1. プロローグ:ある一日(前篇)
――『好き』をあきらめなければ、いつかは。
『見習い絵師と魔術団長のまったりおうちごはん』/未来屋 環
目の前の白い世界を塗りつぶしていく。
私の記憶の中の線で、色で。
アスファルトの隅に佇む猫のしっぽを塗り終えて、私はペンを置いた。
出来上がった作品を眺めてみる。
顔を近付けて、そして遠ざけて。
「――よし」
塗り残しがないことを確認して伸びをした。
そのまま窓の外を見ると、空の色が少しずつ赤から深い青へと染まり始めている。
そこで初めて、朝ごはんを食べて以来作業に没頭していたことに気付いた。
「……え、今何時?」
ひとり暮らしも長くなると、ひとりごとが増えてしまう。
壁の時計を見ると、そろそろ夕食の準備をする時間になっていた。
普段は適当に済ませてもいいけれど、『今日』はそういうわけにはいかない。
「わわわ、やばいやばい」
机の上もそのままに、慌てて作業部屋を出てキッチンへと向かう。
棚の中からお米を取り出し、さっさっと研いでからお水に浸した。
続いて具材を切っていく。
大根、ねぎ、そしてじゃがいも。
包丁でぱっぱと切ってしまう。
豆腐は崩れないよう、ちょっとだけ丁寧に。
お肉の脂身がいい感じにおいしそう。
こんにゃくは味が染みるように、手でぶちぶちとちぎって。
既に切れていたごぼうとにんじんも置いておく。
具材の準備ができたので、コンロに火を灯し、鍋をふたつ並べて載せた。
ひとつのお鍋でごはんを炊き始め、もうひとつのお鍋ではまずこんにゃくのあく抜きから。
ぐらぐらとお湯の中で踊るこんにゃくをざるにあけたら、次は油を引いてお肉を炒める。
香ばしい匂いが立ち昇ってきて、思わずにやけてしまう。
おいしいものができる予感は、いつも私を幸せにしてくれる。
野菜たちとこんにゃくを加えてじっくりと炒めたら、作っておいただし汁を加えて煮立たせる。
浮いてきたあくを丁寧に取って、お味噌第一弾を投入。
お鍋に蓋をして、ふぅと息を吐いた。
「……料理も慣れてきたなぁ」
またひとりごと。
でも実際、そうだった。
前の生活では、丁寧に自炊することなんてなかったから。
私は田中明里、27歳。
夢はプロのイラストレーターになること。
子どもの頃から絵を描くことが好きで、暇さえあれば絵を描いていた。
地元の大学を卒業し、東京の会社に就職してからもその思いは変わらなかった。
会社が終わったあとは家に帰り、ただひたすら絵を描き続ける日々。
仕事もまぁまぁ忙しかったので、時間とお金を節約するためスーパーの半額弁当やお惣菜のお世話になることが多かった。
――そう、あの日は少しだけ特別だった。
思ったより早く仕事が終わった金曜日、スーパーに立ち寄った私を待っていたのは、いつもの時間帯には残っていないたくさんのごちそうで。
普段よりちょっとおかずの多いお弁当に彩り豊かなお惣菜を手に入れた私は、そのまま週末家にこもることを決めた。
もしそうであれば、切れかかっている乾麺や調味料も一通り買っておこう。
使い切れる分だけ、野菜やお肉も少しずつ、色々と。
だって困ったらお鍋にしてしまえば全部栄養になる。
おっ、カットフルーツも安くなってるし。
そして色々と買い込んだ私がホクホクと家に戻ろうとしたその時、いきなり光が走って――
ぐつぐつと鍋が煮立つ音でふと我に返る。
お鍋の蓋を開けてみると、だいぶ野菜もやわらかくなったようだ。
豆腐を入れたあと、ごはんのお鍋の蓋を開けてみると無事にふっくら炊けていた。
ごはんのお鍋を下ろしたコンロにフライパンを載せ、既に焼けている鮭を温めるために再加熱。
それにしてもこのコンロ、使うのに全然不便を感じない。
本当『魔法』って便利だなぁ――
――ゴォッ
家の外で風が強く吹く音がした。
「あらら、もう着いちゃった」
お鍋に味噌を溶いて、火を止める。
テーブルの上で向かい合わせにランチョンマットをふたつ広げ、その上にお箸。
真ん中に冷やしておいたきゅうりのお漬け物を置いたところで、コンコンとドアをノックする音がした。
「はーい」
ドアを開けると、そこには眼鏡をかけた鋭い眼差しの男性が立っている。
黒い前髪はきっちりとオールバックに整えられ、その髪と同じ色の外套を纏っていた。
鼻筋が通った顔立ちはすっと整っていて、赤い瞳が暗闇にきらりと輝いている。
――あぁ、また来てくれた。
「こんばんは、レオニーダさん」
そう言って笑いかけると、彼は「邪魔をする」と落ち着いた声で言った。




