第21話 鮮血の魔女
パーヴァニーに駆け寄り、胸の傷に手のひらの炎を押しつけた。流れ出る血を必死で止めようとした。
肉と骨の灼ける音がして、血は止まった。けれどパーヴァニーは動かなかった。見開かれた瞳から失われた光は、もう戻らなかった。
ジャニはその場に座り込んだ。周囲の音が聞こえない。体が感覚を失っていく。
――それを破ったのは、突然の乱暴な痛みだった。
「……っ!」
背後から片腕をひねり上げられ、顔をゆがめる。喉元に冷たい感触がして、刃を突きつけられたのだと気づく。衛兵の怒声が降ってきた。
「立て! 妙な真似をすれば斬る!」
震える脚で懸命に立ち上がる。後ろ手にきつく縛られるのを感じながら振り返ると、衛兵たちの背後に黒衣の姿が見えた。
「正体を現したな」
摂政サンジタはゆっくりと歩み寄ってくる。節くれだった指がジャニのあごをつかんだ。嫌悪感に身をよじる。すれば衛兵に手の甲で頬を叩かれた。痛みに息が止まった。
サンジタは身を起こし、赤土色の目を細めた。
「――来い、女。お前の真の姿を民に見せてやるとしよう」
後宮の回廊へと引きずり出された。騒ぎを耳にした侍女たちが部屋から顔を出す。驚いて駆け寄ろうとする者もいたが、衛兵に容赦なく追い払われていた。
晒し者のごとくに庭を抜け、蓮の池の通路を追い立てられる。足裏が空気を踏んでいるようで、歩いている気がしない。それでも気づけば最後の建物を抜けていた。そのまま広場へとつながる石段の上へ引きずり出される。背を強く押され、受け身を取れずに倒れ込んだ。
「……ジャヤシュリー!!」
響いた声にかろうじて後ろを見やる。騒ぎを聞きつけて追ってきたのだろう。現れたダルシャンが、槍を構えた衛兵たちに押しとどめられていた。
サンジタが歩み寄ってくる。髪をわしづかみにされ、上体を引き上げられた。石段の下、夜の広場に、明かりを持った民衆が集っているのが見えた。灯火の祭の開幕を告げる儀礼を待っているのだ。そこへ突然放り出されたジャニの姿に、当惑のざわめきが大きさを増していく。
騒ぎを鎮めんとするかのように、サンジタが声を張り上げた。
「都を震撼させている女人殺しの犯人が見つかった」
あちこちで息を呑む音がした。倒れ込んだときに頬を擦りむいた気がする。ひりつく痛みをぼんやりと感じる。
「王国をあずかる摂政として、このサンジタが証言する。これなるは王家を謀り、第三王子殿下の妃の地位にまで上り詰めた者。だがこの者が闇に紛れて後宮の侍女を殺し、その胸を割いたところを、私は今しがた目の当たりにした」
自分の体を見下ろし、パーヴァニーが着つけてくれた衣にべったりと血がついているのに気づく。何も知らぬ人の目に、これがどう映るのか。
「妃は――否、この女は人ではない。その力は炎神の祝福にあらず。悪しき霊の顕現である」
サンジタは片手を挙げる。裁きを下すように。
「これは夜な夜な人間の生き血を啜り、魂を喰らうモノ――魔女であるぞ!」
――魔女。そう罵る村人たちの声をぼんやりと思い出す。
同じだ。言葉は違っても。
皆が言う。お前は化け物だと。
「サンジタ! 貴様、何を根拠に……!」
ダルシャンが声を荒げる。槍を交差させて道を塞ぐ衛兵を押しのけようとする。
まるで頑是ない子どもをなだめようとするようにサンジタが言った。
「殿下、今だからこそ申し上げる。この女は、はるか昔に私の元で働いていた女と瓜二つでございます。最初は他人の空似かと思いましたが、此度のように若き乙女の魂を喰らい、この姿を保ち続けているのでございましょう。あの当時に気づくことのできなかった私の落ち度でございます」
「ふざけたことを! 言いがかりだ。その手を放せ――俺の妃を放せ!」
ダルシャンが衛兵の槍をつかむ。衛兵たちがいっそう距離を詰める。サンジタの目はダルシャンを憐れむようだった。
「おお、殿下。おいたわしや。すっかり誑かされてしまわれたか」
そう猫なで声で言いやり、摂政はジャニに目を向ける。蔑むように目を細め、衛兵に向かって片手を払った。
「牢に入れよ。厳重に鎖でつないでおけ。縄であれば焼かれかねぬからな」
再び衛兵に剣を突きつけられ、無理やり立ち上がらされる。
何も考えられない。現実を現実だと思えない。空っぽの白い闇が頭を満たしていく。
「ジャヤシュリー! ――ジャヤシュリー!!」
ダルシャンの声が聞こえる。再び宮殿の中へと追い立てられるジャニを止めようとして、焦燥も露わに呼びかける声が。
顔を上げることができなかった。何をすることもできなかった。ただ両の足だけが、自分のものではないように動いていた。
※
いつしか王宮の裏、そびえる山の斜面近くへと連れてこられていた。目の前の岩壁にはいくつかの穴が掘り込まれ、鉄格子のはめられた扉のようなものがついている。王宮内で出た罪人を一時的に留め置くための独房なのだろう。いくつかの房には人の気配があった。
辺りはひどく暗かった。祭の明かりは遙か遠く、衛兵の一人が持つ小さな油灯だけがぼんやりと闇を照らし出していた。
別の衛兵が鍵を取り出し、鉄格子の錠を開けた。
「入れ、女」
ジャニはじっと衛兵の顔を見やった。
何も感じない。涙のひとつも出ない。感情が涸れ果ててしまったかのようで、炎を出せる気配もない。思考が漫然としていて、すべてが虚構のように見える。
――精神を統一することは感情を殺すことと違う、とダルシャンが言ったのは、やはり本当だったのだ。そう、ぼんやりと思った。
刹那、くぐもった叫び声が聞こえた。
続いて重いものが倒れる音。間髪入れず、油灯を持った兵士が吹き飛んだ。
一人、また一人と、闇の中で衛兵が昏倒していく。
茫然と見つめるジャニの前に誰かが立った。暗さに目が慣れるより前に、声で何者かを悟った。
「ジャヤシュリー、無事か」
手首の縄が切られた。大きな手がジャニの頬を包む。黒い瞳に見つめられ、かすれた声がこぼれ出た。
「……ダルシャン、さま」
「逃げるぞ。宮殿を離れる」
ダルシャンはジャニの手を握って歩き出そうとする。
そのとき、闇の向こうから何らかの物音がした。ダルシャンはジャニの前へと踏み出し、すぐさま動き出せる足構えを取った。
だが次に響いた音で、ダルシャンの体から緊張が抜けた。――馬のいななきである。
「ヴァージャ?」
「ダルシャン様、ジャヤシュリー妃……!」
――バーラヤだ。バーラヤが白馬ヴァージャの手綱を引き、こちらへ駆け寄ってきていた。ヴァージャの背には鞍があり、弓と矢筒も提げられている。
ヴァージャをダルシャンに渡し、バーラヤは声をひそめて言った。
「山間の隘路をお行きください。追っ手が来ることは避けられませぬが、あそこならば大人数で追うことは難しいでしょう」
「――感謝申し上げる、我が師よ」
膝をついてバーラヤの足に触れてから、ダルシャンは有無を言わさずジャニを抱き上げ、鞍に乗せた。
ジャニは何も言えずにバーラヤを見やる。彼は悲哀を押し込めるように微笑んだ。
「気を確かにお持ちなされ。――どうか、ご無事で」
※
ヴァージャが夜闇を馳せる。崖と崖の間、丈高い草に縁どられた細い道を駆けてゆく。北へ北へ、王都マハージヴァーラーを抱く山脈を縫って。
背後から蹄の音が迫ってくるのを聞いて、ジャニは振り返った。追っ手だ。兵士を乗せた馬が四頭。少人数の騎馬隊である。
ダルシャンもそれに気づいたようだった。
「しっかりつかまっていろ」
言うなり彼は手綱から両の手を放し、ヴァージャの鞍から提げられた弓を取った。流れるような動きで背後に向かって構え、三本の矢を一度につがえて射た。
地面に複数の矢が突き立ち、先頭の馬が驚いて足を止める。乗り手も弓を構えたが、次の一射ではじき落とされた。
後続の騎馬が飛び出す。だが二騎目も三騎目も、ダルシャンの弓によって足止めされた。
その間もヴァージャは駆け続け、蛇行する隘路の角を右へ曲がった。枝分かれする道をさらに右へ、そして左へ。高らかに蹄の音を響かせながら。まるでどこへ行くべきか、ヴァージャ自身が分かっているかのような動きで。
やがてすべての騎馬が振り切られた。ダルシャンはジャニを抱え込むように再び手綱を握る。その手の甲をジャニはじっと見つめた。先ほど衛兵を殴っていたせいか、ごく小さな傷が関節についているのが見えた。手当てをしなければ、と頭の片隅で思う。けれど道具も材料もすべて、王宮の部屋に置いてきてしまった。今のジャニには何も残されていなかった。
東の空がいつしか薄く白み始めた。夜通し駆け続けたせいで、さすがのヴァージャも速度が落ちている。
ダルシャンがふいに顔を上げた。視線の先を追うと、山腹に小さな洞窟があるのが見えた。
「あそこに身を隠すとするか。ヴァージャも限界だ。しばらく休んでから、また動くぞ」
その言葉にジャニは小さくうなずいた。頭の中に靄がかかったようで、言葉で答えることができなかった。
洞窟はヴァージャでもなんとか登れる程度の斜面の上にあった。馬も入れる高さであるうえ、それなりの深さがあるが、入口は丈の高い草でうまいこと隠されている。一時の休憩には十分だろうと思われた。
ヴァージャの背から抱え下ろされ、そのまま冷たい岩盤の上にそっと座らされた。血のこびりついた衣を隠すように両の膝を抱え込む。寒かった。
ダルシャンはしばらくジャニをじっと見つめ、それから小さく笑みを浮かべた。
「喉が渇いたろう。このあたりには水源があるはずだ。少し待っていろ」
言って彼は洞窟の外へ出ていく。危ないと思ったが止める元気もなく、ジャニは黙ってダルシャンの戻りを待った。
幸いなことに、ダルシャンはすぐに帰ってきた。ジャニの前に膝をつき、大きな植物の葉を差し出す。天然の皿のような形をしたその葉には、きれいな水がたっぷりと溜められていた。
ジャニは揺れる水面をしばらく見つめた。口の中は乾いていたが、手は動かなかった。代わりに消え入りそうな声が唇からこぼれた。
「……ダルシャン様」
「ん?」
「私じゃ、ないんです」
――心は、もうほとんど空っぽだ。
真っ白になった思考に、それでも点々と、赤い涙がにじんでいる。
「私は化け物かもしれないけど……パーヴァニーを殺すなんて、そんなこと、絶対に」
それ以上、言葉を続けることはできなかった。手が震えだす。吐き気がして、口元を覆う。パーヴァニーの最期の顔が浮かぶ。苦しい。苦しい。苦しい。
「……分かっている」
低い声がした。
大きな――温かい手が、ジャニの震える手を包む。その温度にすがるように握り返した。
いつの間にか、ひどく眠くなっていた。このまま疲れに身を任せて、すべて忘れてしまいたかった。
ジャニはゆっくりとまぶたを閉じた。




