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蒼き炎のジャヤシュリー  作者: 佐斗ナサト
第1部 女神選定
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第11話 王妃の褥

 翌日の夕方、久しぶりにバーラヤとの修練を終えたジャニが部屋に戻ると、パーヴァニーが待っていた。


「ようこそお戻りなさいませ、ジャヤシュリー様。ダルシャン殿下が、三ナーリカ〔注:一時間強〕ほどでお迎えにおいでなさるとのことです」

「……何のご用事で?」


 ジャニが目をしばたたくと、パーヴァニーは困ったように笑んだ。


「それが……先王妃様とのご面会だとのことで。ですから、しっかりとお支度をさせていただきますね。お疲れのところ申し訳ございませんけれど、ご辛抱くださいな」


 思わず目を見開いた。昨日サンジタが言っていたことはジャニとて忘れていない。ダルシャンとの婚姻のため、先王妃に話を通しにいくのだ。

 覚悟はできていたつもりだった。だが、これほど急だとは思っていなかった。じわじわと緊張が這い上がってくるのを感じた。


 パーヴァニーに体を拭かれ、花の香りのする香水をふりかけられた。髪を丁寧にくしけずられ、(つや)出しの香油を塗られ、美しい――だがパーヴァニーに言わせれば「控えめ」な――薄緑色の衣を着つけられた。仕上げにと軽く化粧を施され、装飾品を選ばされていると、部屋の外から聞き慣れない声が響いた。


「ダルシャン殿下のお成り!」


 扉が開いて、薄い灰色の衣をまとったダルシャンが入ってきた。戸口には、後宮ではやや珍しい男の従者が控えている。先ほどの声はこの男か、と合点がいった。パーヴァニーが手を止め、一歩退(しりぞ)いて頭を下げる。ダルシャンは座ったジャニを見下ろし、なぜか少し難しい顔をした。


「パーヴァニー。髪は下ろすのか?」

「はい。そのまま額飾りをつけていただくのがお似合いになるかと」


 ダルシャンはしばし考え込み、小さくかぶりを振った。


「悪くはないが……相手は先王妃様だからな」


 ジャニは首をかしげる。だがパーヴァニーは納得したようだった。


「ああ、御髪(おぐし)もですか? では目立たないように低く結いましょう」

「察しがよくて何よりだ。衣はそれで構わん」

「かしこまりました」


 勝手に話をまとめられている。どうやら先王妃は何かしらのこだわりが強いらしい。黙って座り、パーヴァニーが髪を結い終えるのを待った。


「さ、お待たせいたしました。どうぞ行ってらっしゃいませ」


 仕上げの小さな額飾りをつけ終えたパーヴァニーが、ジャニから離れて微笑む。ジャニも小さく笑顔を返した。


「ありがとうございます。行ってきます」


  ※


 従者はダルシャンとジャニを後宮の奥へと導いた。自分の部屋より奥には行ったことがなく、緊張がつのってくる。

 初夏の花々が咲き揃う中庭の手前、とりわけ壮麗な細工のほどこされた門の前で従者が足を止めた。彼が入口の小さな鐘を鳴らすと、扉が内側から開く。開けたのは歳のころ十二かそこらの小姓だった。


「殿下、ようこそおいでくださいました」


 小姓は合掌して頭を下げ、戸口から一歩退く。ダルシャンとジャニが中へ踏み入ると、二人を導くように歩き始めた。

 案内されるまま短い廊下を進んだ先に何かが見えた。蔓や花をかたどった格子壁の向こうに豪奢な天蓋つきの寝台がある。艶のある紗幕が全体を小部屋のように覆い、中の様子はよく見えない。ただ、周囲の明かりにぼんやりと照らされて、誰かが横たわっているのは分かった。


「王妃様」


 格子壁の向こうに踏み入って小姓が呼ばう。ややあって紗幕の奥から、かそけき声が返ってきた。


「……チャンダナ、脚をさすってちょうだい」


 予想していなかった言葉にジャニは思わずダルシャンを見上げる。彼の横顔に浮かぶ表情は読めなかった。

 小姓が困ったような声を上げた。


「あの、王妃様」

「それから蜜を入れた湯を持ってきて。寒いのよ、チャンダナ」

「はい……その、王妃様」


 紗幕の向こうの人影が寝返りを打ったのが分かる。小姓が言葉を続けようとしたとき、人影がまた細い声を発した。


「ねえ――私のアラヴィンダは、いつ戻るの?」

「……ええと」

「もう長いこと顔を見ていない。私のかわいいアラヴィンダ」


 ――紗幕の向こうの人物がラマニー先王妃であることは明白だ。

 ダルシャンがジャニの見た目に気を遣ったことから、どこか難しい人なのだろうとは察していた。

 だが、この様子はどうしたことだろう。


「ああ許しがたい、西の蛮人ども」


 先王妃の声が震えた。獣の血で濁った水溜まりを踏むような、そんな響きがする。


「ねえ、チャンダナ。あなたは知らないかもしれないけれど、西の方には陛下が直々に獲得なさった領土があるのよ。私のアラヴィンダにちなんだ名前の街まであるの。――だというのに西の者たちは、名前を昔のものに戻そうとして……そのせいよ、私のアラヴィンダが帰ってこないのは……!」

「――王妃様! お客人にございます!」


 小姓がとうとう声を張り上げた。

 先王妃は沈黙する。紗幕の向こうの影が起き上がった。細い――今にも消えそうな(いら)えがあった。


「……誰」

「ダルシャン殿下でございます」


 それだけ言って、小姓はそそくさと下がってゆく。代わってダルシャンが進み出た。


「王妃様には、ご機嫌うるわしく」


 ダルシャンは床に(ひざまず)き、うやうやしく視線を下げる。ジャニも彼に(なら)った。けれど先王妃の声は真冬の夜風のように冷たかった。


「白々しい。私を笑いにきたか」

「滅相もございません。本日は王家にとって祝すべきご報告を携えてうかがいました」


 ダルシャンの手が自分を指し示すのが視界の端に見えた。


「これなるはシャクンタの娘ジャヤシュリー。先日、私と正式に婚約を交わしました相手にございます。婚礼へと進む前に、現王家の長である王妃様の祝福をいただきたく、こうして拝謁(はいえつ)に上がりました」


 先王妃はしばらく何も言わなかった。身動きひとつしなかった。小姓が隣の部屋で何かをせわしなく動かしている音だけが、かすかに聞こえてきた。

 やがて、地を這うような声が聞こえた。


「……私が耳にしておらぬとでも思うたか。そなたが女を拾って浮かれきっていることは承知済みだ」


 ぎり、と先王妃が歯噛みする。ダルシャンは微動だにしない。


「婚礼! 何が婚礼だ。忘れたか! 私のアラヴィンダは、うるわしき妃を初産で赤子もろとも(うしな)ったのだぞ! あれからずっと次の妃をとらぬ意味が分からぬのか!?」

「無論、覚えております」


 ダルシャンはただ淡々と返答する。ジャニはいつしか顔を上げ、その背をじっと見つめていた。


「しかもお前自身のことだけでは飽き足らず、また下々の血を王家に入れるつもりか。恥を知れ!」


 下々の血。そう言われるのは当たり前だ。規範の穴をくぐっていることには相違ない。ジャニはいたたまれずに手を握り締める。だがダルシャンの声は揺るがなかった。


「ジャヤシュリーは〈(しるし)〉にございますゆえ」

「〈(しるし)〉だと! ふざけるな。この国のため、母のため、身を削って尽くしてきたアラヴィンダから手柄を盗み取るつもりか!」


 急に金属の触れ合う音がして、ジャニはびくりと身をこわばらせた。見れば、先ほどの小姓が湯気の立つ器を持って戻ってきていた。王妃の願った蜜入りの湯だろう。

 小姓は紗幕を持ち上げ、器を先王妃に手渡す。細く白い手が中から差し出され、器を受け取って消えた。

 ひりついた沈黙が再び下りる。それを破ったのはダルシャンだった。


「おそれながら、王妃様」


 彼はいつの間にか顔を上げ、紗幕を透かすように前を見つめていた。


「プラカーシャの王位は、あくまで炎神(アグニ)が選ぶものにございますれば」


 がしゃん、と嫌な音が響いた。先王妃が器を投げたのだ。


「ほざけ!! 覚えておけ。所詮、そなたは雑種。お前の(めと)る〈(しるし)〉も下賤の女だ。どれほど足掻こうとも、決して私のアラヴィンダには及ばぬと知れ!」


 先王妃は絶叫する。ダルシャンの返答は、あくまで静かだった。


「そのお言葉、ご承諾と受け取ります」


 ダルシャンは立ち上がり、手を合わせて一礼する。ジャニもそれに従い、部屋を後にした。


「王たるべきは、アラヴィンダであるぞ!」


 先王妃の叫び声が、部屋を出てもしばらく耳の奥に反響していた。


  ※


 回廊をゆくダルシャンは、しばらく何も言わなかった。その背からは何ら感情が読み取れなかった。

 ジャニは心臓が痛いほど脈打っているのを感じた。先王妃との面会はあまりにもひどい時間だった。勝手にしろ、という趣旨の言葉こそ引き出したが、とても祝福を受けたとはいえない。ダルシャンが先王妃への報告を望まず、すべてを強引に進めようとした理由が、今ならよく分かる。親にあのような扱いを受けるのは途方もなくつらいことに違いなかった。


「……ダルシャン様」


 つい名前が口をついて出た。振り返ったダルシャンの顔は、悲しくなるほど静かだった。


「どうした、ジャヤシュリー」

「その……」

「ん?」


 ダルシャンが軽く背をかがめ、顔を覗き込んでくる。ジャニは耐えきれずにうつむいた。


「仮にもお母様が――あなたに、あのようなこと」


 すればダルシャンは体を起こし、長く息をついた。


「……先王妃は、俺の母親ではない。お前、誰にも聞いていなかったか」

「え?」


 驚いて顔を上げた。ダルシャンは目をしばたたき、口の端だけで薄く笑った。


「そうか。意外と耳に入らぬものなのだな。――我が国の歴史には、血のつながらぬ子を我が子のように育てた王妃もいたそうだが、まあこの場合は見ての通りだ」

「では、ダルシャン様のお母様は……?」


 ジャニが問うと、ダルシャンは壁にかけられた松明に視線を向けた。ぱちり、と火の粉が爆ぜる。ダルシャンの長い睫毛が白い頬に影を落とした。


「俺の母は、王の侍女だった。生まれは平民だ」


 ――所詮、そなたは雑種。

 先王妃の声がまた耳の中に響いた。「雑種」とは雑婚の子という意味だったのかとようやく気づいた。

 頭がくらくらとする。どんな言葉をかければいいのか、分からない。


 ダルシャンは冗談を言おうとするかのように目を細めた。


「偉大なる国王が年下の侍女に惚れこみ、美しい子をなす仲になったのだ。吟遊詩人の語る恋物語のようだろう?」


 答えることができない。事実は本当に彼の言うような美しい物語だったのか。ジャニには何も分からない。ダルシャンはただ微笑(わら)う。


「身分違いの関係を見下げる輩は多いがな。許可を取るのが義務(ダルマ)だのとサンジタが言うのも、そういうことだろうよ」

「……お母様は、今……?」


 ジャニがかろうじて尋ねると、ダルシャンはこともなげに言った。


「もう来世に行ったさ。俺が二つのときに死んだからな。女のよく死ぬ王宮だ、ここは」


 今度こそジャニは立ち尽くした。

 ダルシャンはというと、いつもの調子が戻ったのか、意地の悪そうな顔で笑った。


「まあ――どうせ最初から平民の血が入った身だ。自分で選んだ相手を妃にして何が悪い? なあ、ジャヤシュリー」


 ジャニが答えずにいると、ダルシャンは肩をすくめた。


「ともかく、これで俺たちを止める者はいなくなったな。俺は改めて星読みたちに話を通す。お前は婚礼の衣装を考えておけよ」


 再び回廊を歩き出すダルシャンの背中を、ジャニはしばし見つめた。

 あの人が王になりたがる理由は、このことなのだろうか。

 納得がいかないわけではない。雑婚の子として蔑まれて育ったからこそ、王となって周囲を見返してやりたいという思考は、筋が通っている。


 ――だけど、それだけだろうか。

 私は果たして、あの人の何を知っているのだろう。もしかして、まだ知らないことがあるのではないだろうか。


 ダルシャンが足を止め、こちらを振り返った。

 頭を振って思考を追い払い、小走りに後を追った。

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