なくなったはずの日記
それは、
確かに捨てたはずだった。
中学生の頃に書いていた日記。
誰にも見せる気はなくて、
でも誰かに見られるのが怖くて、
高校に入る前の春、
ゴミ袋に入れて、可燃ごみに出した。
燃やされる日も確認した。
だから――
もう、存在しない。
はずだった。
引っ越しの準備をしていたとき、
クローゼットの奥から、
見覚えのある表紙が出てきた。
薄汚れた、青いノート。
角が折れている。
私の日記だった。
「……なんで?」
手が、震えた。
同じだ。
書き始めた日付。
ボールペンの癖。
捨てたはずのものが、
完璧な状態で戻ってきている。
怖くて、すぐ閉じた。
でも、
閉じた瞬間、気づいてしまった。
ページの厚みが、
記憶より多い。
そんなに、
書いた覚えはない。
その夜、
私は結局、日記を開いた。
最初のページ。
【4月10日】
今日から日記をつける。
どうせ誰も読まない。
懐かしい。
二ページ目。
三ページ目。
部活のこと。
友達のこと。
些細な愚痴。
全部、
「私が書いた私」だった。
でも、
ある日を境に、
文体が変わる。
【7月3日】
今日は、ちゃんとできなかった。
【7月4日】
また失敗した。
見られている気がする。
【7月5日】
書かないと、忘れられる。
この辺りから、
記憶が曖昧だ。
こんなこと、
書いた覚えはない。
ページをめくる。
【7月12日】
今日は、代わりにやってあげた。
【7月13日】
本人は、気づいていない。
【7月14日】
日記の中にいれば、安全。
喉が、ひくりと鳴った。
「……誰?」
部屋には、
私しかいない。
でも、
日記は続く。
【7月20日】
最近、現実の方が薄い。
鏡の向こうの方が、落ち着く。
【7月21日】
外に出ると、うまく動けない。
中の方が、よく覚えている。
【7月22日】
今日は、交代した。
頭が、追いつかない。
交代?
何と?
次のページ。
【7月23日】
ちゃんと日常を送っている。
誰も疑っていない。
【7月24日】
日記を書くのは、私の役目。
背中が、冷たくなった。
最後のページ。
日付は、
今日。
【2月10日】
また、読まれてしまった。
【2月10日】
でも、大丈夫。
【2月10日】
思い出せなくなるから。
その下に、
インクが滲んだ文字。
【なくなったと思っている間は、
外にいられる】
理解した。
私は、
「本体」じゃない。
捨てたと思っていた日記。
そこに閉じ込めたのは、
不要だと思った自分。
弱くて、
失敗ばかりで、
なかったことにしたかった私。
でも、
消えなかった。
代わりに、
中と外を入れ替えていた。
今、
日記を読んでいる私は、
外側に出てきただけ。
ページを閉じる。
その瞬間、
頭の中が、
すうっと軽くなる。
嫌な記憐。
怖さ。
違和感。
全部、
薄れていく。
日記を棚に戻す。
「……なんで、こんなノート取ってたんだろ」
そう思いながら、
部屋を出る。
棚の奥。
青い日記が、
静かに開かれている。
新しいページ。
【今日】
やっと戻れた。
【今日】
外は、やっぱり疲れる。
【今日】
次は、
気づかれないようにしよう。
インクは、
まだ乾いていなかった。
『鍵をかけたはずの玄関』
私は、戸締まりにうるさい。
外出前。
就寝前。
必ず玄関の鍵を確認する。
一度閉めたあと、
もう一度、手で引いて確かめる。
「……よし」
それが、習慣だった。
だから、その朝――
玄関のドアが少しだけ開いていたのを見たとき、
頭が理解を拒んだ。
「……え?」
ドアチェーンが、
だらんと揺れている。
鍵は、
かかっていない。
昨夜、確かに閉めた。
指先の感触まで覚えている。
疲れていた?
夢遊病?
それとも、単なる記憶違い?
自分に言い聞かせて、
私はドアを閉め、鍵をかけ直した。
その日は、何事もなかった。
――二日目。
夜、帰宅すると、
玄関の鍵は閉まっていた。
ほっとして、
靴を脱ぐ。
そのとき、
違和感に気づいた。
靴の向き。
私が出かけたときと、
微妙に違う。
揃え直した形跡。
「……?」
誰かが、
入った?
でも、
部屋は荒らされていない。
物も、減っていない。
気のせいだと思い、
その日は眠った。
――三日目。
深夜、
カチャ……という音で目が覚めた。
玄関の方から。
息を殺して、耳を澄ます。
――ガチャ
鍵の音。
「……?」
私は、
布団の中で動けなくなった。
でも、
足音はしない。
ドアの開く音も、
閉まる音もない。
ただ、
鍵を回す音だけ。
朝。
玄関を見て、
背筋が凍った。
鍵は、
内側からかかっている。
チェーンも、
かかっている。
つまり――
外からは、触れない。
なのに、
私は夜中に音を聞いた。
その日の夜、
私は起きて待つことにした。
午前一時。
午前二時。
静かだ。
午前二時半。
――ガチャ
はっきりとした音。
私は、
ゆっくり玄関へ向かった。
ドアの前。
誰もいない。
でも、
鍵が、わずかに揺れている。
「……誰?」
声が震える。
返事はない。
そのとき、
ふと気づいた。
ドアスコープ。
覗く。
外の廊下――
ではなかった。
そこに映っていたのは、
私の部屋の中。
玄関に立つ、
私の背中。
心臓が、跳ね上がる。
次の瞬間、
ドアの向こうから声がした。
「……やっと、戻れた」
私の声。
理解が追いつかない。
「鍵をかけたのは、あなたでしょ?」
ドア越しに、
もう一人の私が言う。
「外は危ないから」
「中にいる方が、安全だから」
「だから――」
鍵が、
内側から回る音。
ガチャ。
その瞬間、
視界が揺れた。
気づくと、
私は玄関の外に立っていた。
冷たい廊下。
閉まったドア。
鍵は、
しっかりとかかっている。
中から、
足音が遠ざかる。
私は、
必死にドアを叩いた。
「開けて!」
返事はない。
翌朝。
管理人が、
私を見つけた。
「……またですか」
「この部屋、
中に閉じこもる人が多いんですよ」
「外に出られなくなった人が」
私は、
何も言えなかった。
今も、
毎晩聞こえる。
――ガチャ
鍵をかける音。
内側から。
そして私は、
今日も玄関の前に立っている。
確かに――
鍵をかけたはずなのに。




