第2話 紅き都
夜明けごろ、ジャニは馬のいななきで目を覚ました。
小屋の入口にかけた粗い布を持ち上げて外に出ると、ダルシャンが小川のほとりで馬に水を与えていた。まだ薄暗い中、白馬の姿はぼんやりとした光の塊のように浮かび上がる。堂々たるダルシャンの後ろ姿と相まって、この世のものではないかのようにさえ思われた。
朝露に湿った草を一歩踏んだところで、どうしたものかとためらう。何と挨拶するのが適切なのか、そもそも本来こちらから声をかけていいものなのか。これまでに王族と接したことなどあるわけがないから、よく考えてみれば礼儀が分からない。
立ち尽くしている気配に気づいたのだろう、ダルシャンが振り返った。
「お前か。何をしている」
「いえ……その、おはようございます」
ダルシャンは口の端だけで笑み、ジャニの方へ歩み寄ってきた。
「お前はもう少し威厳を身につけるべきだな。俺の妃となる女なのだから」
「……申し訳、ございません」
「じきに発つぞ。荷作りは済ませたな?」
そう言われて頷く。もとより持ち物は少ない。持っていけるものとなればいっそう限られる。着替えと野草を刈る小刀、愛用の薬鉢とすりこぎ、養父の形見の小さなお守り。その程度だ。
ダルシャンは黒い目を満足げに細めた。
「よかろう。王都に戻るにはヴァージャの脚でも六日かかる。そのつもりでいろよ」
「――はい」
長旅だ。今まで足を伸ばしたことがあるのは、せいぜい歩いて一日の距離。遠くへ行ったことは一度もない。
帰ってくることは二度とないのかもしれない。馬の元へ戻っていくダルシャンの背を見つめながら、そう思う。
怖くないといえば嘘になる。今も指先が冷え切り、小さく震えている。
木々の間から朝日が差し始めた。赤子の頃から育った小さな家を振り返る。枯れ草で葺かれた屋根が温かな褐色に照らされている。
養父が建て、共に修繕しながら暮らした家だ。この家で医術を教わった。養父を看取った。小川に遺灰を撒いた。これまでの人生のすべてが、この小さな空間にある。
目の奥がきゅっと痛む。こぼれた涙が頬を伝い、蒼い炎に変じて消えた。
まただ、と思う。自分の涙は炎になる。養父の声が頭の中に響いた。
――ジャニ、泣いてはいけないよ。
――大丈夫だ。私がついているからね。
(……はい、父さん)
目を閉じ、深く息を吸う。空っぽの白を思い描く。それから再び目を開け、家の中へと戻った。
最後の支度をしなければならなかった。
※
森の中がうっすらと明るくなるのを待って出立した。ダルシャンがジャニの後ろから手綱を持つ姿勢だ。初めは慣れない乗馬に少しびくついたが、ヴァージャは穏やかで賢い馬だった。規則正しく揺られる感覚にもそのうち慣れた。
馬は森の中を西へと駆ける。昼に少し休んだのを除いては止まることなく、西の空が赤く染まるまで走り続けた。日が沈むころ、森の中の小さな集落にたどりついた。ダルシャンが集落の広場に足を踏み入れると、村人たちが彼を――もっと言えば彼の胸飾りの炎の紋章を見て、大慌てで地面に伏した。あれを見てもピンとこない物知らずはどうやら自分だけだったようだ、とジャニは思う。
村長がダルシャンとジャニを自らの家に招いてくれた。ジャニは生まれて初めての丁重なもてなしを受けて縮こまっていたが、ダルシャンは平然としていた。他人の家に泊まること自体、初めての経験だ。全く寝つける気がしなかったが、いつしか疲れに負けて昏々と眠り込んでいた。
翌日の出立も早かった。正午もとうに過ぎたころにようやく森を抜けた。木立が絶えるや、平らな田畑が緑色の湖面のように広がり、ジャニは息を呑んだ。未知の風景はどこまでも続き、視界の果てで緩やかな丘陵へと繋がり、雲に溶けるように消えていく。圧倒されていると、ダルシャンが呆れたように声をかけてきた。
「何だ。畑が珍しいか」
「はい……ここまで広い畑は見たことがありません」
「この程度、驚くには早いぞ。もっと美しいものを見せてやる」
「もっと、美しいもの……?」
「ああ。この世で一番、いや、二番目に美しい場所だ」
持って回った言い方に首をかしげる。ダルシャンはそれ以上説明してはくれなかった。
王都への旅は二日目以降も同じ調子で続いた。昼間は走れるだけ走り、夜は近くの集落に宿を求める。ダルシャンはどこでもその存在を認識され、かしずかれた。自分が世間から隔絶されていたことをジャニは思い知らされた。
田畑の向こうにうねる丘陵地帯は、やがて急峻な峡谷になる。五日目と六日目は山道が続いた。岩肌に刻まれた細い道を辿り、上へ上へと登ってゆく。息が白く曇り、周囲にかかる薄い霧と混ざり合っていった。
この道はどこまで続くのだろう。ぼんやりとした不安を覚える。
だが、やがて視界は開けた。六日目の夕刻、霧の向こうに浮かび上がった光景を見て、ジャニは瞠目した。
眼下に広がるは、山嶺と河川に抱かれた広大な平地。そこに白い土や石でできた家々が所狭しと並んでいる。
だが驚くべきはその家々ではなく、土地が扇状に収斂する地点にそびえる大いなる建造物だ。
それを喩える言葉をジャニは持たない。ひときわ太く丈高い古木も、森の背後にあった崖も、目の前の威容には及ばない。
その建造物は白く、そして紅い。数多の真白い石を、大地を覆うほど広く、空を衝くほど高く積み上げて、何層もの楼や塔、頑強なる壁が築かれている。それが燃えるように赤い石で絢爛に飾られ、さらにはあちこちの窓に透き通った赤色の光さえちらついて見える。色つきの「硝子」というものがふんだんに使われているのだと、ジャニは後日になって知ることになる。
傾き始めた日の中で、それは燦然と輝いていた。ただ圧倒されて、ジャニは深い息をついた。
「美しかろう? 第二代から第三代の国王たちが、偉大なる炎の名にふさわしいよう造り上げた城だ」
「……なんて、大きい」
そう呟くと、ダルシャンは得意げな声を発した。
「ふふん、お前は王都どころかまともな街も見たことがなかろうからな。ここからの眺めは格別だ。堪能しておけ」
ところで、とダルシャンは言う。ジャニは背後の彼を振り仰いだ。
「何でしょう」
「お前のジャニという名はどうにも貧相だ。だから代わりの名を考えてやったぞ」
したり顔、としか言いようのない笑顔で、ダルシャンは宣する。
「今日からお前は、ジャヤシュリー。勝利の女神だ」
「そんな! お伝えしたはずです。ジャニというのは大切な名で……」
「大切だろうが何だろうが、格のある名ではないな。〈炎神の験〉にはふさわしくない」
「え?」
突然の聞き慣れぬ言葉に、ジャニはまばたいた。
「アグニの、しるし?」
今度はダルシャンが目をしばたたく番だった。
「……そうか。お前、知らんのだな」
「……はい」
確かに炎神がどうとか言われた記憶はある。炎は聖なる力だとか、だからこそ「頂点」を取れるとか。
だが、それが具体的にはどういうことなのか、ジャニの中ではうまく話がつながっていない。
本当はしっかり訊いておくべきだったのだろうが――どうにもダルシャンが怖くて気が引けていたのだ。
ダルシャンは呆れたようにジャニを見やった。
「全く――森の民にも早いところ、国の歴史を教え込まねばな」
「申し訳ございません……」
ジャニは身を縮める。ダルシャンが軽く溜め息をつき、手綱を握り直した。
「よい。説明してやる」
ヴァージャが山を下り始める。蹄の音が静かに響く中、ダルシャンが語り始めた。
「プラカーシャの王位継承権は、年齢やら何やらで決まるのではない。ニーラ河畔の諸部族を平定した初代の王にちなみ、ある条件を満たした者が王座に就くことになっている。――その条件がすなわち、〈炎神の験〉を所有していることだ」
ジャニは混乱してダルシャンを見上げた。
「その〈験〉が……私だと?」
「無論。〈験〉は炎を宿した物、あるいは人の姿で、王たるべき人物のもとに現れるのだからな」
ダルシャンは手綱から右手を離し、指の背で軽くジャニの頬を撫でる。ジャニがびくりと身をこわばらせると、獣のように目を細めた。
「お前は俺の〈験〉だ――ジャヤシュリー。お前は俺に王座を約束する女なのだ」
じわじわと恐ろしくなって、ジャニは顔を背けた。目の前では紅き王都が、血の色をした結晶のように輝いていた。
※
「ダルシャン様! ようやくお戻りで。心配いたしましたぞ」
王城の門が開く。ダルシャンが馬を降りるや真っ先に駆け寄ってきたのは、白いひげをたくわえた男だった。老いてはいるが、腰には大きな剣を佩いている。身のこなしからして、その体もしっかりと鍛えられているのがうかがえた。
ダルシャンは老人を一瞥し、溜め息をついた。
「大げさだ、バーラヤ。――この女はお前に任せる。侍女を集め、よく面倒を見させろ。そうだな、まずは風呂にでも入れてやれ」
言いながら彼はジャニを馬から抱き降ろす。バーラヤ、という名らしい老人は怪訝そうにダルシャンとジャニを見比べた。
「ダルシャン様……こちらは?」
「我が妃となる女、ジャヤシュリーだ。次の吉日に婚約の式を行う。星読みに伝えておけ」
ニッと笑い、ダルシャンは馬の手綱を引いてきびすを返す。バーラヤの懐疑の表情が驚愕に変わった。
「何……ですと!? そんな。お待ちくだされ、ダルシャン様!」
しかしダルシャンは振り返らない。厩舎番と思しき少年らに馬を預け、そのまま歩き去ってゆく。
バーラヤはしばらく頭を抱えていたが、やがて大きく溜め息をついてジャニの方を見た。どうしていいか分からず、ジャニはただ目を伏せる。バーラヤは、やれやれ、と言いたげにかぶりを振り、集まってきていた侍女たちに声をかけた。
「――お前たち、ひとまず仰せのとおりに。任せたぞ」
※
集まった侍女たちはジャニを王宮の中へと導いた。白と紅の王城内は外に劣らず絢爛たる美しさだった。天井は見上げるほどに高く、粛々と歩く侍女たちの足音が響く。立ち並ぶ柱の向こうには蓮の池や水場がいくつも見える。思わず見とれていると、侍女のひとりにわざとらしくぶつかられた。慌てて余所見をやめ、導かれるままに進んだ。
案内された風呂はにわかに信じられぬほどの大きさだった。広々とした石造りの池に水が溜められ、色鮮やかな花々が浮かべられている。うながされるままに服を脱ぎ、水に足を浸けてみる。身を切る冷たさを想像していたが、ほどよく温かかった。
疲れた体が温もりを求め、つい遠慮なく肩まで浸かってしまう。すると侍女たちが集まってきて、泡立つ布で全身をぎしぎしと音がしそうなほどに擦られた。小川で身ぎれいにはしていたはずなのだが、王宮の「身ぎれい」は基準が違うのだということを、ジャニは文字通り痛いほどに思い知らされる。考えてみれば、侍女たちは皆、自分とは違って色白の肌をしている。もしかしてこの肌の褐色を洗い落とそうとしているのではないかと思い至り、恥じ入って水に沈みたくなった。
風呂から上がると、今度は服を着付けられた。長く幅のある腰布を、たっぷりとした襞を作る形で巻かれる。その上には豪奢な腰紐や飾りがこれでもかと盛られていく。上半身にも同じく上質な布が巻かれ、首飾りを幾重にも重ねられる。
服の後は髪を油で梳かされ、化粧というものをされた。噂にしか聞いたことのない道具が次々と出され、頬や唇や目元を侍女たちに弄り回される。できあがった顔は見せてもらえず、おかしなことにされていないかと若干の不安が兆した。
すべてを終えた物言わぬ侍女たちは、ジャニを王宮奥の部屋へと連れていく。広く豪奢なその部屋にはすべらかな絨毯が敷かれ、いくつもの柔らかそうな枕が並べられていた。その中に自分の粗末な荷物がぽつんと置かれているのを見つけ、ジャニは小走りに駆け寄った。中身がなくなっていないか検めているうちに、侍女たちは部屋を出ていった。
荷物の中から養父のお守り――銀の首飾りを出し、抱きしめる。胸が痛いほど脈打っていた。
ふいに背後から足音がした。振り返ると、同じく着替えたらしいダルシャンが部屋に入ってきたところだった。
ジャニの顔を見て、ダルシャンは片眉を上げた。
「ふむ」
大股に歩み寄り、床に膝をついてジャニのあごに手をかけ、顔を上げさせる。そのまましげしげと見て、彼は口の端で笑った。
「お前、こうするとなかなか見目がいいな」
「ご冗談を……」
どこまで本気にしてよいのか分からない。自分で自分の顔は見られないのだから。
ダルシャンは小さく肩をすくめ、絨毯の上に腰を下ろした。
「明日はお前が〈験〉であることを然るべき相手に報告し、婚約の儀の準備に移る。星読みたちにも協議を始めさせた。なるべく早く済ませるぞ。いいな?」
「……はい」
拙速そのものだ。いや、最初からすべてが無茶苦茶なのだが。昨日出会ったばかりの男に求婚され、素直に応じてしまうなどとは。
けれど、これは自分の決断だ。彼の求めるものを見てみたい。そう考えたのは自分自身なのだ。
お守りを握りしめ、呼吸を整える。これから何が待っているとしても、心を強く持たなければならなかった。
そんなジャニの決意を知るよしもなく、ダルシャンは部屋の中を見渡した。
「それにしても質素な部屋だ。明日にはもう少しマシなところに移らせてやる。今夜は我慢していろ」
「……え」
自分の目には輝いているとしか思えない部屋を、ジャニは驚愕して見回す。
やはり心を強く持たなければならないようだった。