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~ 参ノ刻   孤立 ~

 T‐Driveのコンサートが終わった時、既に太陽は西の空へと姿を消していた。


 駅前の通りでは、行き先々で華やかなイルミネーションが輝いているのが見受けられる。今日がクリスマスであることも相俟って、通りを行き交う人々の表情もどこか楽しげだ。


 コンサート会場からの帰り道、九条照瑠はそれらの光景を横目に、今日の会場であったことを思い出していた。


 亜衣に誘われて半ば強引に行くことになったT‐Driveの地方公演コンサート。アイドルなどにそこまで興味はなかったが、いざ来てみれば、それなりに楽しめたのではないかと思う。自分と同年代の少女でありながら、あのような大舞台で歌い、踊ることができることに対し、少しだけ憧れのようなものも抱いてしまった。


 だが、その一方で、照瑠はコンサートの終わりに起こったハプニングも気になった。


 終盤、舞台が暗転したと同時に、T‐Driveのメンバーの一人が突然正気を失った。今までは何事もなく歌っていたにも関わらず、まるで何かに怯えるようにして、そのまま舞台を去ってしまった。


 いったい、あれは何だったのか。会場側からは突然の体調不良という説明はあったものの、どうにも納得できていない自分がいる。本番中、それこそ、今までもっと大きな舞台でのライブでさえ成功させてきたアイドルが、いきなりマイクを放り出して泣き叫ぶなどということがあるのだろうか。


「ねえ、刑事さん。今日のコンサートなんですけど……最後のあれ、どう思います?」


 駅までの道を歩きながら、照瑠は隣にいた工藤に聞いた。


「えっ……!? ああ、あれか……。正直、僕にもわからないな。ただ、最後にいなくなった彼女……雪乃ちゃんだっけ? あの子に、何かあったことは間違いないと思うけど……」


「そうですよね。舞台の上で、いきなりあんな悲鳴を上げるなんて……普通じゃ考えられないです」


「まあね。でも、それが何なのかは、さすがに何とも言えないよ。アイドルにだって、マネージャーとかプロデューサーなんてのがついてるんだろう? 彼女たちのことは業界の担当者しかわからないんだし、僕達みたいな一般人があれこれと考えても無意味だと思うよ」


「そうですよね……。まあ、私もちょっと気になっただけですから。刑事さんも自分のお仕事があるでしょうし、あまり無理しないでくださいね」


「ああ、そうだね。実際、年末は警察も色々と忙しいからな。僕なんて、定時に帰れるからまだマシだけど……交番勤務の人は、年末年始のパトロールで夜も眠れないなんてことがあるみたいだから、正直同情するよ」


「夜も眠れないって……それ、夜勤ってことですか?」


 照瑠は何気なく聞いたつもりだったが、工藤はどこか遠くを見るような顔をしてその問いに答えた。過去、交番勤務の経験もあるノンキャリアの刑事だけに、彼もまた巡査時代の辛い経験がそれなりにあるのだ。


「そうだよ。僕も交番勤務時代に経験はあるけど、この時期は正に地獄だったね。忘年会が多いから性質の悪い酔っ払いの数も増えるし、それに伴って事件や事故も増える。大晦日や正月には交通整理も重要な仕事になるし、冬場は放火犯が増えるから、そっちにも気を配らなきゃならない。今年は運よくクリスマスに休みを貰えたけど……普通だったら『メリー苦しみます』ってのが、この時期の警察官の状況さ」


「うわぁ……。交番にいるお巡りさんって、そんなに大変だったんですね……」


 工藤が言ったのはベタな親父ギャグとも取れる寒い冗談だったが、照瑠は茶化すこともせず感心していた。


 警察の仕事など、今まで照瑠は意識したことさえもなかった。が、街の安全と平和を守っているのは、やはり末端で働いている交番勤務のお巡りさん達である。警察の不祥事がニュースで報道される度に彼らまで白い目で見られることもあるようだが、それでも彼らの力で庶民の平穏な暮らしが守られていることもまた事実なのだ。


 自分と同い年でありながら、大舞台で自分の歌を披露するトップアイドル達。そして、庶民の生活を守るため、日夜働き続けている警察官。それらの仕事に従事している人に比べたら、自分は何と甘い生活を送ってきたのだろうと思う。


 照瑠自身、今は自分の中に秘められた力を解放するために、真冬の泉で禊を行う修業に励んでいる。傍から見ればそれとてかなりの苦行に思われるかもしれないが、照瑠自身、まだまだ自分の考えに甘さが残っていたことを反省させられた。


 大変なのは、自分だけではない。とりあえずはそれがわかっただけでも少し前進したような気がする。


(さて、と……。クリスマスも終わったし、後は大晦日にお正月だけよね。年末年始はうちも忙しくなるから、それまでに少しでも修業の成果を出せるようにしておかないと……)


 明日からは、またいつもの日常がやって来る。学校は既に終わっていたが、自分の修業はまだまだ続く。大晦日や正月には参拝客の相手をするために動けなくなることを考えると、ここで少しでも次に繋がる結果を出しておきたい。


 今後のことを色々と考えながら、照瑠はふと隣にいる亜衣のことを見た。先ほどから、彼女は何やら自分の携帯電話と格闘し続けている。その目は完全に携帯の画面に釘付けになっているため、ともすれば行き交う人にぶつかりそうになる。亜衣は未だに小学生くらいの身長しかないため、人にぶつかって弾き飛ばされないかと、見ている方が心配になってくる。


「ちょっと、亜衣。あなた、さっきから携帯電話に夢中みたいだけど……。いったい、何やってるの?」


「そんなの決まってるじゃん。今日のコンサートで、ゆっきーが調子悪かったみたいだからさ。ちょっと心配になったんで、電話してるところだよ」


「ゆっきーって……確か、あなたが幼馴染って言っていた、長谷川雪乃って子よね?」


「そうだよ。でも、さっきから何度も電話してるのに、全然出てくれないんだよね」


「何度も電話って……現役のトップアイドルが、そうそう簡単に一般人の電話に出るわけないでしょう? それに、あの子は途中で体調不良になって舞台を去ったじゃない。今頃は、きっと楽屋の裏か控室で休んでいるんじゃないかしら」


「そっかぁ……。まあ、そう言われてみれば、確かに照瑠の言う通りかもね。しょうがないから、メールだけ送って返事を待つことにするよ」


 電話で連絡することを諦めたのか、亜衣は手慣れた様子でメールを打ち始めた。


 都市伝説マニアで有名な変人女子高生が現役アイドルと知り合いなど、照瑠は未だに信じられない。が、どうやら亜衣の行動を見る限りでは、まったくの嘘でもなさそうである。


 もっとも、組合せとしては、ある意味でスキャンダル同然の交友関係であると言えなくもない。T‐Driveについては照瑠もそこまで詳しくないが、少なくとも舞台で歌っていた際の雪乃と照瑠の知っている亜衣では完全に異なった人種としか思えないからだ。


 いったい、この一風変わった友人の人脈とは、どの辺りまで伸びているものなのだろうか。今までは少し変わった人間を紹介されるくらいだったが、ここまで来ると、次は宇宙人を紹介されても驚くに値しないのではないかとさえ思えてくる。


(まあ、本当に宇宙人を紹介されたら、私だって少しは驚くけどね。でも……亜衣だったら、宇宙人とでも簡単に友達になれそうだから、その辺がどうも不思議なのよね……)


 グレイタイプの宇宙人と、互いに仲良く食卓を囲んでいる嶋本亜衣。そんな光景を頭の中に思い浮かべながら、照瑠は最後に亜衣の隣を歩く紅の方へと目をやった。


 そう言えば、コンサートが終わってから、紅は一言も口を開いていない。普段から無愛想な人間だとは思っていたが、今の紅はそれに輪をかけて険しい表情をしている。街に溢れるクリスマスムードなどお構いなしに、それこそ何か邪悪な敵を睨みつけるようにして、ずっと黙りこくったまま淡々と歩いている。


「ねえ、犬崎君……」


 いったい、紅に何があったのか。あまりに場違いな空気に少しだけ引け目を感じながらも、照瑠は恐る恐る尋ねてみた。


「なんだ、九条。俺に何か用か?」


「いや……別に、用って程のことじゃないんだけど……。さっきから黙りっぱなしだから、どうしたのかなって思って……」


「そんなことか。なら、気にするな。少し、考え事をしていただけだ」


「考え事? それって、今日のコンサートについての話?」


「まあ、そんなところだな。それでも、少し気になっただけの話だ。お前まで気にすることじゃない……」


 そう言って、紅は再び口を閉ざし、照瑠の方から目をそらした。照瑠はその後も食い下がろうとしたものの、紅はまったく相手にせず、完全に黙り込んでしまった。


 いったい、紅は何を考えているのだろう。彼が何かを考えているということは、やはり向こう側の世界・・・・・・・に関係する話なのだろうか。だとすれば、それはいったいどんな話で、彼に何の関係があるのだろうか。


 いつもであれば、照瑠も紅の言葉を適当に聞き流していたことだろう。だが、今回ばかりはコンサート会場で妙な物を見せられただけに、彼の言葉が気になった。加えて、今まで彼女の周りで起きていた様々な心霊事件に関する記憶が蘇り、照瑠に妙な警戒心のようなものを抱かせてもいた。


 できることならば、紅の考えを聞いてみたい。その上で、自分に協力できることがあれば、力を貸したい。未だ修業中の身ではあるものの、それでもまったく役に立たないということはないはずだ。


 コンサート会場で起きた、長谷川雪乃の突然の退場事件。果たしてあれは、心霊現象の絡んだ事件なのだろうか。


 気になることは山ほどあったが、照瑠はそれ以上、何も紅に聞くことはできなかった。彼の全身から放たれている殺気にも似た空気に気圧されしたこともあったし、何を言っても答えてはくれないだろうという諦めのような気持ちもあった。ああ見えて、紅は意外と頑固な一面も持っていることを照瑠は知っている。


 結局、その日はそのまま全員で電車に乗って、火乃澤町に帰ることとなった。帰り道、紅は相変わらず無言のままで、それは照瑠や亜衣と火乃澤駅で別れるまで続いていた。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



「ちょっと! 今日のステージの最後、あれはいったい、どういうつもりなの!?」


 地方公演を終えたT-Driveの控室に響いたのは、怒りのこもった激しい叱責の声だった。


 声の主は、チームのリーダーである夏樹だ。その日の公演が終わって控室に戻るなり、彼女は開口一番に雪乃を叱り飛ばした。


「まったく……。今日が地方公演最後のステージだって言うのに、ここ一番って時に退場だなんて……。舞台に上がる前、皆で頑張ろうって言ったのは嘘だったわけ!?」


「ご、ごめんなさい……。私……なんだか、急に変なものが見えて……」


「言い訳は聞きたくないわよ! 私と咲花でなんとかフィナーレまで持たせたからいいものの……これが、もっと大きな会場で開かれているライブだったらどうするつもりなの!? それこそ、全国ネットで中継されるような番組の本番だったら……」


 コンサートの途中で雪乃が退場してしまったこと。それに対し、夏樹の怒りは鎮まるところを見せなかった。その、あまりの剣幕に、雪乃はただひたすら頭を下げて謝るしかない。いつもは持ち前の明るさで場を和ませることのできる咲花も、完全に言葉を失ってしまっている。


「だいたいねぇ……」


 目の前で項垂れる雪乃に近づいて、夏樹は彼女を見降ろすようにして言った。


「あなた、本当にプロとしての意識があるの!? 高槻プロデューサーは、あなたのことを考えて、地方公演の最後をあなたの地元でやるようにしたみたいだけど……それに甘えて、気が抜けてたんじゃないの!?」


「そんな……。私は別に、気を抜いてなんか……」


「だったら、今日のあれはどう説明するつもりなのよ! 武道館だろうと、ドームだろうと……今までにも、もっと凄い場所で歌って来たじゃない! それなのに、こんな小さな地方のステージで取り乱して退場だなんて……自分の仕事に対するプロ意識が欠けている以外の、何だって言うのよ!!」


 プロ意識。ことさらその部分を強調し、夏樹は雪乃を責め立てた。


 元より役者として芸能界に従事していた母親を持ち、自身も幼い頃からその世界を垣間見て来た夏樹である。彼女からすれば今日の雪乃の行動は、まさにスタッフや多くのファン、そして仲間達に対する裏切り行為に他ならない。


 一通り言いたいことを言い終えたのか、夏樹は大きな溜息をついて雪乃から目を逸らした。軽蔑とまではいかないが、それでもどこか残念そうな瞳をしていることは確かだ。


「あの……。皐月さんも、その辺で止めにしましょうよ……。私達、これからも一緒に歌う仲間なんですし……」


 夏樹がその感情を全て吐き出したと思ってか、咲花がようやく口を開いた。彼女としては、仲間同士でこれ以上争うような場面を見たくない。そんな思いからの行動だったのだろうが、それは返って夏樹の機嫌を損ねることにしかならなかった。


「咲花……。あなたも雪乃と同じで、この仕事を遊び半分で考えてるってわけ?」


「あ、遊び半分だなんて……。夏樹さん、酷いですぅ……」


「それじゃあ、あなたは私の言っていることが間違っているとでも言うの? 雪乃が舞台から退場して、ファンからのブーイングに晒されながら二人だけで歌って……それで、本当に満足なわけ?」


「そ、それは……」


「この際、あなたにも言っておくけどね、咲花。ここは、あなたの通っている中学校の仲良しクラブとは違うのよ。大人に混ざって厳しい社会の目に晒されて……そんな中でやって行くには、慣れ合いなんて厳禁なんだから!!」


「うぅぅ……慣れ合いだなんてぇ……。私はただ、二人に仲良くしてもらいたいだけで……」


「その考えが、甘っちょろいって言ってるのよ! 仲間だからこそ、時に厳しく接しなくちゃいけないときだってあるでしょ!? 自分自身を高めることを忘れたら、そこで全てはお終いよ!!」


 苛立ちをまったく隠すことなく、夏樹は言葉を終えると同時に扉を乱暴に開けた。そして、そのまま自分の荷物を持つと、何も言わずに控室の外へと出て行った。


 気まずい沈黙が、部屋の中を支配する。共に夏樹から叱責を受けた者でありながら、雪乃も咲花も互いに何を言ってよいのかわからず押し黙ったままだ。


「あの……雪乃さん……?」


 その場を包む重苦しい空気に耐えられなくなったのだろう。早々に咲花が立ち上がり、遠慮がちな様子で雪乃に声をかける。


「今日のこと、あんまり気にしちゃ駄目ですよ。夏樹さんだって、悪気があって言ったわけじゃないと思いますし……」


「うん……。ありがとう、咲花ちゃん」



「それじゃあ、私もそろそろ行きます。雪乃さんも、バスの時間には遅れないようにしてくださいね」


 そう言うと、頭を軽く下げて一礼し、咲花も雪乃の前から姿を消した。後に残された雪乃はしばし呆然としながらも、自分以外には誰もいなくなった部屋の天井を眺めて考えた。


 今日の舞台で現れた、あの毒虫達。あれは、いったい何だったのだろう。今までも、あの毒虫に夢の中で襲われることはあったものの、現実にあれが自分の前に現れたのは初めてだ。


 夢であれば、目を覚ましてしまえば恐怖から逃げることができた。しかし、それが現実となった場合、雪乃に逃げ場は存在しない。いつ、またあの毒虫達が目の前に現れるかと思うと、それだけで恐ろしくて仕方がない。


 自分はもう、舞台に立つことなどできないかもしれない。次にあんな失態を踏んで仲間に迷惑をかけてしまえば、今度こそ夏樹も許してはくれないだろう。そればかりか、下手をすればT‐Driveそのものが解散に追い込まれる可能性もある。


 自分が今まで仲間と共に築きあげてきたもの。それを一瞬で失いそうな気がして、雪乃はひたすらに怯えていた。


 これから先、自分は本当に芸能界で仕事をやって行けるのか。今までのように、誰かに自分の歌を聞いてもらうことができるのか。


 ただでさえ大きくはなかった自信が、ますます音を立てて萎んでゆくような気がしてならなかった。夏樹の言っていたことも事実なだけに、反論するだけの言葉も見つからない。


 ふと、手元を見ると、自分の携帯電話のランプが光っていた。マナーモードにしていたために音は出ていないが、どうやらメールか何かの着信があったようだ。


 面倒臭いと思いつつも、雪乃はそっと携帯電話を開いて画面を見る。そこには数件の不在着信の通知に加え、一件のメールが届いているという知らせもあった。


 こんな時に、いったい誰からメールだろう。そう思って相手を確かめると、それは雪乃も良く知る友人の一人からだった。


(これ……亜衣ちゃんからだ……)


 嶋本亜衣。中学校時代、雪乃がまだ地方でご当地アイドルをしていた頃の友人である。妙な話に詳しく変わり者のレッテルを張られていたが、根は決して悪い人間ではない。


 そう言えば、亜衣は雪乃に今回のコンサートのチケットを送ってくれるように頼んでいた。ということは、今日のコンサートは亜衣も見ていたということだ。友人の前で大失態を演じてしまったことを考えると、それだけでますます気が滅入ってきてしまう。


 だが、そうそう落ち込んでもいられないということは、雪乃自身にもわかっていた。恐らく亜衣は、今日の雪乃の様子を見て、心配して連絡を取ろうとしてくれたのだろう。ならば、メールに返信くらいしておかねば、さすがに失礼というものだ。


 メールの中身を確認すると、そこにはやはり、雪乃のことを心配するような内容があった。その文面に目を通して行く内に、雪乃の中に亜衣との思い出が蘇って来る。


 雪乃が小学校の頃から、亜衣は彼女と友達だった。変わった性格は既にその頃から片鱗を見せており、女子であるにも関わらず、亜衣は大人も震え上がるような怖い話が大好きだった。


 雪乃は怪談話の類は苦手だったものの、それでも怖い物見たさという気持ちから、気がつけば彼女の話に耳を傾けていたことを覚えている。


(中学を卒業してから、亜衣ちゃんとはずっと会ってないな……。私と違って、いつも元気で悩みなんかなさそうで……それから、お化けの話に妙に詳しくて……)


 そこまで思い出したとき、携帯電話をいじる雪乃の手がぴたりと止まった。


 そうだ。今日、自分の身に起きた件について、嶋本亜衣ならば何かわかるのではないだろうか。何しろ、古今東西の奇妙な怪談話の類について、大人顔負けの知識を持っている亜衣のことである。あの毒虫達の正体も、亜衣だったら知っているかもしれない。


 馬鹿馬鹿しい考えであるということは、雪乃も十分に承知していた。どれほど怪談話を聞かされようとも、雪乃自身はお化けや幽霊といった類の話を心の底から信じているわけではない。


 だが、今日の一件については、雪乃は亜衣の他に相談できる相手が思いつかなかった。夏樹はそういった類の話は信じない方だし、プロデューサーの高槻もそれは同様だろう。咲花に至っては、話をしても無意味に怖がらせるだけで終わってしまう。


 今の自分の身に起きていることが、果たして怪奇現象の類なのか。それは雪乃にもわからなかったが、他に頼れる者がいないという現実が、彼女に選択肢を与えていなかった。


 亜衣からもらったメールに、雪乃は「明日、会って欲しい」という内容だけを打ち込んで返信した。


 地方公演は今日で終わり、雪乃は今夜、久方ぶりに実家に戻れることになっている。その間、夏樹や咲花は県内にあるホテルに高槻と共に引き続き泊まってもらい、東京に帰る際に合流する手はずになっている。


 プロデューサーの計らいで得ることができた、貴重な帰省の時間。僅かな時間ではあったものの、そこで久しぶりに旧友と顔を合わせられることに、雪乃は全てを委ねることに決めていた。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 その日は珍しく、朝から粉のような雪が街に舞い降りていた。


 市内のホテルに泊まっていた高槻護は、足元を襲う冷気に思わず目を覚ました。ベッドから飛び起きて足を出すと、鋭く刺すような冷たい空気が彼の指先を襲う。


 骨の芯を伝わって響いてくる寒さに、高槻は胸元を両腕で覆うようにして震え上がった。東北は豪雪地帯で有名だと聞いていたが、実際に訪れるのは高槻も初めてである。身体を冷やさないようにして寝たものの、就寝の際の防寒対策が少し甘かったらしい。


 ホテルの窓が二重窓になっているとはいえ、寒さを完全に防げるわけではない。こんなことなら、一晩中暖房をつけて寝ればよかったか。そんなことを考えながら窓の外に目をやると、小さな粉雪の粒が、パラパラと窓ガラスにぶつかっては水滴になっていた。


 N県に降る雪は、湿って重いぼたん雪であることが一般的である。日本海の湿気を大量に含んだ寒気が越後山脈にぶつかることで、人の背丈など軽く越える程にまで雪を積もらせるのだ。


 東北と言えば大雪。そんなイメージを抱いていた高槻にとって、今日の粉雪は少し珍しく感じられた。だが、寒さの原因が雪であることは変わらないため、あまり嬉しいものではなかったが。


 枕元に置いてあった時計に目をやると、時刻はまだ朝の五時であった。夏樹や雪乃達の起床時間に合わせ、ここ最近はずっとこのくらいの時間に起きることが当たり前となっていた。今日はそこまで仕事もないのに、完全に生活リズムが固定化されてしまっていたらしい。


 二十代も後半とはいえ、それでもまだまだ働き盛りの若者が朝の五時に目を覚ます。なんだか早くも生活習慣が老人のようになっていることに、高槻は少しだけ哀愁のようなものを感じてしまった。


「やれやれ……。コンサートは終わったって言うのに、どうも僕だけ緊張が抜けないみたいだな……」


 昨日のことを思い出し、高槻の顔に憂鬱な色が浮かんだ。今までは何の問題もなく事が運んでいたにも関わらず、最後の最後で雪乃がまさかの退場である。それも、社長や事務所から直々に連れて来られたアイドル候補生達の前で、痛恨の失態をしてしまったのだ。


 社長から御咎めがなかったのは、高槻にとっては幸いだった。過酷なスケジュールで雪乃も限界だったのだろうと言われ、それ以上は特に注意をされることもなかった。


 もっとも、高槻自身、既にやってしまった失敗を取り消すことができないのは知っている。あそこまで無様な結果にしてしまったからには、どこかで雪乃に汚名返上の機会を与えてやらねばならない。このまま放っておけば、それこそ身内からの信頼――――即ち、彼の所属する事務所のアイドル候補生達からの信頼――――さえも失ってしまうかもしれなかった。


 悶々とした気持ちのまま、高槻は服を着替えて部屋の外に出た。ホテルの廊下はまだ薄暗く、人の影も見当たらない。


 一階に通じるエレベーターを使って、高槻はホテルのロビーへと出た。当然のことながら、ここにも誰もいない。


 自動販売機に硬貨を入れ、高槻はブラックの缶コーヒーを選んでボタンを押した。取り出し口の中に落ちてきた黒い缶の中身を口にすると、苦味と酸味のせいで少しだけ頭がはっきりとした気がした。


 ロビーのソファーに腰掛けたまま、高槻は東京に戻ってからのことを考えた。


 今年の仕事は、この地方公演だけで終わりではない。雪乃には束の間の家族との時間を与えたものの、新年は東京で迎えてもらうことになるだろう。年越しのカウントダウンイベントで生放送に出演する予定もあり、あまり休んでいる暇もないのだ。


 高槻から見ても、雪乃は決して芸能界に向いているような性格ではない。表と裏の顔を使い分け、厳しい社会の荒波を乗り越えて行く、海千山千のタレント達とは訳が違う。トップアイドルの仲間入りを果たしているとはいえ、それでも彼女は未だ十六歳の少女なのだ。


 昨日の失敗は、自分にも原因があるのではないか。そんな考えが、高槻の頭をよぎった。


 T-Driveが結成されたときから、自分は雪乃達のプロデューサー兼マネージャーとして多忙な日々を過ごしてきた。特にここ最近は、彼女たちと顔を合わせれば打ち合わせしかしていなかったような気がする。


 心のケアが欠けていた。目の前の仕事に夢中になり過ぎて、人として大切な物を忘れていた。そう、高槻が考えたときだった。


「やあ、高槻じゃないか。君も起きていたのかい?」


 突然、後ろから名前を呼ばれ、高槻はソファーから立ち上がって振り向いた。


「黒部……。何の用だ、こんな時間に……」


 そこにいたのは黒部だった。社長の鴨上と共に、アイドル候補生と一緒になって昨日のコンサートを見に来た男だ。


 正直なところ、高槻は黒部のことが好きではなかった。根拠のない自信に溢れ、常に周囲を見下したような態度を取る。自分とはまるで正反対の性格だけに、どうにも仲良くできそうな相手ではない。


 ところが、そんな高槻の気持ちなどお構いなしに、黒部は例の慇懃な笑みを浮かべながら近づいてきた。その手には一台のノートパソコンが抱えられており、黒部はソファーに腰掛けてそれを開く。


「調度いいところで会ったな。ちょっと、君に見せたいものがあってさ」


「見せたいもの? こんな朝早くから、いったいなんでまた……」


「まあ、そう慌てるなよ。それより……昨日、社長と一緒に来ていた星梨香なんだが、来年に再デビューが決まったんだ」


「星梨香君が? それはまた、随分と急な話だな……」


 パソコンの画面が立ち上がるのを待ちながら、二人は互いに顔を突き合わせて話をする。高槻としては黒部の話などに興味はなかったが、ここまで聞いてしまっては、最後まで聞かないわけにも行かなくなっていた。


「星梨香はもともと、君のT-Driveよりも早く芸能活動をしていたからね。その時は売れなかったみたいだが、それでも彼女には才能があったのさ。今度のデビューは、なんとソロで話が出てる」


「そいつは願ってもない幸運だな、黒部。当然、そのプロデュースはお前がやるんだろう?」


「さすがに勘がいいな。無名のアイドル三人を、一年と経たずにトップの座へ昇らせただけのことはあるよ」


「お世辞はよせ。そっちだって、そんなことを言うために、わざわざ目の前に現れたわけじゃないだろう?」


 口では相手を誉める素振りを見せながら、心の底ではあざ笑っている。そんな黒部の態度に、高槻もだんだんと苛立ちが増してきた。


 いったい、黒部は何のために、わざわざパソコンまで開いて高槻にそれを見せようとするのだろう。黒部の言いたいことは、いったい何なのだろう。


 大方、下らないことだというのは予想がついている。もし、根拠のない嫌味の一つでも言ってきたら、適当にあしらってこの場を去ろう。そう思いながら、高槻は目の前で広げられているノートパソコンのディスプレイに目を移した。


「なんだ、これ……。ネットのニュースじゃないか?」


「ああ、そうさ。下らない三流記事しか書かないネットニュース専門紙みたいだが……そこで、面白い記事を見つけたんだよ」


「面白い記事だと?」


「まあ、見ればわかるさ。ほら、これだ」


 底意地の悪そうな笑みを浮かべ、黒部が記事の一つをクリックした。画面が変わり、ニュースの見出しが少し大きめの文字で映し出される。そこに書かれていたことに、高槻の目は釘付けとなった。


「こ、これは……」


「ふふふ……。≪T‐Drive長谷川雪乃、麻薬使用疑惑≫だってさ。なっ、面白い記事だっただろう?」


「お、面白いって……。お前……!!」


「おいおい、そう怒るなよ。この記事を書いたのは俺じゃない。怒りの矛先を向けるなら、それは相手が違うってものじゃないのかい?」


「うっ……」


 思わず握り締めた拳を、高槻はなんとか堪えて引っ込めた。ここで黒部を殴ったところで、何かが変わるわけでもない。それは、高槻も十分にわかっている。


 しかし、それにしてもである。今まではスキャンダルの欠片もなかった雪乃が、ここに来てどうして麻薬使用疑惑などと書き立てられなければならないのだろうか。


 芸能界は暴力団との繋がりが噂される業界でもあるが、少なくとも雪乃に限ってそれはない。スケジュールに関しては高槻が綿密に管理していたし、同じ業界関係者でも、危険な噂が立っている人間には極力近づけないようにしていた。例え国民的に人気のあるトップスターであっても、遊び人としての噂も持っている人間には気を許させたことはなかった。


 いったい、なぜ雪乃に麻薬使用疑惑が出なければならないのか。彼女がそんなものを使っていないということは、高槻自身が最も良く知っているはずだ。


「不満そうな顔だな、高槻。だけど、君だって昨日のコンサートのことは知っているだろう? 長谷川雪乃は演目の途中で取り乱し、そのまま舞台を去って戻っては来なかった」


「そ、それは……」


「彼女、舞台の上で、虫が出たって騒いでいたそうじゃないか。でも、実際の舞台には虫なんていない。この寒い東北で、仮に室内とはいえ……今はハエの一匹さえ飛んじゃいないってのにね」


「それじゃあ、あれか? お前は雪乃が麻薬をやって、そのせいで幻でも見たって言いたいってのか!?」


「だから、そう怒るなって。俺はただ、記事に書いてあるままのことをお前に伝えただけだよ。それが本当かどうかを調べるのは……まあ、警察のお仕事なんだろうけどさ」


 疑念と不安。そんな感情の入り混じった高槻に、黒部は皮肉を込めた笑いを浮かべて言い放った。その言葉に、高槻は何も言い返せないまま押し黙る。


 麻薬の使用は、確かに人間の気分を高揚させる。現に、この三流ネットニュースの記事にも、普段は大人しく控え目な雪乃が、コンサートの緊張を払拭するために麻薬を使用していたのではないかと書かれている。


 所詮は三流ネットニュースの記事。信憑性など皆無であり、普段であれば鼻で笑い飛ばしたところだろう。


 だが、それでも高槻は、万が一のことを考えると気が気ではなかった。昨日のコンサートで雪乃が見せた様子から考えて、麻薬でないにしろ、何か良くないことが彼女の身に起きているのは事実だ。


 雪乃が麻薬を使っている。そんなことはないと思いたいが、それを証明するだけのものが今はない。仮に記事の内容が事実だとすれば、自分の知らないところで雪乃もまた、業界の闇で牙を研ぐ悪魔達に、いつの間にか毒されていたということだろうか。


 こうしてはいられない。そう思ったが早いか、高槻はソファーから立ち上がってロビーを飛び出した。後ろから黒部が何か言っていたような気がするが、今の高槻には聞こえない。携帯電話を片手に、素早く人気のない場所を探して滑り込んだ。


 雪乃の身に何があったのか。それを調べ、彼女を守ることこそが、プロデューサーとしての自分の使命である。早朝、まだ殆どの人間が目覚めていない時間だったが、高槻は雪乃に電話をかけずにはいられない衝動に駆られていた。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 枕元で鳴る携帯電話の音に、雪乃は重たい頭を起こしながら目を覚ました。


 この音は、目覚ましに設定していたアラームの音ではない。かといって、メールではなく電話のため、放っておいても鳴り続けてしまう。


(うっ……。眠いなぁ……)


 枕の脇にある目覚まし時計を見ると、時計の針は六時半を指していた。仕事のある日であれば、こんな時間に起きることも珍しくない。が、今は実家に戻っているだけに、もう少し寝ていたいと思うのもまた事実。


 今日は、このまま電話を無視して、留守電になるのを待ってしまおうか。そんなことも考えたが、結局雪乃はベッドから起き上がり、未だ鳴り響く携帯電話を捕まえて中身を開けた。


「これ……高槻さんからだ……」


 電話の相手を確認すると、それはプロデューサーの高槻からだった。


 早朝、まだ家の者さえも起きていないであろう時間帯に、直々に電話をかけてくる。普通に考えれば非常識と思われても仕方ないが、雪乃は迷わず電話に出た。あの、真面目な高槻のことだ。きっと、何か特別な用事が出来たに違いない。


「はい、長谷川です」


「雪乃かい? 僕だけど……今、少しだけ話せるかな?」


 電話の向こうから、聞き慣れた高槻の声が聞こえて来る。だが、その声はいつもの高槻のものとは違い、どこか不安を帯びたものだった。


「えっと……私なら、大丈夫ですけど……」


「そうかい。朝早くから、済まないね。でも……どうしても、雪乃に聞きたいことがあってね」


「私に聞きたいこと? なんですか?」


「回りくどいのは僕も嫌いだから、単刀直入に聞くよ。雪乃……君、昨日のコンサートで、いったい何があったんだ?」


「えっ……!? そ、それは……」


 予想もしなかったことを高槻から尋ねられ、雪乃はしばし口籠った。


 昨日、コンサートで雪乃が退場した後も、高槻は彼女のことを心配して声をかけてくれた。それこそ、夏樹や咲花に裏で指示を出す傍ら、雪乃のことを落ち着かせようと懸命に話しかけてくれていた。そして、全てが終わった後、彼は雪乃に「何も気にすることはない」とだけ言ってくれたのだ。


 そんな高槻が、雪乃に昨日のことを再び聞いてくる。しかも、こんな朝早く、直々に雪乃の携帯に電話をかけてまで。


 ただ事ではないということは、雪乃にもわかっていた。だが、ここで本当のことを話したところで、高槻には信じてもらえないだろうとも思っていた。


 夢の中に出てきた毒虫が、現実世界に溢れ出して身体を這い回る。そんな、ホラー映画みたいなことが、実際にあると信じるような人間などいないだろう。嶋本亜衣のような奇人を除いては、「何、馬鹿なことを言っているんだ」と言われてしまうのがオチである。


「ごめんなさい、プロデューサー……。私にも、実はよくわからなくて……」


 心配して電話をかけてくれたのは嬉しかったが、今の雪乃には適当にごまかして場を取り繕うことしかできなかった。


「そうか……。ところで、雪乃。つかぬことを聞くけど……まさか、ここ最近で、変な人と関わりを持ったりはしていないよね?」


「変な人? それ、どんな人ですか?」


「いや……。実は、昨日のコンサートで君が取り乱したことについて、君が変な薬を使っているんじゃないかと書き立てた連中がいてね。下らない、三流のネットニュースだし、まさかとは思うけど……本当に、何もないのかい?」


「何もないって……プロデューサー! 私のこと、疑っているんですか!?」


「そ、そんなつもりじゃないよ。ただ、僕は君のことが心配で……」


「すいませんけど……少し、放っておいてください。私、プロデューサーが思っているような人とは、別に何の関係もありませんから……」


 最後の方は、喉の奥で声を震わせるようにして言った。電話の向こうで高槻が何かを言っていたが、雪乃は一方的に通話を終えると、携帯の電源を落として枕に叩きつけた。


 あの毒虫のことは、自分でもよくわからないのだ。それなのに、周りは好き勝手に言いたい放題言って、雪乃のことなどお構いなしである。


 これまでにも週刊誌に悪い噂を書かれたことはあったが、それはあくまで芸能界における負の部分だと思って我慢することもできた。しかし、今回ばかりは雪乃自身、自分を覆う重圧に耐えられる自信がなかった。


 プロデューサーの高槻とは、T‐Driveが結成された当初からのつき合いである。だからこそ、雪乃は高槻に信じて欲しかった。根も葉もない噂をネットニュースに書かれたところで、そんなことは気にしないとばかりに、身体を張って守って欲しかった。


 甘えた考えであるということは、自分でも理解しているつもりだ。しかし、そうでもしなければ、今のこの状況を乗り越える術が雪乃には見つからない。


 仲間からも、担当者からも疑惑の目を向けられて、自分の周りから徐々に頼れる者が消えて行く。時に冬の東北よりも冷たい風の吹く芸能界において、孤立は即ち死を意味した。別に、本当に命が断たれるわけではないのだろうが、アイドルとしての生命から、果ては社会的な人としての尊厳までをも完全に奪われてしまうということは、想像に難くない。


 いったい、これから自分はどうなってしまうのだろうか。地方のご当地アイドルから抜け出して、気がつけば一年も経たない内に、トップアイドルの仲間入りを果たした自分。だが、それだけに、壊れる時はこうも呆気ないものなのかと思うと、なんだか今までやってきたことの全てが虚しく思えてきてしまう。


 自分はこんなところで終わりたくない。もっと、大勢の人の前で、大好きな歌を精一杯歌いたい。


 そう、頭では夢を描こうと努めていたが、今の雪乃の心を支配しているのは言い様のない不安と孤独だった。


 窓の外で舞い散る雪が、いつの間にか霙に変わっていた。窓ガラスに張り付く半分溶けた雪の粒を見て、雪乃は自分の心が今の空のように泣いているのだと感じていた。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 朝方から降り続いた雪は、既に昼には止んでいた。


霙に濡れた道を歩きながら、照瑠は天気予報で今年が暖冬になりそうだと言われていたのを思い出した。


 東北に位置するN県は豪雪地帯で有名であり、それはここ、火乃澤町とて変わりはない。毎年、雪は照瑠の腰が埋まる程にまで積もり、場合によっては積雪が人の背丈を越えることもある。


 そんな火乃澤町において、今日のような天気は珍しかった。十二月も終わりに近づいているというのに、今年は雪の降らない日の方が多かったような気がする。世界規模で深刻化している地球温暖化は、自分たちの暮らしにも少しずつ影響を与え始めているのかもしれない。


 駅前のロータリーを迂回するようにして周り、照瑠は行きつけの甘味屋の扉を開いた。店の奥に目をやると、そこには既に先客の姿がある。


「あっ、ようやく来た!!」


 照瑠が店に入るなり、先にテーブルについていた一人が席を立った。その低い身長とハスキーボイスから、それが誰であるかは明白だ。


「遅れてごめんね、亜衣。でも、こんな冬休みの昼日中に呼び出すなんて、何があったの?」


「まあ、ちょっと訳ありでね。とりあえず、こっちに座って何か頼んでよ」


 照瑠を呼び出した張本人、嶋本亜衣が手招きをしながら言った。自分から呼び出しておいて勿体をつけるのは、亜衣のいつもの癖だ。


こういう場合、大抵は何かろくでもない話を聞かされることが多い。思わず照瑠は身構えたが、すぐに亜衣の隣にいる人物に気づいてそちらに目を移した。


 白金色の髪と赤い瞳。男でありながら雪のように白い肌を持ち、それとは対照的な黒を基調とした衣服に身を包んだ少年。亜衣の隣にいたのは、あの犬崎紅だった。


「えっ……? な、なんで、犬崎君がここにいるの!?」


 思わぬ相手がいたことに、照瑠は少々面食らいながらも席についた。亜衣とは向い合せになる形で、紅の隣の椅子に座る。本当は亜衣の隣の方がよかったのだが、そこには彼女の鞄が置いてあって邪魔だった。


「ようやく来たか、九条。嶋本曰く、今日もまた仕事の話だそうだ」


「仕事って……また、何か心霊現象の類なの?」


「さあな。俺もついさっき店に来たばかりだし、肝心の依頼人がまだ来ていない。詳しい話は、そいつが来てからでないとわからないな」


 相変わらずの無愛想な口調で、紅は淡々と語っていた。こちらと目も合わせようとしないことに照瑠は少しばかり腹が立ったが、あえて何も言わず黙っておいた。ここで何か言ったところで、紅が態度を変えるとは思えない。


 テーブルに備え付けられていたベルで店員を呼び、照瑠達はそれぞれが食べたい物を注文した。


 女子にとって甘い物は別腹と言われているが、今日はそこまでたくさん食べたいとは思わない。そう思って、照瑠も亜衣も適当に羊羹と抹茶だけを頼んでおいた。もっとも、その横で紅だけは、しっかりと店の名物であるクリーム餡蜜を頼んでいたが。


(そう言えば、犬崎君って甘党なんだっけ……。確か、亜衣がそんなこと言ってたな……)


 亜衣から聞いた話を思い出し、照瑠はちらりと紅のことを横目で見た。その表情は依然として不機嫌そうな感じだが、そんな彼が大皿に盛られた餡蜜を食べているところを想像すると、何故か微笑ましく思えて来るのは気のせいか。


 照瑠がそんなことを考えていると、再び店のドアが開く音がした。ドアについていた鈴が鳴り、その向こうから帽子とサングラスを身につけた少女が姿を現す。彼女は辺りを気にしながら店の中に入ると、そのまま照瑠達の座っている席の前で立ち止まった。


「ごめんね、亜衣ちゃん。遅くなっちゃった」


 少女の口から出た言葉に、照瑠は彼女が亜衣の言っていた依頼人だということを悟った。が、それにしても、なんという格好なのだろうか。


 冬場の、しかも曇りの日だというのに、目元は大きなサングラスで隠されている。頭には、これまた地味な帽子が乗り、髪型さえも良くわからない。服装も同じく地味で、どう考えても今風の女子高生とは思えない。


 いったい、この少女は何者なのだろう。まさか、また亜衣の妙な人脈で繋がっている、変人の一人ということなのだろうか。


 先日、次に亜衣から宇宙人を紹介されても驚くまいと思った照瑠だったが、これには少し引いてしまった。いや、もしかすると、今目の前にいるこの少女こそが、宇宙人が人間に変身した姿なのかもしれない。


 相手の正体もわからないまま、照瑠はそんな彼女と正面に向かい合うことになった。亜衣が鞄を退かしたので、代わりに相手がそこに座って来たのだ。


「えっと……。それじゃあ、そろそろ変装を外した方がいいんじゃない? そんな格好だと、皆も誰だかわからないと思うしね」


 隣に座った少女の格好など何一つ気にすることなしに、亜衣はさらりと言ってのけた。少女はそれに無言で頷くと、帽子とサングラスをそっと外す。


「あっ……!!」


 それ以上は、言葉が出なかった。


 帽子とサングラスの向こうから現れた少女の顔に、照瑠は驚きを隠せないまま固まった。彼女の前に座っている者。その人物こそ、先日のコンサート会場で見たアイドルの一人、T‐Driveの長谷川雪乃に他ならなかったのである。


「こ、こんにちは……。長谷川雪乃です……」


 肩を小さく丸めながら、雪乃は遠慮がちにそう言った。舞台の上にいた時とは違い、妙に内気な印象が目立つ。これが、あの大舞台であれだけの大衆を前に歌っていた人間と、果たして本当に同一人物なのだろうか。


「緊張しなくてもいいよ、ゆっきー。この人達なら、ゆっきーの話もちゃんと信じてくれるはずだからね」


 雪乃の背中を、亜衣が軽く叩いて言う。その態度からして、どうやら亜衣が雪乃と知り合いということは本当らしい。もっとも、まさかこんなところで、昨日の舞台で歌っていたアイドルと同じ席を囲むことになるとは思わなかったが。


「それで……私達をここへ呼んだ理由は何なの、亜衣?」


「よくぞ聞いてくれました、照瑠殿。実は、昨日ゆっきーからメールの返信があってね。急に合って欲しいなんて返されたもんだから、気になって尋ねてみたら……なんでも、昨日のコンサートで歌っている時に、妙な物が見えたらしいんだ」


「妙な物?」


「そうだよ。まあ、詳しくは、ゆっきーから直接聞いた方がいいと思うけどね。私もそこまで細かくは聞いてないし……いいよね、ゆっきー?」


 雪乃の顔を覗き込みながら、亜衣が目配せをする。雪乃は無言で頷くと、照瑠達に事の詳細を話し始めた。

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