きりぎりすの追憶
私はもともと、孤児だった。
物心ついた時には施設に入れられ、身寄りという身寄りが無かった。
私が施設に入れられてから四年目のある夏、私はそこを脱走した。
…
実のところ、私が施設を脱走するのはそう珍しいことではなかった。
いつもの抜け道──木と金網の間にできた細い隙間に体をねじ込ませて私が向かうのは、近所のおばさんの所だった。
私が施設に入れられる前、私のことを育ててくれたおばさんの家。
私が施設に入れられてからも、私が脱走するたびにおばさんは門扉を開いてくれた。
車でもそこそこの時間がかかるその場所へ、私は道一本違わず向かった。
その夜私が施設に戻らなかったのは、おばさんが私に布団を用意してくれていたからだった。
カビ臭い畳に敷かれた羊毛の塊は、思った以上に私を強く掴んで離さなかった。
おばさんは毎朝、朝の集会という集まりに私を連れて行った。
そこにはおばさんのような年齢の人、ぱっとしないスーツ姿のサラリーマン、どう見てもさっき起きたばっかりの主婦など、特にまとまりのない年齢層のヒトたちが集まっていた。
でもそこには、施設から抜け出してきたと知ってなお、私を施設に連れ戻そうとする人なんていなかった。
きっとおばさんみたいな心優しいヒトたちが集まっているのだろうと、思った。
最後の祈りの時間も終わり、焼き魚と味噌汁と、和食が揃った朝ごはんを食べる。
当時の私には量が多く、残さないようにと頑張って胃に詰め込んだのを憶えている。
それから昼までは、町外れにあるおばさんの畑で、農作業を手伝ったりした。
数日間熱を出して寝込んだ時のは、ここで見つけたカエルをおばさんに見つからないように食べてみたからだと思う。
とにかく誰かのために、本当に役に立っているかは別として、誰かのために働いているという実感そのものが、私にとっては新鮮だった。
それから夜まではおばさんと一緒にゆっくりして、晩ご飯の用意を手伝ったりした。
たまに、朝の集会の人たちと集まって、何かイベントをやる事もあった。
最後の日は、落ち葉焚きをした。
どこから持ってきたのか、焚き火台やら薪やら芋やらがあれよあれよという間に集まり、ほどなくして夕暮れの街に小さな炎が灯る事となった。
その頃にはもう、ギィーギィーという大きなきりぎりすの鳴き声がまばらに響いていた。
朝の集会より多くの人たちが集まり、皆で焼き芋を食べたり、色んな人と喋ったりした。
でも、「あなたもうちの教団に入れば良かったのに。」なんて言う人には、おばさんがすごく怖い顔をして怒った。
理由はよく分からないけど、何かただ暖かいだけの善意を感じた。
だからだろうか。
次に起きた時、時間は9時を回っていた。
付けっぱなしのテレビで、近くの駅で爆弾テロがあった事が中継されていた。
犯行声明が映し出された時、そこにおばさんの名前が載っていた。
でも私は、ただ、ああそうかと思っただけだったのを覚えている。
この話は、私が施設に逆戻りして終わりである。
ただ、私は今も、自爆テロをするに至ったあのおばさんが、どうにも悪い人だとは思えないのだ。




