第28話 踊り子の証言
ディーパがここまで来ているとは夢にも思わなかった。ジャニはただ黙して彼女を見つめる。ダルシャンが声を上げた。
「恐れ入るが、ここまで来ていただけるか」
美しき踊り子はしばし、ためらうような表情を見せた。だがゆっくりと、それでいて確かに、広場の奥へ――石段の上へと足を進め始めた。
彼女が一歩を踏み出すごとに、足首の鈴がしゃらりと鳴る。集まった人々が固唾をのみ、その動きを見つめる。
やがて彼女は処刑台から数歩離れたところで足を止めた。
アラヴィンダが彼女をじっと見つめる。そして静かに口を開いた。
「そなたの名は?」
「……ディーパ」
「生業は?」
「旅の踊り子、です」
その言葉を聞くなり、サンジタが吐き捨てた。
「旅芸人? 賤民ではないか」
「黙れ、サンジタ。侮辱は許さぬぞ」
ダルシャンが言い、サンジタのまなざしを遮るように腕を伸べる。
アラヴィンダが淡々と告げた。
「プラカーシャの法に、身分低き者の証言は聞くべからずという記載はない。続けさせていただく」
兄に視線を送られたダルシャンが石段を下りる。そしてディーパに歩み寄り、証拠品の木片を手渡した。ディーパは木片に刻まれた文字を指先でゆっくりとたどり、唇を噛んだ。
アラヴィンダが問いかけた。
「この証言について、何か心当たりはあるか」
「……はい」
群衆がしんと静まり返った。宮殿の広場に集まった全員が、踊り子の次の言葉を聞き逃すまいと耳をそばだてている。
ディーパの手は小刻みに震えていた。それを見て、ジャニは思わず立ち上がった。鎖を引きずりながら処刑台を下りて、ダルシャンの隣、ディーパのそばに立つ。そして枷のはめられた両腕を伸ばし、踊り子の手に触れた。
黒い睫毛に縁どられた大きな瞳が見開かれる。ジャニは何も言わずにその目を見つめ返した。
ディーパが小さく息を吸う。
そして処刑台の上を見つめ、声を発した。
「これを書いたのは、二十年前のあたしです」
ざわめきがさざなみのように広がっていく。
アラヴィンダが片手を挙げ、それを制した。
「そなたの記録には『売られてここへ来た』とあるな。『ここ』とはどこだ?」
「――摂政サンジタの邸宅です」
「元はどこの生まれだ?」
「ジャーリーという西ニーラ河畔の集落です。今はもうありません」
ディーパがそこまで答えたとき、サンジタが割って入った。
「アラヴィンダ殿下! このようなことをしている場合だと本気でお思いか?」
「このようなこと、とは?」
第二王子が真顔で問い返す。サンジタの目元がわずかにひくついた。
「処刑を中断してまで、証人として信頼できるかどうかも分からぬ女の言葉に耳を傾けるなど――道理に悖りますぞ。法の神もお怒りになられようというもの!」
ダルシャンとアラヴィンダが同時に何かを言おうとしたときだった。
――誰かが、笑った。
誰の声か、ジャニには分からなかった。分からぬまま顔を上げ――ディーパが笑っているのを見た。
苦み走った失笑は、やがて哄笑に変わった。
「っ、あははははは――可笑しい、ああ可笑しい! よくもまあ、恥知らずなことを言えたもんだよ!」
ディーパの目は燃えていた。彼女の口から堰を切ったように言葉が溢れ始めた。
「覚えていないふりかい? それとも耄碌しちまったのかい? あたしは『小鳥』だよ、サンジタ閣下。あんたが勝手につけた名だ。そいつも忘れちまったのかい、じいさん?」
サンジタの目に何かがよぎる。驚愕の色だ、とジャニは思う。
いっそうの力を込めて、ディーパの手を握った。長い指が握り返してきた。
「そうだよ。あんたは――買われてきたあたしたちを品定めして、気に入らなかった子は『返品』してさ。残したあたしをこき使ったうえ、何度も手出ししようとしたじゃないか。あたしが正気でいられたのは『姉さん』のおかげだよ」
踊り子の目じりに涙がにじんだ。
「何が『法の神がお怒りになる』だ、聞いて呆れるよ――ねえ、あんた、『姉さん』をどうしたんだい。身重だった『姉さん』をどこへやったんだい、この人でなし――!」
ディーパの呼吸が荒くなる。彼女は胸を抑えてへなへなとしゃがみ込んだ。石段に頭を打ちつけそうになったところをダルシャンが支えた。群衆の中に身を潜めていた弓使いの青年が慌てて駆け寄ってきた。
震える背をさすってやりたかったが、手枷が邪魔をした。ジャニはただ懸命に踊り子の手を握りしめた。
弓使いの青年にディーパを預け、ダルシャンは再び処刑台の上に戻った。
彼の前には、摂政サンジタと弟子インディーヴァラが、硬い表情を浮かべて立ち尽くしていた。
アラヴィンダが弟に視線を送る。それを受け、ダルシャンは静かに命じた。
「衛兵。――摂政ならびにインディーヴァラを連行し、禁固せよ。追って詳細な取り調べを行う」
すぐさま兵士たちが集まり、サンジタとインディーヴァラを取り押さえた。
若いインディーヴァラが僧侶にあるまじき暴言を吐く。サンジタは苦々しい表情を浮かべていたが、何も言わなかった。
「分かっていることと思うが、摂政は真言の力で鷲に変身する。インディーヴァラも何らかの技を隠していないとも限らん。それぞれ別の地下牢に入れ、見張りを厳にせよ」
「御意」
衛兵隊長がダルシャンに頭を下げた。
連行されてゆくサンジタが、小さく呟いた――その声は、ごく限られた者の耳にのみ届いた。
「……後悔なさいますぞ」
ダルシャンはただ黙って、赤土色をした摂政の目を見返した。




