~ 逢魔ヶ刻 蟲夢 ~
その身に毒を蓄えし者が集いし時、狂気の晩餐が幕を開けん。
闇の中に閉ざされし者達、己が欲を満たすため、互いにその身を食い滅ぼし合わん。
争い終わり、最後に生き残りし者、巫蠱となりて人界に災厄をもたらすものなり。
師走とは、十二月の別称である。いつ、誰がこのような呼び方をし始めたのかは分からないが、少なくとも平安時代には既に用いられていたとされている。
一説によれば、僧侶が仏事で走り回る程に忙しくなることからつけられたといわれており、ここでの僧侶とは師に当たる。また、言語学的な推測として、『年果てる』や『し果つ』が師走に変化したとも言われており、この場合の師走という漢字は単なる当て字ということになる。
暮の頃に一際忙しくなる僧侶の姿を指したものなのか、それとも単なる当て字なのか。未だ完全な結論は出ていないが、少なくとも暮が迫ると人々が忙しなく動き回るようなるようになるのは本当である。それは何も僧侶だけに留まらず、芸能界においても同じことが言えた。長谷川雪乃も、そんな人間の一人である。
芸能界が常に慌ただしいことは、雪乃もこの業界に入ったときから知っていた。春夏秋冬を問わず、今では多くの局で多種多様なバラエティー番組が放送されている。単に流行りの歌をステージで歌っていればよいという時代は既に終わり、今では歌手、俳優業、そして司会やレポーターなど、実に様々な仕事をこなせなければ、この業界では生き残ってゆくことなどできはしない。
そんな厳しい風の吹く業界において、雪乃はアイドル歌手という立場にいた。無論、彼女一人ではなく、他の二人のアイドル達とチームを組んで、T‐Driveという名のユニットで売り出してはいたが。
T‐Drive。デビュー当時はまったく目立たないユニットであったものの、今では雪乃達も国民的なアイドルだった。彼女たちの名前を知らない者など十代の若者の中にはおらず、歌番組に顔を見せない時の方が少ないほどだ。
正直なところ、未だ高校生の雪乃にとって、勉学とアイドル活動の両立は厳しいものがあった。現に今は学校さえ殆ど行っておらず、実家にも帰っていない。会社が用意してくれた都内のアパートで、一人暮らしを続けていた。
「雪乃! そろそろ、私達の出番が来るわよ!!」
楽屋の扉の向こうから、雪乃の名を呼ぶ声がする。慌てて衣装を確認しながら、雪乃は扉の向こうにいるであろう人物に返事をする。
「あっ、夏樹ちゃん。今……ドアを開けるから……」
そう言って扉に手をかけようとしたが、彼女がそれを開けるよりも早く、向こう側にいた少女が扉を開け放った。
「遅い!! まったく……折角の地方公演だって言うのに、いつまで楽屋に籠っているつもりなの!?」
「ご、ごめんなさい……。私……なんだかちょっと、緊張してて……」
「ここまで売れて、武道館でもドームでもライブをやったようなことだってあるのに、今さら何言ってんのよ!! マイペースなのもいいけど、時間は意識してもらわないと困るわよ!!」
扉を開けるなり、その向こう側から現れた少女が雪乃を責めた。もっとも、決して悪意があってのことではなく、彼女なりに思うことがあってのことなのだが。
「とにかく、もうすぐ私達の出番ってことは変わりないからね。精神統一するのは勝手だけど、舞台には遅れないようにしてよね!!」
眉根を吊り上げたまま、その少女は雪乃を置いてつかつかと廊下を歩きだした。その衣装からして、彼女もまた雪乃と同じアイドルであることは間違いない。だが、普段のファンに見せているような笑顔は完全に消え去り、その表情は大いに苛立ちを露わにしていた。
鈴森夏樹。それが、先ほど雪乃を叱責していた少女の名前だった。彼女もまたT‐Driveの一員であり、同時にユニットのリーダーでもある。すらりと伸びた背丈と、どことなく気品のある細面な顔が特徴的である。
その容姿からも想像できるように、夏樹は気丈な少女だった。それだけでもリーダーとしての資質は十分だったが、同時に自分にも他人にも厳しいところがあるのは否めない。夏樹の時間に対する細かさは彼女たちのプロデューサー以上だったし、歌であろうとドラマや舞台における演技であろうと、一切の妥協を許さぬプロ意識があった。
苛立つ気持ちを抑えながら、夏樹はこれから始まるステージの裏へと回った。彼女たちの出番はまだ先のことだったが、それでも早めに行動しておくにこしたことはない。
どんな舞台であれ、常に最高のステージにすること。それが、夏樹の掲げている自分の中での目標である。今でこそトップアイドルグループの仲間入りを果たしているT‐Driveだが、その結成経緯は決して明るいものではなかった。
ユニットのリーダーは夏樹であり、その以外には温和で大人しいキャラクターで売っている雪乃、メンバー最年少でありムードメーカーの鳴海咲花がいる。その誰しもが、ユニット結成前から芸能界に足を突っ込んでいた経験のある者だった。
そもそも彼女達がアイドルとしてデビューしたときは、三人が三人ともソロだった。
業界では少々名の知れた舞台俳優を母に持つ夏樹は、親の七光を嫌って自分の路線を築くためにデビューした。
雪乃は元々アイドル志望だったが、その大人しい性格が災いし、なかなか強引な売り込みをかけられずにいた。歌唱力は決して低くはなかったが、業界でトップアイドルとされる者達から比べれば、まだまだデビューしたてのひよっこに過ぎなかった。
そして、最後に咲花であるが、彼女は子役の出身である。歌が好きでミュージカルの舞台に出ることもあったが、やはり彼女も売れてはいなかった。それは、もっと歌を歌いたいという気持ちから、アイドル歌手としてデビューしても同じだった。
その経緯はそれぞれに異なりながら、奇しくも同じ時期に同じ事務所でデビューした三人。だが、その誰もがデビュー当初はまったく売れず、持ち歌が毎週のヒットチャートに載ることもなかった。上位百番にさえ掠りもしなかったのだから、ほとんど見向きもされていなかったと言ってよい。加えて、彼女たちの所属しているのが業界内でも弱小のプロダクションだったということも相俟って、その売り上げは実に悲惨なものだった。
そんな三人の窮状を見かねてか、彼女たちのプロダクションの社長がユニットを結成して活動することを勧めてきた。プライドの高い夏樹は反対したものの、売れないアイドルが何を言っても所詮は机上の空論に過ぎない。結局、三人はなし崩し的にユニットを結成させられ、それからはチームで活動してきたというわけである。
売れないアイドル達をなんとか売れるようにするために、これまた弱小のプロダクションが打ち出した苦肉の策。だが、一つ一つではまったく輝かなかった彼女達は、ユニットを組むことで徐々に頭角を現し始めた。そして、今では夢のトップアイドルの仲間入りを果たし、現在は暮の地方公演の真っ最中というわけである。
開幕の時間が徐々に迫る舞台裏で、夏樹は自分が夢にまで見た高みに昇り詰めていることを、ゆっくりとその胸に刻み込んでいた。
どんな時も、初心を忘れない。それが彼女独自の精神統一法である。慢心は己を堕落させ、つかんだ栄光を瞬く間に奪い去る。そのことを知っているだけに、今日のライブの流れに関しても抜かりはない。
(私は……私は、もっと上を目指すのよ……。こんな地方公演や、ドームでのライブだって物足りない……。いつかはこの業界で、お母さんを越えるような存在になってやるんだから!!)
そう、夏樹が思ったとき、彼女の後ろから聞き慣れた声がした。
「お待たせ、夏樹ちゃん。準備、整ったよ」
後ろにいたのは雪乃だった。冬だというのに、腕や脚の露出した衣装は見るからに寒そうだ。夏樹も同じような衣装を着ているために人のことは言えないが、雪乃は特に色白なため、それが際立って見える。
「時間ぎりぎりってとこね。まあ、あなたのことだからヘマはしないと思うけど……もう少し、ゆとりを持って行動した方がいいんじゃない?」
「ご、ごめんなさい……。私、昔からマイペースなところがあるから……夏樹ちゃんには、いつも迷惑かけてるよね……」
雪乃が視線を下に向け、思わず口元を抑えて後ずさった。それを見た最後のメンバー、鳴海咲花が、すかさず持ち前の明るさで場の空気を戻す。
「まあまあ……。ライブの前から、そんなにピリピリしても仕方ないですよ、夏樹さん。雪乃さんも、あんまりネガティブな気持ちで舞台に出ると、本当にステージで転んじゃったりしますよ」
「ピリピリッて……私は別に、そんなつもりじゃ……!!」
「そういう眉毛が、もう怒ってますぅ。歌を歌う時は楽しい気持ちで歌わないと、ファンの人達にも楽しんでもらえないんですよぉ」
「ったく……相変わらず咲花はお気楽ね。楽しむのもいいけど……少しは緊張感ってものを持った方が、あなたのためにもなるんじゃない?」
はぁっ、という溜息をつきながら、夏樹は半ば諦めたような口調で言った。それを見た雪乃が、間髪入れずに咲花に賛同する。
「でも……あまりガチガチに緊張するよりも、少しはリラックスして歌った方がいいと思うな。その方が、なんだか自分でも、変に気取らないで済む感じがするし……」
「悪かったわね、いつも気取ってて!! でも……それであなた達が力を発揮できるって言うなら、私は何も言わないけど。せいぜい、こっちの足を引っ張らないように気をつけてよね!!」
「はぁい、先生! 咲花はちゃんと注意しまぁす!!」
傍から見れば嫌味にしか聞こえないような夏樹の言葉に、咲花が何ら気にしていない様子で手を上げて言った。その横では、雪乃が二人のやり取りを見て、懸命に笑いを堪えている。
趣味も性格も、そしてデビューした経緯も違う三人。一見して滅茶苦茶なチームに思われそうだが、不思議と彼女達のユニットは上手く動いていた。それぞれが特有の個性を持っていることもまた、様々な客層のファンを獲得するのに上手く働いていたのかもしれない。
「それじゃあ、そろそろ出番だからね。最初は私がセンターで歌うけど、その後は雪乃、最後は咲花のソロパートもあるんだから……。緊張して、歌詞を忘れたりしたら承知しないわよ!!」
「大丈夫、大丈夫。いざとなったら、その辺はアドリブでGOってね!!」
手にしたマイクを大きく掲げ、咲花が悪びれた様子もなく口にする。その言葉に突っ込みを入れたくなる気持ちを抑え、夏樹も、そして雪乃も自らのマイクを握り締めて呼吸を整えた。
バックバンドの激しい音楽に合わせ、三人は既にライトアップされたステージの上に颯爽と躍り出る。眩いばかりのスポットライトが彼女達を照らし、観客の声援が熱気となって、舞台の上の彼女達を包み込む。
それから先は、正に現実を忘れてしまう程に高揚した時間だった。
舞台の上で、華やかな衣装に身を包んだ少女達が踊り、歌う。常にプロ意識を持って仕事に挑む夏樹や天性の明るさを持った咲花は言うに及ばず、普段は控え目な雪乃でさえも、その魅力を存分に発揮する。観客の興奮は瞬く間に最高潮に達し、バックバンドの演奏にも力が入る。
額から迸る汗さえも吹き飛ばし、少女たちは歌い続けた。天使、妖精、様々な形容のしようがあるだろうが、やはりここは歌姫と呼んだ方が相応しいだろう。そう、まさに彼女達は、現代を生きる若者達にとっての姫、プリンセスなのである。
「みんなー、今日はありがとう! 盛大なアンコールに答えまして……最後に、もう一曲だけ歌いまーす!!」
持ち歌を一通り披露したところで、そう言いながら観客に手を振っているのは夏樹だ。舞台裏で見せていた気丈でプライドの高い姿は影を潜め、始終アイドル歌手であることに徹している。普段はともすれば高飛車とも思える態度を取っていても、ファンの前でアイドルらしさを失わないよう努めているところが、いかにも夏樹らしい。
未だ熱気の冷めやらぬ舞台に、最後の曲が鳴り響く。それは、三人がユニットを結成して初めて世に出した歌。T‐Driveの結成と同時に作られた曲であり、彼女達を代表する曲でもあった。
「それじゃあ、最後の曲は私達の最新曲……」
「≪Snow White Love≫で!!」
三人が言葉を重ねて曲名を告げると同時に、後ろのバックバンド達が再び演奏を始めた。曲のタイトルからして、正に冬場の恋を表した歌。歌詞の内容も、真冬の寒い街で恋人を待ちながら物想いに耽るような場面から始まるのだ。
舞い散る雪をイメージした、六角形の結晶のような光がステージのバックに映し出された。スポットライトは薄い青色に代わり、少女たちの衣装もまたその色に染められる。
特に、雪乃の色白な肌はこの曲の雰囲気を引き立てるのに一役買っており、場合によってはリーダーの夏樹以上に目立っていた。彼女の歌うパートが少女の切ない想いを伝える個所であることも相俟って、その相乗効果は高いものがある。
全ての演目を終えた時、会場は今までにない激しい昂奮に包まれていた。歌の最中は歌詞に聞き入っていた観客達が、今までに抑えこんでいた感動を一度に爆発させたようだ。
舞台の向こう側で声援を送り続ける観客達に、夏樹も雪乃も、そして咲花も、最高の笑顔を振りまきながら手を振っている。武道館やドームに比べれば明らかに小さいステージでしかなかったものの、その舞台から見える輝きは、決して劣っているようには思えなかった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
その日のライブは熱狂の渦の中に終了した。仕事を終えた雪乃達は着替えを済ませ、今は宿泊先であるホテルの一室にいる。プロデューサーからは無暗に出歩かないように注意されていたため、今は夏樹の部屋で反省会の真っ最中だ。
もっとも、反省会と言っても、それは最初の内だけである。大抵は夏樹が初めに厳しい意見を少し述べ、その後は女の子だけの秘密の会話タイムになるのが常である。
「でね、でね……。この前仕事で会った俳優さんが、超カッコよかったんですぉ!!」
「それ、今話題の上嶋リョウさんでしょう? 確かに、あんな人と一緒に仕事ができたらすてきだなぁ……」
「そう思いますよね、雪乃さん! 絶対そうですよね!!」
他のメンバーそっちのけで、勝手に盛り上がっているのは咲花だ。この地方公演の前に収録した、年末に放送する予定のバラエティー番組で出会った俳優に一目惚れしたらしい。その時の彼の様子がいかに格好良かったのかを、延々と残る二人に語っている。
「まったく……咲花の面食いにも困ったものね。この前はTATUMAKIの河野君が好きって言ってたくせに、鞍替えするの早過ぎでしょ」
あくまで咲花の調子に合わせて話を聞いていた雪乃とは違い、夏樹は冷静に切り捨てた。その言い方は悪意を込めたものではなく、むしろ呆れていると言った方が正しい。
ちなみにTATUMAKIとは、彼女たちとは事務所も別の男性アイドルグループである。十代の女性達の間ではかなりの人気があり、新曲は常にヒットチャートのベストファイブにランクインするほどだ。
「うぅぅ……。相変わらず、夏樹さん手厳しいですぅ……」
自分にも思い当たる節があったのか、咲花は先ほどの勢いを失って小さく丸まった。
「手厳しいもなにも、私達はプロのアイドルなのよ。番組の収録中に共演者に見惚れているようじゃ、良い仕事なんてできるはずないじゃない。それに……あなたがさっき言っていた上嶋さんだけど、ちゃんと婚約を前提とした恋人がいるみたいよ」
「ガァァァン!! 告白前から失恋なんて……超ショックゥゥゥゥッ!!」
「告白って……まさかあなた、本気で相手にされると思っていたんじゃないでしょうね……」
ここまで来ると、もはや呆れ果てて物も言えない。そんな顔をしながら、夏樹は腕を頭の後ろに組んで椅子の背もたれに体重を預けた。
「まあ……夏樹ちゃんの言っていることは本当だと思うけど、それでも悲観することはないと思うよ。咲花が上嶋さんのことを好きって気持ちは、今も変わらないんでしょう」
今まで黙って話を聞いていた雪乃が、泣き出しそうな表情になっている咲花の頭を撫でながら言った。
こういったとき、必ずフォローに回るのは雪乃の役目となる。
「うぅぅ……。雪乃さんは、いつも優しいですぅ……」
咲花が目元に溜まった涙を拭くような仕草をしながら、そのまま雪乃の肩に身体を預けてくる。露骨な嘘泣きで甘えているのが見え見えのため、夏樹からすれば見るに耐えない光景と言ったところだが。
「はぁ……。雪乃、あなたもちょっと、咲花を甘やかしすぎじゃない? だいたい、相手は大人の男なのよ。咲花はまだ中学生だし、私達だって高校生。いくらこっちが本気になったところで、向こうが本気で私達のことを、女として見るわけがないじゃない」
「でも、私も上嶋さんのことは、普通に格好良いと思うけどな。恋人にしたい……とは思わないけど、あんな人がお兄さんだったらいいなって思うわよ」
「お兄さんねぇ……。言っておくけど、あなた達が思っているほど、世の中には格好良い兄なんてのはいないのよ。駄目兄貴や馬鹿兄貴なんてのは、巷に腐るほど溢れているみたいだけどね」
最後の方は、少し乱暴に吐き捨てるような言い方になった。
鈴森夏樹には、歳の離れた兄がいる。雪乃や咲花も、そのことは知っていた。そして、夏樹が自分の兄に対し、あまり良い印象を抱いていないということも。
夏樹の兄は、今ではフリーのカメラマンをやっている。だが、自分の努力で仕事にありついたわけではなく、業界の中で初めから力を持っていた、父と母の威光に縋ってのことだった。
それでも夢だけは馬鹿みたいに大きく、今に最高のカメラマンになってやると豪語しているのだから救いようがない。両親の力を自分の力と勘違いして大物ぶる、典型的な馬鹿兄だった。
優しくて気立てのよい兄の存在など、所詮は夢物語に過ぎない。少なくとも夏樹はそう思っていたが、彼女の口から兄のネタが飛び出した瞬間、咲花がすかさずそれに食い付いた。先ほどの涙などどこかに吹き飛び、まるで新しい玩具を見つけたときの幼稚園児のように、嬉しそうな表情を浮かべている。
「そっかぁ……。夏樹さんは、お兄さんのことが嫌いなんですねぇ……」
「な、なによ、その意味深な顔は……。あの馬鹿兄貴のことを私が嫌っているのは、前にも話したじゃない」
「でもぉ……。口ではそんなこと言ってますけどぉ……本当は、夏樹さんもお兄さんのことが好きなんじゃないですかぁ?」
「なっ……いきなり変なこと言わないでよね!! どうして私が、あんな馬鹿兄貴のことを……」
突然、咲花の口からとんでもないことを告げられて、今度は夏樹がたじろいだ。その隙を逃さず、咲花は意地悪そうに笑いながら夏樹に追い打ちをかける。形勢逆転、先ほどの仕返しとばかりに、その追及には容赦がない。
「ふっふっふっ……。そう言っていられるのも、今の内ですよ、夏樹さん。私……この地方公演が始まる前に、見ちゃったんですから」
「み、見たって……何をよ!!」
「この前の仕事の帰り、夏樹さん、デパートで男物のネクタイ買ってましたよね。しかも、お父さんが使うような渋いやつじゃなくて、割と派手目でお洒落なやつを……」
「なっ……ど、どうしてあなたがそれを……」
夏樹の顔が、見る間に赤くなってゆく。誰にも見られていないはずの、自分だけの秘密。そう思っていたことを、なんとメンバーの一人に知られていた。その現実が、彼女からいつもの冷静さを少しずつ奪ってゆく。
「実は、ちょっと面白そうだったんで、勝手に尾行させていただきましたぁ! で……あれは、いったい誰へのプレゼントですかねぇ? お兄さんじゃないって言うなら……まさか、恋人ですかぁ?」
「ばっ……ち、ちがうわよ!! あれは……その……もうすぐ三十路にもなろうってのに、彼女の一人もできない馬鹿兄貴が寂しがるといけないから、仕方なくよ……。そう、仕方なく買ったの!!」
「へえ……仕方なく、ですかぁ……。それにしては、随分と念入りに選んでいたような……」
「う、うるさい、うるさい、うるさーい!! 咲花……あなた、それ以上の減らず口は、自分の寿命を縮めることになるって、わかって言ってるんでしょうね!?」
ひきつった笑いを浮かべながら、ついに夏樹が立ち上がった。それを見た咲花は「きゃぁっ! 怖いですぅ~!!」と言いながら、慌ててドアの方へと逃げて行く。そして、そんな二人の姿を見て、雪乃は笑いを堪えるのに必死だった。
口では色々と言っているが、夏樹も咲花も決して仲が悪いわけではない。今しがたの言葉の応酬とて、単なる悪ふざけの延長でしかないことを知っている。それに、夏樹も咲花も互いに信頼し合っているからこそ、あのような内容の話も本音で口にすることができるのだ。
逃げる咲花と追いかける夏樹。部屋の出口である扉に咲花が手をかけ、廊下に出ようとしたときだった。
咲花が扉を開けると同時に、彼女の身体が扉の向こう側にいた男にぶつかった。その姿を見た三人の顔が、瞬く間にいつもの仕事で見せているときのそれに変わる。
「あっ……高槻プロデューサー……」
扉の向こうにいたのは、彼女たちのプロデューサーだった。
高槻護。T‐Driveの結成当初から、雪乃たちのプロデュースを続けている男である。もっとも、プロデューサーとしての仕事だけでなく、彼女達のマネージャーも兼ねていた。
本来は彼女たちを売り込むだけが仕事のようなものだが、何しろ所属しているプロダクションが弱小である。人手不足は深刻で、一人の人間が複数の仕事をこなさざるを得ない。
T‐Driveが売れている今となっては高槻がマネージャー業まで手を出す必要はないのだが、夏樹も雪乃も、そして咲花も、彼が自分達の下から離れるのを頑なに拒んだ。無名時代から様々なことで世話になってきた分、彼に対する信頼も厚かった。
「まったく……。まだ、起きていたんだな」
ぶつかって尻もちをついてしまった咲花に手を差し伸べながらも、高槻は少し困ったような顔をして言った。
「公演はまだまだ続くんだから、あまり夜更かしして体力を消耗するのはよくないって言っただろう。見知らぬ土地で歌うことに昂奮する気持ちもわかるけど……あまり飛ばし過ぎると、後が辛くなるぞ」
「うぅぅ……ごめんなさい……。今度から気をつけますぅ……」
先ほどの勢いはどこへやら。咲花は急にしおらしくなり、高槻の前で俯いた。横目で時計を見ると、既に時刻は夜の十二時を回ろうとしている。他の宿泊客がいることも考えると、さすがに騒ぎ過ぎたと思ったのだろう。
「それじゃあ、僕はもう行くからね。後……これが、明日のスケジュールだ。ついでに持ってきたもので悪いけど、寝る前に一通り目を通しておいてくれないかな」
高槻の手から、クリアファイルに入った数枚の用紙が渡された。咲花はそれを受け取ると、中に入っていた用紙を夏樹と雪乃にも配る。書かれていた起床時間を見ると、なんと朝の六時だ。ここは高槻の言う通り、そろそろ寝ないと本当に明日の仕事に支障が出る。
「ふぅ……。なんか、ちょっと冷めちゃいましたね。明日も早いみたいですし……夏樹さんも、雪乃さんも、そろそろ寝ませんか?」
「ええ、そうね。私も自分の部屋に戻るから、咲花もちゃんと早く寝るのよ」
用紙に記された予定を確認しつつ、雪乃もそう言いながら立ち上がる。最後に高槻に就寝の挨拶だけ述べて、そっと自分の部屋に舞い戻った。
雪乃の部屋は、夏樹の部屋の隣である。部屋の作りは変わらないが、広げている荷物の中身から違いは明白だ。
雪乃は決して荷物の整理が下手な方ではない。むしろ、几帳面過ぎるくらいに片付けているのだが、それが返って彼女のいる部屋を殺風景なものにしていた。咲花のように自分の荷物を部屋中に撒き散らすようなことはしないが、夏樹のように女の子達が憧れる化粧品の類を持っているわけでもない。
アイドルなのに、殆どすっぴん同然の薄化粧。それが彼女の魅力だというファンも多かったが、雪乃自身はあまり納得していなかった。
もし、自分がアイドルではなく、普通の女の子だったらどうだろう。夏樹も咲花も、T‐Driveの全員がアイドルという立場抜きにして並んだ場合、本当に可愛いと思ってもらえるのは誰だろう。
夏樹は気が強い一面はあるものの、ファッションには人一倍気を使っている。それも、決して自分の姿を誇示するためではなく、あくまで周囲に対しての礼儀として自分を綺麗に見せることを心がけている。
その点、中学生の咲花は未だ子どもな面もあるものの、その天真爛漫な底抜けの明るさが強みだろう。いつも元気で笑っていて、それでいて少しドジなところもある。そういった諸々の態度が、特に年長者の保護欲求に訴えることが多い。要するに、『理想の妹』や『守ってあげたい娘』といった感じである。
そこへゆくと、雪乃自身は、自分のことが随分と面白見のない人間に思えて仕方がなかった。
アイドルというネームバリューが無ければ、自分など路傍の石も同然だ。それだけ普段の雪乃は大人しく、目立たない人間だった。
「はぁ……。ああやって、舞台の上で歌っているときは全然気にならないのに……どうして、普段の私はこんなに地味で目立たないのかな……」
自分がどちらかといえば内気な性格であること。それは雪乃自身も十分に承知している。
舞台の上でファンに笑顔を振りまいているときは、アイドルという仮面と衣がそれを隠してくれる。だからこそ、自分はあれだけの人の前で、何ら臆することなく歌うことができるのだと思った。これが、素の自分を知っている者の前だったとしたら――――例えば、学校の文化祭のステージなどだとしたら――――普段の力の半分も出しきれなくなってしまうのは想像に難くない。
だが、それにしては、今日の舞台は雪乃に向けられた声援が一際大きかったような気もしていた。慢心などではなく、現に雪乃自身、T‐Driveのファンの間でも自分の人気が上がってきていることは耳にしていた。
個性だけで見れば、夏樹や咲花の方がよっぽど強い。いったい、ファンの人達は、自分の何を気に入ってくれたのか。雪乃には、それが不思議でならなかった。
「ふぅ……。まあ、考えていても仕方ないよね。明日も早いみたいだし、今日はもう寝ようかな……」
時計を見ると、時刻は既に深夜の一時になろうとしていた。あれこれと物想いに耽っている間に、いつの間にか時間が経っていたらしい。
部屋の灯りを全て消し、雪乃はベッドの中に潜り込んで丸くなった。枕が違うと眠れないのではないかと思っていたが、ライブを頑張った疲れもあったのか、すぐに睡魔に負けて眠りについてしまった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
暗い、どこまでも続く闇の中を、雪乃は独りで彷徨っていた。
彼女の周りは前も後ろも、そればかりか上も下も闇一色である。まるで宇宙空間に放り出されたかのように、闇の中を雪乃の身体だけが漂っていた。もっとも、地に足がついている感触はあったため、そこが決して宇宙の果てではないことだけは確かだったが。
闇の中、ぼんやりとした淡い光が雪乃の前に姿を現した。初めのうち、それはどろどろとした不定形な塊だったが、すぐに細く長く伸びて、人間の身体を形作る。両手、両足、それに首が粘土細工のようにして生まれ、最後に少し茶色く染めた髪が伸びて風に揺れた。
「あっ……」
目の前に現れた異形なる者に、雪乃は思わず口に手を当てて声を飲み込んだ。
彼女の前に現れたもの。それは、紛れもない雪乃自身だった。今日の舞台で使っていた衣装をそのまま身に纏い、じっとこちらを見つめている。頭の先から足の先まで、その姿は雪乃自身と寸分の狂いもない。それこそ、鏡に映し出された像のように、何から何まで雪乃と同じだった。
雪乃の前に現れた、もう一人の雪乃。彼女は何も言うことなく、ただじっと雪乃を見つめている。そして、その瞳に見つめられた雪乃もまた、石のように身体が硬直して動かなくなっていた。
――――ガサリ……。
無音の闇。今まではそう思っていた空間に、何かが蠢くような音がした。
――――ガサリ……ガサリ……。
また、音がした。今度はもっと大きく、もっと激しい音だった。それこそ、得体の知れない無数の何かが、正に雪乃自身の隣で蠢いているような感じなのだ。
(や、やだ……。これって……)
雪乃の中に、忌まわしい記憶が蘇る。この光景は、以前にも自分は見たことがある。決して忘れられず、その恐怖から逃れられない悪夢として、雪乃の脳裏にしっかりと刻み込まれていたものだ。
次の瞬間、雪乃の目の前にいるもう一人の自分の口が、カッと大きく開かれた。そして、その開かれた穴の中から、無数の毒虫が這い出してきた。
――――ガサガサガサガサガサ……!!
今度は蠢くなどという生易しいものではなかった。
目の前にいる自分の姿をした何者かの口から這い出してくる、薄気味悪い姿をした虫、虫、虫。血のように赤い体に緑色の斑模様を持った、蠍のような姿をした毒虫である。それらは尻尾を振り立てながら、時に何かを咀嚼しているように口を動かし、一斉に雪乃の方へと向かってきた。
「い、いやぁぁぁぁっ!!」
溢れ出した毒虫達が雪乃の足元を這い回り、徐々にその脚を伝って上へと這い上って来る。なんとか逃げようと脚に力を入れるものの、まるで金縛りに遭ってしまったかのように身体が動かない。
脚を昇り、腹を伝い、とうとう毒虫は雪乃の首筋まで迫ってきた。その間にも、目の前にいるもう一人の自分からは、洪水のように虫が溢れ出してくる。最後は眼球さえも零れ落ち、顔に空いた二つの大きな穴の奥からも、同じように毒虫が溢れ出てきた。
固い、キチン質の殻を持った毒虫たちが、雪乃の全身を徐々に覆ってゆく。服の中、そして髪の毛の間にまで入り込まれ、終いには顔の上をも這い回られた。
「あ……あぁ……」
既に恐怖から、雪乃は悲鳴を上げることさえできなくなっていた。ひきつった顔の真ん中で大きく開かれた口の中に、毒虫が次々と入り込んでくる。口の中、そして喉の奥さえも蹂躙され、自分の身体が毒虫達に侵されてゆく。
その感触は、夢にしてはあまりに生々しく、また強烈なものだった。自分の身体が中から毒虫に食われてゆく。そんな感覚に全身を支配されたまま、雪乃の意識は深い闇の中に沈んで行った。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「う……」
雪乃が意識を取り戻したとき、そこは自分の泊まっているホテルの一室だった。部屋の中は薄暗く、まだ太陽が完全には昇っていないようである。
時計を見ると、時刻は朝の五時半を示していた。起床時間が六時であったことを考えると、どうやら寝過ごさずには済んだようだ。もっとも、あんな嫌な夢を見た後では、これから再び二度寝しようなどとは思わなかったが。
痛む頭を抑えながら、雪乃はそっとベッドから出た。服の中や髪の間を確認してみたが、当然のことながら、あの毒虫達の姿はない。
安堵の溜息をつきながら、それでも雪乃は自分が見た夢のことが頭から離れなかった。
T‐Driveが結成された頃から、雪乃は奇妙な夢にうなされるようになっていた。夢の内容は様々だったが、最後は暗い闇の中、決まって毒虫に自分の身体を蹂躙されて終わる。思い出すのもおぞましい悪夢だったが、その悪夢を見るときの法則性のようなものに、雪乃は薄々感づいていた。
自分が悪夢を見るときの法則。それは、雪乃が何か仕事で大きな成功をしたときだ。
例えば、プロデューサーの営業が思いの他に上手くいって、T‐Driveの新曲が予想以上に売れた時。その他では、ライブのチケットが早々に完売したり、彼女の出ているテレビ番組の視聴率が高かったりしたときなども挙げられる。
そういえば、昨日のライブも例に漏れず、雪乃にとっては大成功と言ってよいものだった。地方公演に入って既に数カ所でライブを行っていたが、昨日のライブはその中でも一際観客数が多く、また盛り上がったものだった。
自分はいったい、どうなってしまったのか。なぜ、輝かしい成功をしたときに限って、あんな嫌な夢を見なければならないのか。あれこれと考えてみたものの、雪乃自身に思い当たる節はない。
結局、あれはただの夢。今までのことも、偶然に過ぎない。そう、割り切ることにして、雪乃は顔を洗うために洗面所へと向かった。冬場の冷たい水で顔を洗えば、気持ちも引き締まって気分も変わるだろう。
冷水に少しずつ指先を馴染ませながら、雪乃は思い切ってそれをすくい、一気にかけるようにして顔を洗った。冷たい水が肌を刺激し、今まで半分眠っていた身体が一度に目覚め出す。
横に置いてあるタオルを取り、雪乃はそれで顔を拭いた。水と一緒に嫌な気分まで洗い流したようで、なんとも清々しい。だが、そんな自分の後ろに映る影の中で無数の何かが蠢いていたことに、この時の雪乃はまったく気づいてはいなかった。
本作品は一部に暴力的な表現を含みますが、これは作中の暴力行為その他を推奨するものではありません。
また、一部の人間が差別的な考え方に囚われて非道な行いを働いたり、それらの人間が法ではなく、個人の意思や超常的な存在によって裁かれる描写が存在します。
これらの描写に対して政治的道徳観、及び宗教観から不快な思いをされる可能性がある方は、これより先の内容を読むことを控えるようお勧めいたします。