↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

母は私の命を使って妹を救った。死に戻った私は、もう妹を助けない

作者: 熾星
掲載日:2026/10/24



 妹の莉奈が持病を悪化させ、再び花沢中央総合病院に入院した。


 莉奈は幼い頃から入退院を繰り返していたが、今回は息をするのも苦しそうだった。医師も、まずは容体を安定させる必要があると言っていた。ベッドに横たわる妹を見ながら、母は私の手を握った。


「美咲、お願い。莉奈を助けてあげて。お姉ちゃんでしょう?」


 母がバッグから取り出したのは、銀白色の腕輪だった。私がつければ莉奈の病気が少しずつ軽くなるという。私はその言葉を信じ、腕輪を手首にはめた。


 三か月後、莉奈は自分で歩けるまでに回復した。頬に血色が戻り、以前のように笑うようになった一方、私はコップ一杯の水を持つことさえつらくなっていた。


 病院へ連れていってほしいと頼んでも、母はネットで見つけた怪しげな民間療法ばかり試した。足の裏に生姜を貼り、指先を針で刺して悪い血を出せばいいと言う。真夏に高熱を出したときには、厚い布団を三枚もかけられた。


 死ぬ少し前、部屋の外から母の声が聞こえた。近所の人と話しているらしい。


「あの病気を移す腕輪、本当に効くのよ。莉奈、すっかりよくなってね。美咲は昔から丈夫だし、妹の病気を少しくらい引き受けたって平気でしょう?」


 私は手首に残った赤い跡を見つめた。


 母は知っていたのだ。あの腕輪が莉奈の病気を私に移していることを。


 その蒸し暑い夏の夜、私は息を引き取った。


 再び目を開けたとき、そこは見覚えのある病室だった。窓の外には灰色がかった空が広がり、莉奈は酸素チューブをつけて眠っている。


 そして目の前では、母があの腕輪を差し出していた。


「美咲、これをつけて。お願い、莉奈を助けてあげて」



1



「美咲、ほら。手を出して」


 母はベッドのそばに腰掛け、私の右手を取った。消毒液の匂いも、点滴の落ちる音も、莉奈の青白い顔も、記憶にあるあの日と同じだった。


 前の人生で、私は腎臓と心臓の機能が次々に衰え、助けを呼ぶ声さえ出せなくなった。その苦しみだけは、今もはっきり覚えている。


「これ、莉奈のために手に入れたの。お願い、美咲。つけてくれない?」


「……それを?」


「そう。あなたがつければ、莉奈の病気が少し楽になるんですって」


 母が腕輪をはめようとした瞬間、私は手を引いた。腕輪がベッドの縁に当たり、カチンと音を立てる。


「嫌よ。つけない」


 母は目を丸くした。


「何を言ってるの? 莉奈、昨日の夜は息をするのもやっとだったのよ」


「だからって、どうして私がつけなきゃいけないの?」


「あなたは元気でしょう。少しくらい妹に分けてあげたって……」


 莉奈が小さく咳をし、母の服をつかんだ。


「お母さん、もういいよ。お姉ちゃんが嫌なら、無理に頼まないで」


「莉奈……」


「私、入院には慣れてるから。今回も頑張る。それでも駄目だったら、仕方ないよね。ずっと迷惑ばかりかけてるし……」


 母は慌てて莉奈を抱き寄せ、ずり落ちた布団をかけ直した。


「そんなこと言わないで。莉奈は何も悪くないのよ」


 そして私を振り返った。


「妹があんなに苦しんでるのに、よくそんなことが言えるわね」


 私は母の手にある腕輪を見た。


 前の人生で、水さえ飲めなくなった私が病院へ連れていってほしいと頼むと、母は予約票を丸めて捨てた。今、その同じ手が私の手首へ伸びている。


「そんなに莉奈を助けたいなら、お母さんがつけたら?」


 母の手が止まった。


「私が? 無理よ。私はもう若くないんだから」


「じゃあ、身体に悪いってわかってるんだね」


「そんなこと言ってないでしょう!」


「私はつけない。誰がつけるかは、自分たちで決めて」


 母は腕輪を握りしめたまま、私をにらんだ。


 莉奈が泣き始めた。


 妹は点滴を留めるテープに手をかけ、これ以上迷惑をかけるくらいなら針を抜いてしまうと言い出した。母は慌ててその手を押さえた。


 ところが、私へ向き直るなり手を振り上げた。私は母の手首をつかみ、押し返す。


 騒ぎを聞きつけた看護師が病室をのぞいたため、母は声を落とした。


「莉奈があんなに苦しんでるのよ。少しは考えてあげなさい」


「治療なら、お医者さんに任せればいい。私が代わりに病気になる必要はないでしょう」


 私は莉奈にも目を向けた。


「点滴を抜くなんて言って、私を困らせるのもやめて」


 病室の出口へ向かうと、母が怒鳴った。


「美咲! 今日ここを出ていくなら、もう二度と私を頼らないで!」


 私は振り返らず、病室を出た。エレベーターの扉が閉まると、母の声は聞こえなくなった。



2



 数日後、莉奈の容体が落ち着き、自宅へ戻った。


 私は友人と駅前で日用品を買ったあと、着替えを取りに実家へ寄った。玄関にはいつもより靴が多く、居間から低い話し声が聞こえる。家族が揃って私を待っていたらしい。


 父は座卓の前で煙草を吸っていた。祖母の千代は数珠を手にし、毛布をかけた莉奈を隣に座らせている。母はティッシュで目元を拭っていた。


 私が入ると、父は灰皿を乱暴に置いた。


「帰ってきたか。こっちに座りなさい。病院でのことを話してもらう」


 私は玄関に立ったまま、靴を脱がなかった。


「悪いことはしてないわ。説明することもない」


 祖母が顔をしかめた。


「莉奈があれだけ苦しんでるのに、お守りひとつつけてやらないなんて。まったく、どうしてこんな冷たい子に育ったんだろうね」


 祖母は昔から寺のお守りをありがたがる人だった。母が腕輪も莉奈のために求めたものだと言うと、すっかり信用してしまったらしい。


「そんなに信じてるなら、おばあちゃんがつけたら?」


「何だって?」


「毎年お寺で健康をお願いしてるでしょう。おばあちゃんがつけたっていいじゃない」


 祖母の顔が赤くなった。


 父が勢いよく立ち上がる。


「美咲! おばあちゃんに向かって何てことを言うんだ!」


 母が腕輪を手に入れるのに大金を払ったことや、祖母に入手先を探してもらったことを、父は怒鳴りながら話した。


「その腕輪が身体に悪いかもしれないって、知ってるの?」


「今はそんな話をしてるんじゃない!」


 父は私の問いを無視した。


「莉奈の命がかかってるんだぞ。お前は本当に妹が死んでもいいのか!」


 莉奈が祖母の隣から立ち上がり、ふらつきながら私の前へ来た。膝をつき、胸元を押さえて泣き始める。


「お姉ちゃん、もう喧嘩しないで。私のことでお父さんと揉めてほしくないの」


「莉奈、立って」


「これからは苦しくても我慢する。だからお願い、私のせいで家族がばらばらになるのは嫌……」


 母が駆け寄って莉奈を抱き起こした。


「そんなことしなくていいの。莉奈は何も悪くないでしょう」


 母は腕輪を座卓の中央に置いた。


「美咲。もう一度聞くわ。つけるの? つけないの?」


「つけない。莉奈は病院で治療を続ければいい」


 母が私の頬をたたいた。


 耳の奥が鳴り、私は靴箱に手をついて身体を支えた。


「ここまで育ててあげたのに! 妹のために少し我慢することもできないの?」


 私は母を見た。


「高校に入ったとき、通学費は自分で何とかしろって言ったよね。放課後ずっとバイトしてたの、覚えてる?」


「今さらそんな昔の話を……」


「子どもの頃の服も、親戚のお下がりばかりだった」


 父が口を挟んだ。


「家に余裕がなかったんだから、仕方ないだろう!」


「じゃあ、どうして莉奈の私立の学費は払えたの? 塾にも通わせてたじゃない」


 父は黙った。


 私は奨学金とアルバイトで大学を卒業した。帰省する電車代も自分で残しておかなければならなかったのに、莉奈には新しい服や靴が何度も買い与えられていた。


「働き始めてから、家にお金を頼んだことなんてない。それなのに、今度は健康まで差し出せっていうの?」


 父は昔のことを蒸し返すなと怒り、祖母は顔を背けた。莉奈は毛布を握りしめ、何も言わない。


 母は相変わらず腕輪をつけるよう迫っていた。


 私はようやく靴を脱ぎ、家族の前を通って自分の部屋へ入った。スーツケースを引き出し、仕事着や身分証明書、着替えを詰めていると、母が扉をたたき始めた。


「美咲! 何してるの! 今日出ていったら、もう二度と帰ってこなくていいからね!」


 声はどんどん大きくなり、隣家の扉が開く音まで聞こえた。


 私は荷物をまとめ、部屋を出た。


「わかった。これからは自分で生活する。だから、もう莉奈の病気を私に押しつけないで」


 スーツケースを引いて玄関へ向かう。


 背後から父の叱責と莉奈の泣き声が聞こえたが、私は靴を履き、そのまま家を出た。



3



 花沢駅の裏通りで、古いマンスリーアパートを見つけた。


 部屋には湿った畳の匂いが残り、浴室は狭く、暖房の効きも悪かった。それでも電車一本で会社へ通える。管理人の女性は、私が両親と喧嘩して家を出たと聞くと、親子ならそんなこともあると言って鍵を渡してくれた。


 当時、私は小さな貿易会社で営業事務をしていた。注文の処理や取引先への連絡が主な仕事で、引っ越してからも普段どおり出勤していた。帰りに弁当を買い、部屋へ戻るとそのまま眠る。そんな日が数日続いた。


 あの腕輪から離れていれば、もう前の人生のような苦しみを味わわずに済むはずだった。


 ところがある朝、激しい咳で目が覚めた。


 喉が焼けるように痛み、胸の奥も苦しい。洗面所まで駆け込んで咳き込むと、白い洗面台に赤い血が散った。


 鏡に映る顔は青白く、心臓は不規則に打っていた。脚にも力が入らない。


 前の人生で腕輪をつけてから三か月ほど経った頃、同じ症状が出ていた。


「どうして……。今度はつけてないのに……」


 私は壁に手をつきながら階段を下り、タクシーで花沢中央総合病院へ向かった。


 血液検査や画像検査を受けたあと、医師は結果を何度も見比べていた。最近、変わった薬を飲んだり、身体に影響のありそうなものに触れたりしなかったかと尋ねられた。


「腎臓と肝臓の数値がかなり悪くなっています。心臓にも異常が見つかりました」


「そんな……。ついこの間まで普通に働いてたんです」


「原因はまだわかりません。詳しい検査が必要ですし、今の状態で帰宅するのは危険です。入院を考えてください」


 私は検査票を握りしめた。


 莉奈の病気も、呼吸困難に始まり、複数の臓器に異常が出ていた。


 診察を終え、病院の入口にあるベンチへ座ると、スマートフォンが光った。


 家族のLINEグループに母から動画が届いていた。莉奈が部屋着のまま居間を歩いている。顔色もよく、呼吸もすっかり落ち着いていた。


「見てちょうだい! 莉奈、こんなに元気になったのよ。先生も回復が早くて驚いてたんだから!」


 親戚たちから祝福のメッセージが続いた。父は莉奈が頑張ったおかげだと喜び、祖母はお寺の御利益だと言った。


 そのあと祖母は、妹を助けなかった誰かがいなくても家族はちゃんと暮らしていけると嫌味を言った。


 母からも音声メッセージが届いた。


「美咲はあんなに冷たく断ったけど、莉奈は自分で元気になったでしょう。もう文句も言えないわよね。外で暮らしたいなら、勝手にすればいいのよ」


 私は動画をもう一度再生した。


 莉奈の先天性の病気が、ほんの数日でここまで改善するとは思えない。なのに私の腎臓も肝臓も、急に悪くなっている。


 右手首には腕輪の跡さえなかった。


 立ち上がると目の前が暗くなり、私はベンチの背もたれをつかんだ。息が落ち着くまで待ってからタクシーを呼び、実家の住所を告げた。



4



 手元に残していた鍵で実家の扉を開けた。


 居間には果物や菓子が並び、テレビではバラエティ番組が流れていた。莉奈は母に寄りかかり、父はりんごの皮をむいている。祖母も笑っていたが、私が入ると全員がこちらを向いた。


「また帰ってきたの? もう家には頼らないって言ったでしょう。外で暮らせなくなった?」


 私は母の嫌味には答えず、座卓に検査結果を広げた。


「お母さん、私に何かした?」


「何よ、いきなり」


「莉奈がよくなったのと同じ頃から、私の身体がおかしくなったの。病院でいくつもの臓器に異常があるって言われた」


 母は検査票に目を落としたが、すぐに顔をそむけた。


「私は何もしてないわよ。勝手に体調を崩したんでしょう」


「あの腕輪は? 今どこにあるの?」


「まだそんなこと言ってるの?」


 祖母が数珠を座卓に置いた。


「妹を助けようとしないから、罰が当たったんじゃないのかい。莉奈はちゃんと治療を頑張って、こんなに元気になったんだよ」


 莉奈が母の後ろから顔をのぞかせた。


「お姉ちゃん、私、お母さんに何かしてって頼んだわけじゃないよ。もう責めないで……」


「莉奈は少し黙ってて」


 私は母を見た。


「本当に何もしてないの?」


 母は答える代わりに、父へ助けを求めるような視線を向けた。


 父は検査票を乱暴に置いた。


「いい加減にしろ。家を出ていったくせに、病気になったら親のせいか。金でも出してほしいのか?」


「そんな話してない!」


「だったら何だ。俺たちがお前を病気にしたとでも言いたいのか!」


 祖母は母に向かって、もう私を相手にしなくていいと言った。そして小声で付け加えた。


「アパートのことは、私からも聞いておくよ」


 何のことか尋ねようとしたが、その前に父が立ち上がった。


 父は私の上着の襟をつかみ、玄関へ引きずっていった。身体が弱っていた私は抵抗できず、共用廊下の硬い床に突き飛ばされた。背中と肘に鋭い痛みが走る。


「二度と帰ってくるな!」


 母も玄関から顔を出した。


「早く帰りなさい。ここで倒れられたら、ご近所に何て言われるかわからないでしょう」


 私は手すりにつかまり、どうにか立ち上がった。


「……私がこんな身体になっても、それしか言えないの?」


「莉奈を助けるのを嫌がったのは、あなたでしょう」


 母が扉を閉めようとした。


 私は閉まりかけた扉に手をかけ、残った力で母の頬をたたいた。


 乾いた音が廊下に響く。


「何するのよ! 親をたたくなんて!」


 父が飛び出してこようとしたが、祖母が先にスマートフォンを構えた。


「皆さん、見てください! 娘が母親に手を上げたんですよ! 病気の妹も放っておいて!」


 私はそれ以上言い争う力がなく、階段を下りた。


 アパートに戻る頃には、祖母が撮影した動画がSNSに投稿されていた。私が母をたたく場面だけが残され、その前の口論はすべて削られている。


 コメント欄には私を責める言葉が並び、勤務先や住所を調べようとする人までいた。


 管理人室の前を通ると、女性が心配そうに声をかけてきた。


「藤原さん、ずいぶん顔色が悪いわね。病院には行ったの?」


「はい……」


 管理人は以前多く受け取っていた管理費を返してくれた。


「これ、病院代の足しにして。それにしても、お母さんも心配してるみたいね。最近よく来てるわよ」


 私は顔を上げた。


「……ここに?」


「ええ。夜にね。あなたが寝てるところを見たいって」


「部屋に入ったんですか?」


 管理人は少し口ごもった。


「お母さんだし、ちょっと様子を見るだけならと思って……。起こすとまた喧嘩になるから、黙っていてほしいって言われたの」


 私は受付台につかまった。


「母は何か持っていませんでしたか?」


「何かって?」


「銀色の腕輪とか……」


 管理人は少し考え、自分の手首を指さした。


「ああ、持ってたわ。あなたのためにいただいたお守りだって言ってたけど」


 私はしばらく言葉が出なかった。



5



 私は母がどうやって部屋へ入ったのか、管理人に問いただした。


 母は親子関係を示す書類を持参し、私が家族と喧嘩して家を出たうえ、身体まで悪くしていると説明したらしい。夜中に寝顔を見るだけだからと頼まれ、管理人は予備の鍵で何度も部屋を開けていた。


 私に許可を取ったことは、一度もなかった。


 私は鍵を開けた日付と経緯を書いてもらい、廊下の防犯カメラの映像も残すよう頼んだ。


 そのうえで、母にはまだ話さないでほしいと伝えた。


 私は部屋に小型カメラを設置し、由紀には隣の空き部屋で待ってもらうことにした。母が腕輪をつけようとしたら、すぐに止めに入ってもらうつもりだった。


 その夜、医師から処方された薬を飲み、ベッドに横になった。


 深夜、鍵が回る音がした。


 母がそっと部屋へ入ってきた。外套のポケットから銀白色の腕輪を取り出し、ベッドのそばまで近づいてくる。


「……あと何回か移せば、莉奈はすっかりよくなるわ」


 母は私の顔をのぞき込み、小さく続けた。


「美咲は昔から丈夫だもの。少しくらい苦しい思いをしたって……」


 母が私の手首を持ち上げた瞬間、私は枕元のボタンを押した。


「何してるんですか!」


 由紀が部屋へ飛び込んできた。


 母は慌てて腕輪をポケットへ隠した。


「あなた、誰なの!」


「美咲の友達です。勝手に部屋へ入って、何をしようとしてたんですか?」


「娘の様子を見に来ただけよ!」


 私は身体を起こした。


「お母さん、今のことは全部録画してあるから」


 母の顔色が変わった。


 私と由紀を交互に見たあと、何も言わず部屋を出ていった。


 翌日、私は鍵を交換してもらった。管理人の書面と由紀の証言、録画データもそろえ、検査結果と一緒に保存した。


 母が来られなくなっても、すでに身体へ移った病気は消えなかった。咳に血が混じることもあり、疲労感も続いていた。私は通院を続けながら、証拠を警察へ提出できるよう整理した。


 週末、昔の近所の人から連絡が入った。


 母が住宅街の集会所で、自治会の知り合いに私の悪口を言っているという。病気の妹を見捨てたうえ、実の母親に暴力まで振るったと泣いているらしい。


 父も祖母も、莉奈も来ていると聞いた。


 私は証拠を持って集会所へ向かった。


 中では母が目元を拭っていた。


「莉奈があんなに苦しんでいたのに、美咲は助けてくれなかったんです。それだけでもつらかったのに、家へ戻ってきたと思ったら、私をたたいて……」


 莉奈が隣で母の背中をさすっている。


「お母さん、もう泣かないで。お姉ちゃんも疲れてるんだと思う。皆さんも、あまり責めないであげてください」


 近所の人たちは莉奈を褒め、母も大変だったのだろうと同情していた。


 そのとき、集会所の入口に立った私に自治会の役員が気づいた。


 母が振り返る。


「美咲! こんなところまで来て、まだ何か言うつもり?」


 私はバッグを机に置いた。


「お母さん。どうして夜中に私の部屋へ入ったの?」


「何を言い出すの!」


「腕輪を持ってたでしょう」


 母はすぐに否定した。


 父も机をたたき、まず母に謝れと怒鳴る。


 私は自治会の役員へ声をかけた。持ってきた動画を見せて事情を説明すると、役員はためらいながらもモニターを使わせてくれた。


 画面には日付と時刻が表示されていた。


 母が鍵を開けて入室し、ベッドへ近づく。ポケットから腕輪を取り出し、私の手首へ伸ばしたところで由紀が入ってきた。


 母の声もはっきり残っていた。


「あと何回か移せば、莉奈はすっかりよくなるわ。美咲は昔から丈夫だもの。少しくらい苦しい思いをしたって……」


 室内が静まり返った。


 母がモニターへ駆け寄る。


「消しなさい! こんなの偽物よ!」


 自治会の役員が母を止めた。


「落ち着いてください、藤原さん」


 私は管理人の開錠記録を机に置いた。


「日にちも時間も合ってる。由紀も見てるよ」


 由紀が前に出た。


「私も見ました。美咲が寝ているところに入ってきて、腕輪をつけようとしてたんです」


 父が顔色を変えた。


「恵子……お前、何をしてるんだ?」


 祖母も杖を握り直していた。


「アパートへ行ってたのは知ってるけど、まだあれを使ってたのかい?」


 母は娘が心配で布団をかけ直しに行っただけだと言い張った。


 私はバッグから、もう一枚の紙を取り出した。



6



「お守りだっていうなら、これは何?」


 私が机へ広げたのは、実家を出る前に母の寝室で見つけた説明書だった。衣服を片づけていたとき、引き出しの奥にしまわれているのを見つけた。販売者の連絡先と使用方法が印刷され、上部には《病状転移の腕輪》と書かれていた。


 母は病院で私に腕輪をつけさせようとしたとき、ここに書かれた危険性について一言も話さなかった。


 私は重要な部分を読み上げた。


「受益者を指定した場合、装着者はその人物の疾病および身体的負担を引き受ける。転移が進むにつれ、受益者の症状は軽減する。すでに転移した障害は腕輪を外しても自然には消失せず、重症の場合、装着者の生命に危険を及ぼすおそれがある」


 室内がざわついた。


「命に関わるって……」


「そんなものを娘さんに?」


 母が紙を奪おうとしたので、私は自治会の役員に預けた。


 それから検査結果を出し、腕輪を使われていた時期に臓器の数値が悪化していたことを説明した。


「これをつけた人に、別の人の病気が移るって書いてあるんです。母が夜中に部屋へ来ていた間、私はどんどん具合が悪くなりました」


 私は母を見た。


「莉奈は元気になったよね。どうして?」


「莉奈が頑張ったからでしょう!」


「だったら、私に腕輪をつける必要なんかなかったよね」


 母は答えなかった。


 近所の人たちも、すぐには何が起きたのかわからない様子だった。信じられないと首を振る人もいれば、管理人は本当に勝手に部屋を開けたのかと尋ねる人もいた。


 先ほどまで母を慰めていた女性が、祖母へ顔を向けた。


「この前の動画、娘さんがたたくところしか映ってませんでしたよね?」


 祖母は黙り込んだ。


 別の男性が言った。


「少なくとも、無断で部屋へ入ったことは警察に調べてもらったほうがいいんじゃないですか」


 母は机の端につかまり、泣き始めた。


「私は……莉奈を助けたかっただけなのよ……」


 父が母の頬を平手で打った。


「お前、何を考えてるんだ! そんなことまでしてたのか!」


「だって、莉奈は何度病院へ行ってもよくならなかったじゃない!」


「だからって美咲にこんなことをするのか!」


 祖母も杖で床をたたいた。


「私は恵子に頼まれて、アパートの管理人に連絡しただけだよ! あんなに具合が悪くなるなんて聞いてなかった!」


「お義母さんだって、鍵のことを聞いてくれたじゃないですか!」


「娘が心配だって言うからだよ!」


 莉奈が泣きながら父の袖をつかんだ。


「お父さん、もうやめて。お母さんは私のために……」


 父はその手を振り払った。


「お前がずっと病気だから、こんなことになったんだ!」


 莉奈は言葉を失った。


 私は彼らのやり取りを見ていた。


 前の人生で私が救急車を呼んでほしいと頼んだとき、父は「縁起でもないことを言うな」と怒った。あのときの声を思い出しながら、私はスマートフォンを取り出した。


 警察へ電話をかけ、母が無断で部屋へ入り、危険性のある腕輪を何度も使っていたことを伝えた。病院で複数の臓器に異常が見つかっていることも話した。


 警察官が到着すると、まず私の体調が確認された。それから関係者の氏名と連絡先を控え、事情を聞き始めた。


 母は警察官に話を聞かれると、私の袖をつかんだ。


「美咲、お願い! もう腕輪は使わないから。捨てるわ。だから警察だけはやめて!」


「……」


「私がいなくなったら、莉奈はどうなるの? あの子には私が必要なのよ!」


 私は母の手を外した。


「私が病院へ連れていってって頼んだときも、それくらい心配してほしかった」


「美咲……」


「言いたいことは、警察の人に話して」


 母は警察署で事情を聞かれることになった。


 私は由紀に付き添ってもらい、病院へ戻った。腕輪や説明書、録画データは捜査のために調べられることになり、父と祖母、管理人にも聞き取りが行われた。


 未成年の莉奈については、児童相談所が当面の生活と治療をどう支えるか検討することになった。



7



 警察の捜査は数か月続いた。


 母が何度も私の部屋へ入っていたことは、管理人の証言と出入記録から確認された。腕輪の販売者も見つかり、母が購入した際のやり取りが調べられた。


 販売者はインターネット上で、患者の病気を別の人が引き受けられると宣伝していたという。母とのメッセージには、使い方だけでなく、命に関わる危険性についての警告も残っていた。


 腕輪の内部には、出所のわからない電子部品が組み込まれていた。表面からは人体に害を及ぼすおそれのある物質も検出された。


 ただ、莉奈の病気が私の身体へ移った仕組みそのものは、医学的には説明できなかった。


 医師が確認したのは、私が腕輪に繰り返し接触していた時期に臓器の機能が悪化し、接触しなくなってから少しずつ数値が安定してきたという経過だった。


 販売者は別の地域で摘発された。購入記録や母の支払い履歴、使用説明書も証拠として調べられたという。


 母は最初、危険なものだとは知らなかったと話していた。しかし後になって、説明書に命の危険が書かれていることは読んでいたと認めたらしい。


 父と祖母も警察から事情を聞かれた。


 管理人が提出した通話記録には、父が母の訪問に協力してほしいと頼んでいたことが残っていた。祖母も、予備の鍵を誰が管理しているか問い合わせていた。


 さらに捜査が進むと、祖母と母が交わしたメッセージも見つかった。


 祖母は母から、腕輪を使うと私の身体に負担がかかると聞かされていた。それでも、莉奈がよくなるなら仕方がないと返事をしていたという。


 私が腕輪を拒んで実家を出たあとも、祖母は母に頼まれ、アパートの管理人へ連絡を取っていた。母が夜中に部屋へ入ることを知りながら、協力を続けていたことも記録から確認された。


 祖母は当初、腕輪の危険性について何も知らなかったと主張していた。


 しかし、保存されていたメッセージを示されると、母から身体に負担がかかるとは聞いていたことを認めたという。


 また祖母は、私が母をたたいた場面だけを切り取り、勤務先がわかる情報と一緒にSNSへ投稿していた。その件についても、被害の状況が調べられた。


 裁判の日、私は傍聴席に座っていた。


 母は白髪が増え、濃い色の上着を着ていた。私と目を合わせようとせず、ずっとうつむいている。父と祖母も、それぞれ弁護人を伴って出廷していた。


 管理人は、私の許可を取らずに鍵を開けたことを認めた。


 由紀も証言台に立った。


「私も見ました。恵子さんは美咲のベッドのそばにいて、腕輪をつけようとしていました」


 医師が私の検査結果について説明している間、母は一度もこちらを見なかった。腕輪の写真が証拠として示されたときだけ、膝の上で握っていた手が動いた。


 鑑定人は腕輪から検出された物質について説明した。販売記録や母のメッセージも、順番に示されていった。


 弁護側は、腕輪と私のすべての症状との因果関係には不明な点があると主張した。一方、検察側は、母が命に関わる危険性を知りながら、私の同意なく繰り返し使用した経緯を示した。


 父と祖母についても、それぞれの関与が審理された。


 父が管理人へ連絡していたこと、祖母が腕輪の危険性を知りながら母の夜間訪問に協力したことについて、通話記録やメッセージが証拠として示された。


 祖母は、まさか私がそこまで具合を悪くするとは思わなかったと訴えた。


 けれど、母とのやり取りには、私の身体への負担について話していた記録が残っていた。


 判決の日、母には重大な傷害行為を繰り返したことなどについて、拘禁刑十年の実刑判決が言い渡された。


 父については、母の無断立ち入りや私への加害に関与したこと、私に対する暴力行為などが認定され、拘禁刑三年となった。


 祖母についても、私の身体に危害が及ぶ可能性を認識しながら、母の行為を継続的に手助けした責任が認定され、拘禁刑三年の判決が下った。SNSへの投稿についても、別途その違法性が判断された。


 母は判決を聞くと、椅子から立ち上がれなくなった。


「十年も……。莉奈はこれからどうすればいいの……?」


 父は「お前のせいで家族がめちゃくちゃだ」と母を責め、祖母は父が最初から止めなかったのが悪いと言い返した。


 裁判所を出てからも、二人は口論を続けていた。


 莉奈はまだ未成年だったため、児童相談所が生活と治療の支援を調整していた。施設や里親、親族による支援など、今後の受け入れ先が検討されていると聞いた。


 母が腕輪を使えなくなってから、莉奈の持病は再び悪化していた。


 私は裁判所の階段をゆっくり下りた。


 身体にはまだ治療が必要だった。それでも、夜中に母が私の部屋へ忍び込んでくることを恐れずに眠れる。


 階段を下りきったところで、私は病院から届いていた次の診察案内を確認した。



8



 判決が確定してしばらく経った頃、母の弁護人から連絡があった。


 母が私との面会を希望しているという。


 最初は断るつもりだった。けれど、私にも直接伝えておきたいことがあり、指定された日に面会へ向かった。


 ガラスの向こうに座る母は、以前より頬がこけ、髪もずいぶん白くなっていた。私を見るなり、急いで受話器を取った。


「美咲……来てくれたのね」


 私も受話器を耳に当てた。


「話があるって聞いたけど」


「そうなの。ねえ、美咲……ここでの暮らし、本当につらいのよ」


 母は涙を拭った。


「何をするにも決まりがあるし、莉奈が今どうしてるのかも、なかなかわからなくて……」


「それで?」


「お願い。弁護士さんに、お母さんのことは許したって伝えてくれない?」


 母はガラス越しに私を見つめた。


「今後の手続きで、少しは事情を考えてもらえるかもしれないでしょう?」


 私は受話器を握り直した。


「今も莉奈の心配ばかりなんだね」


「だって、あの子は病気で……」


「私は?」


 母が黙った。


「水も飲めないくらい苦しかったとき、覚えてる? 何度も病院へ連れていってって頼んだよね」


「美咲、あのときは……」


「腕輪が危ないって知ってたのに、使い続けたでしょう」


 母は首を振った。


「そんなにひどいことになるとは思わなかったのよ。あのときは莉奈のことで頭がいっぱいで……」


「説明書には書いてあったよね。死ぬこともあるって」


 母は口を閉じた。


「莉奈が元気になるたび、お母さんは喜んでた。私は何度も倒れてたのに」


「そんなつもりじゃ……」


「私が丈夫だから、少しくらい平気だと思ったんでしょう?」


 母は答えなかった。


 しばらくすると、ガラスに手を当てた。


「美咲、お願い。私はあなたのお母さんなのよ。間違えたことは認めるわ。だから、もう許してちょうだい」


 私は母を見た。


「……」


「外に出られたら、また家族で暮らしましょう? 今度こそ、ちゃんとするから」


「私はもう戻らないよ」


 母の表情がこわばった。


「美咲……」


「嘆願書も書かない。莉奈には治療を受ける場所も、生活を支えてくれる人もいる」


 私は受話器を置こうとした。


「待ちなさい!」


 母がガラスをたたいた。


「私が産んで育てたのよ! それなのに、こんな仕打ちをして平気なの!」


 私は受話器を戻し、席を立った。


 施設を出てから、父と祖母が知人を通じて連絡してきた番号をすべて着信拒否にした。後日、携帯電話の番号も変え、昔の近所の人には新しい住所を知らせないことにした。


 それからしばらくして、定期検査を受けた。


 医師は結果を見ながら、少し表情を緩めた。


「藤原さん、前回より数値がよくなっていますよ」


「本当ですか?」


「ええ。まだ治療は必要ですが、回復は予想以上に順調です。この調子で続けていきましょう」


 私は何度もうなずいた。


 診察室を出ると、中庭の木々が風に揺れていた。


 私は病院の門を出て、駅へ続く坂道をゆっくり歩き始めた。



9



 身体の状態が落ち着いてから、私は花沢市を離れ、海沿いの汐見市へ引っ越した。


 転入の手続きを終えた日、新しい住所が書かれた書類をバッグにしまい、帰りに温かい弁当を買った。この街には藤原家を知る人がいない。近所で会う人といえば、挨拶を交わす程度だった。


 私は通院と服薬を続け、食事や睡眠にも気を配った。半年後には危険な状態だった検査数値が正常範囲に戻り始め、医師から無理のない範囲でフルタイム勤務を再開してもよいと言われた。


 体力が戻るのに合わせ、以前の仕事に関係する資格も取得した。


 その後、海外に取引先を持つ貿易会社へ入社した。


 見積書の作成や契約内容の確認、顧客との連絡が主な仕事だった。前の会社で営業事務をしていた経験があり、業務には少しずつ慣れていった。


 ある日、出荷直前の商品について、契約書に記載された仕様が間違っていることがわかった。


 私は倉庫と取引先に連絡を取り、夜遅くまで内容を確認した。無事に書類を修正でき、返品につながりかねない問題を防ぐことができた。


 その後、固定の取引先をいくつか任されるようになった。


 三年後、私は営業チームのリーダーになった。


 収入も以前より増え、日当たりのよいマンションを借りて、ラグドールの猫を飼い始めた。休日には海辺のカフェでコーヒーを飲んだり、電車で音楽会へ出かけたりした。


 帰宅すると猫の水を替え、ベランダの植物に水をやる。そんな毎日が続いた。


 ときどき、昔の知人から藤原家の近況が伝わってくることはあった。


 母は服役中に何度か規則違反で処分を受け、弁護士に莉奈の様子を尋ねる手紙を何度も送っているらしい。


 父と祖母も服役中に問題を起こし、それぞれ処分を受けたという。ほかの収容者との揉め事もあったそうだが、詳しいことまでは知らなかった。


 莉奈は児童福祉施設と病院を行き来していた。


 成人後はいくつかの仕事に就いたものの、持病や人間関係の問題で長続きしなかったらしい。工場で短期間働いたこともあり、生活費を稼ぐため、自分には向いていない仕事を引き受けたこともあると聞いた。


 ある日、そんな話を電話で聞いたあと、私はベランダでコーヒーを飲んでいた。


 電話を切ると、猫が足元へ寄ってきた。私はカップを置いて猫に水を足し、翌日の仕事の資料をバッグにしまった。


 会社で大きなプロジェクトが完了した日、部署でささやかな祝賀会が開かれた。


 私は担当チームの代表として成果を報告し、同僚たちに礼を伝えた。拍手を聞きながら、父に実家から突き飛ばされ、壁につかまらなければ立てなかった日のことを思い出した。


 私はグラスを持ち上げ、同僚たちと乾杯した。



10



 あの事件から五年が経った。


 私はこれまで貯めたお金で、汐見市の中心部に中古マンションを購入した。


 それほど広くはなかったが、窓から海が見えた。内装もきれいで、猫と暮らすには十分だった。鍵を受け取った私は数日間の休暇を取り、カーテンや家具を買いそろえることにした。


 午後、買い物袋を抱えてマンションへ戻ると、入口に痩せた女性が立っていた。


 頬はこけ、肌は黄色みを帯びている。身体に合わない古い上着を着たその女性が莉奈だと気づくまで、少し時間がかかった。


 私を見ると、莉奈は駆け寄ってきた。


 その場に膝をつき、私の脚にしがみつく。


「お姉ちゃん、お願い。助けて……」


「莉奈? どうしたの?」


「腎臓がもう、ほとんど働いてないんだって……」


 莉奈は泣きながら顔を上げた。


「このままだと透析が必要になるって。移植の話まで出てるの」


「病院には行ってるんでしょう?」


「行ってる。でも、この先どうなるかわからなくて……」


 莉奈は私の脚をさらに強く抱きしめた。


「お姉ちゃんに、一度だけ検査を受けてもらえないかな……」


 病院では、生体腎移植には提供する側の自発的な意思と、詳しい検査が必要だと説明されたらしい。莉奈は両親を頼れず、身近に相談できる人もいないと言った。


「私たち、血液型も同じでしょう? 検査してみないとわからないって言われたけど、お姉ちゃんが協力してくれたら、少しは希望があるの」


 莉奈はマンションの入口を見上げた。


「お姉ちゃん、元気そうだね……。こんなところに住んでるんだ」


 そして、また私を見た。


「お願い。一度だけでいいから……」


 私は莉奈を見下ろした。


 以前の病室でも、妹は同じように弱々しい声で、死んだほうがいい、家族に迷惑をかけたくないと言っていた。


 そのたびに母は私の手をつかみ、あの腕輪をつけろと迫った。


「莉奈、手を離して」


「お姉ちゃん……」


「私は検査を受けない」


 莉奈の顔がこわばった。


「……どうして?」


「腎臓を提供するつもりはないから」


「そんな……!」


 莉奈は私の脚にしがみついたまま、声を上げた。


「まだ昔のことを怒ってるの? あの腕輪を買ったのはお母さんでしょう! 私じゃないよ!」


「それは知ってる」


「だったら、どうして!」


「莉奈が泣くたび、お母さんが私に腕輪をつけろって言ってたのは覚えてる?」


 莉奈は黙った。


「莉奈が元気になった頃、私は病院で血を吐いてた。そのとき、一度でも私のことを心配してくれた?」


「……」


「検査結果を持って実家へ戻ったときも、お母さんをかばってたよね」


 莉奈は唇をかみ、目を伏せた。


 しばらくして、また泣き始めた。


「そんな昔の話、今しなくてもいいでしょう……。私、本当に困ってるの」


「だからって、私の身体を差し出すことはできない」


「腎臓は一つでも普通に暮らせる人がいるんでしょう? すぐに手術してなんて言ってない。まず検査を受けてほしいだけなの!」


「それも断る」


 莉奈は涙を拭うこともせず、私をにらんだ。


「私が死んじゃってもいいの? お姉ちゃん、そのあと平気で眠れるの?」


 私は莉奈の手を外し、マンションの扉の前へ下がった。


「眠れるよ。今は毎晩、ちゃんと眠れてる」


「お姉ちゃん……」


「私は検査を受けないし、腎臓もあげない。もう私に頼まないで」


 莉奈はその場に座り込み、泣き始めた。


 やがて私を冷酷だと罵り、母が言っていたとおり、私は家族を大切にしない人間なのだと怒鳴り出した。


 騒ぎを聞きつけたマンションの管理スタッフが出てきた。


「どうされましたか?」


「この人とは一緒に来ていません。何度も帰ってほしいと伝えているんですが……」


 スタッフは莉奈に声をかけた。


「こちらは居住者専用の入口になります。移動をお願いします」


「まだ話は終わってない!」


 莉奈が叫んだ。


「お姉ちゃん! 待ってよ!」


 私は扉の内側へ入った。


 スタッフが莉奈を入口から離れるよう案内し、ガラス扉がゆっくり閉まった。


 エレベーターで新しい部屋へ戻ると、まだ開けていない段ボール箱がいくつも積まれていた。


 私は買ってきた猫用ベッドを窓際へ置き、グラスに赤ワインを注いだ。これまでの貯金は住宅購入でずいぶん減ったけれど、生活を続けるには十分だった。


 明日からは休暇だ。


 私は海の見える島への航空券を予約し、旅行用のスーツケースをクローゼットの横へ置いた。


 夕方の日差しが窓から差し込み、床の段ボール箱を照らしていた。


 五年前、病院のベッドに横たわっていた私は、次の秋を迎えられるかどうかさえわからなかった。


 今は仕事があり、友人がいて、帰る家がある。


 私はスマートフォンをテーブルに置き、最初の段ボール箱を開けた。


 窓から海風が入り、カーテンが揺れる。


 猫が空になった箱へ飛び込み、その中で丸くなった。なかなか出てこないので、私は笑いながら、新しい猫用ベッドをもう少し日当たりのよい場所へ動かした。






評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。