第20話 影の足音
サンジタはダルシャンが第二書庫から持ち出した書物を回収していった。だがダルシャンはそれに先んじて、例の黒塗りの貝葉をこっそりと抜き取っていた。二人で相談した結果、ジャニが隠し持ってきた空白一頁だけの書物に挟み込んで、部屋の棚の裏に隠すこととなった。
黒塗りの草稿が残されていたのは、当時の史家のせめてもの抵抗ではないか、とダルシャンは言った。将軍が女であったという事実が正式な国史として残らないことを許容できず、修正したことが露わな文書を後世のために隠匿したのではないか、と。
「気になるのは、なぜ歴史が改竄されたのかだ。初代国王は何を考えていたんだ?」
ダルシャンの言葉にジャニも頷いた。
その後何日もの間、ダルシャンは公務の合間を縫って、初代国王ドラヴィナカ在位中の出来事について調べ直していた。王国紀五年ごろに職を辞した宮廷史家がいたらしいという記録は見つかった。だが、それ以上の有益な情報は出てこないという。今のダルシャンが手を出せる範囲の文書はすべて外れだった。第二書庫に行けば手がかりがありそうなものだったが、書庫前には衛兵が配備され、一切の入庫を許さなかった。
ジャニは空白の文書を何度も手に取った。日に透かしたり、炎に近づけたり、軽く濡らしたりもしてみた。だが、何の変化もない。空白は空白のままだった。あのとき貝葉に何かが揺らめいたように見えたのは、単なる錯覚だったとでもいうように。
気づけば宮廷内の状況にも少しずつ変化が起きていた。ルドラは正式にアラヴィンダの近衛兵に加わったらしい。優秀な仕事ぶりだという話がパーヴァニーを通して耳に入ってきた。だが、どうやら民の間での評価は今ひとつのようだ。技比べの日、空の鳥を落とそうとしたことが尾を引いているのだという。
「ウッジェンドラ将軍様のように勇ましく戦ってはくださるかもしれないけれど、むやみやたらに命を奪おうとするのは神に選ばれた存在としてふさわしくないと、もっぱらの話です。私の家族も同じように申しておりましたよ」
そう言うパーヴァニーに、ジャニは曖昧な笑みを返した。
自分たちは本当に神などに選ばれた存在なのだろうかと、口に出せぬ疑いを抱きながら。
そんなジャニの気持ちをよそに、王宮内はいつしか浮足立ち始めていた。
獅子の月が終わり、昼間の気温が徐々に下がり始めている。秋の訪れである。
それはすなわち、一年で最も華やかな秋の祭礼――灯火の祭が近づいていることを意味していた。
七日にわたって続く灯火の祭は、収穫期の始まりを告げるものであり、疫病の蔓延しやすい夏を乗り越えたことを寿ぐものでもある。さらにその中日は、プラカーシャ王国建国の記念日でもあるという。
だからこそ、この日に重ねて〈炎神の験〉の承認――すなわち新王の決定がなされる習わしなのだという話だった。
パーヴァニーの話が正しければ、民の感情はまだジャニに傾いている。そのことは大きな利点だ。だが摂政サンジタは明らかにジャニとダルシャンを敵視している。彼が最終判断を下すのなら、自分たちに目はない可能性も高い。ダルシャンを王位につけるには、その前に手を打たねばならなかった。
将軍は蒼い炎を操る女であった、ということ。これはジャニを初代の〈炎神の験〉に限りなく近い存在として浮上させる。だがそれをただ主張するだけでサンジタが退くだろうか。ルドラという「代わり」がいる今となっては、ジャニもダルシャンも確信が持てなかった。しかもこの事実は、尊敬を集める建国王ドラヴィナカに歴史の改竄者という疵をつけるものだ。そのことがどう作用するか、先を読むのは難しかった。
時間は刻々と過ぎていく。じわじわと嫌な感覚だけが積み重なり続けていた。
※
夕暮れ時、薬草の根を石鉢ですり潰しながら考えごとをしていると、パーヴァニーが別の侍女を伴って部屋にやってきた。
「失礼申し上げます、ジャヤシュリー様」
一礼したパーヴァニーは、部屋にある大小の窓を端から閉じていく。閂までしっかりと閉め、後からもう一人の侍女に確認させる念の入れようだ。
こんなことをする彼女を見るのは初めてで、ジャニは目をしばたたいた。
「……嵐でも来るんですか?」
ジャニが問うと、パーヴァニーは振り返って困ったように笑んだ。
「いえ……念のためでございますよ」
「念のため?」
首をかしげると、ついてきた侍女が勢い込んで話し始めた。
「実はですね、お妃様。都でおかしな事件が起きているらしくて……」
「これ!」
パーヴァニーが侍女の脇腹を肘で突く。侍女は慌てて口をつぐんだ。
「事件って、どんな事件ですか? 教えてください」
ジャニの問いにふたりは顔を見合わせる。やがてパーヴァニーが不承不承といった様子で口を開いた。
「実は――若い女が殺される事件が相次いでいるそうで」
「殺される……?」
ただごとではない。もう一人の侍女が眉を下げた。
「それも眠っている間に何者かに殺されて、朝に冷たくなって見つかるそうなんです」
「そんな不運な娘が、今朝で四人目」
ジャニは口元を覆った。
朝に娘が起きてこない。様子を見に行くと、すでに息はない。そんな地獄を見た家が、もう四つもあるというのか。
「殺され方も同じらしくて……胸を刃物か何かで抉られているとか」
言葉を失うジャニに、パーヴァニーは小さく苦笑した。
「宮殿の中は厳重に守られていますから、まさかとは思いますけど……先ほども申し上げましたように、念のため、でございます」
「……はい」
ジャニはうつむく。そこに突然声がかかった。
「なんだ、例の女人殺しの話か」
パーヴァニーともう一人の侍女が凄まじい勢いで振り向く。ダルシャンは無害を主張するように両手を挙げた。
「仕事が片付いたから戻ってきただけだ。――案ずるな、ジャヤシュリーには俺がついている」
その言葉を聞き、パーヴァニーがからかうような目配せを送ってくる。ジャニは反応に困って苦笑した。
女たちの無言のやりとりに気づくことなく、ダルシャンは続けた。
「摂政に掛け合って都の警備も増強した。祭が始まる前に犯人を捕らえたいところだ。この俺の名誉にもかかわることだしな」
そういえば、ダルシャンが王子として関わっている公務のひとつは王都の警備だったと気づく。ほんの少しではあるが、安堵感が心にきざした。顔を見たことのない他人であっても、家族を無惨に失って嘆く人が増えてほしくはなかった。
パーヴァニーも同じように思ったらしかった。
「ならば皆も安心でございますね。ダルシャン殿下、ジャヤシュリー様をお願い申し上げます」
「無論だ」
ダルシャンはいつもの得意げな顔で笑む。侍女たちは一礼して下がっていった。
「何かの根か?」
そばに座ったダルシャンがジャニの手元を覗き込んできた。
「はい、先生が持ってきてくださって。季節の変わり目の不調に効くものです」
「それはいいな」
薄い笑みがダルシャンの口元に浮かぶ。だが、それはすぐに姿を消した。
「――しかし、三日後にはもう灯火の祭か」
「はい……」
ジャニも作業の手を止める。状況があまり芳しくないことは明らかだった。
「これ以上の手がかりが見つからなかったら、今ある情報だけで摂政殿と話すことになりますね」
そう言うと、ダルシャンも物思わしげに頷いた。
「祭の期間は王宮の広場が民にも解放される。最悪、集まった民の前であえて事実を暴露して、俺たちの味方につくことを願う形にせざるを得ないかもしれないな」
ジャニは口をつぐんだ。周到な策などでは全くない。そんなことはジャニもダルシャンも十分に分かっていた。
だが、今もなお謎が多すぎる。隙のない筋書きを組み立てられない以上、選択肢はきわめて少なかった。
※
灯火の祭がやってきた。宵闇が迫る中、王宮中がいつにもまして明るく照らし出されている。
今日から七日間は、都の街並みも色とりどりの光にあふれるのだという話だった。灯篭や油灯を提げ、人々は夜を徹して秋を祝い、神々に祈りを捧げる。その華やかさたるや、マハームルガ山脈の峰からも見えるほどであると。
時間があれば街の様子を見せてやる、とダルシャンは言っていた。普通ならばとても楽しみだったろう。だが今は〈炎神の験〉承認のことばかりが気がかりだった。
もし自分が承認されなければ、ダルシャンの王位への道は閉ざされる。そして自分もどうなるかは分からない。妃としての立場があるから滅多なことはないだろう、とダルシャンは言うが、サンジタはなぜだかジャニを目の敵にしているように思える。
どうにも嫌な予感がしていた。振り払いきれない、暗い何か。それが重く粘りついて、ジャニの周りをよどませているようだった。
「――ジャヤシュリー様? もしもし、ジャヤシュリー様」
パーヴァニーの声が聞こえて、はたと我に返った。また考えごとに沈んでしまっていた。
「ごめんなさい、ぼんやりしていて……」
ジャニの顔を覗き込んでいたパーヴァニーは、いたわるような微笑みを浮かべた。
「お疲れかもしれませんね。急に涼しくなりましたし」
「いえ……大丈夫です。考えごとをしてしまっただけで」
「そうですか? お休みになってもよろしいんですよ」
やさしい人だ、と思う。突き詰めればどこの馬の骨とも知れない自分を、ずっと親身になって世話してくれる。大人数だとジャニが緊張することを知っているから、基本的にはいつも彼女ひとりで。
聞けば、実家にはジャニと同じくらいの歳ごろの弟と妹がいるのだという。もしかすると家族に重ねてくれているのかもしれなかった。
天涯孤独の自分に仮の姉ができたようで。――そのことが、とてもありがたかった。
「平気です。お祭り、楽しみにしていたので」
笑顔をつくり、パーヴァニーを見返す。彼女は嬉しそうに目を細めた。
「そうですか。ええ、ジャヤシュリー様には初めての灯火の祭ですからね。うんと華やかにいたしましょう」
パーヴァニーが衣装と装飾品を見立ててくれた。美しい青色の肩布、それによくなじむ空色の腰布。金の腕輪をいくつも重ね、首飾りは胸の間まで届く長いものを。腰飾りと腰紐にもあでやかな金の飾りがあしらわれている。夜の灯火を受ければ星のようにきらめくだろう。
衣を着終えてから、髪を香油で丁寧に梳かしてもらった。森にいたときはかさついていたジャニの髪も、パーヴァニーの手入れのおかげでずいぶんと整ってきた。櫛が髪を通るたび、ふくよかな花の香りが漂う。自分には過ぎる贅沢だと思いつつ、この香りがジャニは好きだった。
青い石の輝く額飾りをつけてもらったら、最後は化粧だ。筆を手に取って容器を開けたところで、パーヴァニーが眉をひそめた。
「あら、紅がもうない。誰かしら、補充せずに箱に戻したのは」
文句を言いながら彼女は立ち上がる。ジャニに視線を向けて微笑んだ。
「少々お待ちくださいませ。替えを取ってまいりますね」
「はい」
ジャニは頷いて、部屋を出ていくパーヴァニーを見送った。
そよ、と風が頬を撫でる。開いたままの窓から入る風が、いつしか冷たくなり始めていた。
立ち上がって窓を閉め、閂をかける。数日前のパーヴァニーが同じようにしてくれたことを思い出した。
あのとき話題に出た女人殺しの犯人は捕まったのだろうか。後宮の噂に聞かないということは、まだ街をうろついているのかもしれない。そのうちまた犠牲者が出るのだろうか。夜を徹して街を照らす祭の明かりが人々を守ってくれることを願うばかりだった。
そこでふと、気づいた。
パーヴァニーがいつまで経っても戻ってこないことに。
前にも化粧道具や香油の補充に出かけたことはあった。だが、いつだってすぐに戻ってきた。
すぐ近くに道具をまとめている部屋があるのだと、そう教えてもらった。
なぜ戻ってこない。日はもう、とうに落ちている。
ざわざわとする嫌な感覚が、胸から全身へと広がり始めた。
ジャニは立ち上がり、部屋を出た。廊下を足早に進み、パーヴァニーの言っていた部屋へと向かう。
角を曲がると、その部屋が見えた。――扉は薄く開いている。
一気に扉を押し開けた。それが、何かに当たって止まった。
手のひらに炎を灯す。扉の向こうの暗がりを照らした。
誰かの腕が見える。床の上に。倒れている。人が。
血。赤い血。胸を濡らす、大量の血。
やさしかった人の顔。こちらを見つめる――空っぽの、瞳。
ジャニの口から悲鳴がほとばしった。
「嫌ぁ――――っ!! パーヴァニー……!!」




