第13話 婚礼の炎
太鼓の音が近づいてくる。ジャニが顔を上げると、大きな金の耳飾りがしゃらりと音を立てた。頭を覆う布を軽く避け、耳を澄ます。太鼓の響きに交じって笛の音や歌声が聞こえてきた。
時は夕暮れ。明け方から降っていた雨はいつしか止み、土は乾いている。沈みかけた太陽が低く西の地平を染め、気の早い星が東の空に覗いている。
バーラヤが立ち上がって窓の外を見た。今日の彼は、落ち着いた色ながら美しい刺繍の入った晴れ着を着ている。腰には常のように剣を佩いていたが、胸元にはいつもと違って金の飾りが光っていた。
「輿が参りましたぞ」
その言葉にジャニは背筋を伸ばした。迎えがやってきた。婚礼が始まるのだ。
バーラヤに導かれて家の外に出た。目深にかぶった布の下から覗くと、金の留め具や刺繍入りの布で華やかに飾りつけられた輿が待っているのが見えた。前後には四人ずつ運び手が控え、直立不動で立っている。ジャニは今からこれに乗り込むのだ。輿の隣にいる栗毛の馬はバーラヤのためである。その向こうでは、見たこともない楽器を構えた楽隊が華やかな音楽を奏でていた。
パーヴァニーが炎を灯した皿を掲げ、清めの煙を煽ぎかけてくれた。それに両手を合わせて返し、心臓がひどく逸るのを感じながら輿に乗り込んだ。少し動くだけで手首や足首の飾りがしゃらしゃらと鳴る。たくさんの装飾品はいっそ重いくらいだった。はみ出した衣の裾を、パーヴァニーがきれいにしまってくれた。
輿が持ち上げられる。人が運んでいるとは思えない安定感でゆっくりと前へ進み始めると、祝いの音楽がいっそう高鳴った。輿の出入り口にかけられた幕は薄く、外がぼんやりと見える。栗毛の馬に乗ったバーラヤが隣に並ぶのを確かめて、少しほっとした。
輿は王宮の敷地を大回りに進む。あちらこちらの建物から人が出てきて、合掌したり花びらを撒いたりするのが見えた。門の衛兵、庭師と思しい老人、厩舎番の少年たち。皆が吉兆を待っているのだ、というダルシャンの言葉を静かに思い起こした。
長い時間をかけ、ようやく宮殿の中央にたどりついた。玉座の間につながる中庭である。
同じ中庭といえど、ここは後宮の庭とは比較にならない場所だ。どちらにも縦長の蓮の池があるが、こちらの池はまるで人工の湖を創り出そうとしたかのように大きい。その池を四つに区切るように幅広の通路が設けられており、それらが交差する中央には、大人十名が悠々と立てるほどの広場のような空間がある。池の周囲は壮麗な柱や繊細なつくりの彫像で飾られており、いくつもの松明が等間隔に備えられている。
今夕、その松明にはすべて火が灯っていた。池の四隅と通路の両脇にある椀型の石灯篭からも香りのよい煙が燻っている。それだけでなく、いくつもの明かりが水に浮かべられ、白く咲いた蓮の花をやわらかく照らし出している。
華やかに火を焚いて花嫁を迎えることは、プラカーシャ王国の婚礼に欠かせぬ儀礼なのだ。そうパーヴァニーが言っていた。
中庭の入口で輿が下ろされた。馬から降りたバーラヤが前に立ち、うながすように手を差し伸べる。ジャニは輿から出て、差し出された手を取った。
布の下からでも、たくさんの参列者が池の両側に集っているのが見えた。祝いの太鼓が響く中、多くの人々が油灯を手に持っている。彼らの視線を感じながら、池の通路に足を踏み出した。長い裾を持ったパーヴァニーたちが後に続いた。
ジャニが歩くのに合わせて参列者が花びらを撒く。祝いの色である橙と黄色が、暗くなった空に舞い上がる。ジャニはちらりと池の水面を見た。紅と金の衣装に身を包んだ、自分とは思えない姿が映っていた。緊張で手のひらに汗がにじんだ。それを察したように、バーラヤが握る手に力を込めてくれた。
やがてジャニとバーラヤは池の中央にたどりついた。今宵、ここには豪奢な刺繍入りの天蓋が設けられていた。その真下にはまだ火の入れられていない黄金の炉がある。炉の周りは摘んだばかりの花々でびっしりと飾られ、鮮やかな模様が描かれていた。
視線を少し上げると、炉の向こう側には二名の僧侶らしき姿があった。スヴァスティで祝福を与えてくれた老僧とその弟子が式を執り行いに来てくれると聞いていたから、その二人だろう。一方、火の手前には若い男が立っている。おそらくダルシャンだ。けれど深くかぶった布が邪魔をして、姿がよく見えなかった。
バーラヤがジャニの手を引き、前へと進み出た。それを待っていたようにダルシャンが片手を差し出す。バーラヤはその手のひらの上にジャニの右手をそっと置いた。
ダルシャンがジャニの手を包むように握る。そして、あやまたぬ矢のように徹る声で朗誦を始めた。
――我、愛の神より、これなる乙女を賜りぬ。
――愛、これ果てなく与うるもの、果てなく享くるもの。
――願わくば我ら、地にありて、その恵みに浴さんことを。
バーラヤがジャニの手首に手を置いたまま、ダルシャンに問いかけた。
「我が義娘の夫となる方よ。天の神々を奉ずる者の道において、義娘を裏切ること、貶めること、涙させることのないよう、お誓いいただけますかな」
ダルシャンの返答には迷いがなかった。
「お誓い申し上げる。天にかけて。地にかけて。天地の梯子たる炎にかけて」
「そのお言葉、しかと聞き届けた」
言ってバーラヤはジャニから手を離し、後ろに退く。ダルシャンが空いた手を伸べ、ジャニの頭の布を少し落とした。
視界が広がる。ジャニは目の前に立つダルシャンの姿をじっと見つめた。
ダルシャンは元から見目のよい男だ。勇ましさを匂わせる眉、高く通った鼻筋、彫刻のような唇。ジャニはそれを単なる事実として受け取っていた。だからどうということはあまりなかったし、彼と接するときは最初から恐ろしさばかりが先に立っていた。
だが今日のダルシャンは、そんなジャニの目から見ても、不思議と美しかった。
少し癖のある長い黒髪が松明の炎に照らされている。それを飾るのは金の冠だ。鍛え上げられた体は鮮やかなほど白い衣に覆われ、いくつものきらめく首飾りで彩られている。胸帯には炎の紋章が刻まれ、手首には黄金の腕輪が光る。
星々のような輝きの中、彼の黒い瞳はなお深く、奇妙なほどにジャニを捉えて離さなかった。
ダルシャンもジャニをじっと見つめ、小さく微笑んだ。そして軽くジャニの手を引き、炉の前に着座した。
老僧が祝福の詞の朗誦を始める。弟子と見える若い僧侶がダルシャンに燃える松明を渡した。ダルシャンはその松明で炉に火を入れる。たちまち赤い炎が鮮やかに燃え上がった。婚礼に欠かせぬという聖火である。
炎を祝す朗誦が終わった。ダルシャンがジャニの手に空いた手を重ねる。ジャニも黙ってそれに倣った。
黒い瞳が再びこちらを見つめる。ジャニは小さく息を吸い、それを見返した。
「汝の手を取り、我は乞う。我と共に在り給え、我を汝の夫として」
ダルシャンの低い声が誓いの言葉を唱え始めた。
「我は汝を神に賜れり。ゆえにこそ汝と共に立ちて、義務を果たさんと約す」
その言葉にジャニはじっと聞き入る。ダルシャンの手は熱い。冷えたジャニの手の温度を補うかのように熱い。
「我は歌、汝は詞なれば。我は天、汝は地なれば」
特に返事をしなくていいとは聞いていた。だが、ジャニはダルシャンの目を見返して小さく頷いた。
ダルシャンが微笑み、再びジャニの右手を引いて立ち上がった。僧侶たちがジャニたちの首に美しい花輪をかける。参列者たちが静かに沸き立つのがなんとなく感じられた。
これから二人は、聖火の周りを七度回る。これによって婚姻が正式に成立するのだ。炎そのものが花嫁と花婿の誓いを見届けるのである。
七周のうち六周は、花嫁であるジャニが先をゆくことになっている。大きく息を吸い、前へと足を踏み出した。パーヴァニーに教えられた祈りを頭の中で繰り返しながら。
一周目は尽きぬ糧を願う。二周目は健康を願う。三周目は富を。四周目は敬意と愛を。五周目は子孫の繁栄を。六周目は長寿を。
七周目でダルシャンが前へと進み出た。彼に導かれながら、ジャニは祈った。互いが互いを裏切ることのないように。自分の求めるもののため、彼の求める何かのために、隣り合って進むことに意味があるように。
聖火の周りを回り切ったところで、参列者の間から高らかな声が上がった。
「ダルシャン殿下、ジャヤシュリー妃に栄えあれ!」
栄えあれ、栄えあれ、と唱和する声が響き渡る。老いた僧侶が盆を持って進み出た。そこには赤い聖粉が盛られている。ダルシャンは右手の親指で粉をすくい、ジャニの額の中央から髪の分け目をなぞるように塗りつけた。次いで黒い石を連ねた首飾りを取り出し、ジャニの首に下げた。既婚の女であることを示す飾りだ。
ダルシャンは黒い目を満足げに細めた。
「これでお前は俺の妃だな、ジャヤシュリー」
「……はい」
衣の下に隠した養父のお守りごと、ジャニは黒い石の首飾りを握りしめた。
――その時だった。
赤く燃えていた聖火が突然、冴え冴えとした蒼色に変じたのは。
ダルシャンが驚いてこちらを見る。自分ではない。ジャニは狼狽してかぶりを振った。
集った人々がざわざわと声を上げる。視線が次々と中庭の入口へ向いた。
ジャニもそちらを振り返り――その場に凍りついた。
中庭の入口。松明の炎に照らされて、二人の男が立っている。
片方はつややかな衣をまとった男。背が高く、ダルシャンに似た面差しをしている。けれど風になびく黒髪は絹糸のようにまっすぐで、炎を撥ね返す目は冷たい灰色だ。腰に佩いた剣は彼が戦士階級の人間であることを示すもの。炎の紋章の胸帯は、その中でも他ならぬ王族の証だ。
もう一方は、同じく黒髪の男。年のころはジャニと同じくらいか、少し上か。薄いひげを生やし、上半身を軽い鎧に包み、黒い腰布を纏っている。淡い色の瞳が刺すようにこちらを見据える。
差し出すように、挑むように掲げられた、その男の右手の上には。
蒼い炎が燃え盛っていた。




