9.事象抹消(イレイス)――神の門も聖騎士の誇りも、最初からなかった
鉄の墓場を後にしたユーシスとレイリアの眼前には、かつての王国の象徴であり、今は魔族の総本山と化した王都『ルナリス』がそびえ立っていた。
城壁には幾重もの魔導回路が刻まれ、触れる者すべてを塵に変える『絶望の結界』が赤黒い光を放っている。
かつては数万の軍勢をもってしても傷一つ付けられなかった、人類史上最強の防御遺産だ。
「……懐かしいわね。あの日、私たちはここを追われ、仲間を見捨てて逃げるしかなかった」
レイリアが黒と金の魔導衣をなびかせ、皮肉げに目を細めた。
城壁の上には、魔族に魂を売った元聖教騎士たちの変わり果てた姿――『堕天騎士』たちが、無数の弓を番えて二人を見下ろしている。
「侵入者め、身の程を知れ! この『聖なる拒絶』を突破できる者など、この世に――」
堕天騎士の叫びを、ユーシスは一歩踏み出すことで遮った。
「レイリア、後ろにいろ。……門を『消す』」
ユーシスが【零式・極】を水平に構える。
魔剣が空気を喰らい、周囲の光を吸い込んで、刃の境界線が完全に消失した。それは、この世界の物理法則が、その一振りの存在を拒絶している証だった。
「【事象抹消】――座標固定」
ユーシスが静かに、ただ一太刀、空を薙いだ。
パリンッ。
空間そのものが砕け散るような、あまりにも乾いた音。
爆発も、衝撃波もない。
次の瞬間、高さ五十メートル、厚さ十メートルを超え、神の加護すら宿していた『不落の城門』が、そこに最初から存在しなかったかのように消滅した。
崩落して瓦礫になることすら許されない。
門があった場所には、完璧な矩形の「虚無」が穿たれ、向こう側の景色が丸見えになっていた。
「な……ッ!? 門が……我らの誇る絶対結界が、霧散しただと……!?」
城壁の上で、堕天騎士たちが腰を抜かし、武器を取り落とす。
彼らが信奉していた「最強」という概念が、ユーシスの振るった一撃によって、歴史ごと削り取られたのだ。
「……歩きやすいわね。掃除、ありがとう」
レイリアが優雅に、だが冷酷な笑みを浮かべて、空いた「穴」へと足を踏み入れる。
彼女の足元からは深淵の氷が広がり、恐怖で硬直した騎士たちを、その場から動けぬ氷像へと変えていく。
『──対象:王都外郭門の「存在」を抹消。
周辺の魔族に【根源的恐怖】の状態異常を付与しました。
ドロップボーナス:王都の結界魔力を吸収。全ステータスが恒常的に上昇します』
「絶望する必要はない。お前たちには、死ぬという概念すら残さないからな」
ユーシスは魔剣を肩に担ぎ、騒然とする王都のメインストリートを堂々と歩き始めた。
彼の背後には、ただ「無」へと還った巨大な門の跡だけが、アビスガルドの曇天を虚しく映し出していた。
消滅した城門の先に広がるのは、かつて白亜の輝きを誇った王都のメインストリート。
しかし、そこには市民の姿はなく、代わりに整然と並ぶ黒い鎧の集団――元聖教騎士団、現在は魔将の軍門に降った『堕天騎士団』が道を塞いでいた。
その中心で、一際豪華な、だが血の汚れを吸ったような赤黒いマントを翻す男が、ユーシスを睨みつけていた。
「……やはり、生きていたか。泥を啜り、魔族の力に魂を売ってまでな。見苦しいぞ、ユーシス」
低く、傲慢な声。
かつてのユーシスの上官であり、パーティリーダーでもあった男、聖騎士カイルだ。
数週間前、撤退戦の最中に「殿」という名目で、装備も持たぬユーシスを悪魔の群れの中に突き飛ばした張本人。
「カイル……。その鎧の紋章、魔王の刻印に変えたのか」
ユーシスが静かに問うと、カイルは鼻で笑い、腰の聖剣を抜いた。
「これは『適応』だ。弱者が死に、強者が生き残る。それが新しい世界の理だというのに……。貴様は、その禍々しい剣を振るい、この秩序を乱すのか? 裏切り者め、聖教の名において処刑してやる!」
「裏切り者? ……笑わせないで」
一歩前へ出たのはレイリアだった。
彼女の黒と金の魔導衣が、殺気を含んだ魔力で激しくなびく。
「ユーシスを見捨て、自分たちだけ生き延びるために魔族に膝を屈した。それがあなたの言う『聖教の正義』なの? ……虫酸が走るわ」
「黙れ、売女が! 魔族の力に溺れたのは貴様らだ! 全員、あの方の糧にしてくれるわ!」
カイルが叫ぶと同時に、彼を起点に強烈な「加護」の光が堕天騎士たちに伝播した。魔将から与えられた、対象を不死身に近い再生能力で縛る暗黒魔法。
「総員、突撃! 概念破壊などという、まやかしの刃ごと叩き潰せ!」
数百の重装騎士が、地響きを立てて突進してくる。
だが、ユーシスは剣を構えることすらしない。ただ、レイリアの手を握り、静かに目を閉じた。
『──【深淵共鳴】:同調率300%突破。
固有領域:【無への招待】を展開します。』
ユーシスが目を開いた瞬間、彼の右目――【石化の魔眼】が、これまでとは比較にならない漆黒の輝きを放った。
「消えろ」
短く一言。
【零式・極】の切っ先が地面を叩く。
パリン、パリン、パリンッ!
硝子が割れる音が連鎖した。
突撃してきた堕天騎士たちの足元から、その「存在」が次々と削り取られていく。
鎧の防御力、魔法による再生能力、そして彼らが吸ってきた酸素さえも。
「な……ッ!? 私の騎士たちが、一瞬で……消えた……?」
数秒前まで数百人いた軍勢が、血の一滴も残さず、ただの「空洞」へと変わっていた。
残されたのは、無様に一人立たされたカイルだけだ。
「カイル、お前の言う『強者の理』とやらを見せてみろ。……その自慢の聖剣で、俺の『無』を斬ってみせろ」
ユーシスがゆっくりと歩み寄る。
一歩進むごとに、王都の石畳が「歴史ごと」消滅し、深い闇の穴が開いていく。
「ひ……ひぃっ! くるな、くるなあああッ!」
カイルはかつての部下に向けて、なりふり構わず魔力を込めた斬撃を放つ。
だが、その光の刃は、ユーシスの周囲数センチに触れた瞬間、パチンと弾けて虚無へ消えた。
『──対象:カイルの「攻撃意志」を抹消。
精神汚染:【絶望】を強制付与します。』
「……これで終わりだ」
ユーシスの刃が、カイルの首筋を撫でる。
切られた感覚すらない。
カイルの意識は、自分が死んだことさえ理解できぬまま、その魂ごと世界の理からログアウトさせられた。
『──レベルアップを確認。
特殊ドロップ:【聖騎士の成れの果て】を入手。
魔導武装の「食糧」として変換します。』
「……さあ、レイリア。次は玉座だ」
「ええ。ゴミ掃除は終わったわね」
二人は、もはや誰もいなくなった大通りを、朝日が昇るような静けさで歩き出した。




