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蒼き炎のジャヤシュリー  作者: 佐斗ナサト
第1部 女神選定
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第10話 宵の寺院

 四日後、射手の容態が完全に落ち着いたのを確かめてから、ジャニは都への帰路についた。

 射手本人は胸の傷に加えて片脚を折っていたため、安静を厳重に言い渡されていた。だが彼の幼い息子――ティミシャという愛らしい名だった――をはじめとした家族たちが、代わって街はずれまで見送りの挨拶に来てくれた。

 帰りはバーラヤだけでなくダルシャンも一緒だった。彼はヴァージャの背に乗っての移動ではあったが、戦馬車(ラタ)の速度に合わせて駆けてくれた。休憩のたびにジャニが薬草を集めることを、今度ばかりは誰もからかわなかった。


 立ち寄る先々で人々がダルシャンにかしずくのは当たり前のことだった。古の聖地スヴァスティと王都マハージヴァーラーをつなぐ街道は王国の動脈であり、その周辺に住まう民はことさら王家への忠誠心が強いとしても何ら不思議ではない。行きと違って自分もおそろしく丁重に扱われるのは、第三王子殿下のおまけとしての扱いだろうとジャニは思っていた。

 だが王都に着いた瞬間、その勘違いを派手に正されることになるとは予想だにしていなかった。


 スヴァスティを発って二日目の夕暮れ。ジャニたちが都を囲む壁に近づくと、見張りの塔から角笛の音が高らかに響いた。


「ダルシャン殿下、お戻りでございます――!」


 衛兵が声を張り上げる。衛兵数人がかりで動かす大きな鉄門が、重い音を立てて開いた。


 ――そのとたん、わっと歓呼の声が上がった。

 王宮へと続く都の大通り、その両側に、老若男女の群衆が集っていたのだ。


 炎の紋章を描いた旗がいくつも掲げられる中、色とりどりの花びらが宙を舞う。人々が次々に手を合わせる。迫る宵闇を照らすようにあちらこちらで祝福の火が掲げられ、聖なる煙を煽ぎかけられる。

 最初は馬上のダルシャンを敬っているのだろうと思った。だが王都の民は彼だけでなく、戦馬車(ラタ)に乗るジャニにも深々と頭を下げてくる。


「女神様」

炎神(アグニ)の……」

「ありがたや、ありがたや」


 王子と王国を讃える声に交じって、そんな言葉さえ聞こえてきた。

 当惑して戦馬車(ラタ)の中からダルシャンを見やる。視線が合い、肩をすくめられた。


「大方、あの場に居合わせた衛兵どもが噂を広めたのだろうよ。〈炎神(アグニ)(しるし)〉が――いや、女神が現れた、とな」

「女神なんて……とんでもない」


 射手の家族たちに「女神」と呼ばれた時点でいたたまれなかった。これほど多くの人に実態と離れた評価をされることは、もはや恐ろしい。

 震えるジャニに、ダルシャンは小さく笑った。


「我が国の玉座は二十二年の長きにわたって空のままだった。民は新たな王を――炎神(アグニ)の加護の証を求めている。〈(しるし)〉の出現はこのうえない吉兆だ」

「……吉兆?」


 ジャニは戦馬車(ラタ)の窓に手をかけ、ダルシャンを見つめた。王子は黒い目を細め、沿道の民に片手を上げた。


「栄光には堂々と浴すがいい。お前はそれだけのことをしたのだからな」


 その時。

 空気を裂くような音が響いた。高らかな鳥の声――猛禽(もうきん)の声だ。

 森を出てから聞いていなかった声に、ジャニは思わず戦馬車(ラタ)から身を乗り出す。夕暮れの空を見上げ、声の主を探した。

 ジャニの目がとらえたのは(わし)だった。黒い鷲だ。漆黒の翼を広げた鷲が、王宮に向かって飛んでいく。

 ――その正体に気づいた瞬間、背筋が冷たくなった。


「ダルシャン様……あれは」


 心臓が(はや)るのを感じながらダルシャンを見やる。彼もまた気づいていたようだった。


「……サンジタか」


 王国の摂政(せっしょう)サンジタ。真言の力で鷲に変じる黒衣の高僧。

 ダルシャンの求めをことごとくねじ伏せ、ジャニを蔑んだ者。

 ――自分が居場所を得るために、必ず説得しなければならない者だ。


 ダルシャンの目に、獲物をとらえた獣のような光が宿った。


「説明の手間が省けたのではないか? 王宮に戻り次第、あいつの顔を拝みにいくとしよう」


  ※


 後宮の回廊に夜の明かりが灯り始めた。廊下を玉飾りのように縁どる松明が赤く燃え、かすかな匂いを漂わせる。森にいたときのジャニたちが使っていたのは、小さな油灯ひとつきりだった。そもそも油は貴重品だから、なるべく節約できるよう、夜には最低限の仕事しかしなかった。ところが後宮の明かり火はいずこも夜半過ぎまで灯り続けている。侍女が日没ごとにつけて回り、時を待たず消えることがないよう見守っているのをジャニは知っている。

 着替えを手伝ってくれたパーヴァニーとともに部屋を出ると、明かりを守る役目の侍女とすれ違った。侍女は手持ちの松明をかかげたまま礼をとる。それに両手を合わせて返し、後宮の中庭に出た。

 中庭では同じく着替えを済ませたダルシャンが待っていた。象牙色の衣が明かりに照らされ、色白の肌に映えていた。


「来たか。パーヴァニー、お前は下がってよい。――寺院へ行くぞ、ジャヤシュリー」


 パーヴァニーは一歩退いて拝礼する。ジャニはダルシャンを見返して頷いた。


 玉座の間を過ぎてしばらく歩くと、数多の紐や花輪で飾られた建物が目に入る。

 微細な彫刻や像が壁に彫り込まれ、宵の風に聖なる鈴が揺れている。

 ここは王家を守護する神々を祀る寺院。絶えることなく聖火が燃え、常に天とつながっているとされる場所だ。そのようにジャニはバーラヤから聞いていた。

 宵闇の中にたたずむ寺院は、ひどく静かだった。踏み入れば堂内は暗く、ただ祭壇の聖火だけが煌々と輝いている。

 だがよく目を凝らせば、その火の前に(ひざまず)く黒衣の姿があった。人影はジャニたちの足音に振り返り、立ち上がった。


「これはこれは、殿下。スヴァスティよりご無事のお戻り、何よりでございます。聞けばお役目を見事に果たされたとのこと。お疲れにもかかわらず即時のご挨拶、痛み入ります」


 サンジタはダルシャンに歩み寄り、うやうやしく両手を合わせる。ダルシャンは目をすがめ、意地の悪い笑顔を浮かべた。


「とぼけおって。俺たちが何のために来たのか、お前も分かっているだろうに」

「噂は噂にて。なにとぞ殿下直々にお話を」


 ダルシャンが、ふ、と呆れたように息をつく。ジャニは息をひそめて会話を見守った。


「まあよい。聖河拝礼にてジャヤシュリーの真価が発現した。炎を自在に扱い、拝礼の射手の命を救ったのだ。この者はまことに〈(しるし)〉と呼ぶに足る存在だ。民もそう認めている。お前も空から見ていたとおり、な」


 サンジタは答えない。ダルシャンの目の底がぎらついた。


「――(めかけ)にしろ、と言っていたな?」


 大きな手に前触れもなく肩を引き寄せられ、ジャニは息を呑んだ。


「ジャヤシュリーをいかなる立場に置くべきかは俺が決める。これなるは俺の正妃たるにふさわしい女だ」


 ダルシャンの声は低い。低い声が、固い決意をにじませている。


「婚約はすでに取り交わした。拝礼の射手タヴヤの息子ティミシャが証人だ。事後にスヴァスティの高僧の祝福も受けている」


 黒い双眸がサンジタを睨み据えた。


「あとはお前が認めて、玉座の間を去るのみだ。とうとう〈(しるし)〉が現れたと。摂政はもはや無用であると!」


 ダルシャンはそう、一息に言い切った。

 サンジタはしばらく黙していた。土の色をした目が自分の方へ向き、ジャニは息を詰める。

 やがて高僧の口がゆっくりと動いた。


「おそれながら――おっしゃるがままに認めることは、いたしかねる」

「貴様、この期に及んで……」


 ダルシャンの声に苛立ちが見えた。それを待っていたかのように、サンジタは言葉を続ける。


「私は今もってなお、そこなる女人(にょにん)を怪しむべきではないかという思いを払拭できませぬ」

「ならば命じるがよい。今のジャヤシュリーはいかようにでも炎を扱える」


 サンジタは何も言わない。ダルシャンがジャニをうながすように視線を向けた。ジャニはしばらく考えてから、祭壇の右側にある松明に向かって手のひらをかざした。

 サンジタがつられたように背後を振り返る。その瞬間、赤かった松明の炎が、呑まれるように(あお)色に変わった。

 次いでジャニは左の松明の方へも手をかざす。その火もまた、一瞬にして蒼へと変化した。


 ダルシャンが笑み、サンジタの方へ一歩、足を踏み出した。


「サンジタ。僧侶たちが四六時中見守っているその松明に仕掛けがあったとは言うまいな? 俺の王位継承を認めよ。これでもジャヤシュリーは〈(しるし)〉ではないと申すか」


 高僧は松明を見つめながら口をつぐんでいた。じり、と蒼い炎の燃える音だけが堂内に響いた。

 だがやがて背中越しに、ひそやかな声がした。


「殿下。私もこの方、考えておりました。(アグニ)とはこの国で最も神聖なるもの。神の息吹、天への梯子、人の世に与えられた加護そのもの。聖なる炎なくして我々はいったい、何ものでありましょうぞ」


 サンジタが振り返った。まっすぐに見据えられ、ジャニは身を硬くした。


「ひるがえって女人は、女人である時点で(けが)れから逃れえぬ存在。来世も輪廻(りんね)の中に在ることがあらかじめ定められております。そのことは先だっても申し上げましたな?」


 サンジタの手がこちらを指し示す。ただ差し出されているだけの手に、なぜか無性に胸が騒ぐ。


「しかもこなたは森の女。かつて(アスラ)がはびこっていた土地の者」


 褐色の目がすがめられる。唾棄するように、切り捨てるように。


「そのような存在が――神に選ばれるものか。なるほど、身の丈に合わぬ望みを抱いた奇術師などではないのかもしれませぬ。しかし、もっと悪しき存在――よからぬ(モノ)の企みでないと、何ゆえ言い切れる」


 ――自分がこの男に対して感じるのは、何だろう。

 身の内から湧いて出るような――嫌悪感、だろうか。

 おかしな話だ。蔑まれるのはいつものこと。罵られるのもいつものこと。だからといって、相手にこのような感情を覚えたことはない。なぜだろう。


 ダルシャンがジャニを隠すかのごとく前に立った。静かな声の奥に怒りが煮えている。


「もう一度、俺の妃を侮辱してみろ。後悔することになるぞ」

「まだお妃ではございませんでしょうに」


 サンジタはダルシャンの怒りにも動じることなくきびすを返し、聖火の前へ戻っていく。裸足で土を踏む静かな足音が、冷え冷えとした感覚となって耳に届く。


「いずれにせよ、摂政を除くは早計にございましょう。東の土地はようやっと支配下に置いたばかり。地方領主の中にはまだ納得していない者もいるという話です。西でも騒乱の気配がございます。ゆえにこそアラヴィンダ殿下は辺境へ出ておられるのでしょう。もしやそのことをお忘れでございますかな?」


 聖火の前で黒い衣がひるがえる。いっそ憐れむようなまなざしが、ダルシャンとジャニを舐めた。


「次王があなた様であろうと、アラヴィンダ殿下であろうと、二十二年にわたって国を治めた私が全てを一時(いちどき)に投げ渡して消え去るわけにはまいりませぬ。権力の移譲にはそれなりの準備が必要なのでございますよ。さもなくば国が内部より滅びます。ゆめ、軽率なことを考えなさるな」


 夜は、冷える。だが寒いのは気温のせいだろうか。目の前で火が燃えているのに。

 サンジタは赤土色の目を静かに細めた。


「そうでなくとも、秋の祭祀まで待たれるがよろしかろう。真の〈(しるし)〉はそのときに承認されるのがならわしにございますゆえ。その女人に隠された姿があらば、それまでに必ずや暴かれる」


 ダルシャンは黙ったまま、じっとサンジタを見つめている。その表情は硬い。

 突然、サンジタが思い出したかのように言った。


「ああ、そして。――ご婚約に関しては、ラマニー王妃にお話を通されることですな」


 その言葉にダルシャンはきつく眉根を寄せた。


「あのお方に何の関係がある? 俺が誰を妃としようと、こだわりなさるとは思いがたいが」


 サンジタは壁へと歩み寄り、石を掘り込んで作られた書棚から書物を手に取った。頁をぱらぱらとめくりながら、こともなげに言う。


「これは最低限の義務(ダルマ)の問題なれば。まさか、その意味がお分かりにならぬ殿下ではございませんでしょう」


 ダルシャンが深く、深く溜め息をついた。その横顔に疲労めいた色が浮かんでいるのを、ジャニは初めて見たように思った。


「……よかろう」


 それだけ言って、彼はジャニに目配せをし、きびすを返す。ジャニは慌ててサンジタに礼をとり、ダルシャンの後を追った。

 焚火の音が聞こえなくなり、外の空気を吸って初めて、自分の肩にひどく力が入っていたことに気づいた。

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