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永久の常連

掲載日:2026/05/06

 佐藤美咲は、「たまには自分だけの旅行がしたくて」と一人で出張に行く夫に言い残し、翌朝早くに家を出た。

 初夏の山道は新緑がまぶしく、風が爽やかで、ストレス解消にぴったりだと期待していた。

 心身のリフレッシュを求めて一人旅に出たのだ。

 初夏の新緑がまぶしい山道を古めかしい路線バスに乗り、ようやく小さな温泉宿「霧の館」に到着した。

木造の古びた建物は、ネットの写真よりさらに幽玄で、霧が低く這う谷間にぽつんと建っていた。


 バスが土埃を舞い上げながら去ると、女将が玄関先で両手を広げて待っていた。


「美咲さん! 来てくださったのね。嬉しいわ、またお会いできて」

女将は満面の笑みで駆け寄り、美咲の両手を握った。


美咲は一瞬、言葉を失った。

「え……初めて来たんですが。予約は昨日ネットで……」


「まあ、またそんな可愛いこと言って。いつも一人でいらっしゃるじゃないの」

女将は美咲の肩を抱き、宿の中へ導いた。

「お部屋はいつもの二階の角部屋よ。夫さんからも『よろしく』って連絡があったわ」


「夫……? うちの夫は出張で、連絡なんて取るはずが……」

美咲の声が震えた。


女将はただ、優しく微笑むだけだった。


 部屋に入ると、窓辺の花瓶に美咲が好きな花、アジサイが活けてあった。

 夕食の食堂では、四十代の男性客がにこやかに声をかけてきた。


「美咲ちゃん、また一人旅かい? この間はあの峠で迷子になった子供の頃の話、夜中まで聞かせてくれたよね」

男性は親しげに笑う。

「ほら、君が『道が私を覚えている』って怖がってたやつ」


「……あなた、誰ですか」

美咲の背中に冷たい汗が伝った。

田中はフォークを置き、無表情になり動きを止めた。

まるでロボットの電源が切れたように。


 夜中、美咲は目を覚ました。

 枕元のスマホが消えていた。部屋のドアが細く開き、廊下から足音が近づいてくる。


「誰……?」


「美咲、起きてるの? またあの夢を見たんでしょ」

女将の声だった。ドアの隙間から顔だけ覗かせ、穏やかに微笑んでいる。


「どうして……私の夢を知ってるんですか」


「だって、毎回同じ夢を見るって言ってたもの。『新緑の道が私を離さない』って。ほら、この間も。その前も。そう言って、朝まで一緒にいたじゃない」

女将は部屋に入り、美咲の肩に優しく手を置いた。

「大丈夫。今夜も一緒にいてあげる」


美咲は飛び退いた。

「やめてください! 私は本当に初めて来たんです! あなたたち、誰なの!?」


 女将の笑顔が、ゆっくりと無表情になった。

「美咲……また『初めて』って言うの? 可哀想に……」


 その瞬間、部屋の隅の鏡がぼんやりと光った。

 美咲の後ろに、もう一人の自分が立っていた。

 少し前の髪型の自分。そしてその後ろに、更に前の少し若い自分が。

 その後ろにはまたそれより前の…更に前の…前の…沢山の美咲が、鏡の中で揃って静かに微笑んだ。


 鏡の中の自分が、囁いた。

「ねえ……もう気づいたでしょう?

 あなたはずっと『初めて来た』と思い込んで、この宿に帰ってくるの。

 夫も、家も、仕事も、全部幻。

 本当のあなたは、この霧の中に囚われている」


美咲は悲鳴を上げてドアに飛びついたが、鍵はかかっていた。


 女将が背後で優しく、しかし冷たく言った。

「ほら、また同じこと。

 ずーっと、同じ恐怖を味わって。

 いい子だから、布団に入って。

 明日はまた、あなたの大好きな、解放された気分の一人旅よ」


 美咲は床に崩れ落ちた。

 窓の外、青い月明かりがぼんやりと照らす濃い霧に包まれた山道が、まるで生き物のようにうねり、彼女を呼んでいるように見えた。


 遠くから、自分の声が聞こえた。

「これからも……よろしくね」


 美咲はゆっくりと目を閉じた。

 次の朝、彼女は再び「初めて」この宿に到着するだろう。

 新緑の風を感じ、心をリフレッシュさせるために。

 永遠に、終わらない一人旅の中で。

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