第12話 華の文様
スヴァスティから戻ってすぐ、王都に雨が降るようになった。ぱたぱたという軽やかな音を初めて耳にしたとき、ジャニは思わず外へ飛び出した。葉を叩く雨の音は、ふるさとの森の音だ。濡れるのも構わず中庭に立って聴き入った。びしょ濡れになって寒くなってきたので部屋に戻ったら、パーヴァニーに叱られた。
雨は本格的な夏の訪れを告げるものでもある。気温はじりじりと上がり、朝や夕にもうだるような暑さが残り始めた。いつしか習慣化したバーラヤとの修練も、昼間は暑すぎるとのことで夜の時間に変更された。弓や護身術の練習を終えて道場の外に出ると、空に星がきらめいていることも多かった。その涼しい光を眺めるときは、ぬるい風がほんの少し爽やかになるような気がした。
そんな中、星読みたちの協議により、ダルシャンとジャニの婚礼の日程が決まった。
来たる獅子の月半ば、三つの白い星が並ぶ夜である。
婚礼の手順や作法というものをジャニはよく分かっていない。医術を知る養父は近隣の村でもそれなりに信頼と敬意を集めていたと思うが、いつ何時火を放つか分からなかった自分は疎まれていたから、婚礼に呼ばれたことなどありはしない。ましてやそんな自分が結婚することなど一生なかろうと思っていたのもあって、養父に世間話として聞いてみたことさえなかった。
だから実際の婚礼支度は目を回すようなことの連続だった。
段取りを決めさせられる。衣装を選ばされる。祝いの席のしつらえを尋ねられる。とはいえ実際に何かをするのは婚礼の日だけだろうと思っていたら、数々の儀式や前祝いがあるらしい。
ここまで忙しいのは王家の婚礼だからだろうか。それとも平民であっても似たようなものなのだろうか。ジャニには見当がつかなかった。
※
「ジャヤシュリー、準備は進んでいるか?」
ダルシャンの声にジャニは顔を上げる。正確に言うと、顔を上げるくらいが限界だった。パーヴァニーによって膝の上に何枚もの衣装を広げられ、さらに首元には装飾品の見本を宛がわれていたからだ。
「……ええと」
「進んでいるようだな」
ダルシャンは満足げに微笑む。パーヴァニーが眉をひそめた。
「殿下、覗き見はほどほどになさいませ。当日のお楽しみが減りますよ」
「よいではないか。俺の妃なのだから」
言うなりダルシャンはジャニの膝に置かれた衣を手に取った。
「これは気品があってよいな。こちらは前祝い向きか?」
「私の母の里では、花婿が婚礼前に花嫁を見るのは不吉だそうでございますよ」
パーヴァニーが諭すように言う。だがダルシャンはまるで堪えた様子がなかった。
「今さらだな。ジャヤシュリーは俺が自ら見初めたのだから」
そのままいくつか衣を品定めした黒い目がジャニの顔に向く。ダルシャンの口元が上がった。
「どうした? 浮かぬ顔だな。もしや不満でもあるのか?」
人差し指で軽くあごを持ち上げられる。ジャニはまぶたを伏せた。
「いえ……あまり騒ぐのも、なんだか」
「なぜだ」
「緊張、するというか……摂政殿や先王妃様は喜んでおられませんし」
ラマニーの叫び声が今でも時々よみがえる。摂政のことを思い出すと、じわじわと肌が怖気立つ。
自分の存在がもろ手を挙げて喜ばれるとは最初から思っていない。それでも暗い感情をぶつけられれば、少しずつ心に傷がつく。
パーヴァニーが顔を覗き込んできた。
「――ジャヤシュリー様。民は歓迎しておりますよ」
ダルシャンもその場に片膝をつく。長い指がジャニの髪を一房、横に流した。
「ここは二十二年の長きにわたって王を迎えられずにいる国。八年前に兄上の妃が亡くなってから、祝いらしいこともほとんどなかったのだ。お前が〈験〉であるということを除いても、この婚礼は喜ばしいことなのだぞ」
ダルシャンの手がかたわらの装身具を入れた箱に伸びる。金色の額飾りが取り上げられ、ジャニの髪の分け目に宛がわれた。
「だから、お前も喜ぶがいい。――言っただろう? 皆、吉兆を待っているのだと」
ジャニはしばらく目の前の二人を見比べてから、小さく頷いた。
もし本当に二人の言うとおり、自分の存在が人々の喜びになるのなら。
それはこのうえなくありがたいことだった。
※
婚礼の前の日は、雲がかかっているのに雨は降らず、蒸し暑い日だった。夕刻が近づいたころ、前祝い用に選んだ衣装を身に着けて、パーヴァニーとともに後宮の部屋を出た。
もうこの部屋に戻ることはないと言われている。最後まで「自分のもの」という感覚にはならなかったが、それなりの時間を過ごした部屋だ。小さく手を合わせてから後にした。
廊下に出ると、四名の侍女が待っていた。パーヴァニーと特別近しい仕事仲間たちだという。ぱっと花びらを撒かれ、香を載せた皿を回して聖なる煙をかけられた。
「おめでとうございます」
「神々のお恵みあれ」
「ご加護がありますように」
口々にかけられる祝福の言葉に恐縮しながら合掌を返した。パーヴァニーが花びらを盛った皿を受け取り、道を彩るように撒きながら先をゆく。ジャニと残りの侍女たちもその後に続いた。
歩いて向かったのは王宮の敷地の外れだった。大きな菩提樹の木の陰に隠れるように、小さな――とはいえジャニの基準からすれば十分に大きな――建物が立っている。ジャニたちが着くのを待っていたかのように扉が開く。家の主が戸口に立ち、両手を合わせて頭を下げた。
「ようこそお越しくださいました。ジャヤシュリー嬢」
「先生。よろしくお願いいたします」
ジャニは長い裾をさばいてかがみ、バーラヤの足に触れた。師は微笑んで一行を中へと促した。
「こちらこそ、身に余る光栄にございます。さあ、どうぞ」
家の中は物が少なく、清潔で整然としていた。簡素なかまどのある土間の奥には派手さのない敷物があり、そこが居間代わりなのだと分かる。さらに奥の部屋はおそらく寝室だろうと思われた。
バーラヤは王宮の道場で夜を明かすことも多い。だが日によっては、代々の武術師範に貸与されるこの家に戻って過ごすという話だった。
自分が育った場所に多少なりとも近しい感覚のする場所は久しぶりだった。肩の力が抜けていく。
他方のバーラヤは、軽く眉根に皺を寄せた。
「しかし本当によろしいのですか? このような殺風景な男の一人住まいに早々とおいでいただくなど。明日の出立のみ我が家からになさって、指甲花の祝いは王宮で行っていただいてもよかったのですよ」
――指甲花の祝い。
婚礼前の数々の儀式の中で最も重要なものである、とジャニは聞かされている。
式を挙げる前日に花嫁の家族や友人が集まり、その手足にメヘンディカーの葉を粉にした染料で美しい文様を描くのだ。メヘンディカーの色はゆっくりと肌に染めつけられ、鮮やかな祝福の印として残る。花嫁を守る魔除けにもなるほか、肌を冷やす効果のある植物を使うことで緊張を和らげてもくれるのだという。
だがこの儀式は、本来ならば花嫁の実家で行われるものだ。もちろんジャニに実家はなく、前祝いをする場所はない。
そこでパーヴァニーが考えたのは、バーラヤの家を借りることだった。バーラヤは婚礼の日、父親代わりとなってジャニをダルシャンに渡すことになっている。ならばその前日から泊まり込んで前祝いも行ってしまえばよいだろう、という発案である。庶民育ちのジャニなら王宮の建物よりも普通の民家の方が落ち着けるはずだと考えてくれた面もあるらしい。
バーラヤもこの案に応じてくれた。それでも、これでよいのか、という懸念はぬぐえないようだ。
ジャニは小さく微笑んで答えた。
「指甲花の祝いは親の元で行うものだと聞いています。今の私にとって親に近い方があるとしたら、それは先生だけです」
バーラヤはしばらく黙する。それからジャニの頭の横で円を描くように両手を回し、次いで自分の頭の横でぎゅっと握りしめた。よからぬものをつかみ取って自分に引き受けるようなしぐさ。恨みや妬みなどを祓う邪視避けのまじないだ。養父もよく同じしぐさをしてくれた。ジャニの胸は温かいものでいっぱいになった。
パーヴァニーが朗らかに割って入ってきた。
「まあ、殺風景なのはご心配なく。私たちがうんと華やかにして差し上げますからね」
「それは心強い」
バーラヤがくつくつと喉を鳴らす。ジャニも微笑んで頷いた。
※
やわらかに揺らぐ明かりがいくつも灯る中、座ったジャニの片足をパーヴァニーが浮かせる。彼女の手には染料をつけた細い棒が握られている。別の侍女がジャニの右手をとり、同じ棒で花のような模様を描いている。パーヴァニーもそれに合わせて花の形に棒を滑らせ始めた。
見る見るうちに美しい文様ができあがっていく。その細やかさにジャニは息を呑む。
残る三人の侍女たちは、手拍子をしながら歌っていた。
――うちの大事な花嫁さんは、月も恥じらう美しさ。
――歩けば涼しい風が吹く、足首につけた鈴が鳴る。
――顔を隠せば星々翳る、黒い睫毛に涙が溜まる。
――お泣きでないよ、花嫁さんや。愛しい御人が待っている。
いつしか手足を埋め尽くした文様を、ジャニは感嘆して見つめる。手を担当していた侍女が悪戯っぽく目を細めた。
「ダルシャン殿下のお名前を隠しておきましたよ。お式までに見つけてくださいな」
ジャニは面食らって、両手の裏表をくるりと返した。
「えっ、どこ? どこですか?」
侍女たちの間から朗らかな笑い声が上がる。パーヴァニーも笑っている。バーラヤも笑っている。小さな家が笑い声で満ちている。
ジャニも気づけば笑っていた。声を出して笑うのは、いったいいつぶりだろうか。思い出すことができなかった。
侍女たちが再び歌いだす。うち一人が踊り出した。彼女が足を踏み出すたびに、足飾りの鈴が軽やかな音を立てる。
パーヴァニーがジャニに向かって微笑んだ。
「踊るのはまだ駄目ですよ。メヘンディカーの粉がしっかり乾いてからです」
ジャニは目をしばたたく。踊る、という発想がなかった。
侍女は歌に合わせてくるくると回っている。皆が手を叩き、明るい声で囃している。
胸が高鳴るのをジャニは感じた。
今日この場でなら、初めて踊ってみてもいいのかもしれなかった。




