっきーの家か……。なんか、昔とあまり変わらないね」


「うん。私が東京に出てからも、お父さんとお母さんはこっちで暮らしていたからね。亜衣ちゃんと一緒に中学に通っていた時から、何も変わっていないはずだよ」


 玄関の鍵を開けながら雪乃が言った。こうして見ると、雪乃がT‐Driveの一員であることなど忘れてしまいそうになる。普通に話している分には、どこにでもいそうな年相応の一人の少女だ。


「ねえ、亜衣。ところで……さっきから気になってたんだけど……」


 玄関の扉が開くと同時に、照瑠が亜衣に尋ねた。


「この家、本当に長谷川さんの実家なの?」


「えっ!? そんなの決まってるじゃん。ここはゆっきーの家で間違いないよ」


「でも、表札には≪蓮薙≫って書いてあるわよ」


「ああ、それね。ゆっきーの長谷川雪乃って名前だけど、あれは芸名なんだよね。本名は蓮薙有希はすなぎゆきって言うんだけど、東北生まれだから、有希と雪をかけて雪乃って名前にしたみたい。ついでに名字も変えて、名前からはすぐに本人と分からないようにしたんだよ」


「なるほど。まあ、芸能人にはよくあることね」


 表札の謎が解けたことで、照瑠は特に気にせずそう言った。


 芸能界で活動するために、芸能人が芸名を使う。そんなことは、別に珍しいことではない。


 だが、こうなってくると、雪乃のことを何と呼べば良いのかが問題だ。昔からのあだ名で呼んでいる亜衣は別として、照瑠は彼女と初対面。芸名で呼ぶべきが、それとも本名で呼ぶべきか。雪乃が望むのは、果たしてどちらなのだろう。


「えっと……。家に上がらせてもらう前に、ちょっと聞いていいかしら?」


「はい。なんでしょう?」


「あなたの名前、どっちで呼べばいいの? 普段は芸名で呼ばれているだろうけれど……やっぱり、本当の名前で呼んだ方がいい?」


「別に、気にしなくて構いませんよ。雪乃の方が、周りからは呼ばれ慣れていますし」


「それじゃあ、私もそっちで呼ばせてもらうわ。後、その他人行儀な敬語は止めましょう。あなたが亜衣の友達なら、私もあなたの友達よ。友達に敬語使うなんて、おかしいじゃない」


「そうね……。だったら、私も照瑠ちゃんって呼ばせてもらうけど……いいかな?」


「ええ。改めて、よろしくね」


 雪乃の言葉に、照瑠は笑顔で返事をした。それを聞いて、雪乃の身体からも幾分か緊張が解けたようだった。


 アイドルと言っても、やはり同じ人間だ。そんなことを実感しつつ、照瑠は雪乃に促されて彼女の家の玄関をくぐる。


 家の中はこれまた普通の一般家庭な空気が漂っており、特に芸能人の家を意識したようなものは何もない。もっとも、ここはあくまで雪乃の実家であり、彼女が普段暮らしている東京のマンションは話が別なのかもしれない。


 案内されるままに二階へ続く階段を上がると、そこには扉が二つあった。片方は雪乃の部屋で、もう片方が父親の書斎とのことである。


 扉の向こう側にあった雪乃の部屋は、これまた普通の女の子の部屋だった。ベッドと洋服箪笥がある以外は、これといって珍しいものがあるわけでもない。使われなくなって久しいのか、家具の類は最小限のものしか置かれていなかった。


「なんだか、何もない部屋でごめんね。とりあえず、その辺に適当に座って」


 カーペットの上に転がるクッションを照瑠達に渡し、雪乃は自分のベッドに腰掛けて言った。照瑠も亜衣も渡されたクッションを下に置いて座ったが、紅だけは愛想の無い表情のままタンスに寄りかかっていた。


「で、犬崎君。ゆっきーの家に来たはいいけど、これからどうするの?」


「そうだな……。とりあえず、お前達は家の中に妙なものがないかどうか探してくれ。夢に出て来た毒虫がサソリのような姿をしていたことを考えると、恐らくは蠱毒の本体も同じ姿をしているはずだ」


「うえぇ……。あんまり気持ちのいい探しものじゃないですなぁ……」


「文句を言うな。だが、ここはあくまで実家だからな。本体が送られて来た場所が東京のマンションだった場合、徒労に終わる可能性もある」


「だったらどうするのさ? まさか、これからゆっきーと一緒に東京まで行くなんてことにならないよね?」


「それは心配ない。どうしても見つからない場合は、夜になったら強硬手段に出るつもりだ」


 箪笥に寄りかかって腕組みをしたまま、紅はそれだけ言って口を閉じた。その目は既に亜衣を見ておらず、部屋の隅の方を睨みつけるようにしている。


 こうなってしまうと、もう紅に何を聞いても無駄である。仕方なく、照瑠も亜衣も雪乃と一緒に家の中を捜索することにした。蠱毒が誰かから雪乃に送られてきたものであれば、贈答品の類を中心に探しまわればよい話だ。


 かくして、照瑠達による長谷川家もとい蓮薙家の家宅捜索が始まった。何も見つからない可能性もあるにしろ、それでもできればここで蠱毒の本体を見つけてしまいたい。そんな焦りからか、三人の少女達は忙しなく家の中を探しまわった。


 雪乃の実家に送られてきた、地元のファンからの贈り物。父親や母親がもらったお歳暮の中身なども、念のため調べてみる。また、家のどこかに隠されている可能性も考えて、亜衣などはついに軒下に頭を突っ込んでまでサソリのミイラを探そうとした。


 一時間、二時間と、時間だけが過ぎて行く。それに比例して家の中が汚く散らかって行くが、お目当てのものは見つからない。両親が仕事で出かけているのが救いだが、それでも時間は無尽蔵にあるわけではない。


 とうとう目ぼしい場所は全て探しつくしたのか、照瑠は衣類や箱の散らばったリビングで膝をついた。


「ふぅ……。見つからないわね、虫の本体……」


「そうだね。照瑠ちゃんには悪いけど……やっぱり、東京で私が暮らしているマンションの方にあるのかも。あそこには、まだ人から貰ったものがたくさんあるし……」


「それじゃあ、後は犬崎君の言っていた強硬手段に頼るしかないってことか……。これだけ散らかして収穫なしって言うのも、なんだかなぁ……」


 部屋の中を改めて見回し、照瑠が大きな溜息をつく。散らかしたからには片付けねばならず、これからの作業のことを考えると頭が痛い。


「仕方ない。こうなったら、少し早目の大掃除をするつもりで片づけましょう。雪乃の家には、ちょっと悪いことしちゃったけどね」


「そ、そんなことないよ。照瑠ちゃんこそ、今日会ったばっかりの私にこんなに付き合ってくれて……。私は、話を信じてくれただけでも十分だったのに……」


「はいはい、そこまで。変な気づかいは無しって、さっきも言ったばっかりでしょう?」


 手を叩きながら立ち上がり、照瑠は雪乃に向かって言った。服の袖をまくって気合を入れ直すと、部屋中に散らばった衣類を拾い集めて腕にかけて行く。


「ねえ、そう言えば……犬崎君と亜衣のこと見なかった?」


「えっ、亜衣ちゃん? そうだなぁ……。さっきまで、その辺で一緒に探していたんだけど……」


「まったくもう! こういう肝心な時に限って、二人とも役に立たないのよね」


 嶋本亜衣がどんな性格をしているのか、照瑠とて知らないわけではない。亜衣は散らかすのは得意だが、片付けるのは大の苦手だ。他人の家を散らかすだけ散らかして、いざ片付ける際に雲隠れしてしまうのが亜衣らしい。


 こうなれば、雪乃と二人で片づけるしかないか。そう、照瑠が諦めかけたときだった。


「ねえねえ、照瑠! 虫のミイラ、見つかった?」


「あっ、亜衣! あなた、今までどこ行ってたのよ!!」


「どこって……私は私で、ちゃんと虫を探してたよ。縁側の下に潜ったり、雨どいが入ってる戸袋の中覗いたり……後は、ゆっきーの部屋の天袋から天井裏に上がって調べたりね」


「縁側の下って……あなた、よくそんなところに潜れるわね。それに、天井裏なんかに入って、ねずみと鉢合せでもしたらどうするつもり!?」


「別に平気だよ。私、小さい頃から、家の中でよくかくれんぼしてたから」


 そういう問題ではないだろう。そんな言葉が喉から出かかったが、照瑠はあえて突っ込まずに亜衣に片付けを手伝うよう言った。ここで彼女に説教したところで、亜衣の常識が一般人のそれと違うのは今に始まったことではない。


 その後、部屋中に散らばった服と箱を、照瑠達は頑張って元の場所に全て戻した。気づけば時刻は夕方になっていたが、その間、犬崎紅はまったく姿を見せなかった。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 その日は結局、雪乃の家の片づけをするような形で夜を迎えてしまった。


 全てのものが元通りの場所に収まった雪乃の部屋で、照瑠達は改めて悪夢の元凶に立ち向かう術を考えていた。


 紅の言うことには、あの毒虫達を祓うには、雪乃が眠りについている必要があるらしい。敵の現れる場所が夢の中だけに、雪乃が眠っていなければ、こちら側からも手が出せないとのことだ。


 正直な話、照瑠は雪乃の家に泊まることまでは考えていなかった。彼女の頼みを聞く形で相談に乗ったとはいえ、やはりいきなり人の家に宿泊したいと願い出るのは申し訳ない。そういった類のことを気にしないのは、紅くらいのものだろう。


 その紅だが、今は照瑠達の前から席を外していた。なんでも、女の寝る部屋に一緒に泊まるようなことはしたくないとのことで、今は空っぽになっている雪乃の家の物置小屋に潜んでいる。


 冬場の寝床として暖房の効いた図書室を選ぶ程に自己中心的な態度を取るかと思えば、人として最低限の礼儀を弁えているかのような行動にも出る。まったくもって、あの犬崎紅とは不思議な人間だと照瑠は思った。


 もっとも、女三人に遠慮して逃げ込んだ先が物置小屋の中というのは、どうにも発想がいただけない。


 年頃の少女の家に男が泊まることで、両親にあらぬ誤解を抱かせたくないとでも思ったのだろう。が、物置小屋の戸を開けたときに紅と誰かが鉢合せたらどうするつもりなのか。暗闇の中、あの赤い瞳で睨まれたら、何も知らない者は腰を抜かして逃げ出すかもしれない。それこそ、新手の妖怪と間違われても不思議ではない。


「なんか……本当に色々と申し訳ないわね。相談に乗るはずだったのが、家中ひっくり返したあげくに一泊させてもらうことになっちゃって……」


「別に構わないわよ。私、あのクリスマスのコンサートで失敗してから、T‐Driveの仲間ともすれ違っちゃったし……。それに、たまには普通の女の子に戻って、こうやってお話するのもいいかなって思ったりして」


「それならいいけど……。でも、残念だけど、今日は早めに寝ないと駄目そうね。犬崎君の話では、夢の中で虫を退治するとかいうことらしいし」


 紅に言われた話を思い出し、照瑠は天井から吊り下がっている蛍光灯に視線を移した。


 紅の話では、そもそも夢というものは、古代中国においては蠱毒の見せる幻として考えられていたらしい。夢という漢字も、蠱毒を使う巫女の姿を模ったものだとか。


 この話が真実なのであれば、雪乃が夢の中で襲われたという話も納得できる。蠱毒は夢の中で相手に恐ろしい幻を見せ、そうやって精神の均衡を欠いた人間の魂を喰らうのだ。


 初めは小さな恐怖から与え、徐々にその恐怖を強くし、最後は現実世界でも幻を見せて人の精神を蝕んで行く。その作り方からしておぞましさを感じた蠱毒という呪法だったが、新しい話を聞く度に胸が悪くなる。それほどまでに、蠱毒を使った呪詛は陰険で悪質なものだと照瑠は感じていた。


 向こう側の世界・・・・・・・に関わってから、照瑠も様々な怪奇現象に遭遇して来た。その際、多くの人間が闇に呑まれ、中には命を落としてしまった者もいる。禁忌に触れたが故に自ら破滅の道を歩んだ者もいたが、呪詛によって運命を狂わされた者も多かった。


 自ら神の怒りに触れ、その結果身の破滅を招いた者は仕方がない。可哀想だが、それは自業自得というものだ


 しかし、呪いは違う。呪いは人が人に仕掛ける、いわば霊的な罠である。自分勝手な理由から他人の人生を狂わせるようなやり方は、決して許されることではない。それは刃物を持って人を殺傷することと、根本的な部分で何ら変わりはないからだ。


 長谷川雪乃に蠱毒を仕掛けた人物。それが誰なのかはわからないが、照瑠は雪乃にこれ以上怖い思いをさせたいとは思わなかった。呪いなどという陰険で卑怯なやり口で、何の罪もない人間が闇に墜ちる。それを救ってやりたかった。


「それじゃあ、ちょっと早いけど、そろそろ寝ましょうか? あまり遅くまで起きていると、逆に昂奮して眠れなくなるからね」


「そうね……。本当は、もう少しだけお話していたかったけど、仕方ないかな」


 照瑠の言葉を聞いた雪乃が、名残惜しそうにして布団を被った。照瑠も電灯を消し、部屋に敷いてもらった布団に潜りこむ。


 灯りを消してからもしばらくは、照瑠は目を覚ましたまま雪乃の様子を見張っていた。元より、雪乃が寝たら紅を呼んで来ることになっている。こちらが先に寝てしまっては、何のために家にまで泊めてもらったのかわからない。


 もしかすると、他人が一緒の部屋では雪乃が眠り難いのではないか。そんな心配もしてみたが、程なくして、ベッドの方から雪乃の軽い寝息が聞こえて来た。虫の悪夢を見ることを怖がっていた雪乃だったが、理解を示してくれた人間が一緒の部屋で寝てくれたことで、安心して眠ることができたのかもしれない。


(さてと……。雪乃も寝たみたいだし、犬崎君を呼ばないとね……)


 寝ている雪乃を起こさないように気をつけつつ、照瑠は枕元に置いてある携帯電話に手を伸ばした。雪乃が寝たら、これで紅を呼ぶことになっているのだ。


 電話をかけながら横を見ると、そこでは亜衣が豪快に口を開け広げて眠っていた。厚顔無恥というか何というか、ここ一番のところで亜衣は役に立たない。


(まあ、それでも亜衣には霊的な存在と通じる力なんてないからね。大人しく寝ててくれた方が、騒ぎにならなくて返って好都合かも……)


 電話の呼び出し音を聞きながら、照瑠は友人の寝顔を横目にそんなことを考えた。


 暗い部屋の中、携帯電話の呼び出し音だけが照瑠の耳に響く。先ほどからずっと電話を鳴らしているはずなのに、紅はまったく出てくれない。携帯で呼べと言ったのは紅の方だというのに、これでは連絡の取りようがない。


 だが、しばらくすると、何やらガラスを叩くような音が部屋に響いた。


 音に導かれるようにして、照瑠はガラス窓の方を見る。ベランダに通じるその窓を見た瞬間、照瑠は思わず肩を震わせて後ろに下がった。


 暗闇の中、窓の向こうから照瑠を捕える赤い瞳。それが紅のものだとわかったのは、目が合ってから数秒後のことだった。


「ちょっと、犬崎君。あんまり脅かさないでよ……」


「仕方ないだろう。こっちはさっきまで物置小屋に隠れていたんだ。こんな時間に正面玄関から入ったら、そっちの方が怪しまれる」


 ベランダから部屋に通じる窓を開けながら、紅は平然とした顔でそう言った。泥棒のような入り方をしている時点で、傍から見ればどちらの方法で家に入ろうとも不審者である。


 それにしても、もう少しマシな登場の仕方はなかったものか。


 紅の行動に半ば呆れながらも、照瑠はそっと雪乃の横に立った。途中、亜衣の頭を蹴り飛ばしそうになったが、結果として蹴らなかったのだから問題ない。


「で、これからどうするわけ? まさか、犬崎君が直接この娘の夢の中に入って戦う、とか言うんじゃないでしょうね?」


「心配するな。さすがに、そんな芸当は俺にもできない。だが、それに近いことはするつもりだ」


 そう言うが早いか、月明かりに照らしだされた紅の影が細長く伸びた。初めは人の形をしていたそれは、徐々に四足の獣の形を取り始める。床から剥がれるようにして起き上がったその影は、照瑠の前で一匹の巨大な犬の姿に形を変えた。


「行け、黒影こくえい……」


 自らの使役する犬神の名を呼び、紅は雪乃を指差した。その動きに呼応するかのようにして、黒影は流動的な影のような塊へと姿を変えて行く。


 粘性の高そうなどろどろとした塊になったところで、黒影は一気に部屋の天井まで伸び上がった。金色の目玉だけを残し、後は元の形さえもわからないほどに細長く伸びきった姿。それはさながら、意思を持った黒い水のようだ。


 その体を不定形なものに変化させたまま、黒影は眠っている雪乃の鼻と口から彼女の中へと入り込んで行った。


「これでいい。後はこれで、蠱毒が誘いに乗ってくれば全ては終わる」


 雪乃の中に黒影が完全に入り込んだことを確認し、紅はそう呟いた。一方の雪乃は、体の中に入られたというのに何事もなかったかのようにして眠っている。そのまま五分、十分と経っても、眠っている雪乃に変化は見られなかった。


「ねえ、犬崎君。こんなことで、本当に蠱毒ってやつを追い払えるの?」


「問題はない。蠱毒は一度獲物を定めたら、その獲物が他の相手に奪われるのを極度に嫌うからな。自分が生贄として狙った相手の中に別の霊体が入り込んだならば、必ず攻撃しに現れる」


 訝しげな表情の照瑠に向かい、紅は淡々とした口調で語っていた。これから雪乃に憑いている相手を祓うにしては、やけに落ち着き払った態度だった。


 それから更に、十分ほど経ったときだっただろうか。


 今まで静かに眠っていたはずの雪乃に、突如として変化が現れた。眉間にしわを寄せて顔をしかめ、その額には無数の脂汗が湧き出ている。口元を歪め、歯を食いしばるような表情になって、布団の端を握り締めたまま苦しみだした。


「け、犬崎君! 雪乃が……!!」


「慌てるな、九条。ここまでのことは想定内だ。黒影が蠱毒を中から引きずり出すまで、俺達には直接戦うための術がない」


「で、でも……。こんなに苦しそうにしてるのに、放っておくなんて……」


「それは仕方ないだろう。多少の荒療治だということは、俺だってわかっている」


「だったら、どうしてそんな平然とした顔をしていられるのよ! 雪乃が苦しむことをわかって、こんな方法を選んだなんて……いくらなんでも信じられない!!」


 深夜、既に家の者が寝静まっている自分でもあるだろうに、照瑠はお構いなしに紅に怒鳴った。


 蠱毒をおびき出し、夢の中から現実の世界に引きずり出す。その方法を提案したのは、他でもない犬崎紅だ。それならば、紅はその際に雪乃が苦しむことになることも、当然のことながら知っていたことになる。


 それにも関わらず、紅は雪乃の苦痛を和らげるための策を何も考えていなかった。治療に痛みは付き物と言わんばかりに、ただ雪乃の苦しむ姿を眺めているだけである。


 もう、これ以上は見ていられない。そう思ったが早いか、照瑠は布団をまくりあげて雪乃の手を取った。


「おい、何をする気だ、九条!!」


 後ろで紅が叫んだが、照瑠はそれを無視した。紅の言葉など、今の照瑠には耳に入らない。目の前で雪乃が苦しんでいるというのに、何もしないでいることなどできはしない。


 雪乃の左手を包み込むようにして握り、照瑠はそこに意識を集中させた。


 九条神社の巫女は、古くからこの火乃澤の土地に伝わる癒し手でもある。修業はまだ途中だったものの、今の自分であれば、雪乃の痛みや苦しみを和らげることぐらいはできるはずだ。


 息を深く吸い込み、それを吐き出すと同時に、照瑠は自分の中にある癒しの力を雪乃に注ぎ込む。父の話では一方的に力を送り込むことしかできないとのことだったが、今の状況ではそれで十分だ。


 神木の枝に触れていたときのことを思い出しながら、照瑠は懸命に雪乃の手を握って意識を集中した。自分はこんなときのために、父に修業を申し出たのだ。ならば、今この場で雪乃を助けなければ、何のために修業をしてきたのかわからなくなる。


 自分の身体の中を流れる何かが、両手を通して雪乃に流れ込んで行くのが感じられた。未だ力の加減を制御することはできないが、照瑠にもその程度は感じることができる。


 このまま行けば、雪乃も落ち着いてくるのではないか。そう思った照瑠だったが、果たして雪乃はベッドの上で苦しむことを止めなかった。あれだけ強く念じて力を送り込んだというのに、照瑠が手を握る前と後で、何の変化もない。


「ど、どうして……!? 私はちゃんと、力を送ったはずなのに……。お父さんに言われた通り……修業した通りにやったはずなのに……」


 自分の力が及ばない。そんな現実を目の当たりにして、照瑠の顔に焦りの色が浮かび始める。目の前では雪乃が一層苦しみながら息を荒げ、既に全身が汗で濡れていた。 


 力の制御を完全にできるようになったわけではない。そうわかっていても、こんなことは初めてだった。今までも、亜衣の腹痛や頭痛を治す程度のことは普通にできていたし、初めて紅に会った際、負傷した彼のことを無意識のうちに癒してもいた。


 ところが、そんな照瑠の癒しの力を、雪乃はまったく受け付けなかった。助けを求めながらも、まるで照瑠の力を拒絶するかのようにして、彼女の送り込んだ陽の気の力ががまるで効いていないのだ。


 やはり、自分では駄目なのか。修業も途中な身では、目の前で苦しむ少女一人さえ救うことができないのか。そんな諦めにも似た感情が、照瑠の中に浮かんだときだった。


「少しいいか、九条?」


 後ろから、紅が照瑠の名を呼んだ。いつもの冷たい感じとは違い、どこか柔らかい口調だった。


 未だ雪乃の手を握ったままの照瑠の頭を、紅は後ろから片腕で目隠しをするように覆った。調度、左手で頭を抱えるようにして、紅は照瑠を自分の胸に引き寄せる。


「ちょ、ちょっと! 犬崎君!?」


「いいから大人しくしていろ。お前は長谷川雪乃を、この苦しみから解放したいんだろう?」


 いきなり後ろから頭を抱かれ、動揺する照瑠。だが、紅はそんな照瑠に構うことなく、空いている方の右手を照瑠の手に重ねる。


「良く聞け、九条。今から俺が、この女の中にある霊脈れいみゃくをお前に伝える。お前はそこに、自分の力を送るイメージだけを考えろ」


「霊脈を伝えるって……なんなのよ、それ?」


「詳しい話は後だ。今は余計なことを考えず、余計な物も見ないで、とにかく意識だけを集中しろ」


「わ、わかったわよ……」


 後ろから頭を抱かれ、その上で手まで重ねられる。相手を意識するなという方が無理な格好だったが、それでも照瑠はなんとか雪乃の身体に力を送ることに集中した。


 再び息を吸い込んで、それを吐きながら自分の中にある力を雪乃に注ぐ。今度は先ほどとは違い、照瑠の頭にも奇妙なイメージが浮かび上がってきた。


 それは、言うなれば霧の中を漂っているような感じだった。重力さえまったく感じない不思議な空間の中に、ミルク色の霧が立ち込めている。霧は奥から次々と湧き出しており、その流れは実に様々なものがあった。


 前後左右、実に自由気ままに流れる霧の中から、照瑠は一際強い流れを持った霧を見つけた。そのまま何かに導かれるようにして、照瑠は霧の流れてくる方へと向かって行く。


 不思議な霧と共に、なんとも言えぬ奇妙な空間を浮遊する。そんな時間がしばらく続くと、やがて照瑠の目の前に光の球のようなものが姿を現した。


 全ての音が静止した空間の中で、その球体はまるで心臓が脈打つかのようにして膨らんだり縮んだりを繰り返している。霧はその球から出ていたようで、球が縮むたびに、その全身からガスのようにして溢れ出していた。


 目の前で鼓動を刻む不思議な球に、照瑠はそっと手を触れた。思った通り、その球は微かに温かく、手で触れると柔らかい感触がした。


 両手を球に押し付けたまま、照瑠はそれに自分の力を注ぎ込む。今度は押し返されるような感じもなく、力は実に素直に球体へと吸収されてゆく。そして、照瑠の力を受け入れた球体は大きく膨張すると、先ほどよりも強く脈打ちながら輝き出した。


「な、なんなの、これ……」


 球が放つあまりの眩さに、照瑠は思わず目を閉じた。すると、急に身体が重たくなり、一度に意識が現実へと引き戻された。


「あ、あれ……?」


 気がつくと、そこは雪乃の部屋だった。


 紅は既に照瑠から離れ、部屋の隅にある箪笥に寄りかかっていた。その横では亜衣が口を開けて爆睡しており、だらしなく涎を垂らしている。


「気が済んだか、九条?」


 箪笥を背に腕組みをしたまま紅が言った。


「け、犬崎君……。今のは……」


「ああ、あれか。お前が力を無駄に浪費しているようだったんでな。少し、相手の中にある霊脈を見せてやっただけだ」


「れ、霊脈って……。なんなのよ、それ?」


「癒し手なのに、そんなことも知らないのか? 霊脈ってやつは、言わば人の魂の中にある気の流れそのもので、これを断たれると生気が極端に減退する。場合によっては植物状態になることもあるからな。ここを攻撃されることは、極めて危険だ」


「しょ、植物状態!?」


「ああ、そうだ。悪霊の類が霊的な攻撃で人間を殺す場合は、大概は霊脈にある核の部分を断つ。全身に気を送っている、魂の中枢とも呼べる場所だ」


「そ、そうなんだ……。それじゃあ、私がさっき見た白い霧や光の球は……」


「恐らくは、それがお前の見た霊脈のイメージだ。霊脈がその目にどう映るかは人によって異なるが……少なくとも、お前にはそう見えたみたいだな」


 淡々とした口調で説明する紅の言葉を聞いているうちに、照瑠も徐々に落ち着いてきた。


 紅が照瑠の目を隠し、その手を重ねて来た理由。それは、照瑠に雪乃の霊脈を見せるためだったに違いない。雪乃の霊脈を感じ取らせ、その核に直接力を注ぎ込ませることで、雪乃を癒す手助けをしてくれたのだろう。


 しかし、それにしても、雪乃はどうして照瑠の力を受け付けなかったのだろう。そんな疑問が新たに浮かんできたが、それを照瑠が尋ねる前に、紅の表情が再び険しいものに変化した。


「少し離れていろ、九条。どうやら黒影が、やつの本体を捕まえたぞ……」


 雪乃の側に座っている照瑠を退かし、紅は胸の前で静かに印を組む。照瑠の力が効いたのか、雪乃は既に安らかな表情を浮かべて眠っている。


 次の瞬間、心地よい寝息を立てて眠る雪乃の身体から、影のような物が現れて大きく伸び上がった。それは一気に天井まで届き、徐々に脇から触手のようなものを伸ばしだす。最後には雪乃の身体から完全に離れ、それは一匹の巨大なサソリを模した影へと変化した。


「な、なにあれ! あれが……犬崎君の言っていた、蠱毒ってやつなの……?」


「そういうことだ。だが安心しろ。夢の中から引きずり出した以上、もう奴の好きにはさせん」


 天井を這う影を見て、紅がにやりと笑った。影はそのまま窓から外へ逃げようとしたが、雪乃の身体から飛び出した黒い塊がそれを許さなかった。


「そいつを逃がすな、黒影!!」


 紅の言葉と共に、黒い塊は瞬く間に黄金の瞳を持った犬の姿に変化する。戦うための姿へと変化した黒影は、逃げ出そうとする毒虫の影に容赦なく牙を突き立てた。



――――キィィィィッ!!



 ガラスを引っ掻いたような音が響き、虫の影が天井から剥がれるようにして仰け反った。剥がれた瞬間は薄っぺらい形をしていたそれは、床に落ちるなり風船のように膨らんで行く。六本の脚と二つのハサミを持ったそれは、最後はまだら模様の巨大なサソリとなって照瑠と紅の前に姿を現した。


「ちょっと! なんなの、あの気持ち悪いの!!」


 珍しく小さな悲鳴を上げながら、照瑠は紅の腕に飛び付いた。普段ならそんなことはしない照瑠だが、目の前に現れた相手のあまりの気味悪さに、思わず体の方が先に動いてしまっていた。


「あれが、長谷川雪乃の命を啜っていた蠱毒だ……。もっとも、見た目が薄気味悪いだけで、こちら側の世界では大した力も使えないがな」


 照瑠に腕をつかまれたまま、紅は毒虫を睨みつけながら言った。だが、それでも照瑠は紅の腕をつかんだまま、ともすればその後ろに隠れるような姿勢になる。


 紅の言葉を信じるならば、今の相手はさして危険な存在ではないのだろう。しかし、それでも姿形が気味悪いのは明らかで、あんな物を暗闇の中で直視できるほど照瑠の神経はタフではない。


 薄暗い部屋の中、赤い体に黄緑色の斑模様を持った巨大なサソリ。その両手にあるハサミをガチガチと鳴らして威嚇しながら、口からはどろりとした粘液のようなものを滴らせている。でっぷりと太った腹は途中から大きく反るようにして曲がり、その先端についた毒針からも、紫色の毒液のような物が滲みだしていた。


「さっさと片付けろ、黒影。こいつの放つ霊気は、正直なところ臭くて敵わん」


 目の前で醜悪な姿を晒している毒虫を横目に、紅は黒影に指示を出した。黒影の口の中から青白い炎が噴き出し、それは怒涛のような奔流となって虫に降り注ぐ。


 あらゆる魔を滅する破魔の炎。暗闇を青白い閃光が走り、それは一瞬にして毒虫を包み込む。炎に飲み込まれた毒虫は抵抗することさえもできず、そのまま全身を焼き尽くされて消滅した。


「さて……。どうやら仕事は終わったようだな」


 炎が消え去ったとき、そこには何も存在していなかった。かなり激しい炎だったのだが、天井はおろか床も壁も焦がしてはいない。黒影の吐く炎は、霊的な存在以外には効果がないようだった。


「ねえ。犬崎君……」


 全てが終わったことを悟り、照瑠が遠慮がちに紅に尋ねた。雪乃が苦しんでいたときに見せた強気な態度は、今は完全になりを潜めている。


「なんだ、九条。お前も見た通り、蠱毒は黒影が完全に滅したぞ」


「うん、それはわかってる。だけど……どうして私の力、雪乃に効かなかったのかな……」


「そんなことか。それならば簡単な話だ。この女……長谷川雪乃は、耐霊体質の持ち主だからな」


 耐霊体質。照瑠が聞いたこともない言葉を、紅はさも当たり前のように口にした。もっとも、彼にとっての常識は、世間一般における非常識でもある。紅の言葉の意味がわからず、照瑠は思わず首をかしげた。


「耐霊体質って……それ、どういうこと?」


「相変わらず、何も知らないんだな。耐霊体質というやつは、霊媒体質の反対みたいなものだ。霊を感じる力が極めて弱く、それ故に霊的な存在からの干渉を受け難い。よく、心霊スポットなんかに行っても、まったく霊を見ないやつなどがいるだろう? そういった人間は、耐霊体質のことが多い」


「そ、それじゃあ、私の力が雪乃に効かなかったのも……」


「お前の考えている通りだ。耐霊体質の人間に霊的な干渉を与えるには、その人間の霊脈に直接触れなくてはならない。それを探りださずに力を送ったところで、蓋も開けずに瓶の中に水を注ぎ込もうとするようなものだからな」


「そっか……。結局、私、犬崎君に助けられちゃったんだね……」


 自分の力が雪乃に及ばなかった理由。それを聞かされて、照瑠はしょんぼりと項垂れた。


 向こう側の世界・・・・・・・の常識に、照瑠はまだまだ疎いと言える。そんな状態で力を振るったところで、結果は最初からわかりきっていた。


 一方的に相手に力を送り込むだけでは、時に拒絶されることもある。相手の中にある気の流れを感じ取り、その中にある霊脈を見つけ出すことで、照瑠の能力は初めて真の力となる。


「犬崎君。雪乃が耐霊体質だって……いつから気づいていたの?」


「最初からだ。そもそも、蠱毒に狙われた人間は、数カ月でやせ細って衰弱死する。それ以前に、精神の均衡を崩してしまう者も多い。だが……思い出しても見ろ。長谷川雪乃の夢に蠱毒が現れてから、いったいどれほど時間が経っているんだ?」


「確か、夢を見たのは半年以上前からだって言っていたわよね。だったら……!!」


「そう言うことだ。何の力も持たない一般人が……最終的には放っておけば死ぬ運命にあったとはいえ……蠱毒の力に半年も耐え続けた。そこから俺は、こいつが耐霊体質だと判断したんだが……どうやら、こちらの判断は間違っていなかったらしいな」


 ベッドの上で寝ている雪乃の顔を覗きこむようにして、紅は照瑠にそう言った。照瑠はそれに何も答えず、気落ちした様子で座りこんでいる。


 紅は、最初から全て知っていた。その上で、雪乃の身体から蠱毒を祓う最善の方法を考えていた。


 今思えば、苦しむ雪乃に紅が手を貸さなかったのも、その体質に気づいていたからなのかもしれない。霊的な存在の干渉に耐える体質だからこそ、黒影を体内に送り込んで蠱毒を引きずり出すなどという荒療治を使ったかもしれないのだ。


 耐霊体質といえど、蠱毒を夢の中から現実世界に引きずり出す際には痛みや苦しみを伴う。それを和らげてやれたのは、照瑠としては本望である。


 だが、その行為でさえも、紅の力無しでは成功しなかった。全てを知って行動していた紅に対し、自分はその場の勢いで行動していたに過ぎない。そんな自分の浅はかさが、照瑠は今になって恨めしく思えてきた。


「それじゃあ、俺はもう行くぞ。いつまでも部屋にいると、家の人間に不信に思われるからな」


「い、行くって……。犬崎君、泊まっていかないの!?」


「馬鹿を言うな。女が三人も寝ている部屋で、平然とした顔をして眠れるか。それに、俺はこの家の人間に挨拶さえしていない。朝起きたときに見知らぬ男が部屋に寝ていたら、それこそ騒ぎになるぞ」


「そ、それはそうだけど……。もう夜中だし、外だって寒いのに……」


「問題ない。お前は俺が出たら、窓の鍵を閉めるのだけ忘れないでおけばいい」


 仕事が終わった以上、長居などするつもりはない。そう言わんばかりの口調で、紅は雪乃の部屋の窓から出て行った。ベランダから中庭に降りたらしく、外から何やら乾いた音が聞こえてきた。


 結局、自分は今回も傍観者にしかなれなかった。紅のいなくなった部屋で、照瑠の頭をそんな思いがよぎった。


 自分の力で向こう側の世界・・・・・・・に関わってしまった者を救いたい。天倉癒月が亡くなってから、そう思って修業をする決意をした。が、世の中そうそう甘くないらしく、今回は紅と自分の差を見せつけられただけで終わってしまった。


 想い願うだけでは何もできない。気持ちだけあっても、力を操る術が伴わねば宝の持ち腐れである。そう、頭では理解していても、今の照瑠は自分の無力さが悔しくて仕方がなかった。

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