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欠けた月に、愛を乞う

作者: しろくろ

冬の初め、東京。

 まだ吐く息は白くないけれど、コートの襟元に手を忍ばせるには十分な冷たさが街を包んでいた。


 深雪は、新宿の地下鉄を上がった場所にある、小さなカフェの前に立っていた。

 “待ち合わせ”と言うには静かすぎる沈黙の中で、右手にはホットココア、左手にはスマホ。時間は約束の19時を少し回っている。


 彼――たちばな 悠真ゆうまは、五分遅れでやってきた。

 「ごめん、仕事ちょっと詰まっててさ」と笑うその顔は、深雪が好きになった頃と変わらない。

 けれど――その夜、彼のコートからふわりと漂った甘い香りに、深雪は言いようのないざわつきを覚えた。


 バニラ。

 それは、深雪がつけない香りだった。


 席につき、カフェラテを一口飲んだ悠真は、スマホをそっと裏返しテーブルに置いた。

 “画面を下に向ける癖”は、最近になって急に始まったものだった。


「深雪ってさ、最近ちょっと痩せたよね。仕事、大丈夫?」


 そう言って笑う悠真に、深雪は小さく頷いた。

 その瞳の奥に揺れている何かを読み取ろうとして、けれど自分を騙すようにまた笑顔を浮かべた。


 ――何にも知らないふり。何も気づいてない女の顔。


 本当はもう、気づき始めていた。

 LINEの返信が少しずつ雑になってきたこと。

 「今日はもう寝るね」と言っていた夜、SNSの通知が深夜に“既読”を示していたこと。

 休日の予定を「急に出張が入った」と言って変えてきたのに、その日に見かけたはずの服が、ハンガーにかかっていなかったこと。


 そして何より、彼の香りが変わった。


 「……深雪、俺のこと、信じてる?」


 急にそんなことを聞いてきた夜があった。

 そのとき深雪は、迷わず「うん」と答えた。

 答えたくなかった。でも、それが“特別な女”の務めだと、どこかで思い込んでいた。


 特別な存在なら、嘘の顔は見せない。

 そう信じていたかった。だからこそ、その笑顔が余計に痛かった。


 ある日曜日、彼の部屋に置いていた自分のヘアブラシが、別の場所に移動していた。

 歯ブラシの横に、見知らぬリップグロス。

 きっと“うっかり”では済まされない、赤く艶めいた証拠たち。


 でも深雪は、それにも触れなかった。


 「……なんにも知らない、バカな女でいたかったの。」


 心の中で呟いた。

 彼に何かを問い詰めれば、すべてが壊れる。

 “浮気を知っている”という事実を口に出してしまった瞬間、もう二人には戻れないと分かっていた。


 なのに彼は、その夜も笑っていた。


 いつものように、髪を撫で、頬にキスをして。

 「また連絡するね」と言って、駅の改札へ向かう後ろ姿。

 見送る深雪の指先が、かすかに震えていた。


 バニラの香りが、風に流れて消えていく。

 その甘さが、彼を“私のものじゃない”と教えてくれる。


 私を特別と思っていないなら、どうしてあんな顔を見せるの?


 あの夜、月は欠けていた。

 深雪は空を見上げ、何も言えず、何も知らないふりのまま、そっと目を閉じた。

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