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~ 壱ノ刻   修業 ~

 九条神社の裏手、獣道のような林道を進んだ先に、その泉はあった。泉の向こう側には崖があり、その上から流れ落ちる水が白糸のような滝を作りだしている。


 泉の淵で深呼吸をすると、九条照瑠くじょうあきるはその清く澄んだ水の中へ、そっと自分の足を挿し入れた。


(うぅっ……! 冷たい……)


 瞬間、指先を切り裂かれるような痛みと共に、彼女の身体の芯を冷気が駆け抜けた。爪先から背骨を通り、頭まで走り抜けるようにして、彼女の身体に震えが走る。


 このまま、足を引き抜いた方がよいのではないか。そんな思いにも駆られたが、済んでのところで気を取り直した。真冬の水は彼女の肌を執拗に刺激していたが、ここで怯んでいては先に進めない。


 そろそろと、少しずつ水に身体を慣らすようにして、照瑠は泉の中へと入ってゆく。纏っている白装束が水を含み、彼女の身体にしっとりと張り付いてきた。


 腰の辺りまで身体を沈めると、照瑠は手にした桶で水をすくい、それを頭から思い切り被った。


「ひっ……!!」


 今まで慣らしていなかった場所に、急に水をかけたからだろう。思わず口から情けない悲鳴が漏れてしまったが、なんとかその先を咬み殺して寒さに耐える。一つ間違えれば心臓麻痺を起こしかねない行為だったが、それでも照瑠は再び泉の水をすくうと、何度も身体にかけていった。


 今、照瑠が行っているのは、典型的な禊の一種だった。神事の前に穢れを払うために行うもので、最も簡単なものでは、神社の一般参拝者が手を水で清めることも含まれる。これが更に厳しいものになると、滝に打たれて精神を研ぎ澄ます滝行などになってくる。


 両手、肩、そして最後とは胸元にも水をかけ、照瑠は少しずつ自らの身体の穢れを祓ってゆく。腰まで伸びた長い髪は水に濡れ、その先端は泉の中に広がって漂っていた。肌に張り付いた白装束が彼女の身体の線を強調し、その姿はいつもよりどこか神秘的な空気を漂わせている。


 神事に携わる者でなければ意識もしないことだろうが、俗世間を生きているだけで、人は様々な穢れにさらされている。日常生活を送るのには何ら支障がないものの、神事を行う際には十分な障害となり得るものだ。穢れたままの身体では神に触れることさえも許されず、修業そのものも上手く行かなくなる。


 滝行とまではいかなかったものの、照瑠の行っているものは、彼女の神社に代々から伝わる禊の儀であった。滝に打たれず、冷水で身体を清めるだけだったが、それでも真冬に行うのはかなりの抵抗感がある。禊の際に着るものが薄手の白装束一枚ということも相俟って、その寒さは想像を絶するものがあるのだ。


 泉の水を一通り浴び終えたところで、照瑠は逃げるようにして泉の中から飛び出した。あのままいつまでも泉の中にいたら、それこそ身体の芯から凍ってしまう。


 濡れた衣はそのままに、照瑠は泉の淵に脱いだ草履を履いて林道を下った。途中、道を吹き抜ける風にさらされる度に、衣の下の皮膚に鳥肌が立っているのがはっきりとわかった。どうやら自分は、まだまだ精神的な面でも肉体的な面でも修業が足りないようだ。


 林道を抜け、境内の隅にある脱衣所に入ると、照瑠はそこで今まで着ていた白装束を脱ぎ捨てた。そして、あらかじめ用意しておいた巫女の服に着替えると、そのまま社務所の裏口に向かう。


「お父さん、戻ったわよ!!」


 裏口で父のことを呼ぶと、社務所の奥から眼鏡をかけた男が顔を出した。その手には、なにやら小さな木の枝を挿した、鉢植えのような物を持っている。


 九条穂高くじょうほだか。照瑠の父であり、この九条神社の神主を務める男である。が、神主と言っても婿養子に過ぎず、彼は所詮お飾りに過ぎない。神霊に通ずる力など殆ど持ち合わせておらず、形式的な儀式を執り行うだけに留まっている。


 そんな父ではあったものの、彼とて腐っても神主。神事に関する知識だけは豊富であり、それは九条家に代々伝わる修業の内容に関しても同じだった。


「禊は終わったようだね、照瑠。それじゃあ……いつもの通り、神木の枝との対話を始めようか」


 そう言って、穂高は照瑠を社務所から続く社の本殿へと連れて行った。いつもは一般の参拝客さえ入らないような場所だけに、そこは常に静寂に包まれていると言っても過言ではない。


 本殿は拝殿とは違い、その神社の御神体が安置されている場所である。照瑠はおろか、神主の穂高でさえも滅多に開けない場所だったが、穂高は何の躊躇いもなく本殿の鍵を開けると、照瑠をその中に招き入れた。


 中の様子は拝殿とは異なり、実に殺風景な場所だった。もともと御神体を安置するのが目的の場所であり、供物を備えたり神事を執り行ったりするのは拝殿の方である。


 本殿の中へ足を入れると、穂高は照瑠にその場に座るように言った。そして、手にしていた鉢植えを彼女の前に置くと、自分は一足先に本殿を出る。そのまま本殿の鍵を閉め、中には照瑠と鉢植えだけが取り残された。


 薄暗い部屋の中で、照瑠は目の前に置かれた鉢植えの枝を見つめていた。彼女の正面には御神体の安置されている箱があり、それは注連縄でしっかりと封印が施されている。中に何が入っているのかは、照瑠も穂高から教えてもらってはいない。


 大きく息を吸い込んでから、照瑠は鉢植えに刺さっている木の枝にそっと手を伸ばした。上から下へ、慈しむように枝を撫でながら、その中に自分の持つ癒しの気、生命力の根源とも呼べる力を注ぎ込んでゆく。


 自分に不思議な力があると気がついたのは、いったい何時の頃からだっただろうか。恐らく、生まれ持って備わった力なのだろうが、本格的にそれを意識し始めたのは、照瑠が高校に上がってからだった。


 自分が手を握ったり患部をさすったりすることで、頭痛や腹痛を起こしている相手の苦しみを和らげることができる。照瑠の友人であり都市伝説マニアの少女、嶋本亜衣の命名した神の右手。


 初めは下らない迷信だと思っていたが、今では照瑠も、その力の存在をはっきりと感じ取ることができるようになった。それは一重に、彼女自身が自らの力を使いこなせるようになりたいと思ったことが大きい。


 一カ月程前、彼女の住んでいる火乃澤ほのさわ町を中心に起きた連続殺人事件。照瑠もまたその事件に巻き込まれ、最後は自らも命の危険にさらされた。そして、そんな照瑠を救ったのが、事件の数週間前に彼女が出会った少女、天倉癒月あまくらゆづきだった。


 照瑠を救うため、そして己の父親の所業を清算するため、癒月は炎に包まれる天倉医院の中に姿を消した。その際、自分は何もできず、ただ怯えて震えているだけだった。


 別れ際に、天倉癒月は照瑠に言った。照瑠がいつも癒月自身を助けてくれていたと。だから、今度は自分が照瑠を助ける番なのだと。そう言って、癒月は狂気に支配された自らの父親を抑え、最後は照瑠の目の前でこの世を去った。


 事件の後、照瑠は自分が本当に癒月の力になってやれていたのかを改めて考えた。確かに、彼女が悪夢にうなされていることに対して相談に乗ったり、廊下で倒れた彼女を保健室まで運んだりもした。が、それが本当の意味で癒月の助けになっていたとは、照瑠には到底思えなかった。


 癒月が巻き込まれていたのは、他でもない向こう側の世界・・・・・・・の力が関係した事件だった。禁術という忌まわしき闇の力によって運命を狂わされた癒月は、自らの命を絶つことでしか、その呪われた力から解放されることができなかった。


 もう、癒月のような者を増やしてはならない。そのためには、自分の中に眠る力を解放する必要がある。そう考えて、照瑠は父である穂高に巫女としての本格的な修業を行いたいと頼んだのだ。


 照瑠からその言葉を聞いた時、初めは穂高も難色を示した。今は亡き彼の妻の遺言によれば、照瑠には可能な限り、普通の女の子としての生活も経験させてやって欲しいとのことだったからだ。


 本当は、照瑠が十六歳の誕生日を迎えるまで、穂高はこの話を秘密にしておくつもりだった。それまで照瑠には普通の女の子として生活してもらい、頃合を見計らって巫女の修業を開始する。彼の頭の中にあったのは、そんな計画である。


 だが、娘である照瑠から修業したいと申し出て来たのであれば、穂高もそれを断るわけにはいかなかった。


 元より、九条家は代々女系の一族である。巫女としての力は女にしか遺伝せず、その中でも最も強い力を持った者が、次代の巫女となる。照瑠の母も、祖母も、そうやって巫女としての力を手に入れて、最後は街の癒し手として多くの人の助けになってきた。


 再び息を大きく吸い込むと、照瑠は肺の中に溜まった空気を、そっと吐き出しながら木の枝を愛でた。優しく、慈しむようにして、その根が鉢に根付くように祈りながら。その枝先に、春になれば青々とした若葉となる、小さな蕾が生まれるように願いながら。


 九条家の巫女に代々伝わる力。それが、照瑠も潜在的に持っていた癒しの力だった。父の話によれば、照瑠の潜在能力は代々の巫女の中でも極めて高いものらしい。無意識の内に力を発動することも稀ではなく、それが今まで、彼女が友人達の頭痛や腹痛を払ってきた原因だったのだろう。


 癒しの力は、闇の力と相反するもの。その力があれば、闇に呑まれて苦しみながら死んでゆく人間も助けられるのではないか。あの、天倉癒月のような者を、これ以上出さずに済むのではないか。そう考えた照瑠が修業に精を出すようになったのは、実に自然な流れだった。


「ふぅ……。今日は、ここまでかな……」


 自分の肩に軽い脱力感を感じながら、照瑠は鉢植えから静かに手を離した。随分と長い時間、それこそ実に小一時間ほど気を送っていたために、照瑠の顔にも少々疲れが見える。


 程なくして本殿の扉が開き、穂高が照瑠のことを迎えに来た。彼女の前に置かれた鉢植えを手にとって見ると、穂高は「まだまだ、相手のことを感じ取る力が弱いね」とだけ言って本殿から出た。


 照瑠も無言のまま立ち上がると、穂高に続いて本殿を後にした。そのまま二人して社務所の裏口に回り、少し古びた木製の扉を横に開く。


 あれだけ頑張って気を送ったのに、父は一言も誉めてはくれなかった。だが、今日の結果は照瑠自身もよくわかっていただけに、何かを言い返す気にはならない。


 穂高の話では、照瑠は既に自分の中にある気の存在を感じ、その力で他人を癒すところまではできるようになっているとのことだった。もっとも、照瑠自身にその自覚はない。無意識の内に、それこそ感覚的にやっているだけで、自分で力をコントロールしているとは到底思えない。要は、やってみたら、何故だか知らないが上手く行ったという程度のものだ。


 自分でも知らない内に、力の使い方を徐々に覚えて行く。それだけでも凄い事ではあるのだが、照瑠の目指すものはその先にある。


 穂高の話では、今の照瑠は一方的に相手に陽の気を送りこんでいるだけとのことである。相手の調子に合わせることなく、とにかく気を送りこんで活力を与える。一見して強い癒しの効果があるように思えるが、これでは駄目なのだ。


 ヒーリングとは、時に相手の気の流れを感じ、さらには相手に合わせて局所的に気を送り込むことで初めて成功する。一方的に気を送り続けることは、言うなれば点滴のようなもの。一時的に全身が活力に満ち溢れるが、それでは真の癒しの効果は望めない。


 現に、先ほど照瑠が撫でていた枝も、彼女が修業を始めてからまったく成長の兆しを見せていない。神社の裏山にある御神木の枝を挿し木にしたものなのだが、一向に鉢植えに根付いた様子がないのだ。


 照瑠が気を送り続けることで枯れてしまうことはなかったが、それでも所詮は延命治療のようなもの。彼女が真に自分の力を操れるようになるのは、まだまだ先のことになりそうである。


「まあ、そう慌てずに、ゆっくりと力をつけることだよ」


 修業が思うように捗らない照瑠に、穂高はそう言った。


 照瑠の才能は、穂高もよく心得ている。彼自身、神霊に通じる力は殆どないと言ってよかったが、それでも自分の妻が生前に見せていた力を知っているだけに、その一端を娘が無意識の内に使いこなせるというだけでも密かに感心していたのだ。


「それじゃあ、私は掃除に行ってくるから。お父さんは、悪いけど鉢植えをよろしくね」


「ああ。この季節、まだまだ枯れ葉も多いからね。修業に神社の仕事に、それから学業……。しばらくは大変だと思うけど、くれぐれも無理をして風邪なんか引かないでくれよ」


「わかってるって。お父さんこそ、テレビ見ながらコタツで寝て、悪い風邪を引き込まないようにしてよね」


「大丈夫だよ。その時は、照瑠の力で治してもらえばいいことだからね。この調子なら、来年から我が家は医者要らずってことになるだろうし……」


「ちょっと、お父さん! 自分の娘を風邪薬代わりに使おうなんて……本当に調子がいいんだから!!」


 玄関先にある竹箒を手に取って、照瑠が少々呆れた顔をしながら叫んだ。


 常に飄々とした様子で人を食った態度を崩さない。神主の癖に妙に俗っぽく、どこまで本気で物事を考えているのかさえもわからない。


 照瑠から見ても、穂高はそんな父親だった。修業をするために彼の知識を頼らねばならないとはいえ、話をしているとどうにも調子が狂ってくる。年頃の娘にありがちな父親を毛嫌いする関係にまでは至らなかったが、それでも照瑠はもう少し自分の父にしっかりして欲しいと思っていた。


 ガラガラ、という戸の閉まる音がして、照瑠は社務所を出て行った。独り残された穂高は社務所の奥に引っ込むと、そのまま客人を招くときに使う応接室の襖を開けた。


 いつもであれば、殆ど使われることのない社務所の一室。正月にはまだ早いため、参拝客がここを利用することも少ない。が、今日に限って卓袱台の上にはお茶の入った湯飲みが置かれ、その前には赤い目をした一人の少年が座っていた。


 湯飲みのお茶を飲み干して、少年は無言のまま穂高を見た。その肌の色は雪のように白く、髪の色もまた脱色されたような白金色に染まっている。虹彩は血のように赤く、その瞳の中には常に影のようなものを漂わせてもいる。彼が先天的に失陥した白子症であることは、誰の目からも明らかだった。


「お待たせしましたね、犬崎君」


 穂高はそう言って卓袱台の前に腰を下ろしたが、少年は答えなかった。


 犬崎紅けんざきこう。闇を用いて闇を祓う、赫の一族の末裔。己の影に犬神を住まわせ、あらゆる魂を貪欲に喰らう妖刀をも使いこなす、現代を生きる外法使い。


 今年の六月に起きた『八ツ頭事件』において、彼はその裏で暗躍する古の怪物を封じるために、火乃澤町にやってきた。穂高と彼は、その際に知り合った。


「いやあ……それにしても、我が娘ながら、照瑠の才能には驚かされますよ。修業を始めてから一月と経っていないというのに、もう自分で癒しの力を相手の身体に送り込むことができるようになっているのですから」


「親ばか……というやつか? あいつの才能は俺も十分に知っている。だが……才能だけで全てが上手く行くほど、向こう側の世界・・・・・・・に通ずる力の制御は楽ではないぞ」


「これは手厳しいですね。ですが……まったくもって、その通りですよ。現に照瑠は、まだ感覚でなんとなく対象に力を送っているに過ぎません。もっとも……それでさえ、並みの霊能者でも数年は修業を積まねばできないことなのですけどね」


 穂高は何気なく言っていたが、彼の言っていることが極めて特殊な例であることは、紅も十分に理解していた。


 向こう側の世界・・・・・・・の者と戦う力を得るために、紅自身もまた厳しい修業を積んできた経験のある人間である。それこそ、物心ついた時分から祖父に剣の使い方を手解きされ、小学生の頃は、ひたすらに常人が見ることのできない存在を見ることができるように力を開発された。


 四国の山奥にある村で、代々退魔師としての仕事を続けて来た家系の紅でさえ、素のままでは向こう側の世界・・・・・・・に通じる力を操ることなどできなかった。己の家系、赫の一族の中でも最年少と呼べる程に紅は若かったが、彼の力は決して才能に依存して得たものではない。


 九条照瑠の力が優れていることは、紅も彼女と出会った頃から気づいていた。古の魔物との戦いで傷つけられた紅の霊体を、照瑠は触れるだけで癒したのである。今まで膝を大地についていた紅が、すぐに立ち上がって山道を降りられるまでに回復させたのだから、その力の凄さがわかるというものだ。


 しかし、紅はそれだけに照瑠のことが心配だった。


 向こう側の世界・・・・・・・に通じる者は、自らもまた向こう側の世界・・・・・・・の存在と引き合う運命にある。それは、時に偶然の様な出会いかもしれないが、互いの存在がテレパシーのような何かで、無意識に引き合っていたことには変わりない。


 照瑠が強い力の持ち主であり、その力を更に開発しているのであるとすれば、これからも彼女は向こう側の世界・・・・・・・の存在と関わることになるのだろう。そして、優れた才能は時として、その持ち主を闇の世界に引き込むきっかけを作ってしまうこともある。


「ところで……俺をこの場に呼び付けた理由は何だ? まさか、わざわざ娘の自慢をするために、ここへ呼んだわけでもないだろう?」


 お茶を飲み干した後の湯飲みを脇に退け、紅はその燃えるように赤い瞳で穂高を見た。彼の予想が正しければ、穂高が紅をここへ呼び付けた理由はただ一つだ。


 果たして、そんな紅の考えは正しく、穂高も自分の前にある湯飲みのお茶を飲み干して紅を見た。中身は既に冷めてしまっていたが、さほど気にはしていないようである。そして、少しだけずれた眼鏡の位置を指で直すと、先ほどとは異なる真面目な表情に変わって語り出した。


「やはり、さすがと言うべきなのでしょうね、犬崎君。私がいかにオブラートに包もうとしても、あなたはいつもその先にあるものに感づいてしまう。本音と建前を使い分けるのは得意なつもりだったのですが……私もあなたには隠し事ができそうにありません」


「前置きはいい。それで……俺をここへ呼んだ理由は何なんだ?」


「それも、あなたは既に気付いているのでしょう? 私があなたをここへ呼んだのは、他でもない照瑠のことで頼みがあるからですよ」


「やはりな……。修業で少しずつ力を操れるようになっている今が、一番危険な時でもある。慢心から己の力に溺れたら、その結果に待つのは破滅だけだからな」


 紅の目に、憂いとも取れる表情が浮かんだ。その瞳が意味するものを、穂高は知らない。が、紅の過去に思い出したくない何かがあることだけは、彼にもわかった。


「まあ、慢心というわけではありませんが……照瑠は少し急ぎ過ぎているような節がありましてね。そう簡単に力を操れるようになれば苦労はしないというのに、少し行き詰まっただけで、早くもスランプになりそうな感じなのですよ」


「なるほど。だが、俺にはあんたの娘の修業を手伝うような真似はできないぞ。あいつが悩んでいるからといって、カウンセラーの役割を引き受けるのも柄じゃない」


「そこまでは望みません。ですが、今の照瑠がひじょうに不安定な状態にあるのも確かです。無論、あなたの言う向こう側の世界・・・・・・・の住人との邂逅が、より悪い方向で果たされる可能性も含めてね」


「それは言えているな。ならば俺も、もうしばらくは火乃澤町に留まろう。その間、あんたの娘が妙な連中と関わり合いを持たないように努めること。そして、万が一のことがあった場合、その闇をあいつに代わって祓うこと。それが、そちらの望みだろう?」


「いや、さすがに話が早くて助かりますよ。では、これからもうちの娘を頼みますよ」


「ああ、任せておけ。こちらもそれとなく見張らせてもらうさ。せいぜい……ストーカーに間違われない程度にな」


 そこまで言って、紅は自分の言葉に思わず苦笑した。


 |向こう側の世界の住人と関わるようになってから、冗談などとは無縁の生活を送ってきた。そんな自分の口から、先ほどのような台詞が出る。これも、この火乃澤町に来てから出会った、様々な人間の影響かと思えた。


 今までも多くの霊的な存在が関わった事件に巻き込まれながら、それでも真っ直ぐに立ち向かうことを忘れない九条照瑠。都市伝説オタクで、底抜けの明るさと奇妙な人脈を持つ少女、嶋本亜衣。そして、その他にも自分の周りで実に賑やかな学園生活を送っている、様々な級友たち。


 その数は決して多くはなかったが、今の自分は昔に比べて恵まれている。その影響が自分にもまた現れていることに、紅は不思議な気持ちになった。


 四国の外れ、故郷の土師見はじみ村にいたときには、およそ考えられなかったことである。古くからの因習に囚われた村の中で、紅達の一族に向けられていたのは偏見の入り混じった畏敬の念。それは時に露骨な差別として紅を幾度となく苦しめた。


 この世に生を授かったときから、自分には異端者としての人生しかない。だが、それを受け入れられなかった一人の少女は、紅に対して依存することで苦しみから逃れる術とした。その結果、彼女は心を闇に蝕まれた上で、紅の手にかかって現世うつしよから消えた。


 忘れもしない、自分が初めて本格的に向こう側の世界・・・・・・・に足を踏み入れたときの事件である。あれから既に二年程の時が経った今でも、そのやるせなさは未だに紅の心の奥底に染みついて離れない。


 傍らに置いてあった荷物を片手に、紅はその場を何も言わずに立ち上がった。もう一杯、お茶でも飲んで行けと促す穂高を適当にあしらい、そのまま部屋を後にする。


 九条照瑠が変わって行くように、自分もまた変わって行く。それは喜ばしいことなのかもしれないが、それでも紅は、自分の中にある闇を忘れたわけではない。


 自分が九条照瑠を守ると決意した理由。それは、生まれながらに強い力を持った者が、その力の強さ故に闇に堕ちてゆくのを救いたいという想いからだ。


 赫の一族として、自分が背中に背負っている様々な咎。それを清算するために、贖罪の一環として闇と戦う決意をした。そのためには、己の中に巣食っている闇を、決して忘れてはならないのだ。


 自分に純粋な好意を抱いていた一人の少女。彼女をその手にかけてしまったことを含め、まだまだ紅自身、己の業に対する贖罪を果たせたとは思っていない。


 神社の境内を掃除する照瑠に気づかれないよう注意しながら、紅はそっと社務所の外に出た。幸い、照瑠は裏手の方に回っているようで、鳥居の前には誰もいない。


 枯れ葉を踏んで足音を立てないように気をつけつつ、紅は急ぎ足で鳥居に続く階段を降りた。穂高の依頼のことを照瑠には伝えていないため、彼女に出会って話がこじれるのはよくないと思った。


 入相の鐘が鳴り響き、辺りは既に血のような夕日に染められている。神社の鳥居に向かって伸びる紅の影は、その背丈の数倍はあろうかという長さにまで伸びている。


 石段を降りたところで、紅はちらりと後ろを振り向き、その先に見える自分の影に目をやった。傍から見れば何の変哲もない影だったが、紅にはそれが、金色の目をした巨大な犬の姿に映っていた。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 暮も近くなると、それに伴い学校も行事が減ってくる。やれクリスマスだ、大晦日だと家が騒がしくなる一方で、それらに直接関わっている学校行事がないことが原因だろう。


 照瑠達の通う県立火乃澤高校も、それは例外ではない。今週の金曜で学校も終わり、その翌日はクリスマス。そして、そのまま流れるように冬休みに入り、後は翌月の第二週辺りになるまで学校はない。ただ、その前に学校行事の中でも最も面白くないものの一つ、通知表渡しがあるのが気に入らなかったが。


「おっはよ、照瑠! 今日も寒いね!!」


 照瑠が校門をくぐろうとしたその時、聞き慣れたハスキーボイスが耳に入った。声のする方に顔を向けると、そこにあるのは小学生程の背丈しかない少女の姿。もっとも、彼女の着ているコートからして、同じ火乃澤高校の生徒であることは間違いない。


「あら、亜衣じゃない。あなたが遅刻しないで来るなんて、珍しいじゃない」


 目の前の小柄な少女、嶋本亜衣に対し、照瑠は少々驚いたような表情をして言った。


 都市伝説マニアで有名な間が、実際のところ、その趣味は実に多岐に渡る。思いつきでボランティアに参加してみたり、祭りともあれば年甲斐もなく騒ぎまくったりと、その行動には枚挙に暇がない。怪しげな深夜番組を夜通しで見て、その結果、寝坊して学校に遅刻することもしばしばである。


 そんな亜衣だったが、今朝は珍しく照瑠と同じ時間に登校して来ていた。朝のホームルームが始まるまでは、まだ三十分も時間がある。


 遅刻魔として担任からも目をつけられている亜衣が、こうも早く学校に来る。これはきっと、また何か妙なことを企んでいるに違いない。思わずそんな考えが頭をよぎり、照瑠は心の準備をしてから亜衣に話しかけることにした。


「ねえ、亜衣……。あなた、今日は随分と早いけど……何か、また変なことを企んでいるってわけじゃないわよね?」


「むぅぅ……。変なこととは失礼な! 今日は照瑠に、とってもハッスルできる話を持ってきたってのに!!」


「とってもハッスルって……。悪いけど、私はあなたみたいに、後先考えずに馬鹿騒ぎするような人間じゃないからね」


「大丈夫、大丈夫。今回のやつは、普通の人でも絶対に楽しめることだから!!」


 自信に満ち溢れた表情を浮かべ、亜衣は照瑠にそう言った。だが、亜衣の価値観が一般のそれと微妙にずれていることを考えると、ここで油断して話に乗るわけにもいかない。


「まあ、あなたが何を考えているのかは知らないけど、とりあえず話だけは聞いてあげるわ。それで、私にも楽しめそうなものだったら、その時は改めて御一緒させてもらうわよ」


「おお、話が早いですな、照瑠殿! でも……物が物だけに、ちょっとこんな場所で話すのも気が引けるんだよね……。ってことで、続きは教室に入ってからってことでいい?」


「散々勿体つけておいて、オチはそれなの? 確かに、こんな寒い場所で立ち話ってのは、私もどうかと思うけど……」


「まあまあ、そう言わずに。楽しみは最後まで取っておいた方が、感動も大きくなるって言うしね!!」


 妙に説得力のある台詞を言いながら、亜衣は滑るようにして通用口へと走り込んで行く。その後を、照瑠も仕方なしに追って行く。


 校舎の中に入ると、そこはほんのりと温かい空気が広がっていた。火乃澤町は東北にある小さな町。豪雪地帯に位置しているだけあって、学校側も冬場に備えた暖房の用意は抜かりない。


 階段を上がって教室に入ると、廊下よりも更に温かい空気が照瑠達を迎え入れた。手袋とマフラーを外すと、首元や手先が冷えないことに思わず安堵の溜息が出る。


「さて、と……。それじゃあ、どこから話しましょうかね、照瑠殿?」


 亜衣が椅子に後ろ向きに腰かけて言った。


「どこからも何もないわよ。私はまだ、あなたが何を考えているのかさえ聞いてないんだから」


 コートを教室の壁にあるフックに掛けながら、照瑠も亜衣に言葉を返す。それを見た亜衣は、「そうでしたぁ~」などと言いながら、わざとらしく頭を叩いた。


「それで……話っていうのは何なの、亜衣?」


「ふっふっふ……。聞いて驚いたら駄目だよ、照瑠。実は私……こんな物を手に入れたんですなぁ……」


 思わせぶりな笑みを浮かべながら、亜衣は鞄の中から数枚のチケットのような物を取り出した。よくよく見ると、それはどうやら何かのコンサートのチケットのようだ。大方、怪しげな都市伝説の本でも出してくると思っただけに、照瑠としては少々拍子抜けである。


「それ、コンサートか何かのチケットよね? いったい、誰のコンサートなの?」


「よくぞ聞いてくれました! 実はこれ、今話題のT‐Driveのやっている、地方公演コンサートのチケットなんだよね。今度の土曜日にやるらしいから、照瑠もよかったら行ってみない?」


「T‐Driveって……それ、今巷で人気のトップアイドルのコンサートじゃない! ファンクラブの会員だってチケットを入手するのが難しいって言われているのに、どうしてまたそんな物を……」


「いやいや、そこは『人脈の亜衣ちゃん』ですから。もっとも、さすがの照瑠も私がT‐Driveのメンバーの一人、長谷川雪乃ちゃんの幼馴染だってことは知らなかったみたいだけどね」


「は、長谷川雪乃の幼馴染って……。亜衣、あなた、それ本当なの!?」


 亜衣の口から出た言葉に、照瑠は思わず目を丸くして声を上げた。


 長谷川雪乃と言えば、紛れもないT‐Driveのメンバーの一人だ。普段は大人しく控え目な印象が目立つが、ステージで歌っている時の歌唱力はかなりのものがある。照瑠は彼女のファンというわけではなかったが、国民的なアイドルの一人を知らないわけではなかった。


 それにしても、あの嶋本亜衣が、T‐Driveの一員と幼馴染だったとは。いつもは『人脈の亜衣ちゃん』という彼女の自称に呆れてもいたが、今回ばかりは脱帽である。


 しかも、長谷川雪乃と亜衣が幼馴染であるということは、雪乃はこの火乃澤町の生まれということになる。確かに彼女は公式のプロフィールでも東北の生まれとされていたが、まさかそれが、自分の住んでいる街だとは思わなかった。なんというか、世界というのは広いようでいて、意外と狭いものである。


「それで……あなた、どうやってコンサートのチケットを手に入れたわけ? 大方、長谷川雪乃のマネージャーか、または本人に頼んで強引に手に入れたんでしょうけど……」


「ご名答! ゆっきー・・・・と私は、今でも時々メールでやり取りするような仲だからね。コンサートのことを聞いて、これはチャンスと思って連絡したら、気前よく四枚も送ってくれんだ!!」


「なるほどね。でも、どうして四枚も送ってもらったのよ。あなたがコンサートに行くだけなら、一枚だけでいいじゃない」


「うん……。実は、そのことなんだけど……」


 照瑠から言われ、亜衣は突然決まりが悪そうな顔をしながら言葉を濁した。先ほどまでの調子は姿を消し、どこか人の目線を避けるようにして話し出す。


「ゆっきーに頼んで送ってもらったチケットの内の三枚を、ネットオークションで転売しようとしたことが親にバレまして……。ネット上でもダフ屋行為は禁止されているようなものだから、さすがに怒られちゃってね。誰か、友達と一緒に行くとか……とにかく全部のチケットを正しい使い方で使い切らない限り、コンサート前に全部没収だって言われちゃったんだよね……」


「はぁ……。まったく、どうしてあなたは、いつも妙なところで悪知恵を働かせるのよ……。しかも、チケットの転売って……さすがに今回のは、正直笑い事じゃ済まないわよ」


「はい、反省してます……。と、いうわけで……私と一緒に、コンサートに行ってくれませんかね、照瑠殿? このまま誰も一緒に行く人がいなかった場合、チケットは漏れなく一枚残さず親に没収されてしまうわけでして……」


「仕方ないわね……。今週末の土曜日って言うと、調度クリスマスの日よね。私も別に用事があるわけじゃないし、一緒に行ってあげるわよ」


「おお、照瑠殿~! やはり、持つべきものは、お互いに彼氏のいない友達ですなぁ……」


 そう言いながら、亜衣は照瑠の手を大袈裟に握り締めてきた。まったくもって呆れ返るばかりの展開に、照瑠は開いた口が塞がらない。トップアイドルと幼馴染だったと知って、少し感心したら、もうこれである。


「とにかく、これでチケットの内の一枚は消えたわね。残るは二枚だけど……他に誰か誘う当てでもあるの?」


「いや、それがさっぱりなんだよね……。クリスマスは、みんな何処かしらに出かける予定が入ってて……。今から誘うとなると、やっぱり難しいんだよ」


「そっかぁ……。なら、詩織と長瀬君でも誘おうかな。あの二人だったら、割と気軽につき合ってくれそうな気がするけど……」


 自分の所属する文芸部の友人と、その彼氏である少年。二人のことが頭に浮かんだ照瑠だったが、亜衣はそんな照瑠の提案をすぐさま否定した。


「駄目だよ、照瑠。クリスマスともなれば、恋人とは水入らずで一緒にいたいと思うものだって」


「そうよねぇ……。いくら二人の仲を皆が知っているからって、やっぱり友達も混ざって過ごすっていうのは、ちょっとムードに欠けるわよね……」


「そうそう。それこそ、今週末はあの二人、『玄関開けたら二分であはん♪』な甘々の展開になっているかもしれないんだしさ」


「朝から真顔で下ネタ言うの止めなさい、亜衣……。でも、そうすると、他に誘えそうな人って思い当たらないなぁ。亜衣のお得意の人脈でも暇人を捕まえられないんだから、私じゃこれが限界か……」


「だよねぇ……。このままじゃ、チケット取り上げ確定だってのに……ああ、どうしよう、照瑠~」


「そうやって、捨てられた子猫みたいな目で見られても困るわよ。まあ、今週末までには、まだ時間があるんでしょ? だったら、その間に暇している人を見つければいいじゃない」


 目の前で泣きそうになっている亜衣をなだめながら、照瑠はふと犬崎紅のことを考えた。いつも図書室で居眠りしている彼ならば、暇なことには違いない。


 だが、そんな自分の考えも、今の状況を変えるためにさして役立つとは思えなかった。あの犬崎紅が、自分からアイドルのコンサートに出掛けるような人間とは到底思えない。仮にこちらが誘ったとしても、面倒臭そうな顔をして断るに決まっている。


 やはり、紅は当てにできない。ここは友人のためにも、なんとか今週中にコンサートに行くメンバーを集めないとまずそうだ。


 月曜の朝からとんだ苦労を背負い込むことになった照瑠だったが、それでも彼女は心のどこかで週末のコンサートを楽しみにしていた。


 ここのところ、家での修業もなかなか進展がない。あれこれと悩んでいても行き詰まるだけだし、ここは一つ、気分転換にもなるだろう。アイドルの歌などまともに聞いたことは少ないが、たまにはそういった類の曲で盛り上がるのも良いかもしれない。


 暮の迫る最中、降って湧いたように訪れたコンサートへとの誘い。だが、この時は、それが新たな事件の幕開けであることに、照瑠はまったく気づいていなかった。

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