第1話 炎の娘
鹿が走る。美しい毛並みをした雌鹿だ。
宙を舞うように軽やかな足取りで、絡まり合う森の木々の間を縫ってゆく。
そのあとを白馬に乗った狩人が駆ける。形ある靄のような姿が風を切り、妨げるものをすべて飛び越してゆく。
逃げる雌鹿は、森を割くようにそびえる急峻な崖を登り始めた。狩人は崖の下で馬を止め、鹿に向けて弓を引き絞る。
彼女は息をひそめ、それを木の陰から見守る。
余所の人間と接しても怖いことの方が多いから、自分から出ていくつもりはない。
だが、彼女だけが気づいてしまった。
狩人の背後にそびえる古木の危うい均衡が崩れ、その幹に亀裂が入ったことに。
「――危ない!」
思わず声を発した。次の瞬間、蒼の色が木立を覆った。
――炎。蒼い炎。
目が醒めるほどに蒼い炎が、倒れゆく古木を呑み込んだ。
※
「……どうしよう」
また炎を放ってしまった。全身が恐怖に冷たくなる。鹿を狙っていた狩人はどうなったろう。どうか無事であってほしい。
身を隠すのに使っていた木の根を震える脚で飛び越え、丈の高い草をかき分けて崖の前へと駆け出る。灰と化した倒木の向こうに先ほどの若い男が立っていた。ほっと安堵の息をついて、男のもとへ走り寄った。
「大丈夫、ですか」
近くで見て初めて、どうやら身分の高そうな人だと分かった。見たこともない光沢の肩布と腰布をまとい、いくつもの聖紐を身に着けている。携えた弓矢と腰の剣には金の装飾が光り、連れているのも美しい白馬だ。肌は白く、肩より長い黒髪はジャニのそれよりつややかで、かさついた自分の髪がほんの少し恥ずかしくなる。胸の飾りは――炎の紋章だろうか。何かの象徴だった気がするが、すぐには思い出せない。
そんなジャニの思考を知るよしもない男は、彼女を頭の上から足の先まで睥睨した。
「今の炎は、お前が?」
一瞬、答えに窮する。魔女、と罵る声が脳裏に響く。けれど自らこうして現れた以上、他に返事のしようがない気がした。
「……はい」
目を伏せ、視線を合わせないようにしながら答える。
「木があなたの上に倒れそうだったので……つい」
「とっさに炎を放った、と? そんなことができるのか?」
「はい……」
神の思し召しか、魔の呪いか。本当のことなど分からない。生まれたときからこの呪わしい力を持つ自分には、その所以も理由も知りようがなかった。
ふむ、と男は声を漏らす。感心しているのか疑っているのか、どちらともとれる声色。だが続く言葉で後者だったと分かる。
「では今ここで、もう一度炎を放ってみせろ」
「ここで、ですか」
「できぬと言うのか?」
男は形のよい眉をひそめる。その片手が腰に佩いた剣の柄を弄んだ。
びくり、と体がこわばる。殺される――そう思った。
その瞬間、ジャニの全身が蒼い炎に包まれた。
肌が焼けることはない。自分の炎が熱いとは思わない。けれど他の人間にとっては話が別だ。うかつに触れればただの火傷では済まない。
意図して発したわけではない。それでもこの炎は、恐怖を覚える自分のための盾だった。
炎の向こうで男が瞠目した。剣の柄から手が離れる。
それを見とめて、ようやく動揺が収まっていく。炎は少しずつ小さくなり、ジャニの足元をちろちろと舐めて消えた。
おそるおそる男の様子をうかがう。男は目を見開いたまま、炎の消えた場所を見つめていた。
――その頬に真新しい赤色が浮いていることに気づいて、ジャニは口元を覆った。
「火傷が……!」
「ん?」
男は今気づいたかのように頬に触れる。血の赤ではなく、肌が焼けた赤。今の炎は彼に届いていない。そうなると、さっき倒木を燃やしたときに巻き込んだのに違いなかった。
情けない思いでジャニは目を伏せた。
「申し訳ありません……手当てをします。こちらへいらしてください」
※
男を導き、森の奥へと歩く。緑深く、いっそ青いような木々の間を、蔓や草を分けながらしばらく進むと、小川に抱かれた空き地に粗末な小屋が現れた。ありあわせの枯れ木と草でできていて、屋根の傾斜がなければ家だとすら気づかない者もいよう。それでもジャニにとっては大切な家だった。
「お入りください。私は水を汲んできます」
男が馬を木につなぐのを確かめてから、外に置いてある素焼きの甕を抱え上げて小川へと向かう。紐で長い髪を縛ってから、甕いっぱいに水を汲んだ。
水を持って家に戻れば、ふわりとよい香りが漂う。所狭しと干している薬草の香りだ。男はというと、ジャニが薬作りに使う石鉢を検分していた。身分の高い人からすれば庶民の道具は珍しいのだろう。
甕の水に布を浸し、男に手渡した。
「どうぞ。傷を冷やしてください」
男は何も言わずに布を受け取る。ジャニは彼が先ほどまで見ていた鉢を引き寄せ、肉厚の植物の葉を入れてすり潰し始めた。
「それは何だ?」
「グルタクマーリーの葉です」
鉢を覗き込まれ、内心緊張しながら答える。男からは、ふうん、とあまり関心のなさそうな声が返ってきた。
ともかくひとつ、ふたつと他の材料を鉢に放り込み、作業を続ける。やがて緑がかった透明の膏ができあがった。
「こちらを。火傷に効く薬です」
ジャニが鉢を差し出すと、男はそれを一瞥して口の端で笑った。
「俺に自分で塗れと?」
「はい? ……はい」
予想していなかった言葉に面食らってしまう。男はやれやれ、とかぶりを振ってみせた。
「鏡もないのに、自分で自分の顔になど上手く塗れるものか。お前が塗れ」
「……え」
背筋が冷たくなった。剣を持っているところからすれば、彼は僧侶にのみ次ぐという戦士階級の者だ。それに引きかえ、自分は何の立場もない女である。はるかに尊い身分に属する人間に手を触れるなど、普通は首を刎ねられても仕方のない行為だ。
だが男はどうやら人を困らせるのを愉しむ部類のようだった。彼は笑みを浮かべたまま頬を差し出してみせる。ジャニはしばらく思案したが、やがて思い切って膏を指に取り、彼の頬に触れた。冷たく粘る膏を、指先で火傷にすり込んでゆく。
「……終わりました」
言って手を離すと、男は軽く自分の頬に触れる。爽やかな匂いが漂った。
胸がまだ逸っているのを感じながら、目を伏せて片付けを始めた。使ったものをしまい、結んでいた髪をほどく。すれば男は片膝を立てて座り直し、こちらに問いを投げかけてきた。
「一人で住んでいるのか?」
「はい」
「本当に? 女一人で?」
ずきり、と胸が痛む。答える声がかすれた。
「去る冬に養父を亡くしまして、それからは独りです」
「養父、ね」
男はそこで大事なことに気がついたようだった。
「そういえば聞いていなかったな。お前、名は何という?」
「ジャニと申します」
その答えに彼は片眉を上げた。
「女人? 身もふたもない名だな」
「香りのよい植物の名でもあります。養父がつけてくれた大切な名です」
「へえ。面白いな、平民の名は」
ジャニは黙り込む。名前を面白がられるのは、よい気がしない。男はくつくつと小さく喉を鳴らした。
「俺の名は訊かんのか?」
「……お尋ねしてよろしいものか分からず」
「ま、それもそうか。特別に教えてやろう。俺の名は――ダルシャンだ」
男の名乗りはひどく勿体ぶっていた。驚くだろう、とその顔に書いてある。
――だがジャニには全くぴんとこなかった。
「お前な! まさか知らんのか!? この俺を」
「ええと……はい」
「嘘だろ! お前、自分がどこに住んでいるか分かっているんだろうな!?」
「……そ、その」
「待て待て、このシュヤーマの森が王国の領土だということはさすがに分かっているよな?」
男が身を乗り出して問い詰めてくる。ジャニはつい身を縮めた。
「は、はい……その、このあたりが大きな王国の支配下に置かれたことは、存じています」
「では、この紋章には? 見覚えがあるだろう?」
炎の図像が刻まれた胸飾りを示される。ジャニはごく小さくうなずいた。
「どこの国だ? 言ってみろ」
「申し訳ございません……見覚えはあるのですが、分かりません」
彼は大きく溜め息をつき、天井を仰いでみせた。
「全く。プラカーシャ王国の威光もこの程度か。それとも知らんのは森の民だからか? 何にせよ、俺の治世となればこんなものでは終わらせんぞ――プラカーシャの名、この俺の名を地の果てまで轟かせてやるからな」
治世。その言葉でようやく点と点がつながった。
ジャニの顔から血の気が引いていくのを見て、男は口元を吊り上げて笑った。
「――そうとも。俺はプラカーシャ王国第三王子、ダルシャンだ」
ジャニはびくりと身をこわばらせ、大慌てで床に伏せた。
「申し訳ありません……王子様だとは知らず、失礼を」
「まあいい。このことについては許そう。俺は寛大だからな」
起きろ、と手で合図される。ジャニは恐る恐る姿勢を戻した。
「その代わり、お前について聞かせろ。――お前、炎を生み出す力を持っているのだったな。生まれついてのことか?」
ジャニは小さくうなずいた。
「……はい」
「いつでも炎を出せるのか? 無条件に?」
「いえ……そういうわけでは」
「それでは分からん。つまびらかに話せ」
王子の高圧的な物言いが恐ろしい。またうっかり炎を放ってしまわないように自分を抑えながら話すと、どうしても蚊の鳴くような声になってしまう。
「私は――動揺したときだけ、炎を発してしまうのです。思うとおりに操れるわけではございません。ですから普段はできる限り、心を乱さぬように生きております」
ふむ、とダルシャンは眉根を寄せる。
「それで自ら森にこもっているわけか?」
「というよりも――ここが私の育った場所ですから。養父によれば、私は生まれて間もない頃にこの森に捨てられていたとか。きっと炎のせいで疎まれたのでしょう」
「捨て子か。で、その養父に拾われたのか」
ジャニはうなずく。ダルシャンは息をつき、あごに手を当てた。
「何なんだ、お前の養父というのは。一人で森に住んでいたのか? どこの仙人だ」
「仙人ではありません。普通の人間でした。私に森で暮らすすべを教えてくれて、私の炎も恐れませんでした。作った薬を売りに近くの村に行くときも、魔女と罵られる私をかばってくれました」
――この子は私の娘だ。危ない子じゃない。
――泣くんじゃないよ、ジャニ。さあ、一生懸命作ったのだろう? 薬を売りに行こう。
養父の声が耳の奥に響く。目の奥が熱くなるのを必死にこらえた。ダルシャンは何を考えているのか分からない真顔でジャニを一瞥した。
「では、今はどうしているのだ?」
養父が亡くなった今は、と言外に込められる。小さく唇を噛んでから答えた。
「もう数カ月、村には出ていません。薬が売れていたのは養父への信頼があってこそ。私独りになってしまっては、もうお呼びでないようです」
今は森の中で手に入るものをかき集めて糊口をしのいでいる。だがそれも限界に近いことはなんとなく分かっていた。
――外の世界は広い。お前を当然のように受け入れる場所もあるかもしれない。養父は病床でそう言っていた。
けれどただ一人の家族のそばを離れたくなくて、ずっとこの森の奥にとどまっていた。
物言わぬ骸となった養父を自らの炎で灰にした今こそ、覚悟を決めて森を去るべきときなのかもしれない。そう思う自分も確かにいる。けれど行く当てはどこにもなかった。
ダルシャンは腕を組み、何かを考えているようだった。だがやがて納得したようにうなずいた。
「なるほど、よく分かった。では最後にひとつ尋ねるぞ、ジャニ」
「はい」
ジャニが応じると、ダルシャンの黒い目がけだもののように細められた。
「プラカーシャ王国第三王子に怪我をさせた無礼が、薬を塗った程度で許されると?」
「……え?」
思いもかけぬ問いにジャニは目を見開く。ダルシャンは底意地の悪い顔で笑った。
「答えは『許されない』。お前にはその身をもって償ってもらうぞ」
「――そんな」
ダルシャンが身を乗り出し、床に片膝をつく。彼の背は高い。上体には厚く筋肉がついている。小さな家の中でその体が迫り、ジャニは思わず後退ろうとした。けれど腕を掴まれ、阻まれた。
「ジャニよ、お前に命じる。俺と共に来い。王都マハージヴァーラーにて――我が妃となれ」
一瞬、言われた意味が分からなかった。しばらくしてようやく、震える声が喉から漏れた。
「……いけません。私はただの森の女です」
「女は身分が上の男と結婚しても差支えないのだぞ、知らないか? まあ宮廷の老いぼれどもは騒ぐだろうが、放っておけ」
「でも! 私は不吉です! 村の皆にも魔女だと――」
ダルシャンが苛立つように溜め息をついた。
「全く――いいか? お前はその炎のせいで、生まれた村だかどこだかの人間には疎まれたのかもしれん。だが、覚えておけ。王都においては、炎は何よりも聖なる存在だ。煙となって空に達し、神々に届くものだからな」
「……神々に?」
王家の人々はこのあたりの村の人間とは違う信仰を持っていると耳に挟んだことはある。だがこんな話は初耳だった。
けれどダルシャンはでたらめを言っているわけではないらしい。深く刻まれた眉間の皺がそれを物語っていた。
「何が魔女だ、片腹痛い。お前の力で操れなかろうが、そんなことはどうだっていい。炎を抱いて生まれたならば、お前は炎神に選ばれた女だ。よく聞け、お前が持つのは聖なる力なのだ。その力があれば――俺とお前は、この国の頂点に立てる」
頂点。その言葉をダルシャンは、獲物を追う虎の足取りのような粘りをもって口にした。
王家の息子。そんな人が何かを渇望することを、ジャニは想像すらしたことがなかった。けれど目の前のこの人には、欲しくて欲しくてたまらないものがあるようだった。
「もう一度だけ命じるぞ。俺と来い、ジャニ」
さもなくば、とダルシャンは口の端を吊り上げる。
「――さて、どうしてやろうか?」
この人は、怖い人だ。そうジャニは思う。
逃げた方がいいのかもしれない。いっそ抑えている恐怖を解き放って、炎で焼き尽くしてもいいのかもしれない。
――けれど。
王子の瞳に浮かぶ渇求の色がジャニの胸を刺す。
――自分は、何が欲しい?
思いもかけぬ問いが脳裏に浮かぶ。
名声? 地位? 富? 否、否、否。
欲しいとすれば、居場所。居場所だ。
生まれの親には拒まれた。森は愛おしいが、厳しい場所だ。支えだった養父も失った。自分の居場所はもうここにはない。
もしそれが、目の前の男の求める「頂点」にあるのなら。
自分も、その光景を見てみたい。
「……行きます」
発した声は震えた。けれども確かにダルシャンの耳には届いたようだった。
「都へ行きます。あなたと共に」
その応えを聞いたダルシャンは、満足げに笑んだ。