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蒼き炎のジャヤシュリー  作者: 佐斗ナサト
第1部 女神選定
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第9話 花輪の朝

 射手の男は(とうげ)を越した。今は目を閉じ、穏やかな寝息を立てている。

 老いた医師も疲れ果てたのか、壁に寄りかかってうたた寝中だ。助手は射手の家族に容態を報告しに出かけていた。ジャニはというと、目が冴えてしまってとても休む気にはなれなかった。

 射手の傷から()み出す体液を吸って硬くなった布を取り上げ、傷の様子を見る。新しい膏薬(こうやく)を指に取り、まだ生々しい火傷に塗り直した。


 ダルシャンは言葉どおり、日が昇る前に薬草を採って戻ってきた。

 ヴァージャの(ひづめ)の音が聞こえた瞬間の安堵を手に取るように思い出せる。

 薬草で満たされた袋を医師に手渡すダルシャンは大層誇らしげだった。その顔を思い起こすと、少し口元がほころんでしまう。


 おかしな人だ。王座がほしいということ以外は何を考えて生きているのか、さっぱり分からない。

 けれど――まるきり悪い人ではない、のかもしれない。


 扉の開く音に振り返ると、ちょうど助手が戻ってきたところだった。若い男はジャニと目が合うや満面の笑みを浮かべた。


「報告してきました。ご家族の皆さん、泣いて喜んでおられましたよ」

「……よかった」


 幼い男児の顔を思い起こす。あの子に自分と同じ痛みを味わわせずに済んだことが、何よりも嬉しい。

 助手も大きく頷いた。


「はい、本当に。――僕が交代しますから、休んできてください」


 言われてジャニは少し考える。眠れる気はしなかったが、少し身ぎれいにしたかった。


「水場を……お借りしてもいいですか?」


 そう尋ねると、助手は朗らかに首肯した。


  ※


 医院の裏手の庭に井戸がある。そう教えられて足を向けた。

 建物の外に出たとたん、白い光が眩しくて目をすがめる。いつの間にか夜が明けていた。

 庭の中央にある井戸に釣瓶(つるべ)を落とし、水を汲み上げる。手ですくって一口、二口と飲み、何の気なしに水面を見た。

 こちらを見返す赤土色の目には深い疲労がにじんでいる。頬や額には血だか土だか分からない汚れもついていることに気づいて、残りの水で顔を洗った。

 もう一度水を汲んで、今度は手を洗う。髪をずっと固く結い上げていたせいで頭が痛むので、紐をほどいた。長い髪を手櫛(てぐし)()かし、大きく頭を振る。そうしてようやく一息つくことができた。


 ふと衣擦れの音がした。(かえり)みると、ダルシャンが戸口に立っていた。

 離宮に戻って着替えたのだろう。染みひとつない衣を身につけている。朝日に(つや)めく黒髪を見て、美しいとぼんやり思った。

 自分の髪も、彼のそれと同じように黒い。けれど彼にはどう見えているだろうか。


 疲労のせいで思考が散漫になる。立ち尽くしていると、ダルシャンの方から歩み寄ってきた。彼はジャニをじっと見つめ、いつものように笑った。


「髪を下ろしたか。結っているのも悪くなかったが、俺は普段のその姿が好みだ」

「……ええと」


 言葉がとっさに出てこない。ダルシャンは面白がるように片眉を上げた。


「あの……ダルシャン様。ありがとう、ございました」


 ジャニが小さな声で言えば、王子は得意げに目を細める。


「お前はもう少し自信を持て。以前も見目は悪くないと――」

「薬草! ……ありがとうございました」


 気持ちばかり声を張って、文脈を勘違いしたダルシャンの言葉を途中で切る。王子は目をしばたたき、笑いまじりの息を吐いた。


「よい。俺の参加した祭祀が不吉に終わっては、こちらの名誉にもかかわるからな」

「――はい」


 チ、チ、とかわいらしい鳴き声がした。庭の木の枝に小鳥が飛んできたのだ。青い翼を広げ、くちばしで羽根を繕っている。

 ジャニがそれを見つめていると、ダルシャンが不意に問うてきた。


「ときに、ジャヤシュリー。お前の養父(ちち)(ぎみ)は何という名だ?」

「……シャクンタ、です」

「シャクンタ。鳥の一種だったか。森の賢者らしい名だ。――では」


 言うなりダルシャンはその場に(ひざまず)く。ジャニは驚いて硬直した。


「シャクンタの娘ジャヤシュリー。プラカーシャ七代国王ラジャサーヌの息子ダルシャンが、貴女(あなた)に願い(たてまつ)る」


 ダルシャンの黒い目が、自分を見上げている。

 からかうような笑みは影をひそめ、弓を引く者の真剣さが(おもて)に浮かんでいる。


「いずれ来たる吉日に我が妃となることを(やく)(たま)え。されば七度の輪廻(りんね)にわたりて貴女と共にあらんことを、天にありし神々に誓う」


 そう言って彼は、手のひらを上にして右手を差し出す。心臓がどきり、と大きく跳ねるのを感じた。


「……ダルシャン様?」


 絞り出した震え声に、ダルシャンは小さく笑う。


「王家に伝わる作法で、改めて婚約を申し入れることにした。さて、いかがだ? 俺の女神よ」


 ジャニはしばらくダルシャンを見つめた。だが今さら迷う理由など、本当はなかった。

 この人と進んでみると決めているのだ。森を発ったあの日から。

 何も言わず、右の手を前に出す。

 それはダルシャンの大きな手に包まれるように収まった。


 ダルシャンが微笑んで立ち上がる。また高いところに戻った顔を見上げて、ジャニは一言だけ付け加えておくことにした。


「でも――女神なんて、やめてください」


 すればダルシャンは戸口の方に悪戯っぽく目配せをした。


「言い出したのは俺ではないぞ」


 ちょうどそのとき、建物の中からいくつもの足音が近づいてきた。何事かと思う間もなく十名近い数の人々が庭にあふれて、ジャニは身を固くする。けれど先頭にいる小さな姿を見た瞬間、緊張の代わりに喜びが胸を満たした。


「……炎の女神様。父ちゃんを助けてくれて、ありがとうございます」


 あの男児だ。橙色と黄色の大きな花輪を持って歩み寄ってくる。ジャニの前に立って懸命に背伸びをするので少し身をかがめてやると、ふわり、と花の香りが顔を通り過ぎた。

 ――祝福の花輪をかけられるなど、初めての経験だった。

 男児はそのまま地面に伏せ、ジャニの足に触れる。母親らしき女性がその後に続いた。


「ありがとうございます……神様のようなお力で、うちの人を助けてくださって、本当に……」


 涙ながらに平伏する母親に(なら)うように、次から次へと人々がジャニの前に膝をつく。祈りの言葉を口にし、色鮮やかな花びらを振りかけていく。

 花輪も初めてなら、たくさんの人に最敬礼された経験などあるわけがない。おろおろと辺りを見回し、助けを求めてダルシャンを見上げた。

 ダルシャンは今度こそいつもの意地悪な顔で笑い、男児に視線を向けた。


「射手の息子よ。白の聖粉を持て。お前を俺とジャヤシュリーの婚約の証人に据えてやる」


 男児の顔がぱっと明るくなった。


「はいっ、王子様!」


 彼はぱたぱたと走り去ったかと思うと、いくらもせずに白い粉の入った小皿を持って戻ってきた。

 ダルシャンはそれを受け取り、ジャニの方へ向き直る。親指で粉をすくい取り、ジャニの額に白い印を描いた。


「――ジャヤシュリー。これにてお前は正式に俺の許嫁(いいなずけ)となった。王都に戻り次第、婚礼の準備を進めるぞ。よいな?」


 集まった人々がわっと声を上げる。橙色と黄色の花びらが雨のように降ってきた。

 白い髪をした老女がにぎやかな歌を歌い始めた。


 ――めでた、めでたや、あなめでた、メヘンディカーを摘んどいで。

 ――メヘンディカーの葉を粉にして、花嫁さんを飾ろじゃないか。


 母親が手拍子を始める。男児が軽やかに踊り出し、人々がそれに続いた。

 ダルシャンの黒い瞳がこちらを向く。それを見返して、ジャニはほんの少しだけ微笑(わら)った。

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