永久の常連
佐藤美咲は、「たまには自分だけの旅行がしたくて」と一人で出張に行く夫に言い残し、翌朝早くに家を出た。
初夏の山道は新緑がまぶしく、風が爽やかで、ストレス解消にぴったりだと期待していた。
心身のリフレッシュを求めて一人旅に出たのだ。
初夏の新緑がまぶしい山道を古めかしい路線バスに乗り、ようやく小さな温泉宿「霧の館」に到着した。
木造の古びた建物は、ネットの写真よりさらに幽玄で、霧が低く這う谷間にぽつんと建っていた。
バスが土埃を舞い上げながら去ると、女将が玄関先で両手を広げて待っていた。
「美咲さん! 来てくださったのね。嬉しいわ、またお会いできて」
女将は満面の笑みで駆け寄り、美咲の両手を握った。
美咲は一瞬、言葉を失った。
「え……初めて来たんですが。予約は昨日ネットで……」
「まあ、またそんな可愛いこと言って。いつも一人でいらっしゃるじゃないの」
女将は美咲の肩を抱き、宿の中へ導いた。
「お部屋はいつもの二階の角部屋よ。夫さんからも『よろしく』って連絡があったわ」
「夫……? うちの夫は出張で、連絡なんて取るはずが……」
美咲の声が震えた。
女将はただ、優しく微笑むだけだった。
部屋に入ると、窓辺の花瓶に美咲が好きな花、アジサイが活けてあった。
夕食の食堂では、四十代の男性客がにこやかに声をかけてきた。
「美咲ちゃん、また一人旅かい? この間はあの峠で迷子になった子供の頃の話、夜中まで聞かせてくれたよね」
男性は親しげに笑う。
「ほら、君が『道が私を覚えている』って怖がってたやつ」
「……あなた、誰ですか」
美咲の背中に冷たい汗が伝った。
田中はフォークを置き、無表情になり動きを止めた。
まるでロボットの電源が切れたように。
夜中、美咲は目を覚ました。
枕元のスマホが消えていた。部屋のドアが細く開き、廊下から足音が近づいてくる。
「誰……?」
「美咲、起きてるの? またあの夢を見たんでしょ」
女将の声だった。ドアの隙間から顔だけ覗かせ、穏やかに微笑んでいる。
「どうして……私の夢を知ってるんですか」
「だって、毎回同じ夢を見るって言ってたもの。『新緑の道が私を離さない』って。ほら、この間も。その前も。そう言って、朝まで一緒にいたじゃない」
女将は部屋に入り、美咲の肩に優しく手を置いた。
「大丈夫。今夜も一緒にいてあげる」
美咲は飛び退いた。
「やめてください! 私は本当に初めて来たんです! あなたたち、誰なの!?」
女将の笑顔が、ゆっくりと無表情になった。
「美咲……また『初めて』って言うの? 可哀想に……」
その瞬間、部屋の隅の鏡がぼんやりと光った。
美咲の後ろに、もう一人の自分が立っていた。
少し前の髪型の自分。そしてその後ろに、更に前の少し若い自分が。
その後ろにはまたそれより前の…更に前の…前の…沢山の美咲が、鏡の中で揃って静かに微笑んだ。
鏡の中の自分が、囁いた。
「ねえ……もう気づいたでしょう?
あなたはずっと『初めて来た』と思い込んで、この宿に帰ってくるの。
夫も、家も、仕事も、全部幻。
本当のあなたは、この霧の中に囚われている」
美咲は悲鳴を上げてドアに飛びついたが、鍵はかかっていた。
女将が背後で優しく、しかし冷たく言った。
「ほら、また同じこと。
ずーっと、同じ恐怖を味わって。
いい子だから、布団に入って。
明日はまた、あなたの大好きな、解放された気分の一人旅よ」
美咲は床に崩れ落ちた。
窓の外、青い月明かりがぼんやりと照らす濃い霧に包まれた山道が、まるで生き物のようにうねり、彼女を呼んでいるように見えた。
遠くから、自分の声が聞こえた。
「これからも……よろしくね」
美咲はゆっくりと目を閉じた。
次の朝、彼女は再び「初めて」この宿に到着するだろう。
新緑の風を感じ、心をリフレッシュさせるために。
永遠に、終わらない一人旅の中で。




